研究誌 「アジア新時代と日本」

第158号 2016/8/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 都知事選総括 小池圧勝に「学ぶ」こと

議論 改憲論争(憲法十三条) 人権はどう尊重されるべきか?

時評 「本土の皆さんも第二の加害者です」に応えるために

手記 ある元・工場労働者の半生

随筆 「花火大会」に想う




 

編集部より

小川淳


 安倍政治に代わる新しい国家、社会像の提示を
 都知事選では小池が圧勝し、野党統一候補の鳥越氏がダブルスコアで敗北した。立憲主義の広範な闘いの中で、やっと作り上げられた「野党共闘」だが都知事選ではまったく機能しなかった。
 民進党内部での「野党共闘」路線をめぐるゴタゴタが続き、ぎりぎりまで都知事候補の一本化に手間取った。また共産党も最後まで宇都宮候補擁立を画策し、鳥越氏支持が不鮮明なまま選挙戦に突入してしまった。また鳥越氏自身も準備不足があったことは否めない。反自公、立憲主義を旗印にしたが、都民が最も関心のある魅力ある都政を都民に提示することができなかった。
 参院選の東京選挙区では、民進、共産、社民合わせて265万票を得ている。今回の都知事選で、鳥越候補はその半分134万票しか得票できていない。市民連合と「野党共闘」という器はできつつあるが、敗因はその器に盛るべき魅力ある中身(政策)をつくりだせなかったことにある。単純に野党が共闘する形(かたち)だけでは勝てないということである。
 今、改めて確認しておきたい。
 @安倍政治の暴走を喰い止める為には党利党略を超えて野党が一つになる野党共闘しかない。Aそのカギを握るのはやはり民進党であり、民進党がその核にならない限り共闘は機能しない。Bその上で、何よりも重要なのは魅力ある斬新な政策の提示だ。政策でいえば、とりわけ破たんが明らかとなったアベノミクスに代わる、新しい経済の道筋をどう切り開いていくのか。言い換えるなら、これから先もまだ懲りずに「成長」への道を突き進むのか。それとも「成長」に必ずしも頼らない道を切り開くのか。
 戦後70年が過ぎてなお続く日米安保を基軸にした覇権路線を日本は突き進むのか。それとも日米安保に代わる新しい国家像を野党は示せるのか。いずれにせよ、今までの「戦後政治」、アメリカに追随するだけの政治では解決できない問題が今の日本には山積している。新安保法制と憲法との矛盾、沖縄の民意と決定的対立する辺野古問題、いまなお原発で苦しむフクシマの現実などはその象徴だ。これらは今までの延長に日本の未来はないことを示している。
 9月には民進党党首選がある。蓮舫氏は岡田代表の野党共闘路線を継承するとしている。野党共闘がしっかり根づくためには勝ち続けなければならない。10月の衆院補選を反転攻勢のきっかけにしたい。



主張 都知事選総括

小池圧勝に「学ぶ」こと

編集部


 注目された都知事選は、小池百合子氏が291万票を獲得し圧勝した。歴代4位の大量得票。保守分裂選挙の下での、この数字は驚異的である。
参院選の東京選挙区に立候補した野党3党の獲得数は270万票。それに改憲反対の無所属候補の分を足せば300万票近く。それに対して自民と公明の獲得数は230万票。それが分裂したのだから「絶対に勝てる」はずであった。
 しかし結果は、惨敗。「統一」しても勝てなかった。何故こういうことになったのか? 「小池圧勝」の深い分析が問われていると思う。

■熱気・熱狂
 今回の都知事選では「小池フィーバー」とも呼べる熱気が生まれた。
 小池氏のもとには、延べ500人ものボランティアが駆けつけて選挙運動を担った。そして、演説会場には小池氏の要望に応じてイメージカラーの「グリーン」を身につけた聴衆がつめかけ、演説に沸き、拍手・声援を送った。そして街を歩けば握手責め、激励の声、声・・・。
 小池氏自身にとっても、それは予想を超えるものだったようだ。小池氏は語っている。「私の思い、政策について、八丈島から多摩、23区、市と、くまなく回らせていただいた。SNSなども活用しながら、人の輪が本当に広がっていった。(イメージカラーの)緑の何かをつけてくださいと申しましたら,Tシャツ、スカーフ、タオル、ゴーヤ、ブロッコリーを持ってこられ、これまでにない選挙をさせていただいた」と。
 結果はどうだったか? 自民支持層の55%、公明支持層の26%が小池氏に投票しただけでなく、野党である民進支持層の32%、共産支持層の24%、社民、生活支持層からも、それぞれ2割弱が小池氏に投票した。無党派層も51%が小池に投票した。こうして投票率も前回より13・6ポイントも高い59・7%となり、「百合子現象」とも呼べる「圧勝」が現出した。

■「既成政党NO」の民意
 この熱気の原因については、一般に自民党都連を敵に仕立て、強大な相手に闘いを挑むという「小池劇場」作りに成功した選挙戦術のうまさ等々が言われている。しかし、そのような小手先の巧みさだけに、その原因を求めてはならないだろう。もっと根本的な何かがある。
 そこで言われるのが「既成政党NO」ということだ。政党の支持を受けられなかった小池氏が勝利し、自民、公明の支持を受けた増田氏や野党統一候補の鳥越氏が敗北した。増田氏の場合、東京五輪を前に、二度と不祥事を起こさない人物、国と一体でやれる人という自民党の都合で選ばれたと見なされた。鳥越氏の場合も改憲反対とか安倍政治ストップなどという野党の都合から政策的な合意もなく擁立されたと見られたということのようだ。
 これに対し、小池陣営は違っていた。自民党の支持を得られなかった小池氏は「都民ファースト」を掲げ、「都民の都民による都民のための都政」を呼びかけ、選挙自体も都民に依拠したものにした。数多くのボランティア運動員。そして「グリーン」を身につけた聴衆で埋まった演説会場。
 小池氏が掲げた「東京大改革」「これまでになかった都政」という東京都民のアイデンティティへの訴え。これまでのように既成の政党に頼るのではなく、都政は都民が決めるという高まる主権者意識に合った、こうした訴えに、支持者の中からは「民主主義って、これだ!」の声が沸き起こった。
「既成政党NO」「オール東京」の盛り上がる民意。小池氏は、その民意に応えた。まさに、そこに熱気・熱狂の原因があったと言えるのではないだろうか。

■世界に生まれる、新しい民意の波
 今、欧米をはじめとして世界各地で「既成政党NO」の流れが勢いを増し、時代的な流れになっている。スペインのポデモスやシウダス、英国の独立党、イタリアの五つ星運動、フランスの国民戦線、ドイツやオーストリア、北欧。そして、アジアでは香港の雨傘運動、台湾のヒマワリ運動などが。
 欧米で「既成政党NO」が広がっているのは、これまでの二大政党制では民意を反映できないからだと分析されている。今日、欧州で起きている様々な問題、雇用、格差、難民問題などは、すべて主権制限のグローバリズム、新自由主義が生み出したもの。しかし二大政党はグローバリズム、新自由主義を支持するものばかり。これに反対する民族主義政党、新たな市民政党などが広範で圧倒的な民意を背景に急速に力を伸ばしている。
これらの動きは概ね「新しい民主主義」と「自国第一主義」への志向として現れている。
 普通、「新しい民主主義」は左派市民運動が、「自国第一主義」は右翼民族主義者が提唱していると思われ、また言われている。しかし、今日、両者は統一され一つの運動として推し進められているのではないか。
 例えば、英国のEU離脱は、「英国が英国でなくなる」(自国第一主義)とEU官僚の押しつけで「民主主義が破壊されている」(新しい民主主義)という、両者が結合した民意の反映だった。スペインのポデモス、フランス国民戦線、イタリアの五つ星運動も反グローバリズムと民主主義要求が結びついている。米国のトランプ現象、サンダース現象もそれらを支持する層は重なっている。
 「自国のことは主権者である自国国民が決める」という主権者意識は両者に共通するものであり、「自国第一主義」と「新しい民主主義」は互いに結びつき相互に補完するものとしてある。
 「小池圧勝」は、この世界的な流れと軌を一つにし、それを反映している。小池氏の「都民ファースト」はトランプ氏の「アメリカ・ファースト」を想起させ、選挙で「新しい民主主義」を示すことで、勝利はもたらされたことをよく見るべきだと思う。

■真に民意に応えるために
 グローバリズム、新自由主義の行き詰まりと共に沸き起こる民意の新しい要求。
 これにどう応えるのかが世界でも日本でも求められていると思う。
 それは、これから「自国第一主義」「新しい民主主義」のあり方をめぐっての闘いとして問われてくるのではないだろうか。
 小池氏は、自民党が櫻井俊氏に立候補を打診していた頃、次のように言っていた。「国民の共感を呼び起こして大義を達成する。その道筋を作るということは行政官などではできない」と。小池氏は、「大義」を実現する道筋を作るため戦略的にこの知事選を位置づけていたということではないだろうか。
 では、その「大義」とは何か? 考慮すべきは、小池氏が日本会議の議員懇談会副会長であり、「新しい教科書を作る会」とも密接な関係を持つ典型的な「タカ派」だということである。そこから推察できるのは、「日本の独立・自主」を印象づけての改憲、「改憲して『自主的』な日本にする」ということではないだろうか。それが今、模索され、これからより明確に姿を現してくるであろう米国の世界戦略の転換と軌を一つにしたものであるのは、十分に考えられることだ。
 舛添氏の「不祥事」が東京地検特捜部によって摘発されたこと、その地検特捜部が「政界の大悪を暴く」という名目で作られながら、実質、米国による日本政治操縦の機関となっていること、自民党で唯一、小池支持を表明し,選挙期間中、一貫して小池氏に寄り添った若狭衆院議員が元東京地検特捜部の副部長であったこと、さらには、「事前相談」なしの小池氏の立候補も自民党都連の反発を呼ぶことは分かった上での仕掛けだったのではないかということ、そして、何より、これだけでなく小池氏の選挙準備全体が計算され尽くした感が強いこと、等々。今回の都知事選で生まれた小池選挙の「熱気」「熱狂」の背後には何かがあったのではという疑惑の念を禁じ得ない。
 小池氏は、都知事選で「自国第一主義」「新しい民主主義」を前面に出し圧勝した。しかし、こうした拭いきれない「疑惑」や氏の政治信条から見たとき、それが真に民意を反映し、それに応えるものになるとはとうてい考えられない。
 そうした中、これから問われてくるのは、あの熱気に満ちた民意の渇望を真に反映し、それに真に応えるための闘いだ。
 それが、改憲をめぐる闘いなど「自国第一主義」「新しい民主主義」のあり方をめぐっての闘いになるだろうことは、十分に想定できるのではないだろうか。



議論 改憲論争(憲法十三条)

人権はどう尊重されるべきか?

小西隆裕


 国民の権利及び義務に関する日本国憲法第三章は、戦争の放棄に関する第二章とともに改憲をめぐる最大の争点の一つとなっている。中でも問題になっているのが第十三条だ。「すべて国民は、個人として尊重される」で始まるこの条項は、自民党改憲草案では、「全て国民は、人として尊重される」で始められている。なぜ「個人として」でなく「人として」なのか。改憲論争の正否を分ける鍵がこの一言に凝縮されていると言っても決して過言ではないと思う。
 現行憲法第十三条は、それに続けて「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政で、最大の尊重を必要とする」となっている。これに対し、自民党改憲草案では、「公共の福祉に反しない限り」の部分が「公益及び公の秩序に反しない限り」に書き換えられた。
 なぜこの書き換えがなされたのか。それは、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られないからだと説明されている。そこから改憲草案では、上記の変更がなされたということらしい。
 これは一言でいって、「公」と「個」の衝突、対立を想定しながら、「公」を「個」の上に置くものの考え方だと言えるのではないか。これに対し、現行憲法は、「公」と「個」との関係に触れることなく、あくまで「個」相互間の衝突、対立だけを想定して、公共の福祉に反しない限り基本的人権は保障されなければならないとしている。
 なぜそうしたのか。そこに込められた意図が重要だと思う。それが、「公益」「公序」を理由に個人の権利、利益を蹂躙した過去の「全体主義」の教訓に基づいているのは容易に推察されることだ。
 自民党改憲草案には、そうした考慮が見られない。それどころか、軍国主義の過去そのままに、「公」を「個」の上に置いて、「個」の権利を大きく制約している。その上で、現行憲法が「公」と「個」の関係を考慮していないかと言えば、そうではない。「すべて国民は、個人として尊重される」と言ったとき、そもそも「公」は「個」のためにあり、個人の権利や利益と対立しそれを侵害するような「公益」「公序」などあってはならないということが大前提になっていると思う。「国民の権利」に対して「立法その他の国政で、最大の尊重を必要とする」とはそういうことだ。
 例えば、ISの人質になり殺害された後藤さん、湯浅さんの場合がそうだと思う。あのとき安倍政権は、「テロに屈しない」という「公益」「公序」を掲げ、彼らの命を犠牲にした。あれなど、明確な憲法違反だと言える。個人の利益を犠牲にする「公益」などない。これが十三条の重要なメッセージだと思う。
 一方、現行憲法が個人の尊重を言うとき、その「個」は、公益に反して自分個人の「私益」を追求したり、自分の個人的な都合から公の秩序を乱したりする「個」であっては当然ならない。舛添前東京都知事が「私利」や「自分の都合」から「公益」「公序」を損なったのが罰せられたのは、完全に憲法にそっていたと言うことができる。
 こうして見たとき、現行憲法において、「公」と「個」の関係は、考慮されていないのではなく、考慮された上で統一されており、この「公」と「個」の統一の上に個人の尊重が説かれているのが現行憲法だと言うことができる。
 これに対し、自民党改憲草案はどうか?先述したように、「公」と「個」が対立させられており、「公益」「公序」によって国民一人ひとりの個人的権利や利益が大きく制約され、個人の尊重が否定されるようになっている。
 ここで、「公」と「個」の統一と言ったとき、「公」が「個」のためのものであり、「個」はそのような「公」を大切にするというのが大前提だ。逆に言えば、「公」と「個」の対立を想定する自民党改憲草案にはこのような前提がないということだ。すなわち、「公」は必ずしも「個」のためのものではなく、「個」が「公」に反対することは十分にあり得るということだ。そうした改憲草案が個人の尊重を否定するようになるのは必然だといえる。
 「公」と「個」の統一を前提とし、一人一人の個人を絶対的に尊重する現行憲法は、今こそ実現されなければならないと思う。そういう日本に築くことこそが今もっとも切実な国民的要求になっているのではないだろうか。


 
時評

「本土の皆さんも第二の加害者です」に応えるために

東屋浩


 米元海兵隊員による女性強姦殺人事件にたいする抗議集会で、地元女子大生が、「安倍晋三さん、日本本土にお住まいの皆さん、今回の事件の第二の加害者は誰ですか? あなたたちです」と訴えた。
 胸にぐさりとくる言葉だった。日本にある米軍基地の7割余りが沖縄に集中している。米軍基地を沖縄に押しつけているのは明らかだ。普天間基地移転問題にしても、海兵隊の輸送船基地がある佐世保の周辺、あるいはグアム、ハワイへの一部移転など、さまざまな方途が取りざたされているのに、辺野古により強化した海兵隊の基地を作るという。それは普天間基地の移転を口実にした沖縄における基地強化だ。
 米軍の言うがままになっている日本政府の責任であり、それを許している本土国民の責任だと言われても仕方がない。
 振り返って見ると、私自身、これまで沖縄が日本の一部でありながら米軍統治下にあるということを、もうひとつ切実なものとして考えてこなかった。
 今年になって憲法制定と自衛隊発足の過程を調べていくうちに、アメリカは当初から沖縄を米軍基地要塞化することを企図し、サンフランシスコ条約での日本の独立の引き換えに、安保条約締結と琉球をアメリカを施政権者とする国連の信託統治に委ねるという沖縄の犠牲のうえにあったということを知った。
 沖縄の犠牲と基地存続の上に戦後日本の平和と経済成長があったということができる。
 だから、沖縄の本土復帰運動は、憲法九条がある日本への復帰運動だった。
 米軍統治が始まった45年から27年後、1972年に沖縄は日本への復帰をとげることができた。しかし、今日まで沖縄における米軍基地の大きな負担は変わっていない。
 それは安保条約があり、日本政府がこと沖縄米軍基地に関して主権を放棄しているからだ。
 沖縄県民が政府と交渉してもアメリカとの安保問題として押し切られ、アメリカに訴えても日本の問題と相手にされないできた。その沖縄県民は自己決定権をかかげ、あくまで辺野古基地建設に反対し闘っている。
 沖縄の位置に立てば、日本が戦後一貫して、いかにアメリカの従属国であったかを理解することができる。
 沖縄の米軍基地問題は、日本の問題であり、日本国民の問題だ。
 つまり、日本にとって安保体制が根本問題であり、戦後日本の見直しとは安保体制の見直しにほかならないといえる。
 アメリカは沖縄をはじめ日本を中近東・アジア全域にたいする軍事戦略拠点として位置づけ、日本を保護する名目で沖縄に基地を置くという安保条約を押しつけた。
 日本の空はほとんど米軍管轄下にあり、海上自衛隊と航空自衛隊は日本を守るためにではなく、米軍の補完武力としてあり、陸上自衛隊はアメリカの戦略拠点としての日本の治安を維持するためにある。
 矢部宏治氏(書籍情報社代表)によれば、52年と54年に吉田茂首相と極東米軍司令官の間で「戦争になれば自衛隊は米軍の指揮下に入る」という密約まで交わされているという。
 昨年の安保法制は、憲法を否定し、アメリカに対する攻撃を日本にたいする攻撃とみなし、ミサイル基地先制攻撃などアメリカのために武力行使をするという徹底した従属ぶりを示している。
 沖縄の境遇がまさに今日の日本の境遇になりつつある。
 日本の主権が踏みにじられているという痛みを感じてこそ、沖縄県民の痛みを自身のものとすることができ、主権をとりもどす闘いの立場に立ってこそ、沖縄県民の闘いと連帯することができるのではないだろうか。
 沖縄の境遇が日本の境遇になった今こそ、日米安保体制を見直す時がきたと思う。それが、沖縄県民の痛みに応える道だ。



手記

ある元・工場労働者の半生(1)

平 和好


■将来の夢
 私は社会的に物心ついた10代後半から、社会人になったら労働組合、それも総評とかいう大組織のある会社に就職し、労働運動をするのだと決意していた。高校生時代にかぶった帽子に「プロレタリア統一戦線」という、わくわくするような文字が統一的に書かれていたからだ。響きとしては「野党共闘」みたいでとても気に入っていた。
 しかし、現実は甘くなく、まず公務員採用試験は軒並み落ちた。滑り止めのつもりの郵政現業は、答えあわせをしてみたら「100点満点に近い」成績のはずだから、なおのことショックだ。自分より正解が少ない交際相手に次々(地方自治体、国家、郵政と)第一次試験合格通知が届くのでポストをあけるたび敗北感一杯となった。
 その頃アルバイトの会社帰りを何時間も待っていてくれた大阪の岡っ引きが「無駄やと思う。リストに乗ってるから」と言ったので理由は理解した。パブリックセクターは要するにレッドリストが自動的に回っていて、掲載されている私たちは自動でピッキングアウトされるのだろう。そうなら民間しかない。頭より体を使う民間現業なら入れると考えて面接に三つチャレンジした。1つはすぐに不採用、「残念ながら」通知が来て、もう1つはあまりにハードそうだから辞退した。
 この頃はある意味よい時代で、選り好みしなければ、少々給料が安いけれど安定雇用の会社がわんさかあったと言うことだ。三つ目は面接後、その場で来週から来て欲しい旨告げられ、行くことにした。
 正社員で社会保険全て適用だった。時すでに24才、ガス工事の会社で将来は監督をめざすように言われたが、実際には何十年も平の工事社員が沢山おり、無理だと思った。神戸・新開地まで通うのに1時間半かかるのと、電動ねじきり機で指をつめて親指の皮がずるムケになったり、工事中の壁の釘で腕を切り裂いてしまったり、ホコリもうもうの天井裏に入らなければならず、グラスウールか石綿か判別できないようなものが舞い上がっていたりで、自信がなくなり、2年で退職させていただいた。しかし現場仕事の面白さと達成感は感じられたので、以後は工場労働を選ぶ事となった。

■御用組合
 また面接に行き、淀川区の金属工場で採用された。今度こそ組合のある会社に入れた。しかし、喜んだのもつかの間、工場長が組合長、課長が書記長という典型的な御用組合。「賃上げが大きいと会社がつぶれる」が持論の執行部と穏やかに言い合いをした。究極は「君の言うことを貫こうと思うたら革命しかない(だからあまり主張しなさんな)」「まあ機会があったら組合役員にでも立候補してみたら?(ぺーぺーがなれるもんか)」と言われた。そう言われては後に引けない。さっそく立候補してみることにした。組合長も書記長も仕事の点でみんな頭が上がらない人物。そこで中途半端な副委員長に電撃立候補。3対2くらいの比率で勝ってしまった。御用組合の委員長に1年間なってしまったのだ。
 しかし、あまり多く開かれない執行委員会は多数で押し切られるし、普段の運営からも外されており、明らかに歓迎されていない。支持者の人から「あの人は社会党系の過激派でうちには向かない」とキャンペーンされていることを教えられた。
 そして迎えた次年度の大会。今まで出席もしていないホワイトカラー、出席してはいけないはずの経理、秘書室まで出席している。私へのシフト大動員だった。抗議しようとしても「意見表明無しで即投票」の提案が執行部から出され、封殺。うーんさすが御用組合。後で支持者が教えてくれたところでは北海道、関東、九州の支店にまでFAXが回され、現執行部への信任を要請する行動が取られていたらしい。投票結果は1年前より得票を微増させたものの(一方的宣伝をされた割には健闘だが)、立候補してきた「課長」(そんなんありかいな)が前回落とした人物の倍の得票を取り、私は落とされてしまった。

■ちょっと気楽な「隔離」
 それ以降は、特にいじめられることも無かったが、軽い村八分と、泉北分工場に辞令が出され、淀川区にある本社に出勤後、10時過ぎに現地着、夕方3時半には作業を終わらせて本社に定時ころに帰着。トラックの助手席で寝ているか運転する課長との楽しい雑談で往復3時間が過ぎる。毎日実働4時間半で同じ給料がもらえるのだから、島流しも悪くは無かった。  ある年の忘年会では秘書室長(社長付き)が寄って来てビールを注いでくれながら「若い頃のうわさは聞いてるよ」と一言。社内のうわさでは自衛隊上がり。軽い脅しかなと思いつつ、「さすが情報機関のデータはすごいですね!」とお返しした。この会社で約7年、御用組合の実態をつぶさに見させてもらったので、損は無かった。一部上場企業への転職が決まったら、専務がやってきて「おめでとう。あなたならそこで活躍されるでしょう。」と満面の笑顔で「祝福」してくれた。

(続く)



随想

「花火大会」に想う

金子恵美子


 夏の風物詩と言えば何と言っても花火だろう。どんな事にもお金が必要な世の中で、あんな素晴らしい芸術がタダで見られるなんて日本人は幸せだ。夜空を舞台にした一夜の幻想的なパフォーマンス。その壮大な美しさに酔いしれて、幸せな一時を過ごし、はいオシマイ、というのがこれまでの私の花火大会に対する関わり方であった。極めてシンプルだ。
 花火を見て何かに思いを致すとかではなく花火とはただ見て楽しむもの、それ以外の概念は私にはなかった。 しかし、そのように通り過ごせない花火大会があるのを遅らせばせながら先頃知った。新潟県の「長岡まつり大花火大会」である。毎年8月2日、3日と開催される「長岡花火大会」は、秋田の「大曲花火競技大会」、茨城の「土浦全国花火競技会」と共に日本の「3大花火大会」の一つに数えられる。
 2日間で打ち上げられる花火は2万発、観客動員数は100万人前後(今年は104万人と発表されている)。有名な花火師によるお勧め花火大会10選の1位にも輝いている。
 信濃川の河川敷に100万人の人が集まり、その一発一発に歓声を上げる。「かぎやー」「たまやー」の声が上がる。ただそれだけなら他の花火大会と変わるところはない。しかし、「長岡まつり大花火大会」はそれだけでは終わらない。観衆を崇高な涙に誘うのである。では何が見る人の胸を熱くするのであろうか。それを知る為には、「長岡まつり大花火大会」の歴史とその中心に立ち続けた伝説の花火師、嘉瀬誠次を抜きには語れない。
 そもそも日本の花火の歴史は江戸時代に遡る。諸説あるが1613年、明人により日本に初めて持ち込まれ、それを見た最初の日本人は徳川家康だと言われている。その後、徳川家はもとより諸大名の間でも花火は広まり、やがて庶民の中でも大流行するようになる。しかし火災がたびたび発生するようになり、禁止令が出される。
 そのような中1732年に「享保の大飢饉」が起き、同時に疫病も大流行。90万人以上の死者が出たという。時の将軍徳川吉宗はそれを憂い翌年の1733年に亡くなった人たちの慰霊と悪霊祓いの為に隅田川で「水神祭」を行うことに。その時の余興として大型花火を打ち上げたという。これが現在の「隅田川花火大会」の前身とされている。
 花火大会の時にかかる「かぎやー」「たまやー」のかけ声も、花火が大流行した江戸時代に現在の奈良県から上京した弥兵衛という人物が日本橋に「鍵屋」の看板を掲げ花火の製造業をスタートさせ、時を経ること7代目鍵屋の職人頭だった清七が独立して「玉屋」を創設し、この2つが花火師の二大巨頭となり技を競い合うようになったとのこと。「たまやー」「かぎやー」のかけ声にはそんな彼らを讃える意味があったのだという。
 さて、そうした花火の歴史をもつ日本の花火大会であるが、長岡の花火大会の歴史も江戸時代に起源がある。その連綿として引き継がれて来た長岡の花火大会が途切れることになったのが第二次世界大戦の時である。花火の製造は中止され火薬は爆弾製造に回された。同じ夜空を染めるものであっても何という違いか。火薬は爆弾ではなく花火がいい。花火も平和あってこそのものなのだ。
 そして戦後はポツダム政令により火薬の製造も禁止されてしまい、1946年のアメリカ独立記念日の打ち上げ花火まで日本で花火を見ることはできなかった。
 その後、花火製造は次第に復活、携わった多くの人たちの研究と努力の末に「世界で最も美しい」と言われる日本の花火が生まれた。ここに多大な貢献をしたのが先述の嘉瀬誠次なのである。
 71年前の1945年8月1日の夜10時30分、夥しい数のB29が長岡の空に1時間40分ものあいだ爆弾の雨を降らす。市街地の8割が焼け野原と化し、1486名の無垢な命が奪われた。しかし長岡市民は不屈に立ち上がる。翌年の8月1日には「長岡まつり」の前身である「長岡復興祭」を開催し、それを力に更に復興に邁進してゆく。
 嘉瀬誠次は3年間のシベリア抑留の末、長岡に復員する。大正11年生まれの嘉瀬の生家は祖父の代から始めた花火製造業の家。誠次は14歳から父に師事して花火師になる。復員した誠次はすぐに花火作りに乗り出し、1951年、父親と共に「長岡まつり大花火大会」で戦後初の正三尺玉の打ち上げに成功する。その後、あくなき研究と工夫で誠次は次々に新しい花火を生み出していく。その中でも特別な意味を込めて作られたのが「白菊」と命名された、「白銀」と呼ばれる白一色の大型花火だ。
 嘉瀬の胸の奥には、あのシベリアの凍土に帰国を果たせず埋もれている戦友への思いがあった。いつか彼の地で仏壇に手向けるような真っ白い菊の花火を打ち上げたいという強い思いである。こうして誰も真似できない見る者を魅了してやまない戦友の鎮魂を祈る花火「白菊」が生まれた。現在は戦没者への慰霊として長岡空襲のあった8月1日夜10時30分と2日、3日の「長岡まつり大花火大会」の最初に打ち上げられている。また中越地震を機に打ち上げられるようになった「フェニックス」は復興祈願の花火として「長岡まつり大花火大会」に欠かせないものとなっている。
 信濃川の川幅を使っての壮大な「ナイアガラの滝」美しい色とりどりの玉が次々に夜空を染める「万華鏡」など嘉瀬誠次の花火師としての名声は高まり、遂にはロサンゼルスオリンピックでの打ち上げ依頼まで届くようになる。その閉会式での見事な花火は嘉瀬の名前を世界に轟かせ各国からの打ち上げ依頼につながってゆく。
 しかし嘉瀬がどこまでも一番大切にしたのは「長岡まつり大花火大会」であり、一番の願いはシベリアの地を彷徨っているであろう戦友の霊の鎮魂の為「白菊」を彼の地で打ち上げたいということであった。この嘉瀬の願いが遂に実現する日が来る。様々な困難を乗り越え1990年7月、アムール川に嘉瀬の「白菊」が打ち上げられたのだ。これは日本でもテレビ放映され大きな反響を呼んだ。この時この一大イベントに関わったソ連側の責任者、また日本側のスタッフたちの嘉瀬を交えての交流はいまだに続いているという。 今年の「長岡まつり大花火大会」は、中越高校の甲子園出場を祝う花火と不動の位置を保つ「白菊」の打ち上げで幕を上げた。
 「長岡まつり大花火大会」が何故日本一感動する花火と言われるのか。それは、美しさや雄大さを競う花火ではなく、戦争や災害で亡くなった人、また生き残った人に寄り添う慰霊、復興、そして恒久平和を願って打ち上げられる花火だからだ。
 そしてその核とも礎とも言えるものをつくったのが、花火作りに全魂を注いだ嘉瀬誠次という人物である。 今はその志をしっかり受け継ぐ若手の花火師たちに全てを委ね、一観衆として「長岡花火」をどっしりと見守っている嘉瀬誠次。今年94歳になるこの伝説の花火師に長岡市は「市民大賞」を贈った。
 「花火大会」は平和の中でのみ咲かすことのできる夜空の花だ。これを戦争の硝煙に変えてはならない。絶対に。


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