研究誌 「アジア新時代と日本」

第154号 2016/4/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 「トランプ」現象にどう向き合うか

議論 立憲主義こそ愛国

時評 「アメリカ軍へのヘイトスピーチ」などあり得ない

寄稿 これらのデモは散発的なムーブメントである

東京脱原発集会に3万5000人

公開学習会 沖縄・辺野古の最新情報




 

編集部より

小川淳


 安倍退陣へ、カウントダウンが始まった
 ノーベル賞経済学者が「消費税10%の見送り」を安倍首相に提言し、永田町で「衆参ダブル選」ムードが急拡大しているという。参院選単独では苦しくても、消費税10%の先送り、野党の共闘体制が整わない間に、衆院解散、衆参ダブル選にすれば勝てる。自民はそう見ているようだ。過去2回行われた「ダブル選挙」で、自民党は圧勝しているからだが、もうこの手は通用しない。
 まずは「野党共闘」だ。参議院では野党の一本化が進んでいる。共産党は野党5党の幹事長・書記局長会談の場で、衆議院でも候補者擁立を見送る用意のあることを明らかにした。野党共闘の一環として、衆院選小選挙区についても候補者を取り下げる方針だという。2014年衆院選の得票で計算すると、少なく見積もっても59選挙区で野党5党の得票が自公候補を上回っていたという。
 参議院選挙での野党共闘の成否のカギを握るのは、4月24日の北海道5区と京都3区の「二つの補選」だ。京都3区で勝算なしと擁立を見送った自民は、北海道3区では亡くなった町村信孝議員の娘婿を擁立し、背水の陣を敷く。もしここで敗北すれば野党共闘に大きな弾みがつく一方、自民・安倍の「楽勝ムード」に衝撃が走るだろう。
 安倍政権の頼みの綱である経済でも「好材料」は見当たらない。前二回の「ダブル選圧勝」の追い風となったアベノミクスの破綻が誰の目にも明らかとなったからだ。下がり続ける株価、上昇に転じた円相場によって大企業や富裕層への株高・円安の恩恵も一気に吹き飛んだ。勤労者の実質賃金は減り続け、個人消費は冷え込んだままだ。成長率や景気のすべての指標がアベノミクス以前へしぼみ始めている。
 安倍首相にとって最大のネックは「消費税」だ。「リーマンショック」並みのことがない限り、「必ず実行する」と公約して消費税10%を先送りし解散総選挙まで行っている。いまさら「やめた」とは言えない。しかし消費税10%に踏み切ると冷え切った日本経済はますます疲弊する。もともとアベノミクスによる経済の力強い回復こそ消費税10%の「大前提」だった。そのアベノミクスの破綻が現実のものになった今、増税には踏み切れないし、一方、消費税を見送れば「アベノミクス破綻」も自ら認めることになる。安倍首相にとってもはや逃げ道はない。
 安倍退陣へ向け、天下分け目の闘いが始まっている。日本の未来のためにこの時を逃してはならない。当事者は私たち自身である。



主張

「トランプ」現象にどう向き合うか

編集部


 さしもの「トランプ旋風」も、どうやら潮目が変わったようだ。米支配層、寄ってたかっての「トランプたたき」は、直近、ウィンスコン州での「クルーズ大勝」で「成功」する雲行きだ。
 もちろんまだ、もう一つの「異変」、「サンダース現象」も残っている。こちらは、このところ連戦連勝だ。だからまだ、決まったわけではない。
 だが、もう4月。参院選、いや衆参同時選?のこともある。日本にとっても、これは「対岸の火事」ではない。だからこの辺で「中間総括」。あくまで日本主体の立場から、この「現象」に向き合っていく必要があるのではないか。

■「トランプ失速」、その真相は?
 この間の「トランプたたき」はすさまじい。と言うより、異常だ。ローマ法王から米大統領まで、総出演だ。
 こんなことはかつてなかった。米大統領選史上、初めてのことではないか?とにかく米支配層、いや世界の支配層まで、寄ってたかってのトランプいじめだ。
 初めは、彼らもタカをくくっていたに違いない。レースには先行馬は付き物。よくあることだ。だが、この「先行馬」、普通でなかった。
 だから、米共和党主流、指導部、陣頭に立っての「トランプたたき」と相成った。だが、それにしても、なぜ彼らはトランプをかくも必死に落とそうとするのか?トランプの何が悪いのか?
 そこでよく言われるのが、「トランプでは、クリントンに勝てない」だ。共和党指導部としては、それもあるかもしれない。しかし、ならば、民主党大統領、オバマがトランプをたたくのはなぜか?トランプが「外交も世界情勢も知らない」政治音痴だからか?米大統領としての資格がないということか?
 ならば聞きたい。「米大統領の資格」とは何なのか?米国民の意思を体現し代表するということか?そうではないだろう。それははっきりしている。彼ら指導層が要求しているのは、この大統領として一番大事であるはずの資質ではない。それが今回、「トランプ現象」で明らかになった。
 彼ら、支配層、指導層がたたいてもたたいても、トランプ人気は落ちなかった。落ちないどころか、かえって高まった。彼らにとってこれほど深刻なことはなかったはずだ。彼らが米国民の間で権威がないどころか、反発さえ受けている。彼らの意思、彼らの要求が国民の間でまったく相手にされなかったのだ。にもかかわらず、彼らは「たたき」をやめなかった。トランプが国民の意思を代表しているか、その支持を得ているかなど関係ない。むしろその逆なのかもしれない。
 指導部に見放されようが、たたかれようが落ちる気配も見せなかった「人気」に、今、陰りが差している。それは、何によるものか?共和党主流、指導部が「反トランプ」をクルーズに一本化したからか?それもあるだろう。しかし、決定的なのは、女性の妊娠中絶に対する「懲罰」発言や暴力扇動など、トランプ自身の反国民的暴言、失言の数々、それをことさらに挑発し暴き出す支配層、指導層の策動ではないか。そのため今、女性の7割が「反トランプ」になってしまったと言う。

■国民が何を求めているか、それで決まる
 米国の政治を実際、握り動かしているのは米国の支配層、指導層だ。決して米国民ではない。「トランプ現象」への彼らのあわてぶりと介入、それにともなう「現象」の「失速」は、米国式民主主義の何たるか、その本質を露呈したと言える。
 しかし、一方、この間の米国政治の一大異変、「トランプ現象」が、「サンダース現象」とともに、この米国式民主主義の崩壊と国民が直接握って動かし決める新しい民主主義の台頭を全世界に印象づけたのも事実だ。
 そもそも「トランプ現象」は、米国民による「政治家」拒否、「非政治家」要求から始まった。米大統領選・共和党候補の自他共に許す大本命、「政治家」の典型、ジェブ・ブッシュの大低迷とそれに代わる「非政治家」、不動産王、トランプや弁護士、カールソンなどの躍進だ。その背景には、米国の政治を変えることを要求する米国人66%、このままでよいとする人28%という、圧倒的な現行米国政治そのものへの拒否があった。
 こうしたトランプやサンダースの「現象」に見る米国政治の転換、それは何よりも、古い米国式民主主義の衰退と国民自身が決める新しい民主主義の台頭、すなわち「民主主義の革命」の進行だと言えると思う。
 実際、トランプもサンダースも便宜上、共和党、民主党の地盤、看板を借りているだけだ。そして、その地盤自体も大きく地殻変動している。そこには1%のためではなく99%のための政治を要求する米国社会の構造変化、二極化が反映されている。トランプやサンダースが白人や黒人、ヒスパニックなど従来の枠を超えて99%の側に依拠する中、これまでの古い二大政党制、米国式民主主義に代わる新しい民主主義が彼らによって体現されてきている。
 その一方、古い米国政治、米国式民主主義の矛盾の露呈、腐敗と衰弱がすさまじい。それは、大統領候補者選び自体の低俗化、低劣化にも如実に現れている。政策論争ならぬ個人的誹謗中傷合戦の横行、「政策などどうでもよい」大統領選のお笑い番組化、ドッグレース化が進行している。

■米国そのものが審判にかけられている
 米国の政治、民主主義自体を変えることへの要求、それは、8年前、オバマ登場のときから始まっていた。しかし、「CHANGE」は起こらなかった。「トランプ現象」は、それへの国民的怒りの噴出だと言えるのではないか。
 それは、単純な格差への批判ではない。また、民主主義のあり方自体への批判にも止まらない。それはさらに、米国政治そのもの、その全体への批判だ。
 オバマはトランプのことを「外交も世界情勢も分かっていない」と批判した。だがそれは、的を射たトランプ批判になっていない。何故なら、外交や世界情勢への米国政治の「常識」は、それ自体、米国民の大多数に拒否されているからだ。
 トランプの難民・移民拒否や「世界の警察官」拒否、TPP否定、日米安保破棄など、一連の「内向き」発言は、これまでの米国政治から見れば、「非常識」かもしれない。だが、今の米国民から見れば、きわめてまっとうな「常識」に他ならないのではないか。何でそんなところにカネを使うのか。国内で使わねばならないところはいくらでもあるだろう。ローマ法王やオバマ、米共和党指導部の批判があればあるほど、トランプ人気が上がった秘密もまさにここにあったと言える。
 重要なことは、米国の覇権政治それ自体、もっと言えば、米国の覇権的あり方そのものが米国民によって拒否されているということだ。
 米支配層、共和党指導部の常軌を逸した「トランプたたき」がどこから来ているか、今や一層明らかなのではないだろうか。

■どこまでも日本主体の立場から
 米覇権の衰退と崩壊、その覇権経済や軍事の弱体化の根底には、米国民自身の覇権国家、米国への拒否がある。それは、イラクやアフガンへ派遣された兵士たちの疑問や精神異常、反戦行動などに現れているだけではない。それは何よりも、「トランプ現象」に顕著ではないか。
 この「トランプ現象」にどう向き合うか。すでに今日、日本の政治にも「異変」が起きている。それは、安倍政権への批判がその「対米追随」への批判に集中されるというかたちで現れている。マスコミなどに見られるこの傾向は、単純な米覇権力の低下、タガのゆるみの反映ではない。「トランプ現象」などと連動する日本主権への志向の強まりとして見ることができるのではないか。このように、「現象」にどこまでも日本主体の立場から向き合うということ、すなわち、それを参考に、あくまで日本の現実から出発するということが重要だと思う。
 「トランプ現象」には、覇権時代の終焉、覇権の政治、軍事、経済の破綻、その思想、政策としての新自由主義やグローバリズム、ネオコンの破産、等々、古い政治の崩壊とそれに代わる新しい政治、新しい民主主義の誕生など、対米従属の覇権時代の産物としてある日本の政治、経済、軍事、そして社会の現実変革へのヒントに満ちている。
 またそれは、今進行する「トランプたたき」「トランプ現象潰し」に対しても言えると思う。今日、政治を決めるのは国民だ。民意が政治を決める。だからこそ、肝に銘ずるべきだ。安倍政権打倒の鍵は、一にも二にも三にも国民の要求、民意の要求に応えることだと。



議論

立憲主義こそ愛国

東屋浩


 参院選の一つの大きな焦点に、「改憲か、立憲主義か」がなっている。改憲勢力にとっては、今回の参院選で自・公などが81議席さえ確保すれば、改憲の発議をおこなうことができる。それゆえ、安倍首相は改憲について幾度も言及している。一方、「市民連合」や野党は違憲の安保法制の廃案をめざし立憲主義を掲げている。
 そうした中、改憲勢力の大きな特徴は、愛国を印象づけていることだ。改憲がほんとに愛国なのだろうか。

■「愛国」の基本は国のあり方
 もっとも大きな改憲団体は安倍首相が特別顧問をつとめる「日本会議」であり、そのもとに「美しい日本の憲法をつくる国民の会」がある。
 安倍首相が好むフレーズ「美しい日本」とは、日本の文化伝統、歴史、それらを育んだ自然風土をさす。それを愛することは日本人にとって自然な感情であり、愛国の情ともいえる。それゆえ、「美しい日本の憲法をつくる」と言えば、愛国の情に訴え、あたかも愛国の憲法をつくるというような印象を与える。
 しかし、戦後70年余、改憲をかかげてきた自民党政府のもとで日本はどんな姿になってきたのか。福島原発事故による放射能汚染、癒されない東北大震災の生々しい傷跡、全国から消えていく地方の市町村、増えゆく老人の貧困と児童虐待、未来を見いだすことができない不安定雇用の若者たち、いじめが横行する小中高校、今の日本の一体どこに美しさがあるといえるのか。
 それにもまして重大なことは、日本が公然と「戦争する国」に変貌を遂げていることだ。しかも、世界第三位の軍事費を傾け、アメリカの頼もしい同盟軍としてアメリカ主導の戦争に参加していくという。
 その日本に、「美しい伝統文化」「豊かな自然風土」が、なんの意味があるのだろう。
 シールズの千葉さんは、「どこかのお茶のCMで、日本人の味覚がいちばんすぐれていると言っていました。世界一鋭い味覚をもっているよりも、70年、100年戦争をしない国、世界でいちばん民主主義が根づいた国のほうが、はるかに美しい国だと思います。僕は誇り高い国民になりたいです」と述べている。
 国のあり方が人々にとってなによりも切実で重要だ。日本の文化伝統、歴史、自然風土も国のあり方によって活かされもする。
 「國」の本来の意味が、矛で守る領域をさすように、国とは権力で裏付けられ国土に立てられた最も包括的な政治組織である。そこにはさまざまな人々が暮らしており、人々の生活をよりよいものにするためにある国民の政治組織が国であり国家だ。その国のあり方を定めているのが憲法だ。
 それゆえ、国を愛するとは、国の根本とも言うべき憲法を尊重することだといえる。
 安倍政権がもし「美しい日本」を云々するならば、何よりも日本のあり方を定めた憲法を尊重し、平和日本建設に邁進すべきだろう。そこに真の愛国があるはずだ。
 しかし安倍首相が国民の反対を押し切って違憲の安保法制を強行採決し、アメリカと共に「戦争する国」への道を進めたということは、わが国の在り方をアメリカに従って否定したということだ。
 愛国は言葉で言うものではなく、実際の生き様や行動で表すものだと思う。ところが、安倍首相の場合は、言葉は「愛国」だが、実際の行動は売国だ。恥ずべき売国行為をおこなっているゆえに、ことさら「愛国」を口にしているとしか考えられない。

■「押しつけ」を言うなら、今、それは安保法制だ
 改憲勢力が<自分が「愛国」>だと言うもうひとつの根拠は、占領軍により押しつけられた憲法でなく、自分の手でつくった自主憲法をもつべきだと主張しているところにある。
 外国軍隊に押しつけられた憲法であれば、誰でも自分の国の憲法とは考えられない。
 GHQが日本支配層に現憲法を押しつけたのは確かだ。だがそれは、ポツダム宣言を履行すべきGHQが、当時の国際世論と日本国民の要求を無視することができないものとしてつくられている。だから、実は日本国民とアジア諸国人民が、占領軍当局と軍国主義勢力に現憲法を「押しつけた」と言える。
 もし「押しつけ」を言うなら、今、それは安保法制ではないか。国民から支持されていない、今の安保法制の「押しつけ」の方がよほど重要だろう。
 今日、アメリカの押しつけた集団的自衛権にたいし、安倍政権はそれを容認する内閣決定をおこない、アメリカが押しつけた「アメリカと共に戦争する体制」にたいし、安保法制を国民の反対を押し切って強行採決した。それは周知のことだ。
 安倍政権こそ、アメリカの押しつけにすすんで従い、日本国民の意思を無視している。そこには、ひとかけらの自主もないではないか。
 安倍政権がめざす改憲は、アメリカに押しつけられた集団的自衛権容認とそれにもとづく安保法制を、正当化するための売国の改憲案だ。それを「自主憲法」「愛国の憲法」と言えるのだろうか。
 改憲案は、九条の「戦争放棄」条項を「安全保障」条項に変え、「国防軍」保持を明確にし、集団的自衛権をも容認するというのが核心的内容だ。これは、侵略戦争の反省から自衛権行使に歯止めをかけた現憲法の性格を一変させるものであり、「戦争をする国」の憲法に変えるものだ。
 今日、アメリカの押しつけに隷従している安倍政権が、あたかも改憲が「自主」かのように言うのは、あまりにも破廉恥すぎる。
 売国が「愛国」を叫び、隷従が「自主」を云々している。こんなことが許されるのか。国民にたいする愚弄ではないのか。

■立憲主義こそ愛国
 違憲の安保法制の廃棄と立憲主義をかかげる「市民連合」をはじめ国民大衆は、愛国を口にしていない。しかし、日本の現状に胸を痛め、なんとかしなければならないと、皆、様々な行動に立ち上がっている。
 シールズの栗栖由喜さんは「この国のあり方とは、つまり私自身のあり方のことです。作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声ではない、私の意思と言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています。私は自由と権利を守るために、意思表示をすることを恥じません。」と述べている。
 自分の国のあり方を自身のあり方とし、自分の意思と言葉で主張し、行動していくことこそ、新しい民主主義を担うものであり、言葉として愛国を言わなくても真の愛国でないだろうか。
 愛国はかつて軍国主義が人々を戦争に駆り立てたスローガンだった。その体験から愛国という言葉に嫌悪感をもつ人が多い。
 とくに左翼だった人々は、この言葉を毛嫌いしている。実際、ヘイトスピーチや安倍政権がまき散らす「愛国」は、排外と憎悪を煽る、毒々しい言葉になっている。
 しかし、自分の国を愛することは人間としての自然の思想感情だ。自分の家族、友人や師、地域の人々への愛着から、日本そのものに愛着を覚えるようになる。
 人々が自発的に行動に立ち上がるとき、例えば、反原発、反安保などの闘い、ボランティアに参加するのは、そこに大切にしたい、守りたい何かがあるからだ。それが愛というものではないだろか。その日本のために尽くそうとする気持ちが、自己を変え主権者として自覚させるようにしている。
 立憲主義とは、国のあり方を定めた憲法に従い、国家を運営し、皆がともに人間らしい生活を実現していこうとする考え方だ。それぞれの国が自国の憲法に依って国家を運営していくということは当然なことだ。
 とりわけ今日において立憲主義は、アメリカの覇権にたいし日本の憲法をまず尊重するという、主権の確立に大きな意義がある。
 自国の憲法が他国により否定されれば、どこに国の自主独立があるのか。周知のように、アメリカは日本の憲法を否定して、集団的自衛権容認と安保法制成立を強要した。
 したがって、立憲主義は、アメリカの覇権にたいする日本の主権確立に決定的な意義がある。
 人々を主権者として自覚させ、他国の意思によってではなく自国の憲法を基準にして国の政治をおこなっていこうとする立憲主義こそ、真の愛国だと思う。


 
時評

「アメリカ軍へのヘイトスピーチ」などあり得ない

平 和好


 自公政権は本当にお馬鹿という他ない。あ、いやいや言葉が過ぎた。「愚か」と訂正しよう。今、話題のヘイト規制法だ。人権侵害救済法ともいう。アジア人民への度し難い差別意識にもとづき、その人権をはなはだしく傷つける表現をヘイトスピーチと言う。この150年、明治以来、中国・朝鮮そして太平洋諸国への日本の侵略・植民地支配に伴って、その悪行を正当化するために使われてきたし、日本の権力者によって日本国民に対しても、アジア太平洋諸国の人々を人間扱いせず虐待することが事実上奨励されてきた。人間と思っていたら、関東大震災のときの朝鮮人数千人虐殺も、南京大虐殺も、中国・朝鮮の植民地支配への抵抗闘争への残虐きわまる弾圧もできなかったであろう。敗戦と戦後復興を経てもそういう風潮は生き残っていた。滅びたはずのものが大日本帝国時代を内心よしとする安倍首相らが政治の表舞台に登場するのと並行して、在特会などがのさばり始めたのである。在特会などが叫ぶヘイトスピーチは少し前まではごく一部の極右が言っているだけで、それを公言したりしたら「あの人はおかしい」と思われるのが普通であったが、いつの間にかそういう言葉を自民党幹部や大阪府知事・市長などの地方公共団体首長までが公言しだして一挙に爆発してきた。

■帝国主義根性は直っていなかった!
   そしてこんにち、あまりのひどさに政府も自治体もヘイト規制を言わざるを得なくなってきた。しかし、それは自発的にしていることではなく、迫害されてきた中国・朝鮮の在日の人々の不屈のたたかいと、日本の良心的な人々の地道な努力の積み重ねが広範な運動となって政府・自治体を突き動かしてきた結果だ。在特会の暴虐に厳しい判決を次々裁判所が出したが、これも勇気を出して立ち上がった在日と日本の民衆があきらめや虚無に陥ることをせず、闘かった成果と言わなければならない。在日中国人・朝鮮人を弾圧と監視の対象にしか見ていないのではと思える警察ですら、在特会などに厳しい対応を取り出したことは率直に見てよい。
 面白くないのは70年前の日本をよかったと思っている政治家たちだ。そこでヘイト規制法の成立を遅らせたりしてきたがその種も尽きてきたら今度はその「規制」を民衆に向けようとしている。ヘイト規制の実行方針を問われた高市早苗総務大臣が「国会前や首相官邸前の行動もヘイトスピーチの一環として取締りを考える」などと暴言を吐いたのがその一例だ。高市大臣は「日本のネオナチ」党首とツーショット写真を撮って得意になっていた人物だ。さすがにその暴言は批判を浴びたので引っ込めざるを得なかったが、その後も高市大臣が「公正でない=つまり自民党の政策の批判をする=テレビ局の電波停止」をはじめ、ファシスト的暴言を繰り返しているのは、皆さんご存知の通りでる。

■ヘイト規制は日本人をも救う!
   そしてヘイト規制の具体項目に「駐留アメリカ軍軍人への排除発言」を自公が盛り込もうとしている。とんでもないものを盛り込んではいけない。在特会が「日本人差別を許さない」などと珍妙な屁理屈を自分たちが被告になった裁判で堂々と言い放って法廷中を失笑させたのと同じ珍理論である。ここに書いた、在日の歴史と明らかに異なるのが駐日アメリカ軍だ。日本に連行されてきた人たちでもなく、日米両権力の大きな庇護の下にあり、我が物顔でのし歩き、飛びまわり、航海しまくり、他国でアメリカが起こす戦争に出撃していく超「強者」である米兵がヘイトスピーチの対象になるはずがないのに、こういうでたらめで荒唐無稽な規定を盛り込もうとするのは許しがたいし、本来の法律趣旨を大きく歪めることになる。また、米軍基地撤去を要求して不屈にがんばる沖縄の人たちに「規制」をかける不当な企みでもある。
 ヘイトスピーチ規制法で守られるべきは在日中国人・朝鮮人であることは、150年間、両民族が日本から最大限に迫害されてきた歴史を見れば、はっきりしている。そういう意味での真っ当で実効性のあるヘイト規制法が早期に成立・実施されるよう、声を上げよう。それはアジア人を見下して、不当な支配を喜んで支えることにより自分たちの地位を低めてきた日本の民衆の未来を明るいものにする事にもつながるのだ。



寄稿

これらのデモは散発的なムーブメントである

浅羽 道介


 原発や、(潜在的)核保有能力が日本にとって手放せないものとなっていることは、3.11以降の国の原発に対する姿勢が一貫しているところを見ても明らかだが、国家の安全保障といった言葉で原発を容認させられ続けてきたと気づいた人々の原発反対の声は、政策を進める国だけに向けられているのではもはやない。五年が経った今でも各地でデモや集会が行われ続けているのは、事故が起こるまで何も声を上げられなかった自己に向けて声を上げ続け、そしてそれらの思いで集った人々と呼応しあうためであり、それは安保法に関しても同様だ。原発が必要だという国の論理とは全く違うところで私たちは「原発いらない」と声を上げ続けている、それが私(たち)の力だと感じられる、その発見が人々に拡散しているからデモは収束する見込みがない。
 その発見は私たちを自由にする。人々が集うということに関して、長い間私たちは先入観を持ち続けてきた。それはある目的をもとに集うという考えであり、その目的が集った者にもたらされる利益に直結するものでなければ、その集団の存在理由が疑われるとされるような類のものである。その集団の第一に位置づけられるのが、その集団内での利益だけにとどまらず、国益までをも生むとされる企業だ。国家に対する貢献がその集団の正当性を裏付けるものとして位置付けられているというのは、国家の要請であり、国家の論理の帰結である。それは趣味のサークルまでもが企業活動のあくまでサブとして、余暇活動や介護予防(ぼけ防止)などと銘打たれるという浸透性に現われている。
 脱原発運動も「脱原発」という目的を掲げており、「国土を守る」「国民を放射能から守る」という主張においてなんら国家の論理とは矛盾しない。その意味で「脱原発」運動は、正統性があるということになる。しかし、「脱原発」運動には「脱原発」という目的に収まらない、「脱(反)原発」のテーマから派生する様々な思いや意志が寄せ集まっていることに、路上で行われるデモに参加すれば感じられる。デモの主催者も厳密に個人に対して参加することの目的を問わないことが暗黙の了解になっているようでもある。それらの意志には、それまで与えられているものであった正統性は微塵もないものがある。例えばただ一言「原発いらない」と今そこで発せられた声が、国益、また個人的な経済的利益に繋がるかどうか、不利益になるかをもはや問うてなどいないこと。原発の存在は国益、国家の安全保障として必要であるというような、自身に刻み込まれた国家の論理を拒否すること、それもが集った人々と呼応しうるという発見こそ3.11後の運動の意味であると思う。
 私たちは「脱原発」を掲げているデモに参加することを通して、その目的さえ超えたそれぞれの意志に呼応しあうことが、私たち自身の力の源泉であることを知る。だからこそ私たちは私たち自身の力を他の誰かにただ託すのではなく、それとは別のところで、無目的な出会いの中で、力を育もうと、各地で散発的にデモが試みられている。それは敵も友をも脅すことだけしか能のない核の力には無い、私たち自身の抵抗力なのだと人々はやっと気づき始めている。



 

東京脱原発集会に3万5000人

「社会運動情報・阪神」より


 

 3月26日、「原発のない未来へ!」「つながろう福島!守ろういのち!」をスローガンに掲げ、東京・代々木公園で3つの会場に分かれて大集会が行われた。それぞれの会場で神田香織、澤地久枝、鎌田慧ら文化人や地方の活動家がスピーチ。絶望なんかしているヒマはないのだ。



公開学習会

沖縄・辺野古の最新情報

 


 3月26日、釜ケ崎日雇労働者組合の三浦俊一さんを講師に招いて、本誌主催の第1回公開学習会が開かれた。三浦さんは本土と沖縄を行き来しながら、沖縄の人々と共に辺野古新基地建設反対闘争を担っている。氏は忙しい中でも膨大な学習資料を準備し、現場の躍動する闘いの息吹を我々に伝えてくれた。
 まず初めに、三浦さんは「目まぐるしく変動する辺野古を巡る情勢は、時としてその本質が見えにくくなったりします。・・・本土で闘い沖縄に心を寄せる人々が『今の』現状をどのように見ておくかは重要」として、この3月4日に成立した国と県の和解案を巡って闘う人々の中にも二つの考え方があったことが話された。周知のように和解案は「新たな訴訟の結果が出たら双方が従う」ことが合意の前提となっている。にもかかわらず、国がこれを認めたのは管氏が「(国が)勝てる」と判断し、首相が「不可逆性を担保できるなら、それでいこう」と決断したから成立したというのは表向き。その背景にあったのは、今夏の参議院選挙を控えた自民党政権の選挙対策だとする一つ目の見方。二つ目は、辺野古新基地建設反対運動の闘いが、国をして和解案を飲まざる得なくさせたという見方。当初は、「政府の毒饅頭だ」という一つ目の考え方が強かったが、次第に自分たちの闘いを正しく評価することも重要ではないかと二つ目の考え方が主流になってきたという。昨年12月にはオール沖縄会議を結成し、基地建設反対の組織的体制が確固と築かれた。先の宜野湾市長選ではその力を存分に発揮できずに敗北したが、1年後と予測される最高裁判決がたとえ国側勝訴となったとしても、オール沖縄の闘いはそれで収束することはない。国が提出せざるを得ない「工事設計変更」届けを県として認めない闘いとして更に力強く永遠に闘っていくであろうと自信をみなぎらせている。
 次に3・13米兵による性暴力事件と辺野古新基地建設反対運動の関連で、運動における反米闘争の問題に焦点が当てられた。性暴力事件が起きた時、闘う人たちの中から「これは日米安保があるからだ」、「日米地位協定を撤回させねば」と反米気運が高まった。しかし、オール沖縄は安保問題には触れないということで結束している。現に翁長知事は安保容認。ここで安保問題を前面に押し出してはオール沖縄は分裂する。確かにアメリカがもっとも危惧する点も、新基地建設反対運動が反米・反基地闘争として拡がっていくことにある。沖縄経済が、低賃金と失業率全国1位、非正規雇用率も本土の+5%といった劣悪な実態にあるのも、基地経済であるが故の貧困化にある。また、和解案が成立してからというのは、弾圧の前面から国家権力、機動隊がぴたっと手を引き、MPが前面に出てくるようになった。一層、闘う人々の意識から反米は拭い去れないものとなってきている。
 最後に工事中断とは何が中断しているのかが述べられた。シュワブ基地内では辺野古新基地建設のための埋め立て関連工事だけでなく、新基地の飛行場部分にあたる米軍隊舎を解体し、その代替隊舎を新築する工事などが行われようとしていた。しかし、これらの工事が今、中断されている。命を張った大勢の県民たちが工事用ゲート前に座り込み、工事車両をゲート内に自由に入れさせないのだ。この2年間の工事中断で、3000億円予算の工事が、いまや4倍の1兆円越えの工事となっている。工事の中断によって、遅々として工事が行われていないにもかかわらず、莫大な工事契約金は各建設会社に支払われたまま。沖縄の建設会社は中小の建設会社で数千万円の工事の受注であるが、本土の大成、清水建設などは数十、数百億の契約金を懐に入れたままだ。国とゼネコンとの癒着だ。国民の血税が無駄に使われている。
 1996年4月12日、橋本龍太郎首相は普天間の全面返還を日米で合意した。その返還時期は「5〜7年以内」であったが、すでに20年という歳月が過ぎてしまった。辺野古新基地建設が進まねば、普天間全面返還の合意は果たせない。自民党政権は大きなジレンマを抱えている。


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