研究誌 「アジア新時代と日本」

第146号 2015/8/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 違憲の安保関連法案を廃案に! 民主・平和・自主の日本実現へ!

我々の戦後70年談話 「戦後からの転換」へ闘いは始まっている

戦後70年に思う(5)「被爆70年」被爆者として思う

時評 戦後70年 チャンスだ 普三お坊ちゃま

議論 ギリシャ問題に何を見るのか

時評 好戦的安倍内閣の終劇到来!




 

編集部より

小川淳


 いよいよ「危険水域」へと向かう安倍政権
 最近は週刊誌が元気だ。大甘な日本のメディアが書かないことも書く。世論の微妙な変化を嗅ぎ取る臭覚も鋭く、安倍批判の筆鋒がなかなか冴え渡っている。
 「安倍自民大敗!もし今、衆参ダブル選挙なら自民は衆院で100人が落選する」という「週刊ポスト」最新号の記事もその一つだ。
 支持率の急落、続く側近の失態、「70年談話」のボルテージは下がる一方だ。街頭では連日、数千、数万の「アベ辞めろ」の声が連呼している。安倍政権がいよいよ「危険水域」に入ってきたようだ。政治生命を賭けた安保法案も強行採決するなら支持率は30%を割る。米議会で「公約」した法案成立を断念するなら政治生命はない。「行くも地獄、退くも地獄」と「週刊ポスト」は評する。
 自民にとって脅威は創価学会票の行方だ。これまでは公明党支持者は小選挙区では自民に投票してきた。ところが安保法案でこの情況は一変した。
 これまでの公明党の得票は800万票、小選挙区の自民得票の2万〜3万票は学会票だという。昨年の総選挙で議席を獲得した自民議員の内、僅差で勝利した議員は100人近い。もし公明票の半分(400万票)が自民から離反しただけで彼らの議席は一気に危うくなる、というのがポストのシミュレーションだ。
 公明党が平和の看板をすてて安倍政権を支え、安保法制のブレーキ役ではなく、推進力になったことで、「公明党から裏切られた」と思う良心的な学会員は少なくない。実際に、安保法案反対のデモに参加する学会員の姿も目に見えて増えている。
 法案に反対する「有志の会」も発足した。
 7月20日には東京の学士会館にノーベル賞受賞者の益川さんら「安保関連法案に反対する学者の会」150人が記者会見した。賛同する学者はどんどん増え、すでに1万3千人を超えている。街頭では、大學生のSEALDs、高校生、ママさん、OLDs、MIDDLEsなど、これまでに見たこともない「新しい運動」のうねりが作り出されている。労組や政党が中心のこれまでの運動(60年安保、70年安保闘争)とは全く違った様相だ。市民、個人が主体となり自らの言葉で語り、訴える。だから彼らのデモやアピールは人の心を動かす力がある。すばらしいことだと思う。
 8月30日には、「安保反対10万人デモ」が国会周辺で予定されている。「安倍官邸が怯える8月30日 安保反対10万人デモの破壊力」(日刊ゲンダイ)。「安保法制」廃案へ、安倍退陣へ、この夏の闘いは、いよいよ最大の山場を迎える。



主張

違憲の安保関連法案を廃案に! 民主・自主・平和の日本実現へ!

編集部


 前号にて、憲法を憲法として尊重していくすべての勢力を結集する尊憲国民戦線を形成し、安保関連法案を廃案に追い込むことを訴えた。その後の事態は、違憲の安保関連法案に反対する国民の声がいっそう高まり、民主党、共産党など野党が国民世論と共に違憲をもって安倍政権と対決していくという方向に向かっている。
 安倍政権の支持率が急速に下がる一方、安保関連法案反対の闘いは、「安倍政権、NO」のプラカードが国会を包囲し、全国で学生、学者、そして母親、高校生まで立ち上がるほど高揚している。
 戦後70周年を迎えるこの夏、安倍首相は安保関連法案を突破口に「戦後レジーム」からの脱却と称する憲法の全面的な否定をおこなおうとしている。それにたいし国民の側から日本の在り方を問い、平和憲法を守り、その理想である民主・平和・自主の実現のための新たな闘いを拓いていくことが、問われているのではないかと思う。

(1)高揚する安保関連法案反対の闘い

 この間の闘争の盛り上がりは瞠目すべきだ。その特徴の第一は、政治的主義主張にとらわれない普通の人々が、自ら行動を起こしていることだ。学生、学者、女性と主婦、そして高校生をはじめ各層の人々が、自発的に立ち上がり、民主主義や平和を、日本の未来を語り、人々に呼びかけている。とりたてた組織動員もないのに、自発的な行動が共感を生み、拡大していっている、そういう意味で文字通りの国民的な運動になっている。
 第二の特徴は、なんらかの理念、理論からではなく、人々の自身の生活の要求から民主主義や平和について率直に語るゆえ、きわめて明白で根本的で、かつ高い思想的内容をもっていることだ。
 第三の特徴は、民主主義や平和、自主などから日本の在り方を問う運動になっていることだ。戦争や原発のない、一人ひとりを大切にする社会をめざし、未来を語り始めている。
 広範な国民大衆一人ひとりが立ち上がり、自らの生活の要求に根ざした新しい内容で民主主義の擁護、平和の実現、自主を訴え、日本の在り方を問うていること、ここに違憲の安保関連法案を国民の力で廃案に追い込むというだけでなく、日本の民主、平和、自主への理想の実現を拓いていく希望があると思う。
 戦後70周年を迎え、安倍首相が民主と平和、自主を完全に否定しようとしている今、それに対し国民の大多数が安保優先の過去と訣別し、新たに憲法を擁護し、真の民主・平和・自主の日本への闘いを開始したところに、その限りなく大きな意義があるといえるのではないだろうか。

「決めるのはわれわれ国民だ」
 「一法案に憲法を従わせるのは民主主義の否定だ!」「集団的自衛権行使容認の法案は違憲であり、それを成立させるのは立憲主義の否定だ!」という怒りの声が渦巻いている。16日の衆院強行採決にたいし学者の抗議声明には1万1218人が賛同し(7月20日現在)、18日全国で「アベ政治を許さない」というプラカードが街頭を埋め尽くした。地方議会からも325にも及ぶ安保関連法案反対、ないし慎重の意見書が届けられている。
 しかし、安倍首相は、衆院にひきつづき参院でも過半数の議席をもっての強行採決か、もしくは、衆院優位の60日ルールを使って成立をはかろうとしている。違憲の法律を成立させればそれは立憲主義という民主主義の否定であり、クーデターにも等しいことだ。
 安倍首相は「どこかの段階で決めるべき時は決めていく。これが民主主義の原則だ」というが、それなら「安倍首相が決めると判断した時に決まる」ということはではないか。ということは、「民主主義」が安倍独裁のための飾り物でしかないということだ。
 「安倍首相、二度と戦争をしないと誓ったこの国の憲法は、あなたの独裁を認めはしない。国民主権も、基本的人権の尊重も、平和主義も守れないようであれば、あなたはもはやこの国の総理大臣ではありません」。
 これが学生、主婦、働く国民の声だ。それは、代議制という形式に民主主義があるのではなく、民意を実現することにこそ真の民主主義があるということ、その真の民主主義は国民一人一人の力で勝ち取るものだということを国民自身がはっきりと自覚していることを示している。

「戦争法案、絶対反対」
 「子供を死なせる世の中にしたい母親は世界のどこにもいないはず」(主婦)。
 「この法案を止めることに歴史的な責任がある。第二次大戦で地獄のような体験をして、その結果つかみ取ったのが平和憲法だ。戦後70年の年にそれを投げ捨ててしまうのは、日本にとって大戦の意味が失われることになる」(栗田禎子千葉大教授)。
 悲惨な戦争体験から不戦の誓いを国是としているのが日本国憲法九条だ。「積極的平和主義」であれ「抑止力の強化」であれ、その欺瞞性を見抜き、いっさいの戦争に反対しているのがわが国民だ。実際、これまで防衛、世界平和、人道などあらゆる口実で起こされた戦争はいずれも侵略戦争であり、国を崩壊させ人々に大きな犠牲を強いてきた。それゆえ、アメリカの戦争を共同で行う、などということはとんでもないことだ。
 一切の戦争に反対し、平和国家日本を守り抜く、という国民の意思、それが今日の平和への強い要求となっている。

「自主への要求」
 安保関連法案の複雑な内容、根拠のない合憲説、米軍への攻撃に対する反攻撃をいいながら「専守防衛は変わっていない」という詭弁、違憲論議を避けて安保上の議論ですませようとする姑息さ、そして自分だけが正しく自分で決めようとする独裁、こうした安倍政権のでたらめさと強引さ、主張をころころ変える変節ぶりはどこから来るのか? それは、アメリカの要求によって安保関連法案を<なにがなんでも>成立させようとしているところから来る。
 「(安保法案の目的は)世界の安全保障で米国の肩代わりをすること。安倍首相は米国の意向に安易に乗った」(藤井裕久元財務相)。そのアメリカのための安保法制法案をあたかも日本の防衛のためだとするところに根本的な矛盾がある。もし本当に日本の平和と安全のための防衛論議であれば、建設的な論議がなされるだろう。
 アメリカの要求によって日本の憲法が否定されようとしていること、米意をあらゆる反対を押し切って成立させようとしていること、ここに安保関連法案の重大な問題点があるといえる。
 それが日本の自主の否定であり、民主の否定であり、平和の否定だというのは言うまでもない。

(2)尊憲を掲げ、民主・平和・自主の日本を!

 戦後の歴史は憲法より安保優先の歴史であった。それゆえ、憲法前文に示された民主・平和・自主の民意が踏みにじられた歴史でもあった。
 それが戦後70年の今、安倍政権がアメリカの言いなりになって、違憲の安保関連法案の強行採決によって民主・平和・自主の完全否定にまで至っている。
そのことは、労働関連法の改悪や福祉医療制度の改悪、農業の切り捨て、税制など、すべての分野において憲法理念の否定をおこなっていることにも表れている。
 まさに、「民主主義を求める民意」と「独裁」が衝突し、「絶対平和を願う民意」と「戦争」が突き当たり、脱覇権時代において「自主を志向する民意」と「米意」が激突している。
 戦後70年を迎え、問われているのは、憲法否定の安保関連法案を廃案に追い込むだけでなく、この闘いを発展させ、対米従属の覇権国家の歴史に終止符をうち、真に民主主義的で、平和な自主的国家の建設という日本の在り方の転換を拓いていくことだと思う。
 その旗印は憲法を憲法として尊重し、実現していこうとする「尊憲」だといえる。なぜなら、憲法にこそ民意が反映された民主・平和・自主の理想が込められているからだ。
今日、民主・平和・自主の憲法の理念はより国民自身のものとなっており、新しく切迫した内容で憲法を尊重し、実現していく「尊憲」が掲げられていくべきだと思う。
 独裁、侵略戦争への加担、対米従属の歴史を終わらせ、「尊憲」を掲げ、その理想の実現をめざして闘っていくときが来たといえる。その勝利の鍵は、国民一人ひとりが立ち上がり、その民意と力をひとつに結集していくことだと思う。



我々の戦後70年談話

「戦後からの転換」へ闘いは始まっている

「アジア新時代と日本」編集部


 「戦後70年」を振り返るとき、さまざまな視点がありうるだろう。その中で一つ重要だと思うのは、アジアからの視点だ。
 私たち日本人が戦後の「原点」として認識しているのは、侵略戦争への反省であり、侵略戦争とは具体的にはアジアへの侵略であった。そのことを考えると、アジアとの徹底した信頼関係構築は、「平和国家建設」とともに戦後のもう一つの起点なのではないか、と思うからだ。
 何よりも私たち日本人が希求したものは、平和だった。二度と戦争はしないという強い決意、それが日本の戦後の出発点だった。
 戦後の国づくりの支柱となったのも、平和だった。憲法や民主主義、基本的人権の保障もすべてそこから出発している。
 憲法9条や民主主義制度がアメリカから「与えられた」ものであれ、私たち日本人はそれを受け入れ、70年の間、改憲に反対し、憲法を支持してきた。その事実一つとっても、憲法は与えられたものでなく、私たちが自らの意思で「選択した」ものだと言える。
 70年を迎える今、私たち日本人はアジアとの関係改善は進めることができたのか。言い換えるなら、アジアの人々は、今の日本はどのように見ているのだろうか。
 村山談話や小泉談話は、さまざまな圧力や反対の動きがある中で、日本政府として先の大戦を侵略戦争と認め、その反省と侵略したアジアの国々に謝罪を述べる、という意味においてきわめて重要な歴史的な「談話」であったことは間違いない。
 その中で繰り返されるのは、廃墟中から蘇った「豊かな日本」というフレーズである。確かに日本人はたゆみない努力によって、アメリカの加護の下にあったことを差し引いても、豊かさや経済大国を手に入れた。そのことは誇って良い。戦後70年という言葉から多くの国民がまずそのことを実感しているのも間違いない。
 一方、アジアとの関係で私たち日本人は、何を獲得したのだろうか。アジアの人々からの信頼や友情、尊敬というようなものを日本人は獲得したのだろうか。それについては「貧困」そのものではないのか。
                周知のように、冷戦時代を迎え、わが国の前には「二つの道」が提示されていた。戦争への痛切な反省と平和への決意を具現した憲法9条の求める平和で民主的な日本を作っていくのか、それとも、冷戦時代の東西対立の中で、アメリカとともに再び覇権国家の道を歩むのか、という二つの道だ。冷戦の勃発ともに戦後日本が選んだのは国民の望む方向とは逆に、アメリカの要求する覇権国家への道だった。
 確かに戦後の70年間、日本が戦禍にまみえることはなかった。しかし憲法9条の下で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク、アフガン戦争など米国の覇権戦争に積極的に加担し、日本の基地が兵站基地として使われてきた。それが戦後の日本の本当の姿だった。
 私たちは真の平和国家建設も、アジアとの関係改善も成し遂げることができないままにいる。なぜなのか。
 平和という言葉の対極にあるのは戦争だ。そして戦争を生み出すのは、他国、他民族を支配しても構わないという覇権思考に他ならない。戦前の日本軍国主義のアジアへの植民地支配や侵略も、戦後のアメリカの戦争への加担も、この覇権という思考が生み出したものだ。覇権のあるところに必ず戦争がある。
 私たち日本人は「戦争」そのものに対する反省はあっても、覇権そのものに対する反省や清算は不充分なままだ。戦後のアメリカとの関係が対等なものにならないのも、戦前のアジア侵略への謝罪が徹底せず、中途半端なのも、そこに起因している。
 戦後70年を経てもなお、日本人が積み残した「戦後」が多く残されている。普天間に象徴される沖縄(琉球)の「基地問題」はその最たるものだ。あれほどの悲惨な被害を被ってもなお再稼動されようとしている「原発」もその一つだ。アジアとの間には修復不能なほど大きい亀裂が広がり続けている。そして専守防衛から「戦争できる国」へ、「安保法案」の暗雲が今、全土を覆っている。
 これら積み残された「戦後問題」の全てが、アメリカとの従属的な関係から生まれていることを、改めて認識する必要がある。
 覇権と対米従属からの転換、「戦後」からの転換は、そこからしか始まらない。それなしに新しい日本も、アジアとの関係改善もありえない。
 70年を迎える8月、私たちはこれまでにない「熱い夏」を迎えている。沖縄辺野古で、鹿児島川内で、そして全国で反「安保法案」、「憲法を守れ」、反安倍の狼煙が上がっている。戦後からの転換の闘いはすでに始まっている。


 
戦後70年に思う(5)

「被爆70年」被爆者として思う

高木静子


 『アジア新時代と日本』第74号に、『ヒロシマの今』を問ゔとして、小川さんが我が家で、被爆体験を聞いてくださってから、はや6年という歳月が流れた。あの時、小川さんは「高齢に加えて、被爆者ということで、インタビューは可能だろうか?」と心配されていた由。今年は、被爆70年。私は87歳である。
 原爆のあの日、沢山の死体の中で、一人生きていた感覚は、忘れようとしても、忘れることはできない!
 私の体は、この2年間でも、6回入院し、心臓の冠動脈には、動脈梗塞で、ステントが3本も入っているし、胆管関係の手術も3度。でも、再び元気で、「被爆体験を!」と求められて、学校講演に出かけている。勿論、座って話すことはない。日々のスクワットで脚を鍛えながら、起立で語っている。
 被爆体験を語って、一人一人の感想が、どれ程、私を励ましてくれただろうか。沢山の御礼を言わねばならない。その中でも忘れることのできない一つを記しておく。
 もう古いことであるが、関西空港に近い中学校で話した時のこと。教師が「動いてばかり、お話を十分聞けない子がいて…」と、気遣ってくれていた。その通りだったが、私には、耳をそばだてて聞いていることがよく解った。終わって教室に入り、感想用の原稿用紙が配られた時、「一度も作文を提出したことがない、宿題もしてきたことがない」と言われていた男の子が、まっ先に、鉛筆をとって書いた。『ぼくのおかん(お母さん=この地方の方言)が高木さんみたいにならんでよかったと思います。高木さん、よその学校でも話してあげてくださいね』と…。何と優しく、嬉しい言葉。沢山の立派な感想文の、どれにも増して私の胸にこたえた。
 「被爆者自身による、被爆者のための相談事業」も、10年前に終わった。大阪市に在住したすべての被爆者が、厚生省から出される何らかの手当てを得た。特に、原爆症認定は、広島、長崎および東京都の6・6倍で、近隣の兵庫、奈良にも手を差しのべた。その間、相談事業を中心にした65冊の冊子を出版することが出来、私自身の被爆体験を中心に『ヒロシマを超えて非核平和に生きる』を最終にした。ヒロシマ平和祈念館をはじめ、国会図書館、府立図書館、公文書館等々にも置かれるようにした。
 しかし、これまで、どこにも書くことなく今日に至ってしまった私の心の一つを、ここに記しておきたいと思う。
 あの戦争で、320万人という日本人が死んだということは、誰もが知っていることと思う。私も、危うく、その一人になるところであった。それは、昭和天皇によって始められた戦争による犠牲だ。しかし、その昭和天皇は、何ら、その罪を問われることなく在位した。敗戦、傷だらけの顔!原爆症による苦しい日々が続いた私に、「日本国憲法」が渡された日のこと。私の目に先ず入って来た文字は、「第一条 天皇」であった。320万の国民を殺したその罪を問われることなく<象徴>という地位を与えられて存在していた。私は「日本国憲法」を読むことなく捨ててしまった。弟九条という"平和条項"があることを知ったのが何時だったのか? 覚えていない。女高師の理科主任だった星野教授(原爆5日後、吉島飛行場で、私を見つけてくれた)は、私を慰めるように「君の心は、私には解る。だがね、日本人の心は、なかなか変えることは難しいんだよね」と、まだ傷だらけの私の顔を見つめながら言われた。
 私は、今にして、さまざまの本を読み、万世一系の天皇とは何か知ったところだ。
 "原爆症"とは何か? 亡き夫が早くから研究の必要性を説いたが、よく解らないままである。被爆者の事を、被爆者自身も含めて研究していたなら、原発問題にも役立ったと思う。
 生物学の片隅に存在しているのかも知れない私の思うこと。ヒトには、生物界の一員として、Homo sapiensという学名があたえられている。本当にその通り叡知の人なら、戦争=殺し合いなどしないであろう! 地球上に国境など無くして、核兵器も被爆者も存在しない、美しい自然の中で、きっと豊かに暮らせるだろう! それは、はるか遠い未来の夢!!
 今、日本国に、安倍晋三という、とんでもないおバカさんを首相にしておいてはいけない! 戦争への道を往ってはならない!!



時評

戦後70年 チャンスだ 晋三坊ちゃま

平 和好


かわって来た潮目
 順風満帆、やりたい放題だったはずの安倍首相の前途は真っ黒な分厚い雲に覆われた。詳しく言わずとも、ボロボロの状態である事は明らかだ。「なんでこんな事になったのか」と思うかもしれない。しかし、それは自然現象ではなく、全て自分の行いから発生した事ばかりなのだ。無理やりに自分の考える「平和安全保障」を押し通そうとした結果が戦争法案であり、すでに破綻が明らかな原発経済、軍需産業頼り、そしてアベノミクスも破綻が見えてきている。

バブルに消えてしまったかもしれない年金積立金
 国民の命綱である年金積立金を膨大に使って株買い支えをやったつけは来るし、それ以前に経済効果などほとんどないことがバレて来ているのだ。家計が苦しい時に金融業者から借りてきたお金で優雅に暮らすと遅くとも何年か後には必ず家計が破産するのと同じだ。大事な年金の積立金が無くなったことを知った民衆の怒りは、いかばかりだろうか。

戦争法実施の費用は誰が出すのか?
 さて、戦争法の審議で意外と聞かれないのが、アメリカ軍のお手伝いをするための費用が何兆円でそれを負担するのは誰かと言うことである。平和安全銀行などあるはずもなく、その費用は福祉や教育や住民サービスを削るしか出しどころはないのだ。これは恨まれるで、首相。

四面楚歌
 鉄壁だったはずの与党内にもすきま風が吹き始めた。反戦デモに三色旗を掲げた創価学会会員も出てくるようになっている。肝心の与党議員は暴言・不祥事の連続で内閣と戦争法案の足を引っ張ることしかできない。自民党の長老(前)議員も次々異論を出し始めている。  だが、切り開く活路は見えていないこともない。 首相は今や四面楚歌であり、「また病気退陣?」とか「人気回復に電撃訪朝か?」と書くメディアも出ている。待てよ、その手があったではないか?! 安倍チャン、打つ手はあるぞ。病気を装って引っ込むのもよし、一部の方々には信義を欠くことになるが、電撃訪朝して一気に朝鮮民主主義人民共和国との国交樹立、その足で9月の中国戦勝70周年式典に参席して人民解放軍のパレードを参観しながら日中友好未来志向をうたいあげるのも窮余の一策としては最高だろう。両国とことを構えようとすると膨大な戦費や、アメリカへの用心棒代=ミカジメ料が必要だが、これならはるかに安い出費で済み、日中朝韓台の連合ができたらEUに匹敵する。アメリカも「まいった」としか言えないはずだ。

青は藍より出てて藍より青し
 極右が「裏切り」と罵るって?!「これが現代の五族協和・大東亜共栄圏です」と言っておけば良い。ついでに「陛下も内心、ご了解くださいます」と、お得意の「断言」をすれば思考力ゼロの者たちは黙り込むしかない。 私? その時はもちろん安倍首相閣下に「脱帽」しますがな。



議論

ギリシャ問題に何を見るか?

KT


 今日、ギリシャ問題が大きな問題になっている。と言っても、今に始まったことではない。6年前、その財政赤字がGDP比3%以内というEU取り決めを大きく踏み出し13・6%に達していたのが明るみに出てからのことだ。以来、米格付け会社によるギリシャ国債格下げ、ギリシャの資金調達難とEUへの金融支援要請、EUによる財政緊縮策要求とそれに従ったギリシャの年金、公務員雇用、港湾など国営事業、等々、歳出の大幅削減、一連の緊縮策にともなう国民生活の劣悪化と経済の縮小。打ち続く負の連鎖は、今日、GDPの4分の3への低下、若者の失業率50%、歯止めの利かない頭脳流出などとなって現れている。
 生活と経済を破壊し、国と社会の崩壊をもたらす緊縮財政に反対するデモと暴動。その高揚の中、今年一月、ギリシャ国民は「反緊縮」を掲げるチプラス急進左派連合政権を生み出した。そしてEU提示の緊縮策をめぐる国民投票での60%を超える圧倒的「NO」の意思表示。
 事態のこうした展開に直面し熱を帯びてきているのが、ユーロという単一通貨と国毎に異なる経済、財政のあり方や、それと関連して、EUをなくすのかそれともEUの完全な政治的、経済的統合を実現するのか、等々をめぐる大議論だ。
 だが、ギリシャ問題は本当にそのように提起されているのだろうか。ギリシャ国民の要求から見たとき、問題はまったく違って見えてくる。
 「従属か革命かなら、自分は革命を選ぶ」。ギリシャ国民の間に広がるEUによる緊縮策押しつけへの怒りの爆発は凄まじい。しかし一方で、彼らがEUからの離脱を積極的に求めているのでないのも事実だ。彼らが怒っているのは、EUそれ自体ではなく、その政策に対してだ。
 そもそもギリシャの経済がおかしくなったのは、1980年代初、EUの前身、EEC(欧州経済共同体)の「共通政策」を受け入れてからだった。農業では、スペインやイタリアなどとの競合を避け、オリーブなど主要作物からリンゴなどへの転作が「補助金」と引き換えに要求され、その結果、農産物輸出国だったギリシャの輸入国への転落、海運と観光くらいしか見るべきものがない産業構造への転換が生み出された。そして、2000年代初、ユーロ圏への加盟と04年アテネ五輪を背景とする好景気、膨らんだバブルが、リーマンショックとともにはじけ、EU規定をはるかに上回る財政赤字とその隠蔽、その露出と米格付け会社による国債格下げへとつながっていった。
 しかし、元来、EUなど地域共同体と国家主権は矛盾するものなのか?EU自体、第二次大戦への反省から、ヨーロッパ諸国が対立ではなく協調して平和と繁栄をともに築く趣旨で創られたものだった。それがなぜ国家主権を制限し、経済・財政政策を加盟各国に押しつけるものになってしまったのか。その背景には1970年代後半からの米覇権回復戦略、新自由主義、グローバリズムの影響がある。国と民族を否定し、あらゆる集団と規制を否定して、ヒト、モノ、カネが国境を超え自由に往来する徹底した自由競争、弱肉強食を推奨するこの究極の覇権主義が「時代の新思潮」としてEEC内に浸透させられた。それが共同体の解体かグローバル統合か、そのいずれに至るにせよ、陰に陽に共同体形成を妨害してきた米覇権回復戦略に有利に作用するのは自明のことだ。
 ギリシャ問題の解決のため今求められているのは、もちろんEUの解体でもグローバル統合でもない。主権擁護実現を目的意識的に追求する共同体への改編だ。
 そのための闘いは、すでに始まっている。それは、現時代の基本趨勢である覇権グローバリズム対反覇権民族自主の闘いの一環として、全ヨーロッパを覆っている。主権制限のEUからの脱退を唱えるフランス国民戦線など、ヨーロッパ全域に広がる「脱退」への民意の高まり、EUの存在に依拠しながら、イギリスやスペインなど「支配国家」からの独立を追求するスコットランドやカタルーニャなど民族自主の国民的闘いの広がりは、そのことを示している。また一方、チプラス政権が進めるロシアなどBRICS、発展途上国との連携の強化も、EUの建て直しのためプラスに作用していくのではないか。
 ギリシャ問題に何を見るか。米覇権回復の下、国も民族もないグローバル世界か、それとも、民意が動かす、主権と地域共同体の新世界か。議論が待たれていると思う。



時評

好戦的安倍内閣の終劇到来!

林 光明


 文化人、知識人、多くの野党政治家と一部の与党政治家のみならず、勤労者や主婦たち社会人、そして遂には高校生・大学生等の学生までも怒らせた与党安倍政権。何と、安全保障関連法案に対する国民の理解を妨げているのは、左翼傾向のマスコミが悪宣伝をするからだと事実上の逆ギレに至った。自民改憲派の勉強会?『文化芸術懇話会』での講師百田尚樹の沖縄の2新聞を潰そう発言には笑ってしまう。一体、百田は現在をいつの時代と考えているのだろう。沖縄の地元紙が政府に批判的との現状について、『沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ』と言ったそうだが、ここまでくると滑稽でしかない。
 百田のような連中の頭には、仮想敵国時代のソ連・東欧共産圏が古い大脳皮質にこびりつき、片時も離れない。世界の趨勢が調和と協調に大きく回転を始めた事実に感覚が付いていけてない。平和を希求するなど綺麗ごとの嘘っぱち、地球は各国の支配欲が渦巻く魑魅魍魎の世界に他ならず、我が国も遅れをとってはならず、中国も『イスラム国』も一緒くたにして、『世界を取り締まる米国艦隊』のアジアで唯一無二の強力な右腕となってその国力を全世界に誇示しよう…そんな本音をひた隠しにしての極右作家の「憂国」妄言に、現在の国民があっさり乗るとでも思ったのか。さすがは『永遠にいつまでも反省ゼロ』の作家である。
 個別的自衛権で充分対処できる日本の防衛事情にも拘らず、米国政府に良い顔を見せようと、日米一心同体ぶりを必死で見せつけようとする安倍総理。思えば80年代、時の中曽根総理が『日本国土不沈空母論』を国会で演説して、社会党・共産党から猛反発を招き、ソ連政府からは『その不沈空母はソビエト軍の総攻撃に遭うと20分で沈没する』と失笑をかったあの時代を思い出す。
 それでもまだ、彼の思考は日本国土を中心に置いた対米関係の考えだった。対して、『米国なくして日本の防衛はできない』と、いつでもどこでも米国が介入する戦地に赴かんとする現安倍政権の危険度が推し量られる。
 安保関連法案と改憲(憲法改悪)を拙速にたくらむ安倍総理。事のあまりの重大さに切迫した危機を感じる国民が、国会のある東京や、辺野古基地反対に大揺れの沖縄のみならず、全国の都市圏を中心に『安倍政治を許さない』のデモ行動を各地で起こしている。安保闘争以来の人々、それも党派に属さない普通の人々がそれぞれの思いをプラカードに表し、また声にして猛暑にも拘わらず連日街頭に押し寄せている。それはまだ一部と言えば一部かも知れないし、全体の国民の数からいえば少ないかもしれない。
 だが、民主主義は単に数だけの問題ではない。『人口1億を超える日本で、戦争法案反対を行動で示しているのはたかだか数万人〜数十万人。大多数の国民はそれほど強く反対していない。後は一気に押し切れば法案はこっちのもの』と仮に安倍首相とその取り巻きが考えているなら大しっぺ返しをくらうことになるだろう。
 「強行採決」という議会のルール違反がまかり通って、既に久しい。違反の先鞭をきったのは、勿論自民党に他ならない。しかし、それで国民は政治を諦めるわけではないのだ。どれだけ権力者による専制政治が横行されようとも、主権在民を心得ている大多数の日本国民は日米同盟の捨石にされるような憲法改悪・安保法案推進の動きを、指をくわえて見過ごすほど盲目ではない。
 かつて侵略戦争に動員されていった心の痛みを、二度と戦火は交えないと言う、絶対平和の誓いに賢明に転換努力をしてきた国民を安倍内閣は舐めすぎた。
 殺すか殺されるかを恐怖に感じない者は、もはや人ではない。知能の高い高等動物ほど、知恵を使って争う状況を避け、身体と精神を穏やかに保つ。霊長目の長に位置する我々に、それが 出来ない理由はない。改悪安保関連法案を跡形もなく粉砕すること。その事により、これが証明されるのである。


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