議論 改憲論争(憲法九条) 「改憲派から護憲派への質問」に答える
旧保守から新保守へ、何が変わったのか
「日本会議」を取り上げた書籍の出版が相次いでいる。政権と密接な関係を持ちつつ憲法改正を訴え、安倍政権を支えている右派組織、それが「日本会議」だ。その母体となるのは、現憲法の政教分離や国民主権を否定し、太平洋戦争を賛美し、戦前への回帰、明治憲法を理想とする神社本庁など右派宗教団体だ。ここに衆参国会議員280名が所属し、安倍晋三首相が特別顧問を務め、閣僚ら政権中枢が役員に名を連ねる。
少し前までこのような組織は「異質な集団」として政治の表舞台に登場することはなかった。それがいつの間にか日本政治の中枢を牛耳る組織となっていることにぞっとするような怖さを感じる。「日本会議」本出版ブームのひとつには、多くの人のこのような危機意識があると思われる。
安倍政権下で進む日本の右傾化はいつから、どのように始まったのか。その背景にあるものは何なのか。それを知りたくて中野晃一氏の「右傾化する日本政治」を読んだ。
本書は、日本の保守は旧右派連合から新右派連合への質的転換を遂げたと分析している。
旧右派は、55年体制の下、「開発主義」によって産業の近代化を図り成長を実現していく。同時にそうした果実にありつけない人々、業種、地域には「恩顧主義」の原則で補助金や公共事業を通じて分配を図る。すなわち利益誘導政治によって再分配を重視し、包摂の原理で政治を行った。そこには談合や汚職、ボス支配などあったが、封建的なものをフルに利用し、盤石な基盤を築いた。弊害はありながらも、そこには「きちんと包摂する」という原則は生きていた。
しかし、「開発主義」による経済成長が止まるや、「恩顧主義」で配る金はなくなり、貧しい人々や地方への再分配はしなくなった。「開発主義」に代わってそれまでの規制や既得権益を破壊し、市場の競争に任せる「新自由主義」へと手法を変えた。そして「新自由主義」による格差や痛みを解消し、国民を統合する装置が「国家主義」に他ならない。それが新右派連合なのだ、と本書は分析する。
確かにこれまでの保守政治家には、国民生活に責任を持つ、貧しい者への配慮といった倫理観を持っていたように思う。今の自民党政治家たちに、そのような倫理観は感じられない。生活基盤が破壊される人たちが出てきても彼らは関知しないし、平気で切り捨てる。それが貧困や格差、TPP、フクシマ、沖縄の現実なのだと思う。安倍政権に感じるのはこの政治家としての「倫理観の欠如」だ。そこが旧保守と新保守の本質的違いかもしれない。
主張
最近よく使われる言葉の一つに「アイデンティティ」がある。訳せば、「自己同一性」とか「自己確立」などとなるわけだが、平たく言えば、自分が自分であること、あるいは自分が何者であるかへの自覚といったものではないかと思う。この言葉がよく言われる「自分らしさ」などといった言葉にも通じているのは面白いことだ。
今、そのアイデンティティがイデオロギーにも増して重視され、それに基づく政治が追求されてきている。それはなぜなのか。そこで問われてくるのは何なのか。考えてみたいと思う。
■イデオロギーよりアイデンティティ
沖縄県知事、翁長さんは、政治をイデオロギーではなくアイデンティティから見る視点を提起しながら、今は、右だ左だと分裂しているときではない、沖縄県民として一つに団結し、辺野古への米軍基地移設に反対しよう!と「オール沖縄」を呼びかけた。その結果は、「安倍自民圧勝」が打ち続くこの間の日本の選挙戦にあって、「沖縄一人連戦連勝」となって現れている。
沖縄だけではない。この「イデオロギーよりアイデンティティ」は、このところ、欧米をはじめ、世界共通の認識に高まった感がある。フランス国民戦線党首、マリーヌ・ルペンが「今、政治の対立軸は右か左かにあるのではない。グローバリズムに従うのか、それともそれに反対して国を守るのかにある」と明言し、来年の大統領選の有力候補として登場していること、米大統領選や他の欧州各国の各種選挙戦などでも、左右を問わずグローバリズムやEUに反対する「自国第一主義」の熱気が、人々の主権者意識の高まり、「新しい民主主義」の国民的広がりと一体に、保守か革新かなど、従来の二大政党制の枠を大きく突き崩してきていること、さらには、香港人や台湾人、スコットランド人やカタルーニャ人など、自らのアイデンティティへの意識の高まりとそれに基づく地域主権の確立や分離・独立運動が、英国のEU離脱などとともに、かつてない顕著な政治的特徴をなしてきていること、等々、今や「イデオロギーよりアイデンティティ」は、世界政治のあり方の一大転換と一体の様相を呈してきている。
■なぜ今、アイデンティティなのか?
「自国第一主義」や「新しい民主主義」と一体に高まってきているアイデンティティへの要求の背景には、グローバリズム、新自由主義による米国覇権とその矛盾の深まりがある。
政治や経済、あらゆるものの基本単位を世界と個人に求めるグローバリズム、新自由主義は、その本質において、国と民族の否定、ひいては集団そのものの否定だと言うことができる。
米国は、このグローバリズム、新自由主義の旗の下、地球を単位にこれまで絶対的単位としてあった国民国家の地位を相対化する一方、個人を単位にその集団への優先を強調しあらゆる集団、共同体を否定することにより、一人一人をバラバラにして支配する究極の覇権を図って来た。イラクやアフガン、シリアなど、国境を無視して展開される反テロ戦争と果てしない難民の続出、あらゆる国家的な保護と規制を否定・撤廃しすべてを弱肉強食の自由競争に委ねる構造改革とそれにより引き起こされる地域、職場、家庭などすべての人間集団の崩壊と全社会の個人化、労働者の部品化、等々、それは、世界的範囲で国を超え社会の隅々に至るまで際限なく広がって来た。
アイデンティティや自分らしさへの要求は、この人間の社会的存在としての関係性まで否定し破壊する究極の支配の下、一層切実で決定的なものになって来たと言える。
社会的存在である人間は、一人では生きることも運命を切り開くこともできない。それはなにも、一人では飯を食うことも闘うこともできないというだけのことではない。なによりも自分一人だけでは、生きて行く甲斐とか意味とかいったもの自体がない。この間、ベストセラーになった小説などを見ても、その多くが「生きるとは、誰かと心を通い合わせていくことだ」(「君の膵臓を食べたい」)とか、「人間にとって一番大切なことは、誰かのために生きることだ」(「羊と鋼の森」)等々といったことを主張している。
こうしたことから言えるのは、自分が自分である、自分らしくあるとは、人と人との関係性を離れてはあり得ないということだ。国と社会を否定し、あらゆる集団と人間関係そのものを人々から奪っているグローバリズム、新自由主義がアイデンティティや自分らしさ喪失の根源となっているのは、まさにそれ故だと言えるのではないかと思う。
今なぜアイデンティティなのか?その背景に人間を一人一人バラバラにして支配する究極の覇権主義、グローバリズム、新自由主義とそれによる米国覇権の破滅的な行き詰まりがあるのは、ますます明らかになってきているのではないだろうか。
■今、民意のナショナル・アイデンティティは?
人々が自らのアイデンティティを失い、自分らしさを喪失するグローバリズム、新自由主義による支配が長く続かないのは必然だ。それは、帝国の内と外から崩壊していく。反グローバリズムの「米国第一主義」が掲げられた「トランプ現象」、欧州各国で吹き荒れる反EU・グローバリズム、「自国ファースト」の嵐、そして、中東、アフリカ、そして中南米へと広がり、増加の一途をたどる移民、難民の大群。
こうした現実を前にして、米国覇権のあり方の見直しが始まっているように見える。それが「自国第一主義」を多分に取り入れたものになるのは十分に予想されるところだ。そこで留意されるべきことがあるように思う。それは、その覇権のための「自国第一主義」が各国国民の要求するそれとはまったく別物になるということだ。
民意が求める民意のための「自国第一主義」は、何よりも、自国、自国民を第一に、その福利と発展を求める第一主義だ。また、そうであるからこそ、それは必然的に国と民族の主権、自主権の尊重を第一にするようになる。主権、自主権なしの自国、自国民第一などあり得ないからだ。それに対し、覇権国家が求める覇権のための「自国第一主義」がそうならないのは明らかだ。覇権のための「自国第一主義」は何より、他国と比べての自国第一であり、優越する自国による他国への支配、覇権を正当化するための第一主義だ。それ故、覇権のための「自国第一主義」が国と民族の主権、自主権を尊重するようには決してならない。
今日、トランプの「米国第一主義」が「米国の偉大性」を鼓吹するものとなっているのは、そうした憂慮を深める側面をもっている。これまで覇権国家としてあった米国国民としてのアイデンティティが他国民に比べての米国人の偉大性であってはならないだろう。もちろん、今のところ、トランプが力説する「米国の偉大性」は、このところ自信喪失気味の米国人を鼓舞し自信を取り戻させるという意味合いが強いのは事実だ。しかし、注視の必要大であるのも事実だと思う。
その上で、われわれが真っ先に考慮すべきは、日本の第一主義であり、それと一体の日本人としてのアイデンティティ、ナショナル・アイデンティティだ。
これについては、少なからぬ識者たちが否定的だ。それは、これまで言われてきた日本人としてのアイデンティティが自らの民族的優秀性を誇示するもの、すなわち覇者としての自己証明になっていたからではないかと思う。明治以来これまで、欧米に従属しながら、アジアに覇権してきた日本にあってそうされてきた。だが、今求められているのはそのようなものではないはずだ。
では、どのようなアイデンティティが求められているのか。この今もっとも切実に問われている問題を解く鍵もやはり民意の中にあると思う。民意の「自国第一主義」と一体の日本人としてのアイデンティティ、民意のナショナル・アイデンティティが民意の中にあるのは当然のことだ。問題は、それを日本国民自身が自らの心の内に見つけ出すことだと思う。
そこで一つ提起できればと思うのは、民意のナショナル・アイデンティティ、日本人としてのアイデンティティが自らの戦前と戦後、これまでの歴史と無縁ではあり得ず、それを徹底的に総括した上での「自戒」が込められたアイデンティティになるのではないかということだ。「自戒」と「自虐」はまったく異なる。「尊大」でも「自虐」でもなく、同じ誤りは絶対に繰り返さないという静かで断固たる総括とそれに基づく「自戒」が込められたアイデンティティこそが、多かれ少なかれ、日本国民皆が自らの心の内に秘めているものなのではないだろうか。
議論 改憲論争(憲法九条)
8月13日の朝日新聞「声」欄に、「改憲派から護憲派へ3点質問」という投書が掲載された。@九条だけで日本が戦争をしかけられたり、戦争に巻き込まれたりしないという根拠があるのか、A戦後の平和は日米安保と自衛隊の存在のおかげだと思うが、それを否定するなら平和維持の理由をどう思うのか、B北朝鮮や中国の覇権主義的行動にたいし対話のほか抑止力が必要ではないかという内容だ。
これはよくある疑問なので、共に考え論議を深めていきたいと思う。
@九条は自衛と不戦を共に実現する
九条は戦力不保持、交戦権否認を明記している。そこから、それで他国の攻撃から日本を守れるのかという疑問が当然、出てくる。
自国を自衛するというのは、自主独立国家として当然のことであり、憲法は自衛権を否定していない。これまで、自国の平和を守るために最小限の自衛力をもつことができるということは、定着した政府見解であったし、国民的な合意にもなっている。
九条が戦争の放棄と戦力不保持、交戦権の否認を明確にしたのは、二度と侵略戦争を起こさないという決意から、たとえ「自衛」という名によってでも戦争できないようしたからだ。今日、多数の国民が九条を支持している理由も、侵略戦争につながるようなことは二度としないということだと思う。
そのもとで、自衛権があるとすればどういうことになるのか? 戦力不保持、交戦権否認のもとでの自衛というものはないのだろうか?
自国領域外に出ての相手国との交戦はしない、しかし自国領域内に侵入してきたものに対しては撃退する。このような武力が、侵略することなく、かつ自衛する武力となることができのではないか。自国領域内での撃退武力による撃退戦は、他国にたいする交戦権の行使とは言えないし、その撃退武力は戦力、すなわち戦争する武力ではない。
防衛の界線を自国領域外に引けば侵略戦争を正当化しうるというのは歴史の教訓だ。自国領域内の撃退武力こそが戦力不保持、交戦権否認の徹底した自衛のための武力となる。
そうであれば、九条は自衛も不戦も共に実現した、徹底的な自衛平和国家の道を示しているといえるのではないだろうか。
A戦後日本は安保ゆえに戦争への道を歩んだ
たしかに、戦後、日本は軍隊を海外に本格的に出動させることもなかったし、攻撃を受けることもなく、「平和だった」という見方もある。
しかし、本当に平和国家と胸を張って言えるだろうか。日本はアジア最大の米軍基地を置き、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争などの出撃・兵站基地をにない、自衛隊の後方支援によりアメリカの侵略戦争を支えてきた戦争加担国家だった。
そして、今日、集団的自衛権行使容認でアメリカと共に「戦争する国」にならんとしている。
なぜ日本が戦後、戦争加担国家に、そして現在、アメリカに従って「戦争する国」にならんとしているか? それは憲法よりも日米安保を優先させたからだと考える。
B抑止力こそ戦争においやる要因では
今、朝鮮や中国にたいし、対話と共に抑止力が必要だと言われるが、抑止力とは大人しくしなければ戦争に訴えるぞと言う軍事力による脅かしに他ならない。日本の場合、抑止力というのは日米安保、すなわち米軍による相手国への戦争力だ。日本が米軍の核軍事力を借りて朝鮮や中国を脅かしていくというのは、アメリカの戦争恫喝に手を貸すということと同義である。
抑止力の強化は、相手国を武力拡張=戦争準備に追いやり、最後には戦争の勃発にゆきつく危険をもたらすものではないだろうか。
それゆえ、「抑止力」は戦争の脅威を増大させても、平和を保つ力にはならないといえる。
議論 前号改憲論争
公と個の統一がもっとも重要
「改憲論争」読ませていただきました。私も以前から今回のテーマである「公」と「個」の問題は、自民党改憲草案の根幹をなすものであると思っていました。「公」と「個」の問題は、憲法、政治の範疇だけではなく、社会生活における最も大切なことであり、我々が生活する上で常に直面している問題です。憲法は社会生活の基本となるべきものであり、決して単なる理念ではなく、現実的なものであると思います。
自民党改憲草案はどうか? 「公」と「個」が対立させられており、「公益」「公序」によって国民一人ひとりの個人的権利や利益が大きく制約され、個人の尊重が否定されるようになっている。現実的なものを積み重ねて作られ施行されるべき憲法を、「公」という理念を上位に置き社会的規範として強制するのが自民党改憲草案の考え方であるということには全く異論はありません。
一方、現行憲法が個人の尊重を言うとき、その「個」は、公益に反して自分個人の「私益」を追求したり、自分の個人的な都合から公の秩序を乱したりする「個」であっては当然ならない。
上記のことが大切であり、この「公」と「個」の統一ということが最も重要な課題となります。誰しも事情を抱えています。例えば親の介護をしなければならない家族と、障害児を抱えた家族のどちらかが遠隔地に転勤しなければならなくなったとき、自分のことより相手の立場を思いやるひとほど、自分が犠牲的な立場を選ぶのでないでしょうか。「公」と「個」の統一は決して強制されたものであってはならない。安倍政権ならびにその周辺のひとたちに『公』を強制されることはこれから決してあってはならない。自主性があってこそ、これからの若い人の生き甲斐があるのだと思います。
S・Y
公は、個の命を絶対的価値観で守る
「改憲論争」について読ませていただき、思ったことを書いてみます。
個と公の衝突、公を個の上に置く考え方、軍国主義の過去に、自民党の改憲案は導こうとしているというご指摘に同意します。
個を公の下に置くのではなく、個を大切にしよう!個は優先!が理想ですが、「個の尊重」の究極的な形は「孤立」や「孤独」だと私は思います。人と会わなければ傷つけられることもない。誰からも権利を侵害されません。
湯川遥菜さんを助けに行った後藤健二さんは、公の幸せのために個を貫く人ですね。
では公>個になるケースは…?例えば私が所属する市民団体では月一回、テーマを決め、講師を呼んで勉強会をします。ごくたまに、その日のテーマと一切関係ない持論を延々と喋り続ける参加者がいます。あまりに長いと司会が止めに入ります。限られた時間の中でこの人の「個」の尊重は不可能。でも当のご本人に、自身の「個」が他人の迷惑になっていることに気が付いてもらうまでには、止めに入るほうも気を遣います。なぜなら、その人も、国を憂い、人民の幸せを思い、自分に何ができるか、どうしたら良い国を作れるか、という思いから、勉強会に参加しているからです。ただの「迷惑な人」ではないのです。
公の幸せのために行動すること。それ自体は素晴らしいことですが、間違えれば全然公のためにならない。むしろ公を侵害する。そういった場面を、市民運動の中でずいぶん見てきました。
個と公の関係性は社会において、常に変容する。明確な正解は私の中にありません。
「護憲は新しい」というイメージを国民に広めるのであれば、「現行憲法は個人の人権を守るよ!」「個>公だよ!」と言うよりも、「現行憲法において公は、どんな個でも助ける、見捨てないという価値観だよ!」と言う。
例えば、後藤健二さんのように、「やめとけ」と言われても戦地に行く人もいる。「バカだ」と世間は思う。でも、そんな人が戦地で事件や事故に巻き込まれたら、日本政府は絶対に助けに行く。人命は何よりも優先する。公は、個の命を絶対的価値観で守る。何があっても。
塩田ユキ
沖縄の問題、とりわけ沖縄の基地問題を論じる、というのは正直気が重い。論じるなら現地へ行って座り込みに参加する方が楽だ、と思う。なぜならそれは本土と沖縄に横たわる地理的、歴史的な距離、溝があるからで、エイッと現地の闘いに参加した方がそれを埋められるような気がするからに他ならない。
それはただの愚痴として、よく沖縄の米軍基地に関する話題を目にする時、「沖縄の基地問題」と扱われていることが多い。例えば前回の参院選で「本土では『沖縄の基地問題』が争点にならなかった。が、沖縄では新基地建設反対派の候補者が勝利した。」と使われるように。私が言いたいのは、今沖縄から「新基地建設反対」の声が届けられる時、まさに本土に住む私たちに「沖縄の基地問題」は「日本の基地問題」なのだと突きつけられたものであり、沖縄にこれからも米軍基地が固定、強化されようとする時、未だに「沖縄の基地問題」としか理解しない私たちの首元を揺さぶっているものなのだということだ。
今年四月におきたアメリカ軍属による女性暴行殺害の後開かれた沖縄県民集会で掲げられた「怒りは限界を超えた」という意志表示は、男が所属していたアメリカ軍だけに向けられたものではないことは明らかであり、そこで沖縄の人々が何と対峙しているのかも明確だ。沖縄への米軍基地の押しつけを、飴と鞭で沖縄が自ら基地をのぞむものと歪曲化し、米軍による事故や事件が起きてもそれをリスクとしてしか把握しない日本国家、そしてそれを支える全ての本土住民と対峙しているのだ。そして現にたった今も高江の森のオスプレイパッド建設に反対する人々に対して行われている全国から集められた警察、機動隊による排除・暴力は、まさに自ら超法規的国家暴力としてむき出しで行使されている。参院選で沖縄の新基地反対の民意があらためて示されたその日の翌日から行われだした工事強行であり、国家の意志を見せつけるために行われたことであるのは疑いがない。
そこで一度立ち止まって考えたいのは、そのような民意を無視して振るわれる国家暴力とは何なのか、どのように行使されるのかということだ。よくある議論かもしれないが、国家と一地方の明確な対立の構図がここまではっきりと浮かび上がった以上、それを直視して考えなければいけない時だと思う。そこでまず例えばだが、どこかの国でその国の多くの人々が善政だと考えている国があったとする。しかしそれでも国家である以上国家暴力はあらかじめ存在している。違うのはどのように国家暴力が振われたり、または抑制された状態であるかの違いだけである。国家の意志が、民意と矛盾を深めるとそこに現われるのが国家暴力である。ここ日本社会ではその暴力は普段はあまり見られないし、いつもは悪者の暴力から私たち無力な一般市民を救ってくれるような頼もしい顔をしている(交番の警察官のピストルのように)。良き隣人のように、忠実な番犬のように。それがもたらす何となくの安心感が、現に起きている国家暴力(沖縄への基地負担押し付け、原発再稼働など)への危機感を凌駕してしまうのが我々本土の日本人なのだ。
そういったものが完全な虚構なのだと、凄惨な戦争を経て、未だに軍事基地を押し付けられ続け、それがまた強化されるという現実の中を生きている沖縄の人々は知っている。「軍隊は住民を守らない」とは沖縄が戦場になった時に無理やり沖縄の人々が納得させられた教訓である。本土復帰がなされた後も日本国憲法は沖縄から基地負担を軽減するのに役立たなかった。私たち本土の人間は沖縄に行けば基地を度々目にしていたはずなのに、持ち帰る旅行鞄には基地問題とお土産はうまく同居できていない。
新基地建設反対を政治的課題としたオール沖縄は、自立しており、日本国家による暴力的態度を暴露する。「沖縄の日本問題」として。
私たちは継続的に沖縄と向き合うことを要請されている。そこでは常に「立憲主義」を擁護、確立する、だけでは日米同盟、そして現在までの沖縄の状況をどう説明するのか。「民主主義」という時、国家という存在をどう考えるのか。というような問いが強い意味をもってくる。もはや私たちが以前のように「沖縄基地問題」と言えるような状況ではないのだけは確かなのだ。
はじめに、エイッと沖縄へ行った方が楽だと書いた。しかし一度行っても自分の住む町に戻ってくる時は、日本には本当に沖縄問題などあるのかという疑問がわくような社会であったり、個人の無力さを思い知らされる。行った後からは「私の沖縄問題」として残り続ける。そこでそういった人たちの繋がりを作ろうとしている集まり(辺野古リレー、ゆんたく高江等)の存在はある意味で必然だ。「私の沖縄問題」と抱え込まず「私たちの沖縄問題」と捉え、その「私たち」を地道に増やしていくこと。そういった数々の「私たち」の役割がますます重要になってきている状況だと思う。
手記
■会社勤め異聞
さて、御用組合のある会社で勤めて10数年したところで、ある国を「友好訪問」する事になった。世界中どこにも行けるはずのパスポートだがその頃は、その国だけを「除外」する事が明記されていた。社会党からの勧めで行くことになり、ソ連経由で行く事を大阪府旅券事務所に申請に行った。用紙に行き先を記入する欄があって正直に書いたら、係員の顔が少し変化して「少しお待ちください」すぐに別の人が出て来て別室に案内された。それはほとんど取り調べ、約30分。その1週間後に職場の同僚が走って来た。重役室に外事警察が来て「韓国に行くそうだがちゃんと届を出していますか」と聞いて来たらしいよ、と教えてくれた。韓国ちゃうねんけど・・・役員選挙で負けても逐一報告をくれる暖かい仲間がいたのだ。 特に嫌がらせもなく渡航も無事に済んだ数か月後、地元にある東証一部上場企業が中途採用募集しますという広告が新聞・求人誌に載った。
■華麗なる転職
給料・福利厚生・将来性などが格段に違うので、応募した。簡単な教養試験と面接で3日後に来たのが「残念ながら」不採用通知。しかし、その数日後子会社・関連会社数社の募集案内の封書が来た。うーん、条件がかなり落ちる。今より少しマシになりそうだが、迷ったすえ、人事部長様に丁重にお礼、子会社は辞退したいとの手紙を書いた。するとまた3日後に人事部課長様から電話があり、「辞退者が出たので追加募集します。また面接を受けに来ていただけないですか」と言う。飛びつきたい気持ちを抑えて「また面接で落とされるのも」と元気の少ない声色を使うと、「今度はたぶん大丈夫です」。
気を取り直して行くと面接などほとんど無し。作業服と靴のサイズを測られて「翌翌週から出勤してください」。
かくして二転三転、転職することになったのだが、試用期間が終わる直前、人事部長から呼び出し。職長さんが「え!お前何かしたんか」と心配顔。部長室へ入ると「もう慣れましたか。続きそうですか」とニコニコ顔。「はい職場の皆さんのおかげで続けられそうです。ところで何でしょうか?」と聞くと「あなたの学生時代の経歴は知っています」という。私が「(またそれかいな)正式雇用できないとか、不利益とかありますか」と恐る恐る聞くと(あるなどと答えが来たら、とことん闘わなければならない)、「いえいえ、会社で仕事に励んでいただけたら結構です。一つだけ。わが社の組合を支持しますか」と聞く。何だそんな条件ならOK。「もちろん支持します(社会党支持の組合だったというのもあるが)」。人事部長は微笑んで「では引き続き仕事がんばってください」。 心配して帰りを待っていた職長に報告すると、「あー良かった。頼みたい仕事あったから」と、たいそう喜んでくれた。
■末端あるいはプチ労働貴族(?)
「頼みたい仕事」は半月後にわかった。50人ほどいるその部署の職場委員。職場集会を召集し、組合執行部方針を皆に説明し、決を採り、全労済などの宣伝もする役目だ。執行部が職場委員会を召集したら委員として出席もしなければならないがその時間は職務免除。先輩がたくさんいるのに中途入社早々の私に何させますねん。「いや、君ならできると聞いてる。」とニヤリ。そういえば職長はフラッと人事部長のところへ行ってたな。さらに職長が私に缶ジュースをおごりながらブリーフィングするのには「社員採点項目の一つに職場委員があるから頑張って。うちの組合は斬って捨てるようなことはせんから安心やで。そのかわり逆らうと根っこから引き抜いてしまう事もある」(ちょっと矛盾があるけど、要するに組合には逆らわず、役職まっとうしてたら悪いようにはしないという励ましと警告)。
ちょうど周年事業で職場委員研修が北陸の温泉、もちろん1泊2日の旅行は無料招待だ。職場の先輩方からはネタミの声も漏れていたが、職長の推薦、人事部長呼び出しの一件、前の会社に増して労使協調の組合の威光があるので、すぐに黙った。
仕事は電機機器の組み立てだから巻き尺とドライバーとハンマーを持って一日中歩き回りながら、職場委員の「業務」を忠誠心満載でこなすよう心掛けた。(比率は自称4分6、他称3分7)しかし、それは結構労力がいる。職場委員会で質問・追及の役をしなければならないし、質問に迫力や食い下がりが少ないと、委員長が「次は鋭くやってや」とささやく始末だ。選挙への組合動員には優先で行かされる(もちろん職務免除か、給料補てん)。この会社にいたうちの3分の1の期間はそういう結構おいしい毎日だった。
■配転で暗転、しかし毎日退屈しない会社員生活
あとの3分の1の期間は所属事業部の仕事量が減って配転になって、経過を理解しないモーレツ職長の下でプチ不遇をかこった。昇格昇給が少し遅れて、組合委員長のところへ相談に行くと、まあ君の訴えの通りやけど、世の中は不遇の連続やで、との説明に何となく納得。一方どうにも我慢ならなくなったモーレツ職長が組合と人事部へ「あいつを飛ばしたい」と直訴に及んだら委員長がすぐそれを私に知らせに来た。はいとも嫌とも言えない、らしい。1年以上たって分工場への配転が指令された。ところがその職長は、何と直後に子会社への片道切符出向(行ったままか、いやなら退職)になった。間もなく自分から退職して行かれたとか。本当に会社勤めは面白い、を痛感させていただいた。
(続く)
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