時評 オバマ大統領のヒロシマ訪問 本当に一歩前進なのだろうか
社会時評 とんでもない沖縄女性惨殺事件をめぐる、さらに「トンデモナイ」連中
安倍政権への巨大な怒りの渦を巻き起こそう
いよいよ参院選が始まる。民進、共産、社民、生活の4党は「市民連合」との政策協定に合意した。参院選での32の一人区では「野党共闘」が実現している。野党が本当に手を結ぶためには政策における合意は不可欠であり、今回、その合意に至ったことの意義は計り知れなく大きい。安保法の廃止、立憲主義の回復、改憲の阻止、辺野古新基地建設の中止、原発に依拠しないエネルギーの推進など、自公政権との対決軸がかなり鮮明に示されている。
自民は過去2回の総選挙で「圧勝」したが、意外にも支持率は増えていないのだ。過去12回の国政選挙での自民党の絶対得票率はほぼ一貫して16から17%を推移しており、自民党の固定的な支持層は有権者の6人に1人でしかない。
自民が政権を失った09年総選挙での自民獲得票は18%で議席占有率は24,8%、安倍政権が圧勝した14年総選挙は17%の得票率で議席占有率は61%だった。10年の総選挙では、民主党は得票率17,7%で、自民の13,5%を上回っていたものの、議席数では民主36%、自民42%と大敗している。(「世界」7月号、中野晃一「憤りはどう具現化されるか」)。
この数字は民主党という反自民の受け皿が凋落し、野党が乱立し、有権者が棄権した悲惨な結果だ。このように見てくると、今回の「野党共闘」と政策協定の持つ決定的な意味がわかるはずだ。野党が一つになって自公と対決する構図を作り出す。この構図を作り出すことができるなら勝機はある、ということだ。野党共闘で闘った北海道5区補選は、あと一歩で「勝てる」ことを示した。
白井聡さんは、「戦後政治を終わらせる―永続敗戦の、その先へ」という本の中で、「戦後レジームからの脱却」の為には、「三つの革命」が必要と述べている。
ポスト55年体制に値する政治状況を作り出すこと(政治革命)、基本的人権、民主主義など憲法に示された近代原理の徹底化(社会革命)、そしてそれを政治家に働きかけ、実行させる意志と力(精神革命)、この三つだ。
市民連合が動かす「野党共闘」の動きは「政治革命」の糸口になるかも知れない、とも述べている。この動きが戦後体制からの脱却へつながるのかどうかは、巨大な政治の不条理にNOを突き付け、その巨大な壁を突き破ることができるかどうかだ。参院選に向けて、私たち国民が安倍政権への巨大な怒りの渦をつくりだせるかどうか、そこに掛かっている。
主張
■参院選、次のステップのために
いよいよ参院選である。
昨年7月、安保関連法案(戦争法)が成立した後、この法案に反対してきた人たちは、「市民連合」(安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合)を結成し、安倍政権を退陣させて新政権を作り、戦争法を廃案にすることを目標に掲げた。すなわち、今回の参院選は、戦争法廃案を実現するために、安倍政権を退陣させ新政権を作るという次ぎのステップにつながるものとしなければならないということである。
すでに、実質的な選挙戦に入ったが、今のところ、その状況はあまり芳しいものではない。
世論調査によれば、安倍首相が「国民に信を問う」とした消費増税2年半後の延長についても60%が賛成であり、与党の優位は崩れそうもない。
そうした状況を尻目に安倍首相は「消費増税再延長の可否」を焦点にしながら、「3分の2」の議席獲得を視野に入れているとされる。
「3分の2」を阻止できなければ、安倍政権の暴走に拍車をかけ、改憲が日程に上ることになる。
何としてもこれを阻止するだけでなく、次のステップ、すなわち来るべき衆院選で勝利する体制を整えねばならない。そのためには、次に向けてジャンプする跳躍台を作り出していかねばならないのではないか。
■「しぶとく」、市民主体型の選挙で
こうした状況を前にSEALDsの奥田愛基さんが「世論調査でぶっちゃけ、野党の状況は全然よくないっす。・・・けど、去年のように本当に止める!という気持ちでやっていきましょう。俺達はしぶといんで」と言っていた。「しぶとく」、それは全ての反安倍勢力の人たちの思いでもある。
この苦戦の原因の一つは野党の「統一」が完全には進まなかったことにある。「統一」出来れば大きな力を発揮する。それは北海道5区補選でも証明された。それに後押しされ32の一人区全てで「統一候補」が実現した。しかし複数区や比例区では、「統一」できていない。
「複数区や比例区でも統一が実現すれば様相は変わったものになるだろう」と言われているのに、それが出来ていない。
こうした状況を打破するため、市民連合などが活発に動いている。6月7日には、彼らが申し入れた会合で、野党4党と市民連合が選挙協力を強めることが確認された。今後、公示日までに更なる「統一」の推進を期待したい。
その市民連合の人たちが今回の参院選で掲げるのは「市民型選挙」である。
「市民型選挙」とは、政党主体の選挙ではなく市民主体ということだ。これまでの選挙は政党が主体であり、選挙民はそれを選ぶという受動的な形であった。それを逆に市民が主体になって政党に働きかけるということだ。
その究極的な形は、全ての野党が結集して国民連合のような「統一会派」を形成し、選挙区でも、比例区でも統一して闘う形だ。
彼らは、今の状況の中で、何とかそれに近いものを作ろうとしているようだ。一人区の半数の候補者と政策協定も結んだという。こうすることによって準「自分たち市民の候補」として擁立応援し当選させようというのである。
運動手法でも、「候補者の演説会に行き、その様子をSNSなどに投稿し、友人などに伝える」などの方法を紹介した冊子を配布するなどしている。参院選の過程で、さらに色々と斬新な方法が生み出されるであろう。
■立憲主義に基づく国民連合を
闘いの焦眉の目標は安倍政治を退陣させ、新政権を樹立することである。そのためには、反安倍勢力が全国民的なものにまで広がらなくてはならず、野党「統一」も実現しなければならない。
そのために、何よりも先ず、立憲主義に基づいて、オール・ニッポンの国民的な連合の形成が切実に求められている。
オール・ニッポンとは、沖縄の翁長知事が、「イデオロギーでなくアイデンティティの問題だ」として、オール・沖縄を唱えたように、左とか右とかの違いをもって対立するのではなく、同じ日本人として、日本の「国の在り方」を先ず考える。そうすることでオール・ニッポンになろうということである。
立憲主義は、戦前の戦争の歴史を痛切に反省し二度とその道は歩まないという「国の在り方」を日本のアイデンティティとして示す。
立憲主義の重要な意味は、こうした日本の「国の在り方」を先ず考えようというところにある。
立憲主義をこのようなものとして理解し、そのことを強く打ち出してこそ、左も右もない、全国民的な旗となるのではないだろうか。
それは、「国民主権」の原理と結びついて、日本の主権者は日本国民であり、日本のことは日本国民が決めるという考え方を提示する。
安倍政治は「米国に言われて決める」ものになっている。安倍政治については、「戦争法、原発、TPP、辺野古、消費税、社会保障」が「五大問題」などと言われているが、これらは全て、米国の要求である。
立憲主義を、「国の在り方」を先ず考え、「日本のことは日本国民が決める」というものとして提示してこそ、安倍政治と鋭く対決することができ、国民的連合形成を促進できる。
次ぎに、衆院選で野党「統一」を選挙区だけでなく比例代表区でも実現するためには、国民連合のような「統一会派」の形成は必須である。
今の状況では、それは簡単ではない。だが参院選の過程で、「統一」の効果が示されるようになれば、その気運は盛り上がる。
立候補者も反安倍の運動の中で出てきた人望のある良い人を多く立てることが望ましい。
反安倍の運動の中には実に魅力的な人材が無数にいる。多くの学者、識者、女性、若者たち。そして、それを支持する歌手や俳優、有名人・・・。
北海道5区補選の池田まきさんのような過酷な生活体験をもった普通の庶民が多数議員になるだけで日本の政治は変わる。
これまでとは違う新しい思考と試み。そうした新しい政治への跳躍が期待される。
■新しい政治、新しい民主主義
今世界的に新しい民主主義を求めた動きが活発である。その背景には、グローバリズムの蔓延によって、各国の政治が「自国」に目を向けなくなったということがある。
政治はグローバル化した大企業・金融に、1%に奉仕するものになり下がり、99%には目もくれない。政党も軒並みグローバル政党となり、国と国民を思い、その声を国政に反映させるものは何もない。
「誰もみてくれない」「何も変わらない」という世界に共通する声。その諦めにも似た怒りの鬱積の中で、それならば「自分たちがやる」しかないとして主権者意識が高まり、新しい政治、新しい民主主義への切なる希求として噴出してきているのだと思う。グローバリズムではない政治を! 99%のための政治を! 自国第一主義の政治を!と。
その世界的な流れの中に日本もある。戦争法に反対するデモで目立った女性たち。「子供の貧困」が言われ、「食べさせられなくてごめんね」の遺書を残して心中するという現実。「託児所落ちた、日本死ね!」という言葉の背後にある、どうしようもない現実への怒り。デモに参加する全ての人の背後に、そうした現実がある。
SEALDsなどの若者の「政治なんてダサイと思ってきたが、いたたまれなくてデモに来た。そして、そこには仲間がいた」との言葉。誰もが悲惨にあえぎ、何とかしたいと思っている。俺達は「一人じゃないんだ」という思い。
「民主主義って、これだ!」という声には、そうした彼らの実感がこもっている。
そうした運動の中で、彼らは自らを副司令官と位置づけ、司令官である国民に服務し、知恵と力を尽くそうとしている。その姿勢には、仲間、同胞への、この国の全ての国民への深い思いが込められているように思う。
新しい民主主義。それは国民のための政治を求める、こうした様々な営為そのものの中にあり、それ自体が新しい民主主義なのだと思う。
新しい政治、新しい民主主義に向けた様々な試み。それが参院選の中でも試みられ、小さくてもよいから、その芽吹きを感じさせるものが作り出されれば、それが次のステップに向けた大きな飛躍台となる。その力は主権者としての自覚に裏打ちされた民意の中にある。
議論
今、「自国第一主義」が注目されている。米大統領選の共和党候補、トランプが「米国第一主義」を掲げたとき、少なからぬ人が奇異な感じを抱いたのではないだろうか。このグローバル時代に、しかもその本場でということだ。
しかしその後、この「自国第一主義」は、欧州などで急速にその存在感を増している。先のオーストリア大統領選では、「自国第一主義」を掲げた「極右」自由党のホーファー候補が二大政党の統一候補を追い詰め、わずか0・7%差、あわやというところまで持ち込んだ。
今日、「自国第一主義」と言えば、当然それは、グローバリズムとの関係でのことだ。実際、仏国民戦線(FN)党首、マリーヌ・ルペンは、この問題について、「これからの(政治の)対立軸は、『左か右か』ではない。各国で猛威を振るうグローバル化をよしとする政党か、国を守ることのできる政党かだ」と言っている。
■「自国第一主義」は古いのか?
「国を守るため」のルペンたちの政策、「自国第一主義」の政策は、周知のように、難民・移民拒否や欧州統合反対、EUの主権制限反対、・・・等々だ。一方、トランプの場合、当然それは少し違ってくる。難民・移民の拒否とともに、米国による国際的な資金拠出の拒否などが挙げられている。何で世界のために米国が金を出さねばならないのか。米国にそんな金はない。ということだ。
こうした「自国第一主義」の政策に対する世界の政界、メディア界などの評価は散々だ。概ね、異端の「極右」が「排外主義」「民族利己主義」を言っているといった印象だ。トランプに対しては、それが「内向き」とか、「孤立主義」「モンロー主義」などといった具合になる。
ここで改めて確認するまでもないだろう。「自国第一主義」は、国境を超えて広々と開かれた新しいイメージのグローバリズムに対して、全体的に国境の中に狭く閉じこもったイメージであり、復古主義的で古いという印象なのだ。
そこで問いたいことがある。グローバリズムに反対する「自国第一主義」は本当に古いのかと。
■グローバリズムこそ最悪の復古主義だ
グローバリズムは、第二次大戦から戦後、1970年代末にかけての民族解放闘争の大高揚とそれにともなう全世界的な植民地独立の嵐によって窮地に陥った米覇権の回復戦略の産物だ。
もちろん、ヒト、モノ、カネ、そして情報が国境を超えて自由かつ瞬時に往来する今日、グローバリズムが人々に現代の新たな支配的思想のイメージで受け取られてきたのは事実だ。実際、グローバリズムは、世界を股に掛けて儲ける多国籍大企業に求められているだけではない。多くの人々に世界に雄飛する夢を与え、各国がいがみ合い戦争にまで至るナショナリズムを超える期待を抱かせるところがあった。だがその一方、忘れてはならないのは、グローバリズムが流血の闘いを経て打ち立てられた新興独立諸国の主権を、国と民族それ自体を否定することによって否認しようとする悪辣きわまりない植民地回復、覇権回復の策謀から産み出されたものだという事実だ。
実際、グローバリズムは、これまで支配との闘いで勝ち取られてきたあらゆる保護と規制を否定し、人々をむき出しの弱肉強食、「自由競争」にさらす新自由主義、そして世界の軍事予算の4割を占める圧倒的な核軍事力格差とそれによる恐怖の世界支配をこととする新保守主義(ネオコン)と三位一体に米国による覇権回復を図る究極の覇権主義に他ならない。
今日、グローバリズムが持つそうした反動的本質は、金ぴかのメッキがはがれるごとく、誰の目にも明らかになってきている。国境無視のネオコン覇権戦争、反テロ戦争戦略の破綻と泥沼化、国境を越え、経済産業のあらゆる領域にわたる格差と貧困の際限のない深まりとそれに基づく出口の見えない長期経済停滞、この新保守主義、新自由主義、グローバリズムの三位一体の総破綻は、覇権時代そのものの終焉とともに、古い覇権回復のため掲げられたこれら究極の覇権主義の最悪の復古主義としての本質を顕わにしている。「自国第一主義」の台頭がこれと無縁でないのはもはや自明ではないか。
■「自国第一主義」と「新しい民主主義」
今、「右翼ポピュリズム」なる言葉が出回っている。「自国第一主義」と国民が自ら直接政治を握り動かし決める「新しい民主主義」の結合を指して言うのだそうだ。
実際、「自国第一主義」への国民的支持と共感の大きさはわれわれの想像を超えている。先述のオーストリア大統領選にも見られたように、それが国の政治を動かし決めるようにまでなってきている。米国支配層、共和党指導部寄ってたかっての「トランプたたき」にも関わらず、大統領候補指名の争いをトランプが制したのも、この国民的支持があったからこそだ。国民の圧倒的意思と要求の前に、党指導部も支配層もなす術がなかったということだ。
米国式民主主義史上かつてなかった「新しい民主主義」と結合していること、ここにこそ「自国第一主義」の「新しさ」の根拠があるのではないか。それは、「右翼ポピュリズム」などといった揶揄など吹き飛ばす力を持っていると思う。
ここで想起すべきは、こうした現象が欧米ばかりでなく、日本にも生まれているという事実だ。SEALDsやオール沖縄など「新しい民主主義」に支えられた「立憲主義」や「沖縄辺野古の闘い」は、日本のことは日本で、沖縄のことは沖縄で決める「自国第一主義」でなくて何であろうか。
■民意こそが新しい
「自国第一主義」が新しいのは、それがグローバリズムという最悪の復古主義との闘いの中から生まれてきたこと、さらには「新しい民主主義」と結合し、それに支えられて勝利してきていることからも十分に論証することができる。
しかし、ここではもう一歩踏み込んで、「自国第一主義」を求める民意自体の中に新しさを見て行きたい。すなわち、民意の中にこそ真理があり新しさがあるということだ。
そのように言えば、民意ほど当てにならないものはないと言う人が少なくないだろう。実際、あの「ゴーマニスト」、小林よしのりさんも、近著で「ヒトラーも大東亜戦争も民主主義が生んだ」と言っている。いや、ヒトラーだけではない。民意を利用しての独裁政治は今も続いている。一頃一世を風靡した「大阪維新の会」の台頭もその一例だと言うことができるのではないか。
こうした論議に対して言いたいのは、問題は民意自体にあるのではない、民意にどう対するかが問題だということだ。すなわち、ファシズムは、「嘘は大きければ大きいほどいい」(ヒトラー)などと、民意を自分の下に置いて騙し利用するところから生まれる。民意を自分の上、政治の最上位に置き、それに忠実であるところからは、国と国民のための最高の民主政治しか生まれない。
今日、米国では日米安保や在日米軍基地などにカネを使うな。もし日本がそれを望むのなら、日本に金を出させろというトランプの主張が「米国第一主義」として民意を得ている。これに対し、日米の政治家、評論家などは、何をとんでもないことを、全く政治が分かっていないなどと言っている。が、はたしてそうか。安保や基地による米覇権に利害関係を持っているのは、一部支配層だけだ。しかも、今やそれが「イラク」や「アフガン」など、米国にとって抜くに抜けない足枷になっている。
それは、たとえば日本の経済政策などについても言えることではないか。日本経済の格差と貧困、不均衡と停滞にもっとも切実な利害関係を持っているのは日本国民だ。米国の覇権の下でうまい汁を吸っている多国籍的で独占的な大企業やその周りで飯を食っている「有識者」などでは断じてない。彼らにとって、日本経済がどうなるかは二の次三の次だ。一番の関心事はどこまでも衰退する米覇権がどうなるかだ。だから彼らは、日本を米国とともに戦争する国にして米国を助けるのにあれほど熱心だったのだし、日本経済を米国経済に組み込むTPPやアベノミクスを陰に陽に支えているのだ。
今、もっとも問われているのは、民意にこそ日本をよくするためのすべてがあると絶対的に信じ、どうすれば民意を実現できるか、そこに全力を集中することだと思う。SEALDsは自らを副司令官に、人民を司令官に戴いて活動しているそうだが、それなどは、「日本第一主義」を最高のものとして実現する上で、もっとも強力な裏付けになるのではないだろうか。
時評
オバマ大統領のヒロシマ訪問のことだ。
朝日新聞によれば、日本各地で暮らす広島・長崎の被爆者へのメールでのアンケートに対し、9割が訪問を評価し、演説への評価も100点満点で平均72点をつけているとのことだ。
71年ぶりに原爆を投下した国の大統領が現地を訪問し、その惨状を伝える資料館を見て、原爆死没者慰霊碑に献花し、被爆者との対面を果たしたのだから、歴史的な一歩であることに間違いはないと思う。被爆者の方々にとって、現職の大統領の今回の訪問と「核なき世界」への努力を訴えた演説は、71年間の苦しみや恨みや怒りに一筋の陽光が差し込むものであったに違いない。
しかし、私はどうしても素直に今回のオバマ大統領の訪問とその演説を評価できない。私がよほどのあまのじゃくなのか、「人類の苦悩と希望を語った」「核を戦争の問題へ普遍化」「感動した」「素晴らしかった」と評価されている「広島演説」に対しても突端から違和感を覚えた。
演説は、「71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまった」から始まる。思わず、「その<死>を降らせたのは誰なのか。自分たちでしょ。なに客観的なことを言っているの!」と突っ込みを入れてしまった。この違和感は演説全体に一貫しており、「広島と長崎で残酷な終結を迎えることになった世界大戦は」とか「この空に立ち上がったキノコ雲のイメージの中で最も、私たちは人間性の中にある根本的な矛盾を突き付けられます」などなど、「残酷な終結」も「キノコ雲」も自然発生的に生まれたのではない。
つまりこの違和感は「それは誰によってもたらされたのか」という主語がなく、「人間」「人類」一般の話になっており、「戦争」一般の話になっているところにある。これを「哲学的に普遍化」したと評価するのか「人ごとのように語っている」「それを当事者の国のリーダーが言うのはおかしいでしょ」とムカムカするかは人によって分かれるところであろう。
言われているように、この演説が原爆投下への謝罪を良しとしない「米国民の世論」を考慮してのものであるとしても私は後者だ。何を客観的に偉そうなことを言ったり、謝罪もせずに被爆者の方を抱擁しているのか。どちらが謝罪すべき側であるのか全くわからない図だ。こんなふうにしか見れず考えられない私はやはり、よほどひねくれているのだろうか。
しかし、これについては式典に参加した「日本被団協」の事務局長・田中煕巳氏も「演説は理念として共感するものがあり、直後の記者会見では<素晴らしかった>と語ったが、その夜に演説を吟味して見解が変わった。核兵器廃絶を<願う>人には90点でも、核なき世界を<求める>人にとっては「具体性が乏しく0点に近い。」被爆者と抱き合う姿は「あたかも和解が成立したかのように受け取られることに憤りさえ感じる」と述べている。この記事にふれ少し安心した。
勿論日本は真珠湾攻撃で最初に攻撃を仕掛けたかも知れない。また中国や朝鮮を初めアジアの国々を侵略し甚大な人的物的被害をもたらした。それについての反省と謝罪は大前提である。しかし、米国との戦争で日本が受けた「非人道的」な被害については、それと相殺できるものではない。
■演説についての違和感は「人ごと」のように語られていることと共に、言葉だけの「きれいごと」であるというところにある。もし、アメリカの現実、オバマ大領領の現実が、この演説で述べていることと一致しているのであれば、私にももっと違った感銘を与え、素直な気持ちで受け入れることができたかも知れない。
オバマ氏が大統領になり、「核なき世界」を訴え、ノーベル平和賞を受ける根拠となった「プラハ演説」から7年。言葉だけでとったノーベル平和賞であったが、オバマ大統領は、それに値する足跡を刻んだのであろうか。
現在世界に15000発の核弾頭があると言われているが、ロシアが7500発、アメリカが7000発と二か国で9割を占めている。核廃絶を訴えるなら、先ず自分のところからであろう。しかし、オバマ政権下では、他国への核の不拡散は訴えても、自国の核はこの7年間で700発しか減らしていない。これは歴代米大統領中最低数である。また、今回の演説で「核保有国は核兵器なき世界を追求する勇気をもたなくてはならない」と言っているが、米国は「包括的核実験禁止条約」も批准していないし、核兵器の法的禁止を求める非核保有国の提案に全面反対している。
更に言行不一致も甚だしいのが、今後30年間で一兆ドル(約百十兆円)を投入して核兵器の近代化計画を進めているという事実だ。現有の核ミサイルをより小型化し新たな運搬手段によって機動性を高めるというものだ。これにより、「より大きな抑止力を持つようになり、限りなく核兵器を使わない世界になる」というのがその論理だ。この計画について、「ロシアに対抗するためと正当化しているが、核軍拡を招く。広島で何を言おうが、他国は米の計画に応じた対応をとるだろう」との警鐘が米国内からも鳴らされている。
また、核兵器の小型化(ヒロシマ型の2%の破壊力)により、「実際に使われる可能性が高まる」との認識も大統領や政府高官にはあるという。この計画が実行されることにより、国防費全体に占める核兵器の割合は、今後の15年間で現在の3%から7%に上がるという。
つまり、核兵器の近代化計画とは、従来よりも遥かに核兵器に依存した米軍をつくる計画に他ならない。オバマ大統領がプラハ演説でも今回のヒロシマ演説でも「核なき世界は自分が生きている間に実現できないかも知れない」と言うのも現実の話なのだ。
■そして最後の違和感は日米関係について述べた部分だ。
「米国と日本は同盟だけでなく、私たち市民に戦争を通じて得られるよりも遥かに多くのものをもたらす友情を築いた」。かつて敵国であった日米の和解。オバマ大統領に続いて演説に立った安倍首相も「日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気」とそれに呼応した。そして「日本と米国が力をあわせて(核兵器なき世界を実現し)世界の人々に希望を生み出す灯火となる」ことをオバマ大統領と共に決意していると語った。
しかし、現実はどうか。米国の核の傘の下にある日本。その「抑止力」に依存し生きているがために、唯一の被爆国としての本命を果たせていないのではないのか。先月スイスで開かれた国連の核軍縮作業部会でも、日本は非核保有国グループが提案した核兵器禁止条約交渉に「時期尚早」として賛同しなかった。米国との「同盟」「友情」を基軸に生きていく限り、日本は米国の「核戦略」に歩調を合わせるしかなく、「核兵器のない世界を必ず実現する」という安倍首相の言葉も空虚にしか響かない。むしろ、「同盟」と「友情」の象徴「集団的自衛権」により、日本が核攻撃の対象になる可能性が増大しているというのが現実ではないだろうか。
なぜ今回のオバマ大統領のヒロシマ訪問が実現したのか。
「核なき世界」というのはオバマ大統領の個人としての強い思いであることは信じたい。また任期を残すところ8カ月とし、核廃絶をうたった「プラハ演説」でスタートした大統領の仕事を「ヒロシマ演説」で終わらせるという構想であったのかも知れない。
しかし、もう一つどうしても考えてしまうのが、「日米同盟の強化」=「安倍政権の継続」を後押しするということだ。伊勢志摩サミットをホストとして成功させるという演出だけでも、安倍政権にとっては7月に控えた参院選の追い風となったであろう。それが、オバマ大統領のヒロシマ訪問となればその比ではない。
わざわざ安倍首相が記者会見を開いてその訪問を発表したり、オバマ大統領に寄り添ってヒロシマ訪問、そして日米の和解と同盟の強さをアピールする演説。政権浮揚(支持率のアップ)と中国や「北朝鮮」ロシアをはじめとする国際社会へのけん制を狙ったものとしか映らない。
その安倍政権の狙いを十分分かった上での、それがまた米国の利害と一致しているが故の今回の訪問であったのではないか。それは、安倍政権の継続=憲法改悪=米国と共に覇権国家・戦争の道に進む日本を意味する。
このように考える私にとって今回のオバマ大統領のヒロシマ訪問は、バラク・オバマ個人には深い「感動」や「感慨」を残したかもしれないが、米大統領の核による世界支配という「使命」とその立ち位置には1ミリのゆらぎもなく、だから一歩前進でもなんでもないと言わざるを得ないのである。
社会時評
沖縄20才女性惨殺事件は逮捕された元海兵隊員が巧妙に証拠を米軍基地内で隠滅し、また遺体が20日近く放置されて白骨化していたことにより捜査が難航しているようだ。しかし、供述などを総合すると、おぞましいほどにひどい。まず容疑者は凶器の棒や刃物などを事前に準備して計画的に犯行に及んでいる。そしてジョギング中の女性に背後から棒で殴りかかって抵抗力を奪い、性暴力を行使する前後に刃物で刺しているらしい。何と骨に何か所も刃物の切り跡がある。骨まで達する傷が複数あると言うのは強い殺意であり、たぶんそれが致命傷になったのだろう。遺体をスーツケースに入れて運び、人目に付きにくい山林に捨てたあと、そのスーツケースを米軍基地内のごみ処理場に捨てている。これも周到な行為だ。人間の生命を重視しない人殺し兵器と化し、また前後の手際も抜かりない海兵隊の本領が発揮されて、この前途ある若い女性の惨殺が実行されてしまった。
米軍基地があればこその事件(翁長知事の言)だ。ところがこの事件にさらにおぞましい言葉を投げかける連中が後を絶たないところに日本の深い病根がある。
神奈川の小島健一県議(自民)はこの8日、「沖縄で基地反対と言って毎日騒いでいる人たちがいる。基地の外だからキチガイ。」と発言した。障がい者差別と沖縄の人たちへの許しがたい侮蔑だ。さらに「沖縄の2新聞はつぶれたら良い」などとも暴言を吐いた。
そこへ輪をかけて乱入したのが橋下徹・おおさか維新前代表だ。「こういう事件の再発はきれい事で防げない。沖縄の米軍に風俗産業活用を勧めたのは撤回しないほうが良かった」などと暴言を重ねた。実に許しがたい。
そして沖縄の中にもトンデモナイ首長がいる。セルラースタジアムで抗議の県民大会が行われる予定に対して 豊見城市の宜保市長(自公推薦)が「高校野球が行われるセルラースタジアムで政治的な集会があると子どもたちの夢を壊す」などと、よそで開くように圧力をかけたのだ。
高野連又吉会長が「事件への想いは我々高野連も同じだ。県民大会に使ってください。高校野球は少し日程を組みかえれば影響はありません」と言ってくれているのに、横やりを刺した格好だ。「政治的な集会」とは何だ。「子どもたちの夢を壊す」のは集会ではなく、沖縄駐留米軍とそれを支持する宜保市長らであろう!たわけた暴言もいい加減にしなさい。
この連中に人間としての感性が大きく欠けていると思うのだがどうだろうか!?
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