研究誌 「アジア新時代と日本」

第145号 2015/7/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張1 尊憲国民戦線を形成し、違憲の安保法制を廃案に追い込もう!

主張2 「ウィンウィン」で戦後経済からの脱却を!

戦後70年に思う(4) 一在日の、戦後70年に思う

闘いの現場から 安倍総理に提出する首相談話(案)

読者より

7月の抗議行動に結集を




 

編集部より

小川淳


 満身の怒りで安保法制を廃案に
 7月16日、集団的自衛権行使を可能とする安保法制は衆院本会議で野党が欠席のまま強行採決された。満身の怒りがこみ上げてくる。
 6月4日、衆院憲法審査会に参考人として招かれた3人の憲法学者が揃って「違憲」として以降、世論の空気はがらりと変わった。「安保法制に反対する学者の会」や「立憲デモクラシーの会」に1万を超える学者らが反対の声を挙げた。俳優座、民藝など「安保体制打破、新劇人会議」には32劇団、演劇関係4団体が賛同した。60年安保闘争以来という。安保法制に反対する地方議会も246に達した。市民、学生の怒りも凄まじい。連日のように主要都市では抗議行動が繰り広げられ、国会周辺では万を超える人々が「廃案」を求めて集結している。安倍政権に対する支持率も下がり続けている。
 にもかかわらず、これだけの世論の反対がある中で安倍政権は採決を強行した。その胸中にあるのは、国会包囲の中で60年安保を強行採決した祖父岸信介の姿なのだろう。数十万の群集が国会を包囲する中で、岸は採決を強行した。安保条約が結ばれたからこそ、戦後日本の平和は保たれた。だからいかに国民の反対が多かろうが、そんなことは関係ない。その決断が正しいか、正しくないかは、歴史が証明すると。
戦後日本の平和を守ってきたのは、安保(米軍)なのか。そうではない。憲法9条が日本の平和を守ってきたのだ。戦力も交戦権も否定した9条があればこそ、自衛隊が血を流す事はなかった。9条で日本に外国を侵略する企図がないことも明らかだ。だからこそ、あれだけの侵略戦争を起しながらアジアや世界で日本が受け入れられてきた。安保があったからではない。国家の暴走を喰い止めてきたのは9条があったからなのだ。
 この衆院可決で安保法制が成立したわけではない。参院での審議がある。参院で可決できなければ衆院での再議決で成立を図る、これが安倍の戦術なのだが、絶対にそうさせてはならない。必ず廃案のチャンスはある。時間がないのはむしろ安倍政権の方だろう。この機会を逃せば永遠に集団的自衛権は日の目を見ない、採決をすぐに歓迎したアメリカも安倍もそう思っているのだ。この2ヶ月の闘いが正念場となる。
 誰が日本を守るのか。アメリカの軍事力なのか。9条平和なのか。9条の下での防衛はどうあるべきか。そのような論議を左翼は避けてきた経緯があるが、避けては通れない時点に来ていると思う。



主張1

尊憲国民戦線を形成し、違憲の安保法制を廃案に追い込もう!

編集部


 6月以来、安保法制法案が政治の最大の焦点、国民の大きな関心事となっている。安保法制法案が集団的自衛権行使容認にもとづいており、これまでの専守防衛、海外派兵否定の防衛体制からの根本的な転換になるからだ。
 同時にそれは、憲法そのものが否定され、民主主義政治が窒息させられるということを意味している。言うまでもなく、立憲主義は、為政者の恣意的な政治をおこなえないようにするために国の政治の骨幹をなす憲法で縛っていくという考え方であり、民主主義政治の基本をなしている。
 現在、安倍政権は集団的自衛権行使が合憲だと押し切り、あくまで安保法制法案を強行的に成立させようとしている。それは、かつてと同じく「解釈改憲」という手法で安保優先の政治をおこなおうとするものである。しかし、今回の安保法制法案は、明白な違憲である集団的自衛権行使を前提としているので、それが「合憲」だとする「解釈改憲」が通じるはずがない。もし安保法制法案が日本の防衛で必要と言うならば、多くの人々が指摘するように、まず改憲を国民に問い、そのうえで憲法にもとづいて安保法制法案を審議するのが憲政の王道であろう。
 従って、今、問われているのは、改憲勢力も護憲勢力も団結して、安倍政権の憲法否定に反対し、憲法第一の政治をめざす尊憲国民戦線を形成し、安保法制法案を廃案に追い込み、安倍自民党政権を退陣させることだと思う。

解釈改憲はもはや限界に達した

 周知のように6月4日の憲法調査会において与野党が推薦した三人の憲法学者が一致して安保法制法案を違憲だと断じたことから、安保法制法案審議は一挙に違憲か合憲かの問題となった。安保法制法案は、昨年の集団的自衛権行使容認の閣議決定にもとづく新日米ガイドラインに対応する国内法として具体化されたものだ。そうである以上、この法案の基礎をなす集団的自衛権行使容認が違憲かどうかという問題が焦点になるのが当然だったといえよう。
 これまで60年間、政府見解は集団的自衛権行使が憲法上、認められないという見解だった。
 今回、合憲の根拠として、安倍政権は「砂川事件判決」と92年政府見解をあげているが、どちらも憲法学者から一笑に付されている。なぜなら、砂川判決はその文脈から個別的自衛権を述べているのであって集団的自衛権を指していない。92年政府見解も、引用した文章の後で集団的自衛権を否定している。つまり、「根拠」は都合の良い箇所だけをとった子供だましだということだ。
 しかも、何故、従来の解釈を変えたのかとの質問に、安倍首相は「専守防衛の考え方は全く変わりがない」というから、到底、理解しがたい。
 安保法制法案の立法趣旨が理解できないだけでなく、内容上でも「存立危機事態」では集団的自衛権を行使でき、「武力攻撃切迫事態」では行使できないと言う矛盾だらけで国民には理解できない。集団的自衛権行使を否定している憲法のもとで、集団的自衛権の一部行使を容認していると解釈しようとしているからだ。
 安保法制法案が違憲だとするのは、元法制局長官、憲法学者のほとんどだけではない。山崎拓氏をはじめ元自民党幹事長、閣僚経験者4人が反対の緊急記者会見をおこない、そしてなによりも世論調査でも安保関連法案について合憲29,2%に対し違憲56,7%(共同通信社)であるように、国民の多くが違憲だと判断している。
 さらに、6月14日若者1300人の憲法集会と2万5000人国会包囲デモ、20日東京、1万5000人の女性デモなど各地でのデモ、21日京都2200人の学生デモと神戸6000人の抗議集会、24日3万人の国会包囲デモ、27日渋谷ハチ公前に4000人の学生というように、全国各地で連日、安保法制法案反対の集会とデモがおこなわれている。安倍政権がいかに「合憲だ」と強弁しようと、国民がそれを認めていない。
 中谷防衛大臣は「憲法を法に従わせるべき」とつい、本音をもらした。このあからさまな憲法否定にこそ、「解釈改憲」がもはや限界に達していることが如実に示されている。

憲法否定は民主、平和、自主の否定

 敗戦の廃墟のなかで、国民大衆は二度と戦争をしないことを誓った。自衛の名による戦争を否定し、交戦権を放棄し、戦力の保持も禁じた現憲法を国民の圧倒的多数が支持賛同した。今日でも憲法、とくに9条を支持している国民が大多数を占めている。
 にもかかわらず、国民の願いが踏みにじられてきたのは、戦後70年間、憲法体系と安保条約体系の二重の法体系のもとで、歴代政権による自衛隊の交戦する軍隊としての強化や、PKOの名目での海外派兵、「周辺事態法」により防衛線をアジア・太平洋全域においたことなど、安保が優先され平和憲法が蔑ろにされてきたからである。
 それでも歴代自民党政権は、「集団的自衛権行使は憲法上認められず、海外での武力行使をしない」という見解を堅持してきた。安保優先というのもアメリカの要求を仕方なく容れ、「消極的に」軍事大国化をすすめる姿勢があった。
 しかし、安倍首相はこの最後の一線を越えようとしている。憲法体系と安保条約体系の二重性を安保条約体系に統合し、「積極的平和主義」の名で海外派兵を行い、日本を米軍と共に戦う「戦争する国」にとしようしているのだ。
 安倍政権は、「安保環境が変化」した中、日米同盟とその抑止力の強化こそが日本の防衛と平和になると主張する。米軍による抑止力を強化するということは、世界各地に武力介入し恫喝する覇権主義であり、侵略と戦争を引き起こす危険性をかぎりなく増大させることである。それは、戦後日本が世界に向かって曲がりなりにも掲げてきた平和国家の完全な否定であり、民主主義の否定だといえる。
 なぜ、安倍政権は「解釈改憲」を無理無体に押し切り、安保法制法案を急ぐのか?それは安保法制法案が日米新ガイドラインを実行するための国内法であるように、アメリカの強い要求に応えるものだからだ。
 3年前にアメリカは「アーミテージ・ナイ報告書」で日本への要望として「強い日本、一流国家軍事力(自衛隊に集団的自衛権の行使をもたせること)を望む」と提言している。
 安倍首相が4月、日米新ガイドライン合意に合わせて訪米し、「安保関連法案を今国会で成立させる」と誓ったように、安保法制法案成立を急ぐのはアメリカの要求に忠実に応えるためのものだ。
 「米国追従になっているのが残念」(亀井静香)、「米国との軍事一体化は認められない」(田中秀征)と言われるように、安保法制法案は日米軍事一体化を実現し世界各地でアメリカの覇権のために日本が武力行使をおこなえるようにするものだ。
 憲法否定の安保法制法案がアメリカの意思であるというのは、アメリカによって日本の憲法が否定されるということであり、日本の民意より米意が優先されるという自主の否定に他ならない。

尊憲国民戦線を形成し、安保法制法案の廃棄を!

 尊憲は、憲法を国の最高法規として尊重し、憲法を第一にして国の政治をおこなうことだ。
 日本は日本の憲法を第一にしてこそ、国の政治を他国に左右されず、民意に沿っておこなっていくことができる。したがって、尊憲は日本国民が自身の運命を自分が握って、日本のための政治をおこなっていくかどうかの根本問題だ。
 憲法第一の尊憲があって、自主独立があり、民主も平和もあるといえる。
 したがって、一法案に憲法が従わせられるようなことがあってはならないし、他国の要求で国の憲法が否定されることが絶対にあってはならない。
 問われているのは、対案をだすことではなく、違憲の安保法制法案を廃案にすることだ。
 安倍政権は「憲法の番人である最高裁判決で示された法理にしたがって考えるのは憲法学者でなく我々のような政治家」と言い、憲法学者や国民の声に耳を傾けない姿勢を露わにしている。さらにはマスコミに圧力をかけ、自民党内部まで締め付け、一切の異論を封じ込めようとするなど、末期的症状を呈している。
 護憲勢力も改憲勢力も、国の憲法を尊重していくという一点で尊憲国民戦線を形成し、若者と女性、勤労者と政治家、憲法学者とジャーナリストなど憲法を尊重していくすべての国民大衆の力を結集し、国会を包囲し、安保法制法案を廃案に追い込み、安倍政権を退陣させていこう!



主張2

「ウィンウィン」で戦後経済からの脱却を!

編集部


 安保法制で揺れる日本にあって、もう一つの焦点は経済だ。それで、前回の主張「戦後体制からの脱却」で経済についても若干触れた。しかし、紙面の都合上、何も言ったことにはならなかったと思う。そういう訳を込め、今回、「戦後経済体制からの脱却」について、改めて問題提起したい。

■長期停滞は戦後経済体制の必然的帰結だ
 今、日本経済は出口の見えない長期停滞の暗闇の中にある。安倍首相は、「戦後体制からの脱却」を言いながら、この問題についてどう考えているのか。戦後経済体制と停滞、アベノミクスはどちらからの脱却なのか。
 だが、それは大した問題にはならない。なぜなら、今の長期停滞自体、戦後経済体制から生まれたものであり、その必然的帰結だからだ。
 戦後、米国によってつくられた日本の経済体制は、一言でいって、対米従属の覇権経済体制だと言うことができる。脱亜入欧、財閥支配をその基本に築かれた明治以来の覇権経済体制は温存され、それが、財閥の金融独占化、資本、技術、原料資源の米国依存など、徹底的に対米従属化された。この体制に基づく戦後経済が米国覇権のための侵略戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争特需で潤い、米国主導のエネルギー転換などを経て高度成長した。
 GDP世界二位にまで上り詰めた日本経済が下降線をたどり始める原因となったのは、1982年、日米円ドル委員会での日本自由化合意だったと言える。スタグフレーションの泥沼と民族解放闘争の世界的高揚を前に覇権崩壊の危機に直面した米国の究極の覇権回復戦略、新自由主義、グローバリズムに日本が巻き込まれることになった。
 金融自由化による投機の横行とおびただしい外資の流入と流出、それにともなう未曾有のバブルの発生と崩壊、そこから生じた回復不能の長期停滞の泥沼。そうした中、米国による規制緩和、民営化など日本経済の自由化、グローバル化への圧力は間断なく波状的に強められてきた。
 戦後70年、日本経済は米国によって敷かれた軌道をその誘導と統制の下歩んできた。今日の停滞がその帰結であるのは誰も否定できない現実だ。

■戦後対米従属経済の新段階、安倍経済政策
 「戦後体制からの脱却」を標榜する安倍政権の経済政策で問われるのは、何よりも、この対米従属経済体制からの脱却のはずだ。しかし、安倍経済政策はそうなっていない。それどころかその逆だ。歴代自民党政権の中でも、もっとも甚だしい対米従属、それが安倍経済政策だと言うことができる。
 徹底した日本経済の新自由主義化、グローバル化、米国化。アベノミクス、TPPなど安倍経済政策に貫かれている本質は結局それだ。法人税減税、雇用、農業など「岩盤規制」の撤廃、規制なしの国家戦略特区の創設など、アベノミクス第三の矢、成長戦略は、米国が求める新自由主義そのものだ。それが、関税撤廃やルールの米国化などのTPPと相俟って、米超巨大独占の日本進出とその直接支配に大きく道を開いている。戦後日本経済の米国経済への組み込みの新段階、安倍経済政策を位置付けるとすれば、そうなるだろう。

■戦後経済体制破綻の根因を探る
 すでにその破綻が現実のものになっている戦後経済体制の新段階である安倍経済政策が失敗するのは火を見るより明らかだ。事実、アベノミクス施行以来2年半、当初目論まれた経済効果はほとんど上がっていない。デフレの収束とそれによる経済活性化効果も円安による輸出振興や大々的な公共事業投資の効果も生まれていない。そうした中、個人消費や設備投資の伸びが見られず、実質賃金の低下、正規雇用の減少、食品価格の高騰など、国民生活状況のさらなる悪化が続いている。
 今問われているのは、このアベノミクスに見られる戦後経済体制の破綻がなぜ生じているのか、その根因を探ることだと思う。そこにこそ、新しい経済がどうあらねばならないか、そのあり方が見えてくるのではないだろうか。
 それと関連して、「ゼロ成長」「金利ゼロ」が一般的になった今日、よく言われているのが「成熟経済」、「フロンティアの喪失」だ。資本主義は、その誕生の最初から「フロンティア」を求めて成長してきた。その経済が「成熟」し、「フロンティア」がなくなった今、「ゼロ成長」は当然だと言うことだ。
 「成熟」という名の停滞の原因を「フロンティアの喪失」に求めるこの「論理」には一定の真理性があると思う。実際、世界に覇を唱え植民地を拡大し、それを生命線に発展してきた帝国主義が今日、民族解放、自主独立の時代的趨勢にあって、新旧植民地を失い生命力を失っているのは事実だからだ。だが、そこで問題なのは、この「論理」が帝国主義の経済、覇権経済を前提にしており、「戦後経済からの脱却」など最初から念頭になく、その「軟着陸」を目指していることだ。
 今、戦後経済で問われているのは、「成熟」にともなう経済のあり方の変化とそれを踏まえた「老後の過ごし方」の探求ではない。「成熟」ならぬ停滞の本質とその根因、そして、経済の新しいあり方を見つけ出すことこそが求められている。
 「失われた十年」「二十年」そして「二十五年」、この「長期停滞」にあって、もっとも深刻で本質的な問題は、循環と技術革新の停滞にある。よく言われるように、経済は生きている。その証は循環にあり技術革新にある。ヒト、モノ、カネが回っておらず、技術の革新も起こっていないような経済は、生きているとは言えない。
 今の日本にはカネはある。しかし、一所に溜まり、全体に回っていない。だから、ヒトもモノも動いていない。一言でいって、富の偏在ということだ。言い換えれば、格差と不均衡と言うこともできる。この経済のあらゆる分野に広がる格差と不均衡、富の偏在のために、経済の循環も技術革新も滞っている。一握りの富裕層、東京など大都市、大企業、大手外需産業への富の集中と絶対多数の貧困層、そして全国に広がる、地方・地域、中小零細、自営業、内需産業の歯止めなき困窮化、この格差と不均衡の拡大が循環の停滞を生み、技術革新や設備更新の停滞を産んでいる。
 問題はその出所だ。格差と不均衡、富の偏在はどこから出てくるのか。それは、他でもなく、戦後経済体制そのものからだ。
 弱肉強食の競争経済である覇権経済は、不可避的に、格差と不均衡、富の偏在を産み出す。明治以来の日本経済のそうした覇権的な性格は、戦後経済の対米従属性によって一段と促進された。そして今、安倍経済政策は、かつてない専横と対米従属性で、日本経済の新自由主義化、グローバル化、米国化を図っている。この究極の競争主義、むき出しの弱肉強食が日本経済に何をもたらすかは言うまでもないだろう。

■ウィンウィンの新経済体制実現のために
 今日、古い対米従属の覇権経済、戦後経済体制からの脱却の道がようやく見えてきた。弱肉強食の競争から、皆でともに勝ちともに豊かになるウィンウィンの協調への転換だ。
 「ウィンウィン」は、今、主として国際的な経済関係を指す言葉として使われている。だが、一人勝ちを目指した覇権時代から皆でともに勝つ脱覇権時代への転換の時にあって、より普遍的な時代語になる可能性を持っていると思う。
 「一人勝ちは経済の死だ。皆で勝ってこそ本当の勝利だ」。あるいは、「皆がともに勝ち豊かになるウィンウィンの経済、それこそ民意を反映した、国民のため人間のための経済本来の真の経済だ」、等々、弱肉強食の覇権経済に対する「ウィンウィン」の経済の正当性はいろいろ言えるだろう。
 その上で問題はそれをどう実現するかだ。戦後経済体制脱却に向けて、闘いの方向をどうするか。その基本はやはり「弱肉強食の競争からウィンウィンの協調へ」だろう。さらには「外へ外への膨張からまず内の充実を」などが重要になると思う。「フロンティアの喪失」ではなく、自国経済内部の循環と技術革新の停滞が問題だということだ。一方、「脱却」の単位について言えば、それはあくまで国民経済に置かれ、それとの連関で地域経済の脱却が図られ、世界経済への寄与が追求されるようにするのが肝要かと思う。それに基づき、決定的なのはやはり政策だ。所得再分配、地域活性化、国民経済の発展をともに目指す大企業と中小企業の共闘・共栄など、格差と不均衡をなくすための政策が具体化されねばならないだろう。
 最後に、「脱却」を絵に描いた餅にしないためにはもちろん力だ。その源泉は、前号の主張で述べた「米意でなく民意で動く民主・自主の日本」にある。安倍政権を倒すウィンウィンの民意の高まりこそが求められていると思う。


 
戦後70年に思う(4)

一在日の、戦後70年に思う

京都・金光哲


 安倍首相の戦後70年談話が注目されている。首相は村山談話をはじめ歴代内閣の考えを継承するという。侵略、植民地支配、反省、謝罪という言葉がいかに使われるのかが関心の的になっているが、これらは単に外交辞令ではなく日本自らに向けられた言葉でもある。したがって村山談話の中で忘れてならない大事なことは国策を誤ったという歴史認識をいかに共有するかだと思う。そのためには過去と真摯に向き合うことが何よりも重要である。ここに全ての出発点があり、原点があると思う。にもかかわらずこの作業は満足に行われてこなかった。
 ふりかえるに、日本は戦後間もなく冷戦の始まりとともに過去と向き合う機会を逃してしまったのである。これにはアメリカの冷戦戦略が大きく関連する。
 当初のアメリカの対日占領政策は不十分ながら民主化を目指すものであった。アメリカは東京裁判で戦犯を裁き、日本に平和憲法をあたえ、莫大な賠償請求によって軍国日本の復活を断ち切ろうとした。しかしこの政策は冷戦と共に転換され、日本を共産圏勢力に対峙するアメリカの防波堤に作り替える政策へと変貌するのである。
 アメリカはひたすら日本を従属的同盟国としての役割を担いうるよう対日政策を推進した。サンフランシスコ講和条約において独立と日米安保条約の締結がセットされ、連合国の対日賠償放棄による財政負担の軽減措置が取られた。またアメリカは日本を貿易最特恵国として優遇し、その経済発展を促した。
 日本は後方基地としてアメリカの朝鮮戦争に参加し、その戦争特需を契機に経済大国の道を歩んだ。皮肉にも敗戦国日本はアメリカの対日政策により最大の受益者になったのである。 しかしながら日本は戦後復興と繁栄の中でアメリカの政策に便乗し、自らの意志で戦前の総括を徹底的に行うことはなかった。このことが日本の最大の不幸であると思う。
 戦前を検証し総括することの不徹底さが今日、日本国民に重大な課題を突き付けている。日本は立憲民主主義の国として平和と繁栄の道を歩み続けるのか、あるいは戦争する国として進むのかの選択を迫られている。国策は誤っていなかったのか、現在の国策はどうなのか、いまこそ日本国民が自らに問うべき時だと思う。
 朝鮮問題(韓・日、朝・日問題)においても原点にたち返るべきだと思う。敗戦した日本が最大の受益国であると先に指摘した。一方日本に侵略され36年間にわたる植民地支配を受けた朝鮮は、解放と同時に民族の分断という悲劇に見舞われ今日に至っている。朝鮮民族が受けてきた屈辱と苦痛は筆舌に堪え難く、その物的被害も甚大である。
日本政府は、このような過去に向き合い、痛切な反省のもとに、かつての宗主国としての責任を果たすことが求められてきたのである。
 しかし日本政府は、戦後一貫して植民地支配の清算に顔をそむけ、その努力を怠ってきた。歴史認識の問題が繰り返し提起される原因もここにあると言える。
 サンフランシスコ講和条約においても、締結50年を迎える〈韓日条約〉においても植民地支配の精算問題は積み残されたままである。請求権・経済協力で解決される性格のものでは決してないのである。
 戦後70年の今日においても旧植民地問題を解決できないでいる国は日本だけではないだろうか。これは政治・外交問題である以前に、日本の良心と品位に関わる道徳的課題だと思う。〈朝日国交正常化〉は植民地問題解決の重要な要であると同時に日本の平和と安全に資する優先課題である。その実現を目指して日本政府の責任ある自主的努力が望まれる。
 在日朝鮮人(朝鮮半島出身者)の処遇改善問題も重要課題である。排外主義や民族的差別を生むヘイトスピ−チや「北朝鮮」パッシングの是正、地方自冶体の朝鮮学校への補助金カットや減額措置、高等学校無賞化適用除外の是正などは緊急の課題である。
 戦後70年は終わりではなく新しい始まりである。
 日本に求められているのは、謙虚さといたわりの他者意識ではないだろうか。
 日本政府が過去をもう一度見つめなおし、自らの意思で植民地清算問題解決に尽力することを望んでやまない。その地平に真の信頼と和解が生まれるものと確信する。



闘いの現場から

安倍総理に提出する首相談話(案)

平 和好


 今を去ること70年前、我が国が大東亜共栄圏の夢破れ、敗戦国となり、植民地全てを失い、2発の原爆で20万人以上が即死、沖縄戦や旧満州開拓団で20万人以上が亡くなりました。軍民合わせて300万人以上が戦死し、一方ではアジア諸国や米国にもその何倍もの犠牲を強いることになってしまいました。その責任の全てが我が国にあるかどうかは「歴史家の研究」に譲るとして、「戦後70年」に寄せる談話をここに発表します。
 まず日本は「武士道」「和の心」など美しい国と人を作る事を旨としてきました。美しい日本を取り戻す私の公約からしてもこの談話発表には大きな意義があります。これまで日本政府、天皇陛下ならびにサンフランシスコ平和条約の大前提となっている東京裁判における罪状認定においてもこれらの犠牲と与えた損害の大きな責任が1945年8月15日までの我が国に存することは論を待たないので、過ちを素直に認めることが武士道・美しさを求める和の心に叶う道であると確信します。
 次に、日本の責任を問う告発にしばしば事実関係の不正確さや、70年前のことを立証・反証することの困難さもあり、それを指摘する日本の皆さんのご意思は首相たる私にもよく理解できます。韓国からの請求権も日韓条約で解決済みとの認識は私においても強くあります。
 しかし、いくらか不正確なところがあるとしても全体の歴史的事実は否定できないのであり、総体として認めることのほうが、日本が居直っているという印象を持たれるよりも、国益にかなうのではないでしょうか。すでに中国・韓国との関係は経済・社会・文化など多方面で密接・良好の度を強めており、アジア諸国との戦後70年の関係で我が国は相当の出費をしたが、はるかにそれを上回る恩恵も受けているのが事実です。そのことを理性的に理解するよう国民の皆様に求めたいし、歴史認識は戦として取り組むのではなく、歴史研究を共同で進める事により解決に向かうことができます。
 私は歴代の諸先輩首相に劣らず祖国日本を愛しています。そのことに不変を誓いつつ、美しい愛国心はどの国にもあることも認めなければならないと考えるのです。日本だけが美しく、隣国は醜いと言いつのることで我が国の評価が上がるとも思えません。ヘイトスピーチはいけないという私の提起に、思想信条を超えて圧倒的多数の我が国民の皆様に賛同いただきました。「お国の皆さんの愛国心も立派ですね。我が国はそれに負けないよう、平和に、外面はもちろん、内面の美しさも獲得できるよう努力いたします。お互いに角を突き合わせるより、お互いに高まれるよう、そして世界平和のために切磋琢磨しようではありませんか」このように国際舞台で発言し、実践できるように努力をしたいと考えます。それを聞いて怒る外国の方はごく少ないでしょう。
 以上、日本の心を実践する決意、謙虚に被害者の心に寄り添う事で損は絶対ないという洞察心を持ち、相手の立場に立ち、日本らしい思いやりの心を外交でも発揮することを実践すれば我が国はアジアの中で一層の発展を勝ち取れますし、欧米の賛同も間違いなく得られることを強く確信するものであります。なお、自信を持って提案させていただいた集団的自衛権の厳格・限定的行使を可能にする法案については、国民の皆さんの理解・賛同が得られたと判断できてから成立を目指したいと思います。
 私が選挙戦で訴えた公約とこれまでの国会答弁を率直に国際社会で実践することで日本はアジアでの地位を不動のものにすることができます。
 国民の皆さん、戦後70年間の努力が無駄でなかったことを証明する良い機会です。未来志向で美しい真の一流国を創生しましょう。

2015年8月15日 内閣総理大臣 安倍晋三



 

読者より

奈良 S・S


 Kさんから頂いた「アジア新時代と日本」は、その表題も素敵ですが、毎月、各論題を持ち寄った論考を継続して発表されていることに、敬服します。これは、本当にエネルギーの要ることです。それを執筆するのに、数人の方々が居られる事もあわせて。
 読ませて頂いた論考は、いろんな考えの方々が居られて当然ですが、その中でも、第143号の吉田寅次さんの「歴史認識の常識を疑え」は、市民運動に欠けている階級的視点を認識させることの重要性を喚起しています。
 日本共産党に代表される一般的左翼が、安倍と日本の右翼勢力が、アジアに対する侵略戦争を正当化する歴史認識に対して、「戦後世界秩序に対する国際常識に反するもの」とする批判をしばしば行っています。これでは、第2次世界大戦が帝国主義列強間の植民地分割戦争であったとする階級的視点を欠落し、欧米列強の勝利も、日本の敗北も、世界の働く民衆と労働者階級を犠牲にした資本家階級の戦争であると言う階級的視点を否定しています。東京裁判も、ニュールンベルク裁判も、勝者と敗者である二つの帝国主義グループの戦争犯罪者達を同じ被告席に座らせる、労働者階級と民衆による人民裁判でなければならなかったのです。それこそが、帝国主義の欺瞞の暴露だと考えます。吉田論文は、このことを指摘しています。市民運動の中で、この視点を共有する勢力の拡大が無ければ、市民運動の一時的勝利は、次の新しい支配者に交代するだけです。また、こんな視点では、安倍や、中西輝政(安倍ブレーン)、桜井よしこ、渡部昇一などの「反米右翼」を論破する事は出来ません。
 資本家階級の支配は、資本主義国家の政治体制だけにあるのではなく、それ以前に、日常的な資本と労働の生産点での支配と被支配の関係の中にこそあるのだと言う階級意識を貫く人間が、市民運動の中に増えて行くことが必要だと思います。
 私が薦めるもう一つの論文は、第141号の東屋浩氏の「ウクライナ内戦に思う」です。
 国内外の帝国主義的言論は、NATO帝国主義がアメリカ帝国主義と結びついて、中東と東欧に覇権を伸ばそうとしている侵略的狙いを隠して来ました。
 NATO帝国主義とアメリカは、90年2月に、当時のソ連・ミハイル・ゴルバチョフ、米国務長官ジェイムス・ベイカーと、ドイツのヘルムート・コールの間に取り決めた 協約に違反して、ウクライナの内政に公然と介入を始めました。  米国は、傭兵とCIAを動員し、ネオナチを使って市民革命を装った政権転覆策動を行いました。今、バルト海に展開する米国海兵隊戦力は、アジアにおける中国に対すると同様、新たな戦争準備を企てていることは明らかです。
 戦争に駆り立てる国内的要因がそれを突きつけています。米国内の社会的矛盾は危険なまでに激しさを増しているし、NATO帝国主義も同じです。働く国民の大多数は、資本主義経済危機の矢面に立たされている状況が、戦争の準備に結びついているのです。
 このウクライナ情勢は、米国のアジア・リバランス政策と連動しており、我々にとって、この正しい分析は、我々の運動にとって必要なのです。
 この二つの論文に見られる、Kさんのグループの階級的視点に、拍手を送りたいと思います。
 最後に、Kさんの第143号に載せられた詩、「平和な空の下で」は、Kさんの、これまでの辛い生活があったとしても、逞しさと、心優しさがにじみ出て、毅然とした姿勢も感じられ、それをうたに昇華されているのがよく理解できる、すばらしい作品だと思います。



 

7月の抗議行動に結集を

 


7月18日(土) 安保法制反対1万人大集会 17時 大阪・扇町公園
7月19日(日) 憲法改悪反対市民フォーラム・ビラまき宣伝行動  12時 JR大阪駅前
7月19日(日) 反弾圧集会・デモ 15時・ドーンセンター(地下鉄「天満橋」)大阪府警本部デモ
7月19日(日) 愛と平和の女子パレ VOL3 18時 大阪・阿弥陀池公園(「西長堀」東3分)
7月25日(土)〜26日(日)全国ユニオン大会 伊丹・シティホテル 
7月26日(日) 安保法制・自衛隊海外派兵反対伊丹集会・デモ 15時 阪急伊丹


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