研究誌 「アジア新時代と日本」

第15号 2004/9/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 アジア新時代、護憲こそが新しい

研究 −アジア杯に見る反日感情の高まり−  アジア・ナショナリズムとどう向き合うのか

文化 女子バレー再生にみる新しい指揮

朝鮮あれこれ ピョンヤン釣り事情

編集後記



 
 

時代の眼


 今回のオリンピックは、これまでのにもまして感動しました。とにかく日本選手が強い。力や技も凄いし、それを出し切る精神も素晴らしい。それに選手と応援、そしてチームの一体感。どれもがかつてないものでした。
 日本選手はなぜ強くなったのか。競技団体の改革や企業の支援体制の充実、そして施設など環境整備、選抜方法や資金分配などでの新機軸、等々、いろいろ言われています。
 そうしたなか注目されるのが、「日本式」の開発です。日本人の体格、体力に合った柔道、泳法、走法でということです。欧米を目指し欧米人のように強くなるのを基本にするのか、それとも体格が小さいなら小さいなりに、体力がないならないなりに日本人の特性に合わせ日本人として強くなるのを基本にするのか、後者の選択の正しさは今回一層鮮明になったのではないでしょうか。北島選手らの「省エネ」泳法、柔道各選手が見せた相手の力を利用しての息もつかせない連続技による一本勝ち、等々、欧米人たちも感嘆しきりだったようです。
 日本選手たちの強さの秘密は、また、応援との一体感やチーム力の強まりにもありました。
 アトランタ・オリンピックでは、「楽しみたい」、「自分をほめてやりたい」がまるで合い言葉のように選手たちの間で流行りました。それがシドニーでは、「皆さんに感謝」に変わりました。
 そして今回は、同じ感謝でもより一体感の強まりを感じました。皆の期待に応えて「アテネの空に日の丸を!」「応援してくれている日本の皆さんのため」などといった言葉が選手たちの口から次々と出てきました。また、それに応えるかのように選手たちの出身地や職場、母校など、日本での盛り上がりもかつてないものでした。選手たちの家族だけでなく、先生や後輩たち、職場の同僚たち、近所や地元の人たちがまるで自分のことのように涙まで流して喜んでいる様を見て、こちらもこみ上げてくるものがありました。この地域や職場、学校、ひいては日本全体が一体となったような力がコーチやスタッフ、仲間の選手たちなどチームの結束した力と相まって選手たちの後押しをしたのではないかと思います。「死にものぐるいで泳いだ」「(マラソンで最後の力をふりしぼりながら)死んでもいいと思った」「(柔道で)絶対放すものか(と押さえ込んだ)」等々、選手たちの驚くような精神力も、単に厳しい生存競争のなかで鍛えられたというだけでなく、こうした応援の声やチーム内部の指導と信頼、励ましに応えようというものだったのではないでしょうか。
 「(選手たちに)感動をありがとう」という言葉を多く目にし耳にしましたが、若い選手たちのこうした胸熱くなるような活躍は、私たち日本人皆に大きな勇気と希望を与えてくれたのではないかと思います。


 
主張

アジア新時代、護憲こそが新しい

編集部


■憲法は時代遅れなのか
 今年の8・15は、自衛隊がイラクの戦場に派兵され、日本が戦争に参加しているという状況の中でその日を迎えるようになりました。それゆえか、平和憲法に対する論議が新聞などでも多く取り上げられていました。
 自民党は、結党60周年になる06年には改憲案を出し07年をめどに改憲を実現する日程を示しており、民主党も「時代に合う新たな憲法」「新たなタイプの憲法の創造」などと言いながら、内部で改憲案を研究しつつ、これをたたき台に国民的な論争を起こし改憲を実現しようと創憲、論憲を言っています。こうして、政界では参院選後の政治課題として改憲が焦点にされつつあります。なかでも、若手議員が活発に動いており、超党派の100名が結集した「新世紀の安全保障体制を確立する若手議員の会」や民主党議員による「創憲を考える一年生議員の会」などが発足しています。
 先の参院選でも明らかになったように二大政党政治が定着し護憲政党は極少数になり、その二大政党が共に改憲を言っているわけですから、改憲はとめようがないという雰囲気になっています。
 この改憲策動では、「戦後60年たって憲法が時代に合わなくなった」「時代に合う新しい憲法を」などと、しきりに「新しさ」が強調されているのが特徴です。
 それゆえか、改憲支持は半数を超え、とくに若い人のなかで改憲支持が増えているようです(20代で63%)。

■9条改憲は新しいのか
 では、彼らが言う「新しさ」とはどういうものでしょうか。
 自民党の憲法調査会長 保岡興治氏は「歴史や文化など日本のアイデンティティーのようなもの」と言いながら、その内容として「和、共生の理念、自助の精神、他国の文化を認め受け入れる文化多元主義などを」と言っています。また、民主党の憲法調査会長 仙谷由人氏は、「改憲も護憲も一国主義的、そんな古い発想で憲法を書き換えても、この新しい時代に何の意味があるのか」「統治の仕組みを主権国家の変容に見合う形で根源的に再構築するという発想で」と言っています。
 そして、両党とも、環境権やプライバシー権、知る権利などを言い、首相公選とか二院制見直し、地方分権の強化などいろいろ言っています。
 しかし、これらはまだ、「考え方」「アイデア」であって、現実に焦点となっている問題は、集団的自衛権問題、9条問題です。実際、自民、民主の内部で、さらには衆参両院の憲法調査会などで討議されているのは、この問題です。
 改憲派がいろいろと聞こえのよいことを言っても、それは改憲の気運を盛り上げるためでしかないということです。
 今回の改憲策動では、米国が前面に出てきており、米国が要求しているのも9条改憲です。自衛隊がイラクに派兵され、それをめぐって憲法論議が起こる中、米国は「集団的自衛権が行使できないというのはおかしい」(「憲法9条は日米同盟の妨げ」(アーミテージ)などと露骨に発言してきました。また、この8月には、日本の常任理事国入りに関して、パウエル米国務長官が「安保理の一員となり、それに伴う義務を担うというなら、憲法9条が今のままでいいのか検討されなければならない」と発言しています。
 その米国からの改憲要求を受けて、日本側も「制定から半世紀以上経過して、時代にそぐわない条文、その典型的なものが9条だ」(自民党安倍幹事長)、「憲法を改正し、国連決議のもとで自衛隊の武力行使も可能にすべき」(岡田民主党代表)などと言っています。
 米国が要求し改憲派がかつてない勢いで強行する改憲策動の真髄が9条改憲にあるのは、もはや誰の目にも明らかです。
 これは何を意味しているでしょうか。それは、改憲が新しいかどうかは9条改憲が新しいかどうかに他ならないということです。

■9条は主権擁護尊重の象徴
 9条改憲が新しいのか、それとも9条護憲が新しいのか。この問題を解明するためには、まず、9条自体をどうとらえるかが問題です。
 9条は、単に戦争を放棄したというのではなく、自衛の名で侵略、戦争ができないようにしたところに画期性があります。それは、憲法制定時、米国側が提示した草案に対し、第二項をもうけ、その最初の部分に「前項の目的を達成するために」という文言を入れたことに示されています(芦田修正案といわれる)。それは、米国側草案のままでは、国家が本来もつ自衛権まで放棄してしまうということから、第一項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は永久にこれを放棄する」というのは、あくまでも「国際紛争を解決する手段」として放棄するものだと強調することによって、これが自衛権を放棄することを意味するものではないことを明確にしたものだとされています。
 また、普通の解釈では、自衛のために相手側の領土にある基地などを攻撃することも許されます。そこで、二項では「前項の目的を達成するために」に続けて「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とすることによって、日本は普通の意味での正式の軍隊はもたず、そういう軍隊を出動させる交戦権はないとしたのです。すなわち日本は、正式の軍隊ではなく自衛武力だけをもち、国外には出ず、ただ自国領域への侵略を撃退する撃退自衛だけを行うことができるのです。
 朝鮮、満州、そして中国本土まで日本の「権益線」だとして侵略し、日本を破滅させた胸痛い失敗を二度と繰り返さないために、先人たちは、世界の良心を信じ、自らはきわめて制限された極めて徹底した自衛、撃退自衛を世界に先駆け以身作則しようとしたのです。
 そこには、米軍占領下で作られた憲法ではあっても、日本の主権を守りぬこうという強い意志がこめられています。
 9条には、まさに日本の主権を擁護し他国の自主権も尊重する、主権擁護尊重の精神が込められているのであり、そこに9条の先駆性、進歩性の本質があると思います。

■アジア新時代の中で
 9条に示された撃退自衛の根底に流れる思想は、日本の主権を守り、かつ、他国の主権も侵してはならないという主権擁護・尊重の思想です。
 それは、今日、東アジア共同体構想との関係でますます切実なもの、ますます、その先駆性、進歩性が明らかにされるものとなっています。
 ASEAN諸国が進めている東アジア共同体構想は、中国やインドまで参加する巨大なものに発展しようとしており、独自通貨の創設やアジア安保を構想するまでに至っています。
 ASEAN諸国は安保共同体を実現する行動計画案を合意し協議を進めていますが、この5月、インドネシアが提案したPKO部隊を伴う平和維持センターの創設が反対されました。それは、ASEAN諸国が共有する、各国の主権を尊重することを基本にして、外部介入の不許可、域内の内政不干渉、紛争の話し合い解決などを内容とするバンドン精神とそれに基づくTAC(東南アジア友好協力条約)に合わないからでした。
 その根本的な考え方は、各国が自らの主権を守りながら他国の主権を尊重し互いに協力しあって発展をはかり、域内で問題が起きても外部の介入を許さず平和的に話し合って解決するというものです。
 これは他国に内政干渉し他国の紛争を利用して介入し事態をいっそう複雑にしながら自分の利益を追求してきた米国が、今や他国の主権などないがごときに手前勝手に他国を侵略していっているという現状を考えるとき、それとは正反対の非常に先進的な考え方だと思います。
 まさにアジア新時代と言える、こうした動きと対比したとき、日本の改憲への動きはどういうものに写るでしょうか。それは米国を背に負って、アジアを見下してきた日本が、ついには軍事的にも米国と融合し、その手先になってアジア諸国の主権を認めず、アジアと軍事的に敵対してこようとしていると写るのではないでしょうか。
 イラク参戦を契機にアジアの日本を見る目が厳しくなり、「日本はいつまで米国に追随するのか」「日本は分岐点に来ている、日本を見るアジアの目は厳しくなっている」という言葉が聞かれるようになったのもその現われでしょう。
 こうした中で改憲をして、どうして日本がアジアの信頼を得てアジアと共に生きていけるというのでしょうか。
 日本は決して改憲してはならず、平和憲法を守り、自ら主権を擁護しつつ他国の主権を尊重する立場に確固と立ってこそ、アジアの新しい時代的流れと合流していくことができるでしょう。


 
研究 −アジア杯に見る反日感情の高まり−

アジア・ナショナリズムとどう向き合うのか

小川 淳


 日本の対戦相手ならどこでも応援する中国人観客。試合前の「君が代」にもブーイング。スタンドの日本サポーターに投げつけられるペットボトル。中国で開催されたサッカー・アジアカップ大会は異様な雰囲気に包まれていた。
 決勝トーナメント一回戦、延長PK戦を劇的に制したヨルダン戦。10人で戦い、延長戦で劇的な勝利を収めた準決勝のバーレーン戦。8月7日北京、日本が圧倒した中国との決勝戦。どれも見ごたえのある試合内容で、したたかなジーコ・ジャパンの戦いぶりを堪能できたアジアカップだった。観衆のブーイングとアンフェアなジャッジという逆風の中で、一戦一戦を冷静に勝ちぬいた中村、玉田、川口選手らの精神力、集中力は、サッカーファンに語り継がれるだろうすばらしいものだった。
 しかし、「歴史を正視し、アジア人民に謝罪せよ。釣魚島を返せ」と書かれた横断幕に象徴されるように、この試合内容とは別の次元で、中国民衆のかつてない反日感情の高まりを日本人が直に感じた大会として、おそらく今回のアジアカップは歴史上に記憶されるのではなかろうか。
 「政府はしっかり抗議すべきではないか」「中国で行われている反日教育の結果ではないか」「果して北京五輪が開催できるのか」。8月4日の自民党役員連絡会では、中国への正式抗議を求める声が相次いだ。細田官房長官も「非常に遺憾な状態だという人は多い。両国で検討も必要ではないか」とし、政府間協議を行いたいという考えを示した。
 石原都知事は、今回もさっそく「中国人は民度が低いから」というコメントを出した。それらがいっそう中国民衆の感情を刺激する。
 この反日感情の急激な高まりをどう見るべきなのか。
 「中央公論」9月号は、「東アジア・ナショナリズムの危険性」という特集を組み、反日感情の急激な高まりの背景として、反日教育を核とした「愛国教育」の存在を指摘している。
 中国のナショナリズムの高まりを危険と見るのは、おそらく日本の戦前のナショナリズムを想起しながら、「ナショナリズムはどのようなものであれ危険なものだ」という強い先入観からきているからだろう。しかし、アジア・ナショナリズムと日本の戦前のナショナリズムを同一視することが正しいのかどうか。
 戦前のナショナリズムは、大和民族こそ世界で一番優秀な民族とし、日本人がアジア人の上に君臨し、虫けらのように人の命を奪い、焼き、殺させてきた思想である。むしろ、そういう戦前のナショナリズムを戦後半世紀過ぎても日本は克服できずにいるのではないか。例えば、小泉の靖国参拝であるとか、教科書の改ざんであるとかを日本はきちんと清算できずにいる。中国人サポーターが「問題視」しているのは、ますます右傾化しつつある日本のナショナリズムに対する警戒と不安感の表明であって、これを日本の反動的ナショナリズムと同一視するのは正しくない。
 「東アジア・ナショナリズムの危険性」という論調の裏には、日本はすでにナショナリズムを克服した、中国は遅れている、日本の経験に学び中国も大人になるべきだ・・・というようなアジア・中国人を見下した日本人の傲慢な姿が透けて見える。
 アジア民衆の中に渦巻く反日感情、これを危険と見なすのか、それともアジア民衆の目に映る日本の姿こそ危険だと見るのかでは雲泥の差がある。
 対米追随を深め、ブッシュの戦争に自衛隊を派遣し、その手先のようになり、一方、経済的にはますます対米融合する日本。そして、米国という強者にくっついてアジアを見下す奇妙な「ナショナリズム」が跋扈している日本。
 アジア・ナショナリズムを安易に批判することは、日本のこの反動的現状を肯定してしまうことにつながってしまう。むしろこちらのほうがはるかに危険だ。
 ナショナリズム的な感情はなくそうとしてもなくすことはできない。克服するとか、なくそうとかするのでなく、それを正しく理解し、正しいナショナリズムをもつようにすることこそが問われているのではなかろうか。そのためには、どの国の人々も自分の国を愛しているという、その気持を理解して相手を尊重することが大事だと思う。真のナショナリズムは、大国であろうと卑屈にならず、小国であろうとさげすむことをせず、相手を尊重する、そいうものでなければならないと思う。
 スポーツの世界に露骨に政治を持ち込み、他国の旗を焼いたり、国歌にブーイングというような行為は、どのような政治的背景があるにせよ、すべきではなかった、という建前では何も解決しない。スポーツの世界にまで政治が土足で這い上がってくる。それが東アジアであり、この歴史の複雑さ、渦巻くナショナリズムを無視しては何も始らない。このアジア・ナショナリズムとどう向きあうのか。
 アジア・ナショナリズムはアジアの至る所で、とりわけ米一極支配に抗する形で噴出している。アジア・ナショナリズムとどう向きあうのかという問題は、アジア・ナショナリズムを危険と見なすのか、それともアジア新時代の一つの現れとして肯定的なものと見なすかという問題である。
 米一極支配に反対し、米国の手先になりながらアジアの国々で収奪、搾取を強める日本に反対するアジア・ナショナリズムの真髄を正しくつかみ、それに対してはまず自らすすんで戦中、戦前におかした誤りを正式に謝罪することからはじめなければならないだろう。


 
文化

女子バレー再生にみる新しい指揮

若林盛亮


 女子バレーが注目されだしたのは、五輪出場権獲得をかけた五月の大会でのめざましい活躍ぶりからだ。伝統の日本バレーは長い沈滞期にあった。8年間、女子は五輪出場権すら逃していた。新生日本女子代表は、185センチを越す若き大型新人「メグ・カナ」−栗原恵、大山加奈を主砲に起用、五輪出場で日本バレーに転機をもたらした。
 その躍進の要因は、柳本監督の独特の指揮方法にあると言われている。
 柳本式の指揮の出発点は、体育会系にありがちな「俺についてこい」式を大胆に転換し個の主体性重視にしたことだ。当初、古い方式を踏襲した柳本は、「俺についてこい」式が女子代表の能力もあり自意識も強い若手選手に通用しないことを痛感する。練習に姿を見せなくなったり、やめていく選手が出るようになった。彼は方針を180度転換、選手の主体性に任せる決心をする。
 若手の多いチームのリーダーとして五輪経験のある34歳の吉原を召集、彼女がチームをひっぱる。早朝練習もまずキャプテンが自主的に始め、やがて若手がそれに続く。監督が選手の前に出て指図する時間帯を極力、減らし、ライバルチームのビデオ研究なども自分達で討議させ結果を聞く。
 司令塔とも言うべきセッターには、159センチの小兵で、前回シドニー五輪出場を逃し「戦犯」扱いを受け現役を退いていた竹下を呼びもどした。かつて彼女のトスは、自分の意に沿う攻撃を求める鋭いトスと言われた。辛酸をなめ復帰した彼女のトスは、各アタッカーの個性、心理、体調まで考えた柔らかいトスに変化していた。
 柳本式指揮の第二は、個々の個性、主体性を尊重しつつも、一つの目標によるチームの強い統一だ。新生日本女子代表の目標は「世界でメダルをとれるチームへの改造」であり、柳本は、「金メダルだけをめざす」という高い目標を掲げ意識のばらつく若いチームの統一を図った。もっとも神経を使ったのは、控え選手の意識、そのモチベーション低下がチームの意識統一を乱すことだった。その対策として代表メンバーを固定せず、出場選手名も直前まで明かさない方式をとり、竹下の控えが決まっているセッター辻の練習にはきびしく当たり、レギュラー同様のメダル獲得意識を持たせた。
 「話を聞く」が最近の指導法と言われる。柳本式指揮は、「俺についてこい」式、滅私奉公型の「日本型集団主義」的指揮から21世紀の新しい世代に合う指揮への転換、個人の自主性を生かす新しい指揮の方法論を示唆しているように思う。
 結果は5位。初舞台の予選競技では「どこかちぐはぐ」というもろさも出た。でも五輪出場で満足しかけていた選手たちに上位進出をめざす意識と力を育み、国民に次回北京への夢を抱かせた。


 
朝鮮あれこれ

ピョンヤン釣り事情

田中協子


 この頃、知人がずいぶん日焼けしているので、海水浴にでも行ったのかと聞くと「アーニ、ナクシテムニジョ!(いいや、釣りのせいだよ)」と言う。聞けば、釣りにハマって暇さえあれば自宅から30mほどのポトンガン(普通江)で釣りをするのだそうだ。「川面から1m空間は最高のイオン層。食欲増進と快眠で健康になった」との言。なるほど、以前より顔の色つやがとても良い。
 ピョンヤンは市の中心をテドンガン(大同江)とその支流である普通江が流れ、至る所で釣り人の姿が見られる。休日はもちろんのこと平日も日の出、日没前のゴールデンタイムを狙って釣りに興じる老人や勤労者、子供たちの姿が見られる。フナ、コイ、ボラ、カムルチー、たまにスッポンなども獲れる。餌は主にミミズだが、スッポンには貝。中でもコイを狙う釣り人は餌にたいそう凝る。一例として、茹でトウモロコシを発酵させ煎ったゴマや豆、蚕の幼虫など潰し混ぜ粘土で固める餌作りを聞いた。独特な臭みと香ばしさで釣り上げるコイは大きいのだと長さ1m、20kgもある。以前、日本からの客人用にと獲ったばかりのコイを釣り人から買い受けたことがあるが、それも90cmはゆうに越えていた。
 「釣り好きは女房も忘れる」と朝鮮ではよく聞くが、釣りの醍醐味は何なのだろう? 知人によれば「何と言っても釣り上げる時の魚とのゾクゾクする格闘だ。最高の快感」と言う。これはおそらく万国共通のものなのだろう。
 ところで釣り上げた魚はどうするのか。少し前、食糧事情の厳しい時は食の足しに釣る人もいた。今はその道のプロが市場で売る以外、大体の市民は趣味で釣っていて、時々家に持ち帰って天ぷらやタン(湯=スープ)にして食べるようだ。雑魚は飼い鶏の餌にもする。知人の場合、釣り魚を冷凍し一定量貯まった時、職場の仲間と一緒に辛味噌のタンで食べるそうだ。これがまた楽しいという。
 今、朝鮮の釣り人口は確実に増えている。テレビでも情緒生活として釣りを奨励している。毎年、「釣り愛好協会」主催の「全国釣り大会」も開かれ、この8月末も大同江で競われた。競技は数、重量、サイズの3部門で、釣り糸を定位置に投げ入れる「技術賞」もある。昨年の大会では女性が技術賞を取ったことで話題になったという。


 
 

編集後記

魚本公博


 アテネ・オリンピック、日本選手の大活躍にすっかり夜更かししてしまいました。
 今回のアテネ大会でもドーピング、肥大化、商業主義などが問題になりましたが、これまでとの大きな違いは「戦場の中のオリンピック」ということではなかったでしょうか。会場上空には監視のための飛行船が浮かび、周辺にはパトリオットが配備され、街中にも監視カメラが設置され、選手村では選手一人に7人の割合で兵士が配置されたそうです。
 ブッシュの反テロ戦争は、世界にテロを拡大し、日常の中にも戦争をもちこみ、平和の祭典であるべきオリンピックも硝煙匂うものにしてしまったようです。
 会場のあちこちで見られた米国選手に対するブーイング、それは世界を、五輪をこのようにしてしまった米国という国への抗議なのでしょう。
 平和の祭典であるべきオリンピックを通してみる世界の実相。日本選手の活躍に喜んでばかりもいられないような気がします。


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