議論 防衛論を問う新9条改憲論 「交戦権」なしの自衛はありえないか?
隠されたアベノミクスの正体
安倍政権はアベノミクス第2弾を発表した。新3本の矢とは、@強い経済(GDP600兆円)、A子育て支援(出生率1,8%)、B社会保障(介護離職ゼロ)という内容だ。
この10月にはTPP(環太平洋パートナーシップ協定)が大筋合意となった。安倍政権はこのTPPを新成長戦略の柱に定めている。集団的自衛権を可能とする安保法案の成立に成功した安倍政権が、国民の「支持」を得るために、「経済」に政策の目玉を移してきた。それが新「3本の矢」である。
アベノミクス新3本の矢の背景にあるのは、資本主義の絶対的原理である「成長至上主義」だ。モノが売れなければ、政府が需要を喚起する。成長期にはケインズがもてはやされ、低成長時代は新自由主義が闊歩した。「成長至上主義」の結果が、1000兆円を超える財政赤字であり、富の偏在であり、長期の経済低迷だった。
OECD(経済協力開発機構)が発表した主要国の「幸福度調査」によると、平均寿命ではスペインと並んで世界トップだが、「自分の健康を『非常によい』『よい』と答えた人の比率」では、対象の35カ国中で最下位。長寿者の3分の2が健康問題に悩み、政治や行政が彼らを厄介者扱いするこの国のありさまが浮かび出ている。
「正規雇用者の年収」を購買力平価で見ると、OECD平均より低く、韓国より1つ下、スペインより1つ上という程度である。「親が失業中の家庭で暮らす子どもの割合」は、全体平均で10%だが、日本は16%で、ギリシャやポルトガル並み。「並みの国」以下の日本の姿に愕然とする。
いま日本経済が本当に必要としているのは成長することではない。GDP500兆円という世界3位の経済力をベースに、「これまでの成長の果実をいかに賢く分かち合うか」(浜矩子「さらばアホノミクス」)などは一つのヒントを示していると思う。
アベノミクスではその経済成長でさえ生まれない。「GDP600兆円」の空文句に隠された本当の狙いは何か。今年4月の訪米で安倍自身がはっきりと述べている。「私のアベノミクスと外交安全保障政策は表裏一体です」と。そして「強い経済はしっかりした安全保障の立て直しに不可欠である」と。つまり「戦争のできる国」を作る。そのための経済がアベノミクスなのだと。安倍にこの国を委ねていては、未来はない。安保法案同様に「経済」もまた私たちの闘いの重要なテーマなのだと思う。
主張
11月13日夜、パリで起きた同時多発テロは、世界を震撼させ深い悲しみと憂慮に陥れた。この惨劇に何を見、テロと戦争に打ち克つ道をどう探し出すか。今、それが問われていると思う。
■「9・11」と「11・13」
「戦争だ!」。仏大統領はそう叫んだ。一方、ISの犯行声明は「嵐の始まりに過ぎない」だった。
サッカー競技場など6カ所でほぼ同時に敢行された無差別の銃撃や自爆テロが残した傷跡は、「戦場」を彷彿とさせる惨状を呈していた。
想起されるのは、14年前の9月11日、あのニューヨーク同時多発テロだ。「9・11」と「11・13」。前者は、アフガン、イラクに対する米軍による反テロ戦争に、そして後者は何につながるか。
「新たな戦争の開始」。実際、今回のテロは、「グローバル国家」、IS(イスラム国)が行ったこと自体に特徴がある。それは、他のどのテロ組織にも見られない、規模の大きさ、「軍事作戦」並みの周到な計画と大量の高性能武器調達、訓練された人員配備などをともなっていた。
■「11・13」の背景を問う
ISはなぜこのようなテロを敢行したのか。その背景として挙げられているのは、ISが追い込まれている窮状だ。米主導の有志連合に対抗する、ロシアの対IS参戦とロシア、シリア、イラク、イランの4か国委員会の共同作戦からそれは生まれている。実際、シリアの要請で開始されたロシアの空爆、ミサイル攻撃が、委員会参加諸国からの情報、これら諸国の地上部隊の出動と相俟って、ISにとり大きな脅威となっているのは間違いない。それは、これまで8000回に及ぶ空爆にもかかわらず、大した効果を上げられていない米国と比べ余りにも対照的だ。一方、ロシア旅客機撃墜、ベイルートのシーア派武装組織、ヒズボラを狙った大量虐殺と、「パリ」の直前、ISが連続して敢行した大規模テロが二つとも、米国主導の有志連合ではなく4か国委員会を対象とするものであったところにもそれは如実に現れている。
ここで想起すべきは、ISの生みの親、育ての親が他ならぬ米国だったという歴史的事実だ。
米国は、1979年のソ連によるアフガニスタン進駐に際し、それに抗して立ち上がったアラブ人義勇兵を訓練・指揮する組織としてアルカイダを生み出した。そのアルカイダが引き起こした「9・11」を契機に米国は、国と国が互いに宣戦布告して行う従来の戦争とは異なる新しい型の戦争、反テロ戦争を、アフガン、イラクへの侵攻というかたちで強行した。それが米国単独の圧倒的軍事力に基づく恐怖のネオコン覇権回復戦略だったことは周知の事実だ。
だがこの戦略は、アフガン、イラク戦争の泥沼化によりあえなく破綻した。米国は、オバマ新政権の下、覇権回復戦略を「単独」から「国際協調」に変えながら、イラク戦争で生まれた武装組織にアルカイダの分派を合流させ、外人部隊基本のテロ組織をつくり、それを基に、2013年、イラクとシリアの国境を超えアメーバのように広がる「グローバル国家」、IS(イスラム国)の樹立を宣言させた。イスラムのカリフ制を掲げ、ボコハラムなど世界に広がるイスラム過激派のテロ組織を糾合したISは、「聖戦」という名のテロと戦争をグローバルに繰り返し、今やテロの代名詞、その中心的存在になっている。このISを相手とする新たな反テロ戦争、それが米国主導の国際協調路線、有志連合による空爆に他ならない。
だが、IS撲滅の意思も目的もなく、ただ米覇権のため、「生かさぬように、殺さぬように」敢行されるこの空爆が効果を上げるはずがない。それは、ロシアの参戦、4か国委員会の共同作戦の戦果の前にいよいよ鮮明になっている。
ロシア、シリアなど4か国委員会に対する米主導の有志連合の劣勢、まさにここにパリ同時多発テロの本当の背景があるのではないだろうか。
■世界の基本趨勢、主権擁護の闘い
今日、ISをめぐる4か国委員会と有志連合の攻防は、もっぱらロシアと米国の主導権争い、覇権抗争として描かれている。そしてその焦点はシリア・アサド政権だ。テロとIS撲滅のため、アサド政権擁護を唱えるロシアに対して米国は、あくまでその退陣を主張して譲らない。
米国によるアサド政権攻撃は、あの「アラブの春」以来のことだ。食糧高騰や失業増など生活苦と政権の腐敗に怒る大衆の蜂起は、カダフィやムバラクなど長期独裁政権倒壊の連鎖を引き起こした。アサド政権打倒を叫ぶ反政府勢力の闘いとそれへの米国の支援は、以来4年半続いている。
問題は、この「支援」が本当にシリアの民主化のためかということだ。
今日、「自由シリア軍」など、いくつにも分裂した反政府勢力の弱体は誰の目にも明らかだ。彼らの存在はISの影に隠れてしまっており、その「統治」下にある人口は、アサド政権下の「8割」と比べいくらにもならない。その微々たる勢力に「基盤」を置きながら、米国は「アサド退陣」にこだわっている。それがシリア国民の民意でないのは、来年予定されている選挙に、米国が「アサド不出馬」を要求しそれに固執しているところにも現れている。アサドの出馬如何を決めるのはアサド自身であり、何よりシリア国民自身のはずだ。それに口を出し自説を強要すること自体、米国が民意に基づいていない証拠に他ならない。
民意に基づかない「民主化」の主張とは一体何か?それは、「自由と民主主義」という自分たちの「価値」や「理念」の押しつけ以外の何ものでもない。それが普遍的な「価値」でも「理念」でもないのは、今、米欧諸国自身の内部から湧き起こってきている「新しい民主主義」「新しい政治」への要求の高まりに端的に示されていると思う。
「価値」や「理念」の押しつけは、元来、支配であり覇権である。米覇権回復のため、国と民族を否定しその主権を否定するグローバリズム、新自由主義の押しつけは、今、世界的範囲での反覇権自主、主権擁護、ナショナリズムの勃興を呼び起こしている。
アサド政権を擁護する4か国委員会の闘いはこの主権擁護の世界的趨勢の一環だ。
■見えてきたテロ撲滅への道
今、世界の定説になったかに見える「ロシア優勢」「プーチン主導」は、何を意味しているか。ロシア覇権の強さか、はたまた、プーチンの悪知恵、したたかさか?
そうではないだろう。反覇権自主、主権擁護の新しいナショナリズム、そして、それに共鳴、共感する民意の高まり、そこにこそ事態発展の本質がある。プーチンはそれをつかみ、そこに依拠しているということだ。
そこで考えるべきは、「米国劣勢」「IS窮地」の要因だ。なぜ彼らは弱いのか。見えてくるのは、彼らの「主権否定」「民意無視」だ。主権と民主主義の否定、無視、ここに「同じ穴のムジナ」である覇権とテロ、共通の致命的弱点がある。
人々の主権意識が高まり、民意が政治を動かす「新しい民主主義」が求められている今日、主権をないがしろにし、民意をもてあそぶ覇権グローバリズムや「主権と民主主義」を根本から否定する残虐非道なIS恐怖政治に未来はない。
テロの撲滅は、こうした世界的趨勢にあって、主権と民主主義をめぐる闘いを通して推し進められるようになる。覇権と対決し、テロと闘う闘争のキーワードは、主権と民意、民主主義だ。「覇権連合」である米主導の有志連合に対する「主権連合」である4か国委員会の優勢、難民受け入れよりも、シリアなど主権国家の強化を求める民意の高まり、米国の反テロ戦争への地上部隊派兵を許さない強力な民意、さらには、日本における、安保法制、戦争法に反対する「立憲主義」「新しい民主主義」を掲げた主権と民意擁護の闘いの高揚、等々、主権と民意、民主主義による反戦、反覇権、反テロ闘争の高まりには枚挙のいとまがない。
今や、テロ撲滅への道がくっきりと姿を現してきている。それは、民意が政治を動かす「新しい民主主義」、それに基づく強力な主権の確立だ。民意に基づき、自分の国と国民のため、民主自主の政治を行う主権国家にテロ発生の余地はない。
格差と貧困の広がり、職場を奪われ、国と民族を奪われ、自らのアイデンティティも生きる目的まで奪われた若者たちの大群、その国境を超えた結びつき、等々、それらテロの温床が、多分に新自由主義、グローバリズムなど米国覇権から生み出されている今日、主権と民意、民主主義を掲げたテロとの闘いは米覇権との対決と一体だ。パリ同時多発テロとその後の事態発展に見えてくるのはそのことではないだろうか。
議論 防衛論を問う新9条改憲論
11月10日、1万1千人の大規模な改憲派集会が催され、安倍首相が緊急事態法をめぐって改憲議論を促すなど、9条をめぐっての護憲か改憲かが次第に政治の焦点になってきている。
その中で、現在、平和をめざす9条改憲論が注目されている。評論家加藤典洋氏が、「戦後入門」という著書で「左折の改憲で対米従属から脱す」として新9条改憲論を提起した。同じく伊勢崎賢治氏(東京外大大学院教授)や矢部宏治氏(書籍情報社代表)、想田和弘氏(映画評論家)、今井一氏(ジャーナリスト)たちも、新9条改憲論を唱えている。その内容は、自衛隊の容認、米軍事基地撤去、集団的自衛権否定でほぼ共通している。
新9条改憲論がこれだけ出てくるのは、違憲の安保法制を成立させた安倍政権に対し、「解釈の余地のない」「専守防衛」を明確にした平和憲法にしなければという切迫した気持ちからであろう。
斉藤美奈子氏が指摘するように、安倍政権の改憲論議に巻き込まれる恐れがあると言える。
しかし、加藤氏らの新9条改憲論には積極的な意義があると思う。加藤氏は、9条が元来、自衛と交戦権を放棄し、国連に日本の防衛を委ねるものとして作られたとし、それを実現するために、陸海空の戦力を、国土防衛隊と国連待機軍に分け、交戦権を国連に委譲する。外国の軍事基地を許可しないということを明記した新9条に改憲すべきだと言っている。つまり、これまで護憲派にあった非武装や自衛隊違憲から大きく踏み出し、米軍との同盟から国連との同盟に替えるという平和日本の防衛戦略を提示している。他の新9条改憲論者も、さまざまな防衛戦略を提案している。つまり、新9条改憲論者たちは「戦争をしない」平和日本の防衛をどうすべきか、という問題提起をおこなっているのだ。
このことは、安保法制に対する反対闘争が、今日、安保法案反対闘争から防衛戦略をめぐる対決という新しい段階に入ったと見ることができる。
加藤氏の「左折の改憲論」を検討することを通じ、新9条改憲論が問うている平和日本の防衛戦略について考えてみたい。
加藤典洋氏が問うているもの
加藤氏は、日本の対米従属に終止符が打たれたとき戦後が終わることになると言う。それゆえ、9条と米軍基地をセットにして成り立ってきた戦後日本の形を見直す作業に着手すべきである、その方法として9条を改憲し、米軍基地を許可しないようにすると述べている。それが、「憲法9条の原則に立脚して国連中心主義に進む」ことだと言う。
これは、これまでの護憲運動の弱点をついたものだ。従来の護憲運動の9条論では、日本が自衛戦力と交戦権を放棄したということを前提にしているので、「戦力と交戦権」をもつ米軍や国連に日本の防衛を任せるということを否定できなかった。非武装と軽武装のイデオロギーを主張するだけで、日本をいかに守るかという防衛論を打ち出せなかった。それでは、日米安保で米軍に日本を守ってもらうことにも反対できない。それゆえ、憲法と安保はセット(楯と矛論)だと言われても仕方がなかった。そこを加藤氏がついている。
だからと言って、9条を改憲すべきなのだろうか?
9条には自国の防衛をアメリカや国連に任せ、自国を自力で守れないという防衛論しかないのだろうか? 9条に即した日本の防衛論は何かということを検討する必要があると思う。
自衛権=交戦権なのか?
新9条改憲論は、日本を「戦争をしない国」にするために、侵略戦争をしないようにすることでは一致するが、日本の防衛をどうするかでは各自各様である。新9条改憲論者は、その内容を憲法で明示すべきとして、9条の改憲を提唱する。とくに、これまでのように「戦力の不保持と交戦権の否認」だが自衛隊が合憲と解釈されるなら、自衛のための交戦権も認められ、集団的自衛権まで容認されるという、逆手をとったような解釈がなされるようなことを防がなければならないと言う。
ここで9条2項の「戦力の不保持と交戦権の否認」について考える上で、それが自衛権の否定を意味するのか否かである。すなわち、自衛権=交戦権なのかということである。
一般に独立国であれば、自衛権をもち、交戦権ももっている。自衛戦争を肯定する場合、当然、自衛戦力をもち交戦権もあるとされている。自衛権=交戦権容認が世界の常識だった。
ところが日本の場合、憲法9条を国民が歓迎し定着させたのは、二度と戦争する国にならないということだった。ほとんどの戦争は「自衛」を名目になされており、日本も「自存自衛」を掲げて大東亜戦争をおこなった。それゆえ、憲法9条の「国権の発動たる戦争と武力行使は国際紛争を解決する手段としては永久に放棄」、そのための「戦力の不保持と交戦権の否認」は、たとえ「自衛」のためであれ、どんな名目であれ、他国との紛争において武力行使をしないということを明示したものである。
つまり、かつて侵略国であった日本は、自衛権はあるが、他国と戦争を行う戦力をもたず、他国との交戦権ももたないということだ。
憲法9条が自衛権をもちながら交戦権を否認したのは、侵略戦争をひき起こした日本が、「自衛」の名で再び侵略戦争を行うことがないようにするという不戦の誓い、歴史の総括からくるものだった。そして、それは今日、脱覇権の時代においてかつての覇権、侵略国であった国の脱覇権の防衛戦略を明らかにしたものだ。
では、交戦権をもたない日本は他国や国連に防衛を任せるしかないのか。
加藤氏のいう「交戦権を国連に委譲する」ということは、交戦権の否認ではなく、国連軍として日本が戦争するということになり、「戦争をしない国」の防衛戦略とは言えない。日本の自衛戦争でなく国連としての武力行使であっても、日本が戦争をすることに変わりない。
憲法9条は国際紛争で武力行使しないために、戦力と交戦権を持たないとしている。しかし、主権国家は当然、自衛権をもっている。自衛は否定していない。自衛権をもっているが、交戦権は否認しているのが、9条の真髄だ。
言いかえれば、9条2項の「戦力の不保持と交戦権の否認」は、自衛の否認を言ったのではなく、かつての侵略国であった日本が、「自衛」を名目とする侵略戦争をしないという防衛戦略を明らかにしたものだ。
では、「交戦権否認」の自衛とは、どんな防衛戦略なのか?
「交戦権否認」の自衛戦略は、撃退自衛
「自衛」の名による戦争を否定した日本の自衛の在り方は、防衛線を国境線におき、自国領域内での撃退戦だけを展開することではないだろうか? この場合の武力は他国との戦争をするための戦力と区別される撃退武力だと言える。
このように「交戦権」を否認した「9条自衛」は、自国領域内に限定した自衛、撃退自衛であり、「戦争をしない国」の防衛戦略となる。
9条2項はまた、「交戦権の否認」ゆえ、交戦権を他国に委ねることになる外国軍基地を禁じる条項でもある。交戦権を放棄しながら他国の軍事基地を許せば、交戦権を他国に委ねることになり、かつて朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン・イラク戦争に加担したように他国の侵略戦争に日本が加担することになるからだ。
外国軍隊に依存することなく、自国領域内の撃退戦だけで日本を自衛することが可能なのか、という問題がある。可能でなければ、例えば相手国のミサイル基地を叩くというように自衛戦争を認めることになり、また、外国軍隊との同盟に依存することになる。自国領土内だけの撃退戦は防衛に徹するという戦略の下で、撃退武力を最先端技術で強化し、全国にハリネズミのような防衛体制を築き、全国民の高い防衛意識に依拠して防衛するようにするということだと思う。このための前提は「民主主義」の実現である。
自国防衛という正義の戦いに対し、侵略国はかならず敗北するというのが、歴史が示す真理だといえる。
また同時に、ASEANの「アジア安保」のように東アジアにおいて主権尊重を基礎とする地域的安全保障体制を築いていくことは、アジアでの各国間の武力紛争と戦争を防止するうえで大きな意義がある。東アジア非核地帯、平和地帯を築くことも、核の脅威を除去するうえで、必須である。
他国軍隊に依存することなく、日本の主権を自己の撃退武力で確固として守る防衛戦略である「9条自衛論」は、自国を自分の力で守りながら「戦争をしない国」を求める国民の要求と志向を反映するものであると言えるだろう。
「9条自衛」は、護憲派だけでなく、自国防衛のために自衛隊を認める改憲派や米軍基地撤去・専守防衛の新9条改憲派までも一つの平和勢力に結集できる「交戦権否認=戦争をしない国」の防衛戦略ではないだろうか。
時評
大阪弁で言うと「新聞・テレビを見るのもあほらしい」「何考えてるんや、大阪府民は!」と思いがちだ。あまりの惨敗、そして5月17日に住民投票で大阪都が否決されたのに7ヶ月後に逆の結果が出るなど考えられないことだけに落胆する人が多い。気持ちはよくわかる。しかし、この結果についてしっかり分析しておかなければならない。
いろいろな要素があってこの結果になった事がわかる。今日はそのほんの一面から。
1、候補擁立の遅れと、その過程の差
おおさか維新は早くに、おそらくは5月17日の敗戦直後から選挙準備をしていたようだ。まず4月の自治体選挙でしっかり生き残った大阪市議・府議・各一般市議らの活動だ。5月の住民投票でやったドブ板を踏む活動は当初圧勝の勢いだった住民投票を僅差まで縮めた。それをこの府知事・市長選挙に振り向けたことが十分伺える。維新の議員は日常活動をしないことで定評がある。従って他の政党がする真面目な政治活動はしなくて済んでいる。戦争法に反対する活動も賛成する活動もしないし、市民相談や保守・革新いずれの活動にも熱中しない。橋下氏も大阪市長の公務はごく少ししているだけだ。
そして早くに市長候補を決定したし、府知事は現職の松井氏なのだから探す手間もない。一方の反維新は候補探しに丁寧に取組み(←いいように言えば)二転三転の後、柳本氏・栗原氏の両候補が揃ったのは1ヶ月前だった。能勢から岬町までかけまわらなければならない府知事選にこの遅れは致命的だから、ダブルスコアの敗戦はむしろ健闘だ。
2、たたかう態勢の決定的差
おおさか維新は「橋下党」だ。その号令一下で動く。橋下信者はこれまた意思が固く、他の意見など聞かない。そして投票には必ず行く。お祭りと捉えている人も多く、「行かなくてどうする」状態なのだ。一方の反維新陣営はどうか。政権政党自民党らしい取り組みが皆無だった。その伏線は自民党大阪府連代表選挙。国会議員の投票で決まった。12対7で中山泰秀氏に決まった。共闘派の竹本氏が敗れて官邸直結の中山氏になった事は決定的だった。この父親譲りの超・反共主義者は「共産党や民主党と一緒にやれるか」という意味の言葉を各地で吐いたし、実際他党や無党派層への支援を求めなかった。
現場の様子はひどい。自民党の候補とは思えない状態が府下各地で見られた。まずポスターがほとんど目立たなかったし、票取りと固めに動く「業界」が動いていなかった。公明党も、幾人かの議員に「栗原さんをお願いしますよ」と話しかけても「むづかしいことやね」とか無言とかであり、国会議席の維持のために維新や安倍首相と示し合わせているのが伺えた。民主幹部は何を考えているかわからないが、事前期間に動いていない。見かねた地域党員・支持者が独自にいくつかの地域で動いたに過ぎない。一方、共産党は誠実に、情熱を傾けて支援活動に取り組んだ。シールズをはじめ、戦争法反対派は9月一杯まで全力で国会前と全国各地での行動を取り組んだ。10月の下旬になってようやく、反維新陣営に参加して、運動を大いに盛り上げた。
このように「統制なし」「指令部なし」の陣営と、橋下司令部のいずれが勝つかは、今となってはハッキリしている。
3、たたかい済んで日が暮れて
実は府知事選はトリプル負け、市長選もダブルスコア負けと言う数字情報が本番突入直後に入っていたので、惨敗ではあるが、終盤の頑張りで相当取り返したと「評価」するしかない。
要はこれからだ。安倍首相=橋下氏はとにかく勝った。その先に安倍が見ているのは言うまでもなく「戦争国家作り」と「改憲」である。橋下氏はそれに協力しないように願いたい。首相の野望は必ず打ち砕く!の意志を固めて市民運動と政党が柔らかく、しかし確固たる意思で団結して行くしかない。
沖縄は今燃えている。オール沖縄に学び、できる限りの支援を沖縄に行いつつ、参議院選挙をオリーブの木(小異を捨てて大同団結で統一名簿)でたたかうしかない。あの小沢一郎さんがオリーブの木と言うのには驚き、いや時代の流れを感じるが。ソフトにしかし強固に団結がんばろう。
そしてもう一度言うが、行動は今すぐでなければならない!
コラム
このところ政治日程が目白押し、そして個人的事情が積み重なり、派遣会社からの要請に応えられていない。しかし今日も朝8時15分から10件のお仕事催促メールの嵐だ。
「なんで働いてくれへんのですか!」と営業君の悲鳴がこもっている。あまり行かないのも気の毒になり、深夜あるいは日中は単発の軽い労働に限って出動するようにしている。深夜はデパートや超高級ホテルの催し物会場の入れ替えお手伝い。殆どは陳列棚・ショーケース・机の移動だ。
昼間は超軽労働だけ選択している。その中で面白いものを二つ紹介しよう。
エクセル入力の仕事、パソコンの基礎ができればOKという。出勤してみると会議室にパソコンが30台並んでいる。その内の1台を割り当てられ、薬の注文書を200件ほど渡され、品目・数量・納期などを表に入力する。えっそんな大事なことをさせて大丈夫かいな!
とにかく言われた通りに朝から晩まで打ち込んだ。あとの29人も同じようにしている。これが3日間続いた。きっと打ち間違いが発生しているだろうが、何も指摘されないし、自分で検証して修正している人などいない、そういう指示もない。
謎は最終日に推測できた。管理している社員が小声で話していたのを聞くともなしに聞いてしまった。「バグ」「パンク」「容量OK」などとチェックし合っている。
帰りに一緒になった「同僚」と意見が一致した。薬の注文を各薬局から送信するソフトの容量・相互干渉などの不具合がないかどうかをチェックするだけの仕事だったのだ。そのために30人に同時に延々と注文の打ち込みをさせた。だから打ち間違いが発生しても全く問題外なのである。
次は探偵みたいなお仕事。中堅の学習塾チェーンの夏休み講座に来る子どもたちの人数チェックだ。何年生コースに男が何人、女が何人と計数する。直後から別学年の講座が始まるのでそれも同じように計数。多い日は3駅移動である。
社員から注文があって「塾の職員に見つからないように」「見つかって質問されたら黙って去ってください」。
向かいのビルの陰から塾の入口を凝視する「不審者丸出し」のお仕事には笑ってしまった。少し油断すると子どもたちがさっと入ってしまうし、一時に集中すると男女の計数を間違いそうになる。あわてて百均ショップで青と赤の計数機を買って来た。
これは推測するに、塾の各支店の営業成績が本部への報告通りかどうかを調べているのではないか?
余談ながら最近この塾が「ブラック企業」と指摘されているのを聞いた(真相は定かにあらず)。
上記いずれも仕事の趣旨をほとんど説明せず「見ず知らず」の我々に「日銭仕事」でやらせるのだから、まあ何とも・・・としか言いようがない。
派遣労働には一杯おもしろいこともあるので、仕事に困っている人は相談を!もちろん派遣労働ではなく正規雇用を増やすよう労働運動は要求するべきだが、要求実現まではお互い生き延びねばならないし。労働者同志諸君、笑顔絶やさず、身体にはそこそこ注意しながら団結ガンバロウ!
■「私の若かった頃は自衛隊違憲論、再軍備反対が専らでした。災害救助出動さえためらう自治体もありました。日常生活の風景の中に軍服姿を見ることもなかった。それがいつの間にかすっかり認知され、社会党が消えました。そして見て見ぬ振りとでも言ったらいいか、自衛隊についての真剣な論議をして来ませんでした。
今回の安保法制違憲論議でも「存在していない筈の軍隊」について論ずるという摩訶不思議なことになりました。安保法制が違憲だという学者たちの発言が相次いだので、それっとばかりこれに乗りはしたものの宙ぶらりんであることは紛れもなく、「既にある軍隊」とすることで、その活動を明確化すべきだという意見は学者たちの中にもありますし、なし崩しにしてきた「左翼知識人の怠慢」を激しく指摘する若き論客もいます。
「非武装中立」今いずこ!? 皆さんの論議が、どう発展していくのか、大いなる関心があります。 明日は日比谷野音で学者たちとシールズが主催の集会とデモがあります。先述の点に如何に触れるのか、耳をそばだてて来ます。
(R・O)
■有志連合の8千回空爆がほとんど効果なしなのに、4カ国委員会の作戦が強烈な打撃をISに与えている、というのが一般紙を読んでいるとわかりません。本当だとしたら、現地人民に依拠し、また欧米の抑圧に抗してきた勢力の団結の成果でしょうか?
(S・K)
資料
辺野古基地建設をめぐる国と県のせめぎ合いがいよいよ正念場を迎える中、沖縄では12月前半にも全県民的な共闘組織として「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」が結成されることになった。
これには、翁長雄志知事を生んだオール沖縄の精神を醸成するのに大いに貢献してきた「島ぐるみ会議」や、辺野古現地での座り込みや海上抗議行動を主導してきた「平和運動センター」をはじめ、平和・市民団体、連合沖縄・自治労など労組、金秀・かりゆし・沖ハムなど有力企業グループ、県政与党の政党と県議会各会派の合計22団体が参加し、幹事団体を構成する。
これによって、翁長知事の行政・裁判闘争を支援し、現地での抗議闘争を強化しつつ全国の支援運動と連携していくための新しい統一的な体制ができあがることになる。
来年の宜野湾市長選(1月)、県議選(6月)、参院選(7月?)での連戦連勝はもちろん視野に入れるが、この組織として直接に選挙運動に関与することはないという。
従来の島ぐるみ会議は、あくまでも個人加盟のキャンペーン組織であり、すでに沖縄本島の市町村および島部にローカル組織をつくって宣伝活動を行うとか、辺野古基金とか、国連に働きかけて翁長知事の国連での演説を実現するとか、訪米団を組織するとか、「周辺・外堀をやってきたが、それではもう限界」(同会議幹部)だという。
既存の組織・団体が恒常的に連絡・調整を図り、運動全体を指導していく「司令部的な機能がないと、この大勝負を闘えない」(同幹部)というところにこの「オール沖縄会議」の眼目がある。
以前にも「県民会議」という運動スタイルはあったが、今回は、県内有力3企業が(経営者個人でなく)企業グループとして参加するところに凄みがあるし、また全市町村に島ぐるみの組織ができているという下地もあるので「コンセントを差し込めばすぐ起動する」と自信を込める。さらに、最近もますます元気に行動している「シールズ琉球」など若い世代の新しい組織も、当然合流してくるだろう。
こうして、これまでは気分というか精神というか、選挙結果という形では姿を現すけれども全体としては不定形さを免れなかった「オール沖縄」が、はっきりとした組織的な枠組みを得て、新しい次元で動き出す。本土の政党や運動はどこまでこれに応えられるのかが問われることになる。
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