研究誌 「アジア新時代と日本」

第140号 2015/2/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 擁護か打倒か、「参戦」安倍政権

議論 「言論の自由」への冒涜は許されない

議論 「抵抗の拠点明け渡し」のための詭弁

コラム 中高年派遣労働記

時評―安倍首相の言う「国民」とは誰か

時評 これが「黒い企業」




 

編集部より

小川淳


 安倍政権の本質を見落としてはならない
 年末から背筋が寒くなるような日々が続いている。今冬の特別な寒さのせいだけではない。朝日新聞社への異様なバッシングに続き、サザン桑田氏がネットで叩かれている。所属プロダクションに30名ほどが押しかけ、それがネットで拡散され、ついに桑田氏とプロダクションが「謝罪文」を発表する事態に追い込まれた。
 「不敬」という言葉が公然と語られ、隣国との違いを認め合おうという当たり前のメッセージソングが「反日」とされ、それさえも許されない、息苦しい時代の空気といえるものがある。街頭で公然と繰り広げられるヘイトスピーチもその例外ではない。
 攻撃されるのは、中国、韓国、朝鮮という隣国であり、日本に住む在日の人々である。たとえ日本人であっても日本の犯した「歴史の誤り」を認める人やその考え方も攻撃の対象となる。
 ナチスが台頭し、ユダヤ人が排撃された1930年代のドイツといまの日本が重なって見えるのは、私だけだろうか。この時代の空気が安倍政権の誕生と軌を一にしているのは間違いない。
 もう一つ、いまの日本はローマ時代の奴隷が漕いだ「ガレー船」に似ているというある識者の指摘があった。これも「もう一つの日本」の姿である。フルタイムで働きながら年収200万に満たない労働者が1119万人にものぼる。15年前の1、4倍だ。この状況は非正規労働者の拡大によってもたらされた。
 非正規は昨年、2012万人を超え、労働者の38%を占める。企業にとって「世界一活動しやすい国」をめざすアベノミクスが、非正規をより一層拡大する方向に向かっていることは疑いようがない。上場企業は28、5兆円と空前の利益に湧いている。
 このように見ると、安倍政権の性格は、新保守と言うよりも国家主義に近く、国家主義と新自由主義が一体化したものだ。
 国家主義とはいえ、靖国参拝問題のように安倍首相を「反米」と見るとその本質を見誤る。改憲や集団的自衛権、秘密保護法、沖縄米軍基地の固定化、原発推進、TPPなど、日本の民意を踏みにじり、アメリカの意のままにすべての政策を推し進めている。
 安倍首相が徹底した対米従属をその本質としているという点を見落としてはならない。



主張

擁護か打倒か、「参戦」安倍政権

編集部


 「イスラム国」による後藤さん、湯川さんの殺害。2015年は、これまでの日本にはなかった惨劇で幕を上げた。これに対し安倍政権は、満腔の「怒り」を表した。だがそこには悲しみがない。安倍首相は最後まで犠牲者家族に会おうとしなかった。そして今取りざたされているのは、後藤さんの「蛮勇」であり、「イスラム国」の「宣戦布告」に対する「テロ対策」だ。提起されているのはこういうことだろうか。お二人への深い哀悼を込めて以下の問題を提起したい。

■「日本参戦」は、目前に迫っている
 年初からの安倍・中東歴訪とそこでなされた、対「イスラム国」名指しでの反テロ戦争支援、計2億ドルの約束が問題になっている。「イスラム国」による後藤さん、湯川さんの殺害がそれへの報復としてなされたからだ。「イスラム国」は、その「支援発言」を根拠に、日本を「有志連合」と決めつけ「敵」だと宣布した。
 「有志連合」。先の米大統領一般教書演説は、「イスラム国」に対する新たな反テロ戦争を世界の前に公布し、アラブ諸国を含む幅広い「有志連合」を率いて「イスラム国」を掃討すると宣言した。
 まさにこうした中、後藤さんと湯川さんは見殺しにされた。安倍・オバマ電話会談で、日米の友好・協力を歌い上げ邦人救出での援助を約束していた米国は、その一方、ヨルダンに対し人質交換を固く禁じた。「テロには屈しない」と「人命第一」、この矛盾した言辞を並立させて平気でいた安倍政権は、米国の「冷徹な反テロの意思」を前にそれに従い、あっさりと前者を採って後者を打ち捨てた。ここに「イスラム国」を敵に回して反テロ戦争に立つ、「日本参戦」への意思が雄弁に物語られている。「二人を殺害した罪を償わせるため、国際社会と連携していく」という安倍首相の発言は、そのことをはっきりと裏付けるものだ。
 そうでなくとも、今日、日本の反テロ戦争参戦は、全面的に準備されてきている。昨年から行われてきた集団的自衛権行使の容認とそれに基づく日米防衛協力の指針、ガイドラインの改定は、今春、統一地方選の後、その実行を法的に保障する新たな安全保障関連法案制定とともに最終的に法制化の運びになっている。これにより、これまで長期にわたり米軍指揮の下、共同軍事演習を重ねてきた自衛隊が日米共同戦争の実戦に出動するようになる。
 法的準備だけではない。「参戦」に向けた軍事力強化も急ピッチだ。連年増額を続けてきた防衛費は、ステルス型戦闘機F35やオスプレイ、水陸両用車など、どう見ても対外攻撃用でしかあり得ない装備増強を中心に5兆円水準に達してきている。そして、見逃せないのが「海外基地」だ。アフリカ東部ジブチに海賊対策を口実に設けられていた自衛隊拠点が、有事出動など多目的で使える中東・アフリカをにらんだ恒久的な事実上の自衛隊海外基地として強化されるようになっている。
 当面、春の統一地方選まで、もっぱら「経済」と「地方」を前面に、その陰で推し進められるようになる反テロ戦争準備は全面的であり、今回の安倍中東歴訪と邦人殺害など、「参戦」は、いつでもありのスタンバイ情況にまで来ている。

■反テロ戦争新段階、その特徴は何か
 「反テロ戦争」、イラク、アフガン戦争に名づけられたこの言葉は、今日、あまり使われなくなっている。だが、宣戦布告することなく、国境を無視して行なわれる、国と民族否定の「グローバル時代」の戦争、「21世紀型戦争」である反テロ戦争の本質はまったく変わっていない。
 しかし一方、今の反テロ戦争が以前のそれにはなかったいくつかの特徴を持っているのも事実だ。その特徴の根本にあるのは、もちろん、「イスラム国」だ。この「カリフ制」「イスラム共同体」を掲げ、国境を無視して広がる、国であって国でない、国と民族否定の「グローバル時代」の申し子のような「イスラム国」を相手にしていること、まさにここに新たな反テロ戦争の根本特徴がある。
 それに基づきながら、今の反テロ戦争は、何よりもまず、主権を侵害し国境を侵犯して、全世界に際限なくアメーバのように広がり浸透して行くという特徴を持っている。実際、国境を越えアメーバ状に広がる「イスラム国」の支配領域に沿って、戦線はイラクからシリアへと明確な境界を持つことなく広がっている。この主権侵害、国境侵犯には際限がない。それは、「イスラム国」の支配領域の拡大が続き、テロ活動の範囲が広がる限り、止まることなく拡大して行く。事実、「イスラム国」に共鳴し忠誠を誓う人や団体は先進国の若者まで含み世界的範囲で後を絶たない。その支配領域は、リビアなど無政府情況が存在する国や地域に広がっており、その共鳴者、共鳴団体も、ナイジェリアのボコ・ハラムをはじめ、世界的なテロの拡大とともに増加傾向が収まっていない。それは現在すでに、15か国、29組織に及んでいるという。
 今の反テロ戦争にあって、もう一つの特徴は、テロの残虐非道さが際立っていることだ。今日、「イスラム国」に対する世界の一般的認識は、テロ集団を通り越して、ほとんど犯罪集団と言ってよい。人質に対する首の切断とその映像のインターネット公開、制圧した少数派ヤジーディ教の女性たちを「戦利品」とし奴隷にする「奴隷制復活」宣言、10歳少女による自爆テロの組織、そして性暴力、強制結婚、等々、「イスラム国」の残虐非道さは、常軌を逸している。
 その上で、新しい反テロ戦争の特徴をもう一つ挙げるなら、それは、この戦争が米国単独ではなく、「有志連合」による空爆が中心で、米軍自身は戦闘の泥沼化を避け、地上部隊を動かしていないことだ。

■「挙国一致」か、「オール日本」で安倍打倒か
 反テロ戦争新段階の特徴を見ながら明らかなのは、それがイラク、アフガン反テロ戦争の総括に基づいていることだ。前回は、「反テロ戦争」と言いながら、イラク、アフガンという国民国家を対象にした。そのため、民族、国民を敵に回し、その一大抗戦の前に挫折した。それで今回は、国であって国でない、「グローバル国家」、「イスラム国」が対象だ。だから、民族的で国民的な抗戦をかわしながら、戦線を主権侵害、国境侵犯で全世界に拡大することができる。そして、戦争の口実は、前回の「同時多発テロ」「大量破壊兵器隠し」から「残忍非道な人権蹂躙」へ、より説得的なものになった。さらに、米単独の地上戦から「有志連合」による空爆への転換だ。
 新年早々からの安倍中東歴訪と人質殺害事件、そして「戦争する国」日本への動き、これらが反テロ戦争新段階と結びついているのは、あまりにも明白だ。そして8月には、「侵略」「お詫び」など、歴代首相談話のキーワード継承を意図的に拒否する安倍首相談話が準備されている。「積極的平和主義」を掲げ、戦後70年、日本の新たな出発を標榜するこの談話が「イスラム国」を対象とする新たな反テロ戦争への「参戦宣言」にならないという保証はどこにもない。
 こう言えば、安倍首相は、「イスラム国」を掃討することこそが世界に平和をもたらす「積極的平和主義」だと開き直ってくるかも知れない。しかし、それこそまったくの詭弁というものだ。世界的なテロの拡散と「イスラム国」との連携の広がりは、「イスラム国」を対象とする反テロ戦争の全世界への広がりを予告しており、それこそが、「有志連合」を率い軍事で世界に覇を唱えようとする米覇権回復戦略の狙いに他ならないからだ。その根本にある「イスラム国」が米国の創作だという説には十分すぎる根拠がある。
 2012年8月、あのアーミテイジ・ナイ報告による「強い日本」への呼びかけから始まった日本政界の一斉の右傾化と第二次安倍政権の登場、そして昨年末、誰も予想もできなかった解散・総選挙と第三次安倍政権誕生を経て、あれよあれよと言う間に目前に迫ったこの「参戦」は、日本にとって一体何を意味しているのだろうか。見えてくるのは、米覇権回復戦略の手の平の上で翻弄される「戦争する国」日本の惨劇だ。
 日本を「敵」として名指しした「イスラム国」の宣告を受けて、今、「テロ対策」が大問題になっている。しかし、問題はより根本的に提起されているのではないだろうか。重要なのは、日本が「有志連合」に参加して「戦争する国」になるかどうかだ。イラク、アフガン戦争の泥沼化と覇権崩壊の危機からの脱却を図る米覇権回復戦略に組み込まれ、「日本参戦」に突き進む安倍政権擁護の「挙国一致」か、それとも、破滅的な米覇権回復戦略から脱却し、世界と日本の根本的平和構築を目指す安倍政権打倒の「オール日本」かが今こそ切実に問われているのではないだろうか。



議論

「言論の自由」の冒涜は許されない

KT


 年末から年始にかけて、「言論の自由」をめぐっての議論がいろいろと盛り上がりをみせた。宗教や政治の最高権威、最高指導者に対する冒涜とそれに対するテロや妨害をめぐってのものだ。
 フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」が掲載したイスラム教の予言者ムハンマドへの風刺画とそれに対するアルカイダによる新聞社襲撃、編集長など十数名殺害の報復テロ、そしてソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(SPE)製作の北朝鮮の最高指導者を風刺した映画「ザ・インタビュー」とその上映阻止を狙ったサイバー攻撃が大きく問題にされた。
 議論で大勢を占めたのは、もちろん、「言論の自由」を脅かすテロは許されないだったが、一方で、「言論の自由」にも限度、限界があるのではないかという問題提起もなされ、本誌でも、その基準について金子さんの方から疑問が呈された。
 だが、今、筆者がしようとしているのはそうした議論ではない。提起したいのは、元来、権力による言論弾圧に抗するという性格を帯びていた「言論の自由」が、昨今、どうもそうとは言えないものが多いのではないかということだ。一言で言って、権力に抗するというより権力に守られている。現に先のフランス「シャルリー事件」に対する大デモには、各国首脳が勢揃いだったし、「SPE事件」においては、米大統領が「言論の自由」擁護の先頭に立った。
 権力に抗するのではなく、守られた「言論の自由」。そこで筆者がもう一歩踏み込んで提起したいのは、「言論の自由」が権力に守られているどころか、利用されているのではないかという議論だ。
 先に挙げた「言論の自由」は皆、権力ではなく、「テロ」に抗してのものだった。実際、その風刺も権力ではなく、イスラム教や北朝鮮を対象としたものだ。その上に注視すべきは、これらイスラムや北朝鮮が、多かれ少なかれ、米覇権権力と敵対しているという事実だ。
 もちろん、「シャルリー」や「SPE」が米覇権権力に利用されているという証拠があるわけではない。少なくとも筆者には、そのような持ち合わせはない。だが、それを裏付けるものがまったくないかと言えばそうでもない。その中の一つが問題の風刺の中味にあると思う。「SPE」の映画は、よくチャップリン主演の名作「独裁者」に例えられる。だが、1月29日付の読売新聞に「『金正恩映画』に欠けたもの」と題して、感動の欠落について書いてあった。「独裁者」においては、そのクライマックスで、チャップリン演じるユダヤ人理髪師が、ヒトラーを風刺した独裁者、ヒンケルに成り代わって演説し、「民主主義の名のもとに団結しよう」と訴える。だが、「SPE」映画からそうした感動は得られなかったという。
 言論や風刺の感動は、権力に抗するところから生まれる。権力に守られ、利用されるところからは決して生まれてこない。
 今日、米覇権権力による「言論の自由」の利用、それは、言論や風刺で北朝鮮やイスラムなど自らに敵対するものを冒涜し、それに対するテロを引き出し、または演出して、「言論の自由」をテロに抗するものにしているところに明白に現れている。実際、今、「言論の自由」に敵対し、「言論の自由」を脅かすテロに対する怒り、悪感情は世界的な範囲で最高度に高まっている。それが反テロ戦争の背をどれだけ押しているか計り知れない。
 「言論の自由」の名の下に、自らの覇権への敵対者を冒涜し、テロを引き出して、覇権のための反テロ戦争を正当化する。これは、「言論の自由」に対する許し難い冒涜ではないだろうか。しかもそこには、無数の尊い人命の犠牲までが含まれている。「言論の自由」や人命を弄ぶ反テロ戦争策動をこれ以上許してはならないと思う。
 この「言論の自由」の冒涜として、最後にもう一つ挙げれば、その使い分けがある。後藤さんの母、石堂順子さんが後藤さんの死に際して出した声明から、大手テレビ局は揃って、「憎悪の連鎖にしてはいけない」の部分をカットした。安倍首相の「罪を償わせる」発言との矛盾を考慮したという。これは、明らかに「言論の自由」の圧殺であり、権力におもねった恥ずべき使い分け、その冒涜に他ならない。こうした冒涜が横行しているところにこそ時代的危険性が示されている。


 
議論−朝日の元日社説、「グローバル時代の歴史」は安倍政権への投降宣言−

「抵抗の拠点明け渡し」のための詭弁

吉田寅次


 戦後70年の元日のマスコミ各社の社説には失望した。なかでも無惨なのが朝日新聞だ。昨年は「従軍慰安婦誤報」騒動で異常なバッシングを受けた後だけに不安ではあったが、これは歴史認識についての宗旨替えではないかと驚いた。
 靖国や従軍慰安婦問題での安倍政権の歴史認識はアジアへの植民地支配、侵略と戦争の歴史を改ざんし反省、謝罪を免れんとする歴史修正主義だと危惧されてきた。朝日バッシングの異常ぶりに危機感を抱いた気鋭のジャーナリスト青木理氏が「抵抗の拠点から」という著書を世に問うたのも「歴史修正主義と全面対決する」ためだった。ゆえに安倍政権への抵抗の拠点として朝日を擁護する論陣を青木氏は張ったのだ。当の朝日がこの援軍を裏切るような社説を掲載するとは驚きだ。
 朝日社説は、第二次大戦中のナチス占領期、対独協力政権であったビシー政権を「悪いところばかりではなかった」と再評価する本がフランスでベストセラーになっている例をあげながら、ドイツの傀儡政権を「悪」とした従来の歴史認識に対する「一種の歴史修正主義です」というフランスの専門家の意見を紹介している。
 そしてこのことをどう見るべきかの回答を、どんな国も自分に都合の悪い歴史は「なるべく忘れ、問題にしない」ものだとするフランスの思想家ルナンの言葉に求め、歴史修正主義に陥ることは宿命的現象で仕方がないことだと暗にほのめかしたのだ。
 これは今後、歴史修正主義を問題化しないという朝日の態度表明であり、安倍政権への「抵抗の拠点」明け渡し同然の社説だと言える。
 以上のように、自分に都合の悪い歴史は「なるべく忘れ問題にしない」のがナショナル・ヒストリー(国ごとの歴史)の宿命である、これが朝日の「歴史修正主義」肯定のための詭弁だ。これをさらなる詭弁で投降を粉飾、正当化しようというのが社説のテーマ「グローバル時代の歴史−『自虐』や『自尊』を超えて」の提唱だ。
 韓国、中国などとの歴史認識をめぐる紛争の原因を、自国の歴史に対し「自虐」になったり、「自尊」になることに求め、問題は「虐」や「尊」にではなく「自」にあると主張。「自分」の国の歴史にこだわるから「自虐」や「自尊」になる、だから「自分の歴史」にこだわる姿勢を捨てなさいという論法だ。各国歴史を相対化し「グローバル時代の歴史」という新たな尺度が必要になると言うが、それが何かは示さない。
 歴史に対して「自分のもの」にこだわれば、自虐や尊大になるというのは各国の歴史に対する冒涜である。自虐や尊大にならないよう自分の歴史に対し、誤りは誤りとして認め、失敗から教訓を汲み次代に継承していく、この自力更生力、歴史から学ぶ能力が各民族、人間にはあると信じるからこそ国の歴史教育があるのではないだろうか? もし朝日が言うように、都合の悪いことは「なるべく忘れ問題にしない」のなら、日本史という科目をいったい何のために学ぶのか? 憲法9条は歴史に学んだ日本の誇りではないのか?
 問題にすべきはいままともな日本史が教えられていないことだ。特に植民地支配に絡む近代史は日本の歴史としていまだ見解が定まっていないし、授業ではまともに触れられもしない。社説の言う「自分の歴史」にこだわることに問題があるのではなく、現代の日本人の生き方に関わる「自分の歴史がない」、このことが問題ではないのか。
 戦後70年という節目の年、安倍首相は8月(終戦記念)談話を「いままでのスタイルそのまま」にしない、従来の村山談話にある「植民地支配と侵略」などの「こまごまとした議論」はやらないと早くも「歴史修正主義」的態度を鮮明にした。
 ときあたかも「憎悪の連鎖になってはならない」という後藤さんのお母さんの訴えを無視し、湯川さん、後藤さんの犠牲を復讐に換え反テロ戦争参戦国に変えようというのが安倍政権の目論見だ。
 節目の年の8月の首相談話での歴史修正主義、それは9条平和国家から積極的平和主義、戦争のできる国に「軌道修正」するための要としてある。「侵略戦争の反省」が基本障害物だからだ。
 この歴史修正主義と闘うことが求められる時に朝日が「抵抗の拠点明け渡し」をやるならば、大東亜戦争賛美の過ちを反省した自分の歴史学習力まで否定することになる。猛省を促したい。



【中高年派遣労働記】

複数登録は当たり前

平 和好


 派遣会社により、業種の特徴がそれぞれある。私が初めて行った(そして面接のすぐ後、徹夜の仕事に行く事になった)K社は移転・スーパー新築・改装補助のたぐいが多い。母校のつながりで知り合った人から紹介されたA社はパソコン関連が多数。行ってみたら選挙情勢調査センターのパソコン600台設置・撤去の仕事だった。F社はK社・A社の業種に加えてさらに多種類の仕事がある。派遣労働者の多くは実は2つ3つあるいはそれ以上のところに登録している。そのたびに説明会に出向いてレクチャーを聞いたり、たくさんの書類を書かされたりする。人によっては煩わしいと思うかも知れないが、労基法上必要な手続き     だから仕方が無いし、後々こちらの役に立つこともあるから必須だ。

■メールを扱える事が最低条件
 それぞれから来る仕事紹介メールの中から自分のスキルと都合に合ったものに応募して、会社と合意したらその仕事をするのだ。電話・メールで合意したものが確認メールとしてこちらに届いて初めて就業の運びとなる。つまり、メールを携帯でやり取りできる事、そして最近は、自宅出発・職場到着の確認や就業報告をマニュアル通りに入力する事が給料計算の前提となることも多いのでこういう「最低限の操作」ができなければならない。
 私がかつて働いていた職場で、作業日報を自分でパソコン端末で入力しなければならなくなり、それが中高年の心の負担になって職場を去って行った人がいたのを思い出す。厄介な事に、ログインID番号やパスワードを打ちこまないとその画面に入れないから、忘れないようにしなければならない。しょっちゅう忘れる私のような者はそれをメモした手帳を常時持たねばならない。まあ、仕事が舞い込んだ時に自分の予定に支障が無いかリアルタイムで確認しないといけないから、そのシステム手帳は常時持ち歩くことになるのだが。「面倒そうだからやめとこうか?」 大丈夫、人手のほしい派遣業界のこと、わからないところはいくらでも会社に聞けば教えてくれる。

■「体を動かしてたらいい」は昔の話
   このように仕事の選択と就業報告、給料計算の資料送付で頭と眼をよく使う事になる。これが中高年の私にとっては都合が良い。若いとはお世辞にも言えない世代なので、ボケ防止になるのだ。「えっ十分ボケてるやないの」と家族が突っ込むが「いやいやこれぐらいで済んでるのはきっと派遣会社のおかげやで」と切り返して会話が終わった。
 暮らしに余裕のない中高年はもちろん、少々ゆっくりしている中高年も、入れてくれる派遣会社で仕事をしてみるのも良い。体と心の健康にきっと貢献してくれるはず。もちろん労働者を安くこき使って最大利潤を得ることだけを考える資本家の意図はやはり矯正しなければならないから、そのたたかいを職場内外で継続することはもちろん大事だ。それをしつつ、派遣労働の環境を労働者に都合の良いように整えていく、そして自身の体と心の健康を良好に保ち、世の中に貢献したいものだ。
 そこへ家族の声が突き刺さる。「また自分の都合の良いように働くんやな。それで得たお金で紙のゴミを撒き散らして…」「紙のゴミて…ビラの事かいな。支持してくれる人も多いよ」「そんな風に思てるのはあなただけでしょ」、こんな風に言われなくなる日を目指して「努力」する私であった。

         


時評

安倍首相の言う「国民」とは誰か?

金子恵美子


 「イスラム国」により二人の日本国民が犠牲になった。二人は昨年の8月以降に人質にされていた。イスラム国から家族へのメールにより、日本政府もそれを承知していた。
 今年1月安倍首相の中東歴訪。17日、日本は阪神・淡路大震災から20年。「20年過ぎれば首相国外か」と川柳に詠まれる中、エジプトのカイロで中東政策の演説を行い、25億ドル(2940億円)の支援を表明。そのうちの2億ドルを、「イスラム国」への対応としてイラクやシリアなど最前線にある国や周辺国の難民・避難民支援として無償資金援助協力とする。首相は「ISIL(イスラム国)がもたらす脅威を少しでも食い止める」と訴えた。
 こうした直後に「イスラム国」からのビデオメッセージが流され、日本人二人の人質と交換に2億ドルが要求された。安倍首相は急きょ帰国し、「テロには絶対屈しない。罪を償わせる。国際社会と協力して対処する」と「イスラム国」への強い怒りと対決姿勢を表明し、以後、中東への支援の更なる拡充、邦人救出のための自衛隊の派遣の検討などなど、その発言はエスカレートしていった。常に「人命救出第一」とセットで語られたが、矛盾を覚えたのは私一人ではないだろう。
 安倍首相のカイロでの演説が「イスラム国」に日本人人質事件の契機を与えたのは、首相の表明した<「イスラム国」対応のための資金援助>と同額の2億ドルを人質交換の条件にしてきたこと一つ見ても明らかだ。このことを指摘されて首相は「過激集団に過度の気配りは必要ない。これは今後も変わらない」と答えた。人質になっている日本人がいることを知っており、何人もの人質が殺されている現実がある中、「イスラム国」に刺激を与えるような発言を考慮することが「過度の気配り」になるのか。それは「イスラム国」に気配りすることではなく、自分の国民への気配りであろう。
 今日本は、国会でのこの事件に関する質問が自粛され、衆参両院で「テロの脅威に直面する国際社会との連携を強めるとともにテロ対策の強化を政府に要請する」テロ避難決議が全会一致で採択された。「反テロ」挙国一致へと進んでいる。
 人の命を何とも思っていないかのような「イスラム国」の蛮行と残忍性を認めることは絶対にできない。しかし、紛争を逃れてトルコ南部のキリス非難所で生活をしていた高校で男子生徒の約9割が「ジハード(聖戦)に行く」と再びシリアに戻り「イスラム国」をはじめとするイスラム過激武装集団に参加している現実。それは昨秋以来2000回以上にのぼる米軍主導の有志連合による空爆の拡大に伴い急増しているという。元来ありもしない「大量破壊兵器の脅威」を口実にイラク戦争を引き起こし中東を無政府状態にし、様々な過激武装集団の発生を招いたのは米国である。その米国が有志連合の盟主となって「テロとの戦い」という「御旗」を掲げ中東地域に介入しているのであるから、米国との対決姿勢を鮮明にしている「イスラム国」などへ青年たちが引き寄せられるのは必然と言える。
 イランの映画監督がかつて「タリバーンは遠くから見れば危険な原理主義だが、近くで個々を見れば飢えた孤児である」と言ったと言うが、そうした現実を抜きに「テロは絶対に許さない」「壊滅するまで闘う」ということであれば、その戦いによってまた孤児・避難民がうまれるのであるから永遠に問題は解決されない。
 安倍首相は今回の事件に強い怒りを表明しながら「テロと闘う」と言うが殺害された、ジャーナリストの後藤さんの願いは、そうした孤児たちが生まれない世界を築くことであった。だからもし安倍首相が、「国際社会と協力して」と米国主導の反テロ「有志連合」に加わるようなことになれば、それは後藤さんへの裏切りであり侮辱に他ならない。
 「国民の生命と安全を守る」は安倍首相の大好きなフレーズだ。しかし、「テロとの戦いに積極的に関わっていく」という「積極的平和主義」は、いったい何をもたらしたであろうか。日本国民の生命を奪い、危険に陥れている。「イスラム国」は日本国民の悪夢はこれからが始まりだと言っている。
 脅しに屈しないことは大切だ。国家であればなおさらである。しかしそれが、「積極的平和主義」という名の米国主導の「有志連合」への加担であれば、日本国民の生命と安全は益々脅かされるようになるだけである。
「国民」の生活を守ると原発再稼働
「国民」の生命を守ると積極的平和主義
「国民」とは誰だ
 少なくとも私は求めていない、願っていない
原発再稼働も積極的平和主義も
「国民」を騙って原子力村の住人の利益を守り
「国民」を騙って自らの野望を追及する
「国民」を騙るのはもうやめろ、と言いたい。



時評

これが「黒い企業」

林 光明


 このところ、にわかにクローズアップされているブラック企業の実態は実におぞましいと言える。有名どころの会社のみならず、聞いた事がない企業名を含めると厚労省の把握だけでも実に5千社を超えている。1昨年12月、厚労省は5111社に立ち入り調査を行った結果、82%の4189社が何らかの労基法違反が発覚した為に是正勧告を行い、なお改善が見られない事業所は書類送検の上に会社名を公表すると言う。しかし、目に見えた効果は恐らくない。
 ブラック企業とは、広義では反社会的団体との違法な繋がりが常態化した企業を指すようだが、狭義(一般)では主に新興企業で従業員を大量雇用し、過重労働・違法労働に従事させ、使い潰して離職に追い込むあくどい企業を言う。将来の生活設計も立たない賃金で私生活が崩壊する長時間労働を無理強いし、なおかつ労働者達を使い捨てる会社を言う。それらは今が渦中のワタミ、ユニクロ、gu、ベネッセ等、業種が比較的サービス業に集中している。
 しかし実は、これらの企業は消費者からかなり人気のあるお店であり、一般消費者からはお店の店員(社員)の優しく元気な雰囲気、CMから伝わるシッカリ感のあるイメージ等から、まさかこれがブラックな企業だとは思いもつかないという、二重戦略が感じられるのだ。代表的罪状は長時間労働・休憩時間の有無を言わせぬ剥奪・強圧的な業務命令・時間外賃金の無条件カット(強要サービス残業)・ありとあらゆるハラスメント…切りがないとまでは言わないが、まだまだ実例は数え上げられよう。
 Wikipedia事典によると、『ブラック企業は突如として現れたのではなく、日本型雇用が変容する過程で台頭してきた。ブラック企業では見かえりとしての長期雇用保障や手厚い企業福祉がないにもかかわらず指揮命令の強さのみが残っており、それによって若者を使いつぶすような働かせ方が可能となっている。 つまり、「強大な鞭とそれに見合った大きな飴」だった日本の労働から「飴」だけがなくなってしまった状態がブラック企業である。 企業側が指揮命令をする際になんのルールも課されない状態、すなわち「労使関係の喪失状態」にあることが問題なのである』とのことだ。
 昭和中期頃からバブル経済前後までは、早朝出勤や夜間残業勤務、果ては泊まり勤務など無理難題な業務指示が出ても、かつて"ゆり籠から墓場まで"と言われたほどそれに見合った雇用保障がされており、時間外カットのサービス残業が時折あろうが目を瞑る事も出来た。家庭生活無視の理不尽な長期単身異動(単身赴任)さえも辛抱して働けば、生産労働から事務労働、更に営業労働に至るまで出世のイスが待ってくれていた。
 そんな良き日本型雇用形態は、30年近くに及ぶグローバリズム経済主義の侵略を受け続けた現在、瀕死の重傷にある。終身雇用形態は非効率的制度の筆頭株として吊るし上げられ、長期的視野よりその場さえ効率良く廻れば良いとする「成果達成評価型労働」がビジネス・スキルという外来語を伴って黒船の如く渡来し、今や大手を振って闊歩している。
 あたかも労働組合の組織拡大を堰き止めるかのように、約30年前に派遣労働という雇用形態が資本のサイドから編み出された。しかし、幾多の雇用問題続出の挙句、いつの間にか会社の一方的事情で解雇される"クビ切り従業員"の代名詞にされた。これこそブラック企業が目を出す重大な温床となった。
 だが、ひどい労基法違反がのさばる会社をブラック企業というなら我が国に限らず、資本主義国においては金本位経済至上主義の性格上、それは必要悪とならざるを得ない。厚労省がいかに建前上、行動を起こそうが、部分的な駆逐は不可能なのだ。本気でやるなら、拝金主義思想を覆すしかない。それが出来るのは、与党政権ではなく、私達大衆の本気で黒い靄のかかった会社を許さない強い心しかない。


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