議論 自衛隊に憲法を合わせるべきか、憲法に自衛隊を合わせるべきか
時評 小林節先生の大冒険、その意気や良し、しかし勝たなければ意味がない。
明治以降の「覇権国家」に終止符を
「愛国と信仰の構造、全体主義はよみがえるのか」(集英社新書、中島岳志、島薗進著)を読んだ。
ナショナリズムと宗教、この二つが全体主義を支え無謀な戦争に突入した戦前の歴史を日本は持っている。戦後70年を過ぎ、安倍政権下で再び似たような状況が生まれつつある。そのような危機感から生まれたのが本書だ。
日本は明治維新からもうじき150年を迎える。明治維新から敗戦までが75年、敗戦から現在までが70年あまり。近代日本は敗戦を境に75年で区切ることができる。本書を読んで興味深く感じたことの一つは、明治維新から敗戦の75年と、戦後の75年が「パラレル」に進んでいるという指摘だった。
75年を25年で3期にくくると、時代の「輪郭」がくっきりと浮かび上がるという。「富国強兵」にまい進し欧米の仲間入りを果たした明治維新から日清戦争までの25年間と、「戦後復興」から「高度経済成長」を実現した戦後の45年から70年頃(第1期)とが重なる。日清・日露戦争に勝利し「アジアの一等国」としての地位を確立した戦前の第2期と、高度成長から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」へと駆け上がった戦後の第2期もまた重なる。そして世界恐慌と関東大震災から戦争とファシズムの時代に向かう戦前の3期と、95年頃の阪神大震災やオウム真理教事件があり、バブル崩壊後の不況、社会基盤が崩壊した戦後の3期もまたよく似ている。戦前は「天皇機関説事件」によって戦前の「立憲主義」が死滅したと同じく安倍政権下で戦後の「立憲主義」の破壊が進むこともぴたりと重なる。問題は戦前と同じように今後の日本が「戦争の時代」に向かうのか、という点にある。
明治以降、戦前の日本の何が無謀な戦争へと向かわせたのか。その核に「天皇国体論」があったのは間違いない。戦後日本の平和と民主主義を危うくしてきたのは、安倍政権下で進む立憲主義の破壊を見れば明らかなように安保体制に起因する。そしてどちらも覇権国家という意味では同じだ。
本書の言うように戦前の「帝国主義の75年」と戦後の「安保体制・サンフランシスコ体制の75年」は確かにパラレルに進んでいる。しかし今の日本と戦前の日本とは決定的な違いがある。それは戦後の「安保体制の75年」に終止符を打つ「闘い」が今始まっていることだ。それは明治以降の「覇権国家」に終止符を打つ闘いでもある。戦前と同じ過ちを繰り返してはならない。
主張
政治と経済、国と社会のあらゆる領域にわたる出口の見えない停滞と混乱、混迷の中、今、日本においても、世界にあっても、政治のあり方、民主主義のあり方が変わってきている。
辺野古基地をめぐる「オール沖縄」の闘い、安保法制化に反対する「15年安保闘争」、そして野党統一候補が立てられた北海道5区衆院補選。明らかに、日本の政治はその様相を変えてきている。
それは欧米においても同様だ。旧来の二大政党制がその存立基盤を失い、各国各民族が主権や自己決定権を求めて、EUからの離脱、分離独立など、かつてなかった動きを強めている。
こうした変化には世界共通の一つの特徴があるように見える。それは、一言で言って、国民一人一人、各国各民族が、自分のことは自分で決めると、政治を直接自分の手に握り動かし決めるようになってきているところにあると言える。
この新しい政治、新しい民主主義は、まだ始まったばかりだ。これから、その深化発展のため、求められているのは何か?考えてみたいと思う。
■新しい民主主義は闘争の中から
新しい民主主義は、従来とは異なる新しい民主主義制度として確立されているわけではない。それはまた、これまでとは違う新しい政治、路線・政策として実施されてきているわけでもない。新しい民主主義は、今のところ、闘争の中で、これまでとは異なるあり方、やり方、等々として現れているだけだと言うことができる。
沖縄・辺野古の闘いは、国と沖縄県の非妥協的な対決が深まる中、最高裁判決へ委ねられた。だが、闘う側にとって、それは一つの戦術に過ぎない。たとえそれが敗訴になっても、判決に従って闘争がやめられることはない。「工事設計変更」届けを県として認めない、等々、闘いはあくまで勝利を目指し続けられていく。
反安保法制の闘いも同様だ。法案の国会通過をもって闘いは終わらなかった。同法の違憲、廃止を訴え、裁判や選挙、あらん限りの手段と方法を尽くして、勝利がどこまでも追求されている。
こうした新しい民主主義の闘いで何より顕著なのは、国民、住民大衆が、自分たちが選んだ政権や政党に政治を委せっ切りにせず、自分たち自身、直接政治を握り、既存の制度や秩序を利用しながらも、決してそれに縛られることなく、政治を動かし決めるのが、一つの「常識」として意識化され、生活化されてきていることではないだろうか。闘争の中から、闘争を通して生まれてきた、こうした新しい民主主義の意味は大きい。それは日本と世界の政治を変える力を持っている。
■時代の大転換と新しい民主主義
もちろん、新しい民主主義は、闘争さえあれば、いつでもどこでも生まれるものではない。そこには明らかに、今日の時代的な背景がある。
今、時代は大きく転換している。進行する時代の転換で大きな特徴の一つは、米国による覇権が目に見えて崩壊していること、そして、それに代わる新たな覇権の台頭が見られないことだ。
米国による覇権の崩壊は、今日、誰の目にも明らかな既成の事実となっている。では、それに代わる新たな覇権の台頭はあるのか。よく言われる中国か、それともロシアか。それがあり得ないのも、衆目の一致するところだ。中国やロシアには新たに世界を制覇し支配する理念もなければ力もない。
この覇権なき世界を動かす新しい力はどこにあるのか。そんなものはない、ないから「混沌」なのだという考えもあるだろう。しかし、「覇権力」にしか世界を動かす力を認められないというのは思考の貧困と言うしかない。そういう思考には、新しい民主主義などは「混沌」の一つの現れとしてしか映らないのではないか。実際、日本の言論界、マスコミ界などでは、新しい民主主義を指して、「ポピュリズム」や「極右」の台頭など、政治の混迷を示す言葉が飛び交っている。
だが、新しい民主主義を生み動かしているところに広範な国民大衆の意思と力が働いているのは誰も否定することのできない事実だ。それを「ポピュリスト」や「ファシスト」によって扇動された無知蒙昧な群衆心理のようなものと見れば、新しい民主主義も一つの「混沌」にしかならないだろう。
しかし、今日、洋の東西を問わず、新しい民主主義を生み動かす国民大衆の意識には、政党、政治家に動かされるというより、逆にそれを動かす強い主権者意識がある。それが「オール沖縄」や「立憲主義」の意思となり、「欧州統合」や「台湾併合」に反対する意思として現れている。
この主権を求める各国国民の民意が覇権国家に代わって世界を動かす力になっている歴史の新時代、民意の新時代こそが新しい民主主義の背景にあると言うことができるのではないか。
■新しい民主主義に問われていること
覇権から民意へ、この時代の大転換にあって、政治のあり方、民主主義のあり方は、その様相を大きく変えてきている。だが、それはまだ緒についたばかりだ。前途に横たわる壮大な変革と転換を前に、何が問われているか考えてみたい。
国民大衆が直接政治を動かし決める新しい民主主義の全面開花に向け、何よりも問われているのは主権問題だ。崩壊する米覇権の最後のあがきが強まる中、日本にあっても、この主権問題が焦眉の課題になっている。
そもそも、民主主義とは国民大衆による主権の行使だ。国家主権、地域主権、国民主権が確立され、国と国民、地域と地域住民、そして一人一人の国民大衆がそれを自主、自治、自決で行使できるようになってこそ、人民による政治、民主主義は実現されようになる。米国言いなりに日本を「戦争する国」に落とし込む最悪の対米従属政権、安倍政権の安保法制化に反対して、政治の基準を日本国憲法に置く「立憲主義」が掲げられたのは、この主権問題解決で大変意義深いことだと思う。
国と地域、各人が互いに対立することなく、協調、協力して問題を解決して行くためには、日本全体が一つの共同体になる必要がある。沖縄・辺野古問題のように国と自治体が対立していては、新しい民主主義も実現できない。
もともと、民主主義とは共同体の政治だ。互いに異なる諸個人が共通の利害関係を持って共に生きる共同社会の政治を行うための理念、方法として民主主義がある。辺野古問題をめぐり国と沖縄が非和解的に対立する日本、共同体が崩壊し、人々がバラバラになった今日の個人主義社会、日本で民主主義をやっていくのは容易でない。イデオロギーではなく、「沖縄人」としてのアイデンティティに基づく「オール沖縄」の闘いから、新しい民主主義が生まれてきたのもそのためではないだろうか。
主権の確立と共同体の形成、新しい民主主義発展のためのこの二大課題が、米国言いなりの安倍政権に反対する闘争を通して、その解決の緒につくようになったのは決して偶然ではない。それは、安倍政権を通じて押しつけられてきている米覇権が、主権はもちろん、国と民族そのものまで否定するグローバリズムに基礎しているからに他ならない。
その上で、新しい民主主義が日本政治にしっかりと根を下ろすためには、これまでになかった新しい政治路線と政策の確立が必要だ。今、新しい民主主義にはこれがない。新自由主義、グローバリズムなど、覇権の政治とは根本的に異なる、まったく新しい路線と政策が創造されていない。
新しい民主主義の深化発展のため決定的なのは、そのための闘いを国民大衆の先頭に立って推し進めるこれまでの党とは違う新しい党の構築だ。
古い民主主義にあって、その発展のため、党が作られた。国民大衆を啓蒙し、各種民主主義運動に導く上で党は決定的な役割を果たした。しかし今日、民意の新時代にあって、新しい民主主義の発展を国民大衆の先頭で担う新しい党は古い党とはまったく違うものにならなければならないだろう。それは、国民大衆を啓蒙するのではなく、国民の間に広く議論を創り出すことにより、国民大衆自身、自らの意思と要求を自覚し、それを集大成して新しい政治思想と路線、政策を打ち立て、それを執行していくのに服務する党になることであり、国民大衆を自らの下に結集し組織するのではなく、国民大衆と渾然一体に、国民大衆自身が自らの組織、自らの共同体をつくっていくのに服務する党になることだ。 そのために、この新しい党にもっとも切実に問われているのは何か。それは、政治の主体、民主主義の主体にあくまで国民大衆を戴き、自らはどこまでもそれに服務する思想観点ではないかと思う。
研究
3月18日、朝日新聞で「憲法の条文と実態が明らかに相反していて、現状を維持する必要があれば憲法を改正しなければ法治国家とはいえない」という主張があり、これにたいする賛否の意見が掲載された。
また、安倍首相は、「憲法学者の9割が、9条の解釈からすれば自衛隊の存在自体が憲法違反のおそれがあると判断している。・・・この状況をなくすべきではないかという考え方もある」(2月衆院予算委員会)と、自衛隊違憲説があるから自衛隊を認める憲法に改憲すべきだと言っている。
自民党政治家、保守系評論家が声をそろえて、「憲法が間違っている。自衛隊に合わせ憲法を変えるべきだ」と発言するのが、最近目立ってきている。
確かに、誰が見ても陸海空軍と20数万の兵力を有する自衛隊の実態は憲法の条文と乖離している。では、自衛隊の実態に合わせ憲法を変えるべきなのか。
自衛隊の実態と憲法の条文がなぜ相反するようになったのか?
周知のように憲法9条2項は、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」となっている。
ここでいう「戦力」について、国内の治安維持に必要な程度の警察力と区別され、この程度を超えたものが戦力であって、現在の自衛隊はこの意味の戦力に該当するとされるという説が多数を占めている。常識から考えても国際的な理解からもそうであろう。
しかし、この憲法のもとで、自衛隊の前身「警察予備隊」が発足したのは1950年7月8日。憲法施行後3年目だ。マッカーサーによる7万5千人の警察予備隊設立と海上保安庁定員の8000人増加という指令にもとづき、政府により警察予備隊令が公布され、発足した。
警察予備隊の装備は、米軍から供与されたカービン銃、機関銃、迫撃砲、戦車(特車と呼ぶ)、りゅう弾砲などで、占領していた米軍歩兵師団に相当する4個師団で編成された。単なる警察ではなく軍隊なのは明らかだった。憲法の戦力不保持と抵触するため「警察予備隊」と命名し、あたかも警察力であるかのように見せる偽装作戦(カヴァー・プラン)が実施された。
警察予備隊は52年に保安隊に、54年に陸海空軍を備えた自衛隊に改編、強化され、今日に至っている。自衛隊を発足させるに際し自民党政府は、自衛隊を警察力と戦力の中間にある「必要相当な範囲の実力部隊」=「防衛力」と言い、「戦力」でないので合憲だ(大村防衛庁長官)と正当化した。つまり、この60余年間、自民党政府は自衛隊をあくまで自衛のための「防衛力」であって憲法上「戦力」でないとし、合憲だと強弁し軍備拡張してきた。
ところが、今日に至り、自衛隊の存在と「戦力」の保持を禁じた憲法とが相反しているゆえ改憲せよと、開き直ってきている。それが、自民党改憲草案にある、2章の題目「戦争の放棄」を「安全保障」に変え、2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を削除し、代わりに国防軍を保持するとした。
自民党改憲草案について、「一番感じたことは、自民党の憲法改正草案には過去の反省がないことだ。平和を守る決意がないことだ。」と、朝日「声」欄でK氏が指摘している。正鵠を射た指摘ではないだろうか。
現憲法は「自衛」の名による戦争を放棄し、再び戦争をすることがないようにした。ここに日本の平和を実現し、世界平和に寄与していく憲法の画期的な意義がある。
自衛隊に合わせ改憲すべきだというのは、過去の教訓を忘れ去り、日本の国是であり宝とも言うべき平和憲法を投げ捨てる行為に他ならない。
自民党政権や保守系評論家は、中国や「北朝鮮」が挑発し、侵略するかもしれないから、改憲し自衛隊を国防軍にすべきだと言う。それは、かつて侵略戦争をおこなったのと同じ論理だ。中谷防衛大臣は相手国を事前に叩け、米軍の要請ならペルシャ湾まで出かけろと言っている。西部邁などは、「自衛」のために相手国に攻め込んでも構わないとまで言っている。
戦前への逆もどりだ。いや、アメリカに従って中国や朝鮮と交戦するアメリカの侵略戦争に荷担するのだから、もっと悪い。しかも朝鮮や中国はかつての植民地国ではない。核で武装した軍事強国になっている。かつては焼夷弾で焼け野原になったが、今度は日本全土が核爆弾の被害をこうむるかもしれない。核攻撃を受けなくても54基ある原発を攻撃されれば日本は壊滅する。
■だから、自衛戦争を禁じた憲法が必要
どの国も侵略を行うと言って侵略し、戦争をするのではない。皆、「自衛」を口実にしている。かつての日本軍国主義がそうだった。だから、現憲法が貴重なのだ。
現憲法は、前文「われらは、いずれの国家も、自国のことのみ専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信じる。」と、各国の主権を尊重し、自国が平和主義を徹底的におこなっていくことによって、自国の平和を確保し、世界平和に寄与していくという「自国平和主義」を明らかにしている。
九条はその具体化として、かつて自衛という口実で侵略戦争を引き起こした教訓から、たとえ自衛戦争、制裁戦争という正義の目的であれ、戦争を放棄する、そのための戦力を保持しない、交戦権を否認するとした。
前文と九条の平和主義に徹し、他国の主権を尊重し、他国との戦争をおこなう武力をもたず交戦権を持たなければ、戦争をおこなうことがない。
ところで、憲法は自衛権を認めている。すなわち、日本が侵略されれば自衛権を発動させ、侵略軍と戦い独立と安全を守っていかなければならない。
だとするならば、憲法が保持を禁じている「戦力」と別に「自衛のための武力」をもてることを明確にしなければならないと思う。
このことは、いわゆる芦田修正で明らかにされている。「第九条第2項の冒頭に『前項の目的を達するため』という文字を挿入したのは、私の修正した提案であって、これは両院でもそのまま採用された。従って戦力を保持しないというのは絶対ではなく、侵略戦争の場合に限る趣旨である。・・・私の主張は憲法草案の審議以来一貫して変わっていない。新憲法はどこまでも平和世界の建設を目的にしたものだから、われわれが平和維持のために自衛力をもつことは、天賦の権利として認められているのである」。(毎日新聞1951年1月14日)
九条を憲法の平和主義原理としてとらえ、その下で「戦力」についてもどこまでも自衛のための最小限の武装力を認めているとするのが、憲法を具現した自衛にたいする考え方だ。つまり、国際紛争を武力行使で解決していく「戦力」をもつのはだめだが、自衛のための最低限の武力をもつことはできる。けっして「戦力」一般の保持を禁じているのではない。
国民の多くが容認している自衛隊は、当然のことながらアメリカと共に戦争する軍隊、侵略軍隊としての自衛隊ではない。真の自衛のための自衛隊だ。一方、多くの国民は平和憲法、九条を断固支持している。すなわち、国民にとって自衛力も必要だし、平和憲法、九条も必要だということである。
ということは、国民が求めているのは、平和憲法に合致する真の自衛のための自衛武力だ。
ここで問題となるのは、「戦力」と自衛のための武力の区別をいかにするかだ。
「自衛」の名で侵略し他国と戦争をする場合と、真の自衛のための場合とを区別する明確な界線が必要だ。
■自国領域を防衛線とし、域内侵略を撃退する撃退武力
侵略戦争か自衛戦かの界線は、どこに防衛線をひくかで決まる。かつて日本は朝鮮半島、満蒙を生命線とし防衛線を引き、アジア侵略戦争を拡大していった。防衛線を徹底して自国領域内に限れば、その戦闘は撃退戦に終始し、「自衛」の名による相手国との交戦、すなわち戦争になることはない。
自国領域内から出ず、ただひたすら撃退していく撃退武力のみが、国際紛争の解決の手段として武力行使する「戦力」でなく、「交戦権」を行使しない自衛武力だ。つまり、撃退武力が憲法九条を具現した自衛武力だということができる。
しかし、今の自衛隊は他国を攻める武力、すなわち「戦力」まで備えている。しかも、1996年の「日米安保再定義」にて、防衛線を「アジア・太平洋地域」とし、そのために「日米防衛協力のためのガイドライン」が見直され、日本側は「周辺事態法」を制定し、アジア・太平洋地域での軍事活動を法的に整備した。
さらに、昨年のガイドライン見直しと安保法制は、ペルシャ湾であろうと「地球の裏側」であろうと、米軍が要請するなら自衛隊がともに他国領域に入り、戦争をおこなえるようにした。
今の自衛隊は、日本の自衛のための武力ではなく、アメリカの先兵として他国と交戦する侵略のための戦力になっているといえる。
日米安保基本の交戦武力、戦力化した自衛隊に憲法を合わせるのではなく、憲法に自衛隊を合せることが、国民の要求であり、日本の自主と平和、世界平和に寄与していく道ではないだろうか。
時評
元右翼を自称する小林節・慶応大学名誉教授がついに選挙向け新党構想を発表した。「国民怒りの声」というストレートなネーミングもさることながら、基本政策がとても重量感があるのだ。
1、言論の自由の回復(メディアへの不介入)
2、消費税再増税の延期と行財政改革
3、辺野古新基地建設の中止と対米再交渉
4、TPP不承認と再交渉
5、原発の廃止と新エネルギーへの転換
6、戦争法の廃止と関連予算の福祉・教育への転換 /憲法改悪の阻止
7、改悪労働法制の改正等により共生社会の実現
これ以上望めないほどの超「基本政策」だ。
民進などの野党でここまでキッパリ主張し切っている党もない。しいて言えば共産党だが、残念ながら多数をとれない。その理由分析は省く。共産党の路線で多数が取れるなら、そして差別問題への取り組みがあれば私は青年時代に入っていた。
■野党からの批判は的外れで、自業自得
それはともかく、民進党の幹部は「票が割れる」など困惑の様子だ。他の野党からも「統一名簿なら良いのだが」とあまり好意的ではない。
憲法改正論者だったはずの人が「憲法改悪阻止」と断言した。「革命は悪くない。アメリカ独立戦争は英訳ではアメリカンレボリューションです」と言ってのけるほどの変貌を示しておられたが、ここまでキッパリした基本政策を発表された事に大きな敬意を表する。
「票が割れる」とか「統一名簿なら」という批判はあるだろうが、小林先生は「野党の結集」をずっと訴えてこられた。参議院選挙が始まるまで1か月のこの時期に至っても統一名簿作りの努力が実っていない事にこそ問題がある。
さて小林先生の記者会見には元・民主党代議士も同席しているのだから、このシンプルかつ、日本にとって最重要な7つの基本政策に賛同する政党が最初は少しずつ、やがては雪崩的に合流し、その雪崩の巨大パワーで無党派票を掘り起こし、自公連立最悪政権を打倒することが必要だろう。それぞれ善戦しましたね、あと一歩でした、では国民生活もお先真っ暗になってしまうのだ。今後残り少ない時間でこの一見無謀な冒険が実ることを期待したい。
■小林先生の一石を中央突破のエネルギーに
愕然とするべきは革新政党だ。ある戦闘的労組の幹部と話したら、「わし、小林先生に入れようかと思てますねん。」とおっしゃるではないか! その組合などは社民党を応援してきたし、今回は福島みずほさんが「個人名で投票できる全国比例代表」にチャレンジするのだが、近年党勢の衰えで大変厳しい情勢になっているのだから由々しき事態だ。
強力な野党共闘の推進、そして統一名簿の完成を目指しつつも、それらができない事態を想定して、死力を尽くして告示までの期間を走り抜くしかない。選挙と言えば参議院選挙投票は7月10日が本命だが、多くの人が理解していないのが「告示の6月22日にはほとんど勝負がついている」という事だ。つまりあと1か月しかない。それまでにやるべきことをやっておく事が何より重要だ。都道府県単位での選挙区候補、党名か個人名で投票できる全国比例代表、この2つの票を有効に確定し、生活破壊と戦争推進と売国TPP推進、憲法改悪、ナチス的全権委任暴虐政治をもくろむ自公連立安倍政権を倒せるかどうかがこの1か月にかかっているという事だ。失敗したら自分の命が無くなるぐらいの意気込みで政治の季節を生き抜くよう、お勧めしておこう。
時評
「米国が日本を守っているのだから、日本はその経費を負担すべきだ」。共和党の米大統領候補指名を確実にしたトランプ氏の過激な発言が同盟国(日本)へ波紋を広げている。「日米安保条約をもう一度よくお読みいただきたい」、訪米先のシンポジウムで石破茂地方創生相の発言は、その危機感の現れだ。
アメリカ側からすればこのトランプの発言はある意味わかりやすい。おそらくアメリカの国民は日本に駐留する米軍は日本防衛のためにあると信じているのではなかろうか。トランプ氏が米軍駐留経費について「米軍を受け入れている国々が全額負担すべきだ」と持論をエスカレートさせたのは、「選挙戦術」としても成功している。
安保条約はこの問題をどのように規定しているのだろうか。恥ずかしい話だが、わずか10条からなる安保条約をきちんと読んだことがないことに改めて気づいた。そのもっとも重要な日本防衛の部分は第5条と第6条だ。以下に掲載する。
第五条
「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従って直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない」。
第六条
「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される」。
トランプ氏の発言を受けて、元外務省国際情報局長の孫崎享氏はこう反論する。
「米軍の駐留で日本の平和と安全が保たれるかのようなロジックがまかり通っていますが、米軍が居座るのは米国の利益のため。1951年に日米安保条約をまとめた米側責任者のダレス元国務長官は〈安保条約で米国は日本防衛の義務を何ら負っていない〉と明言していますし、武力行使には議会の承認が必要です。そもそも、思いやり予算(在日米軍駐留経費負担)を支払うのも筋違いで、日米地位協定24条で経費負担は米国がすると定めています」
第5条を読むと、「いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処する」とある。自明のことだが、この場合の「自国の平和と安全」とは、アメリカとっては米国の「平和と安全」であって、日本の平和と安全とは書いていない。日本領土への武力攻撃があれば自動的にその「防衛の義務を負う」という文言もない。とりわけここでアメリカが留意したのは、駐留米軍に対する武力攻撃があった場合なのだろう。
■駐留経費負担率は韓国、ドイツの2倍
第6条に規定するように、安保条約が日本に求めているのは「基地」の無償提供だけだ。そもそもなぜ米軍は日本の領土に駐留するのか。日本国民もほとんどの人が日本の防衛のためにと信じ込まされている。何よりもおかしいのは、日本の領土を利用している米軍は日本の防衛のためにではないことは、かつてベトナム戦争や朝鮮戦争を見れば明らかで、日本はその後方基地あるいは出撃基地としてさんざん利用されてきた。もし日本防衛のためというなら日本の基地が他国の戦争に利用されることがあってはならないはずだ。
付け加えるなら、日本防衛のためという論理は日本にとってもアメリカにとっても都合がよい。アメリカは日本防衛と言う名目でその駐留負担を日本に求めることができる。日本もまた、巨大な米軍基地に苦しむ「基地の島」沖縄の人々に、「国益のためだから我慢してほしい」と基地負担を押し付けることが可能になる。
駐留米軍は日本防衛のためではない。にもかかわらず、思いやり予算はどんどん増額され、米国の要求はひどくなる一方だ。 日刊ゲンダイによると、光熱費や基地従業員の人件費まで含めて、16年度からの5年間で総額9465億円(年平均1893億円)。用地借り上げや周辺対策費などを含めた15年度の関連経費は5778億円に上り、米軍再編経費なども合わせると7200億円を超える。日本の高負担率は関係各国の中でも突出している。米国防総省が04年にまとめた報告書によると、日本は米軍駐留経費の74・5%を背負い、韓国の40・0%やドイツの32.6%とは比較にならないという。
駐留経費はそのことによって利益を受ける側が支払わなければならない。これは当たり前だ。アメリカは基地の無償提供を受ける。なぜ無償なのか。アメリカの戦略に基づく駐留だからだ。つまり米軍の日本駐留で利益を得ているのは、その基地を「無償」で使っている米軍側なのだ。日本側はアメリカに無償で基地を提供してあげている。本来なら「有償」で使用料をとってもいいはずのものだ。
もし駐留経費を払えというなら、「どうぞ米軍は撤退してください」と堂々と言い渡すべきだ。
一般家庭向け電力自由化が始まって1か月半たった。読者の皆さんはどこを選んだだろうか。昨日、居住するマンションに関電が見積もりを送って来た。夜の電力の有効利用で共用部分の電気料金が年間4万円ほどお安くできます、と言う。あれ、大津地裁で高浜差し止め判決が出たのに逆切れして、「それでは電気料金値下げは中止! 将来は値上げも」と言っていたのに。高浜・美浜・大飯と関電管内は原発ゼロだ。差し止め命令や、事故、点検が原因なのだが、とにかく脱原発状態でも工夫すれば電気料金値下げができる証明だ。
原発を稼働させないと電力不足になるとか、燃料費がかさんで利用者負担増につながるなどと言っていたのがデマであることを自ら明らかにしてしまった。一方では「脱関電」がまだまだ普及していないのにつけ込んで「新電力つぶし」の攻勢に出て来たとも考えられる。しかし、関電さん、あがいても無駄だ。会社を救う道は「3原発即時廃炉、脱原発への転換」しかない!
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