研究誌 「アジア新時代と日本」

第14号 2004/8/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 現代日本の「民主主義」、排除される「負け組」

研究 ファンド資本主義

文化 −漱石・「それから」百年後の日本で−  働くということ

朝鮮あれこれ ピョンヤン風 鰻料理

編集後記



 
 

時代の眼


 1リーグ制か2リーグ制か。今、日本のプロ野球界が揺れています。この論議を見ながら思うのは、何を基準に事の正否を論ずべきかということです。ここのところが明確にされないまま、それぞれ自分の立場から、自分の基準をもって、自分たちだけで通じる主張を繰り返し、論議が噛み合っていないように思うのですがどうでしょうか。
 球団側の言い分を聞いていると、やはり基準にされているのは、収益、利益の問題です。来年からの1リーグ制への移行を主張する巨人やパ・リーグ側も、それに反対する巨人以外のセ・リーグ側も、結局はいかに収益を高めるかが基準になっています。パ・リーグ側は、合併で2球団ほど減らし合理化したうえで、1リーグ制にして巨人戦で収益を高めることを期待しており、巨人は、リストラによる体質改善と1リーグ制化によって巨人戦の質を高めての収益増を狙っています。一方、巨人以外のセ・リーグ5球団は、巨人戦が減ることによる減収を嫌っている模様です。
 ところが、球団の合併と1リーグ制への移行に反対するファンや選手たちの発言を見ると、その基準はまるで違っています。合併の対象になり球団名の存続までおぼつかなくなっている近鉄のファンたちは、野球はファンあってのものなのだから、ファンの意見が尊重されなければならないと、合併そのものに反対しています。また、一般のファンたちのなかには、オールスター戦や日本シリーズが見られなくなるからと反対している人もいます。では、選手たちはどうかといえば、球団数、リーグ数の削減により、自分たちがリストラされるのに危機感を強めている場合が多々あります。
 そうしたなか、少なからぬファンや選手たち、それに野球評論家が、球団数とリーグ数の削減が日本の野球そのものの衰退につながるとして反対しています。すなわち、「削減」が野球全体のマイナスイメージを強めるばかりか、球児のプロへの道を狭め、それだけ野球少年の数を減らし、それが日本野球の衰退を促すということです。
 こうして見ると、企業の利益、ファンの要求、被雇用者としての選手の要求など、各人の立場の違いによって、論ずる基準は様々です。ただ、このなかで、「日本野球の利益」だけが各人の立場の違いを超えて共通の基準になっているのは無視できない事実ではないかと思います。
 論議は、共通の土俵の上で、共通の基準をもって行うべきであり、そうしてこそ、話が噛み合い、皆にとって意味のある答えが出てくるのではないでしょうか。「日本野球の衰退」を憂えて出されている意見を尊重しながら、この点をめぐって、論議が深められる必要があるのではないでしょうか。


 
主張

現代日本の「民主主義」、排除される「負け組」

編集部


■青年がいない
 今回の参院選挙の投票率は56%という低さでした。「選挙に大いに関心がある」という人は公示前で20%、選挙直前でも30%でした。そして「無党派」層は依然として48%という「最大党派」でした。こうした数字を見ても、政治的無関心の広がりと深化が相当なものになっていることがわかります。
 その中でも、青年たちの無関心ぶりが際立っています。投票所では青年の姿を見かけず、たまに若い人が行くと投票所の人たちがびっくりした顔をして見るというような状況だったようです。
 はっきりした数字は分からないのですが、3年前の参院選で、全国約5万の投票区で投票率が標準的な150区の投票区での結果を追跡調査したところでは20〜29歳の投票率が34%、65〜69歳で76%などという数字があります。青年の7割くらいは投票にも行かず、選挙があること自体、知らないような、まったくの「政治的無関心層」になっているようです。
 今回の選挙では、「無党派」でありながらも選挙活動に積極的に参加する「アクティブ無党派」と言われる人たちの動きが注目されました。それでも無党派の投票率は、01年の参院選で21%、03年の衆院選で23%だったものが今回27%程度に増えたにすぎません。
 また、今回の選挙では、「Rights」とか「G−net」などのNPO組織が高校生を対象にした模擬選挙をおこなったりして、青年が選挙に関心をもつようにする取り組みなどもおこなわれましたが、それほどの掘り起こしにはなっていないようです。
 20〜29歳までの青年層の中には結婚している人も含まれるわけで、そうした人たちの場合、とくに主婦たちは年金問題への関心が高く投票率も高かったようですから、独身の20代の青年の「政治的無関心層」というのは、数字に表れる以上のものになっていると思います。

■なぜ青年は投票に行かないのか
 青年たちが国政に関心がなく投票に行かないということを考えるとき、多くの青年がフリーター層になっているということが関係していると思います。
 フリーターといった場合、多くは独身であり、決まった職場をもたず、地域との関係も希薄です。妻子もなく職場や地域との関係も希薄であれば政治を切実に考えるということもなくなります。
 実際、そうではないでしょうか。自分が生きていくだけなら、少々生活が苦しく境遇が悪くても自分が我慢すればすむことです。「自己責任」という風潮が強い今日ではなおさらでしょう。しかし、自分の家族、自分の職場、自分の地域という意識をもつようになれば、自分のことだけではすまなくなります。
 自分が属する確固たる集団がなく、日々の糧を自分で稼ぎなんとか自分一人で生活していっているフリーター青年が自分の運命を集団の運命、日本の運命と結びつけ、政治に関心をもつようになるということは難しいことです。
 政治にまったく利害関係を見出せない青年フリーター層が、いくつもかけもち労働で疲れはて「くたくたなのに日曜くらい寝させてほしい」と思うのも当然ではないでしょうか。
 一方、国家の側も、今や国家の共同体的性格を建前としても否定し国民国家であることをやめつつあります。
 それを象徴的に示したのが今回、選挙で争点になった年金問題ではないでしょうか。「年金改革」の狙いは、国が国民国家たることを放棄し今後、国民の老後に責任はもてないから各自「自己責任」でやってくれということです。
 作家の高村薫さんが「一口に低投票率といっても参院選の投票率が6、7割だった70〜80年代と5割前後まで下がった90年代以降とでは性質が異なる気がする」と言いながら、「もはや『政治への無関心』や『政治不信』ではなく、国民国家という枠組みへの直感的な懐疑だろう」(選挙前の6月18日の朝日新聞の記事)と述べていましたが、確かに、国家がみずから国民国家であることをやめ、これからは福祉も何も「自己責任」でやってもらうというようになっている中で、青年たちが投票のことを考えたとしても、「行ってもムダだやめとこう」と考えても不思議ではありません。

■「負け組」排除の「民主主義」
 今回の選挙の結果、自民も民主も「『無党派』対策に力を入れる」と言っています。問題は、この対象に青年フリーター層が入っているのかということです。
 自民と民主の二大政党制の下で、どちらも、市場原理の「構造改革」派であり、そのやり方をめぐっての争いになっています。そうであれば、この「構造改革」で「勝ち組」になり、これに利害関係をもつ者がまず対象になるのではないでしょうか。
 昨年行われた衆院選挙では「マニフェスト政治」が脚光を浴び、実行できる政策を競うということが言われました。しかし、そのマニフェストなるもの、専門用語と数字が並べられた難しいものでした。「アクティブ無党派」という人たちも、どちらかというと、「構造改革」に利害関係をもつ人たちだと思います。
 こうしたことを見ても、彼らの「無党派対策」とは、市場原理の「構造改革」に利害関係をもつ上層の「勝ち組」が対象でしかないのではないでしょうか。
 では政治に無関心な下層の「負け組」はどうなるのでしょうか。「無党派」については、政策課題に敏感に反応し短時間で極端にぶれやすい。投票する政党を決めるのも、「公示後に決める」66%、「当日に決める」19%などと、選挙直前になって決めるということが言われています。
 こうなると、彼らの関心を集めるための「劇場政治」にならざるを得ません。その典型とされる米国では、候補者が互いに個人攻撃をし暴露合戦や情報操作、謀略劇も行われています。
 日本の政治は、市場原理の「構造改革」に利害関係をもつ者、すなわち「勝ち組」のための政治になって、「負け組」は、実質政治から除外されていくということではないでしょうか。
 それは、古代のギリシャやローマを彷彿させます。ギリシャでは、城壁に囲まれたアテナイ市内に住む市民9万人に対し城外には32万の奴隷階級がおり、彼らは民主主義から排除されていました。ローマの場合、民主主義は発達せず、市民の中でも上層の貴族階級が支配権をもつ共和制になります。下層市民は、属州の住民や奴隷とは区別されたローマ市民として認められますが、「威厳なき愚民」「閑暇なき貧民」と呼ばれ、政治からまったく排除され、対外戦争の戦士とされたり、「剣闘士の戦い」など、さまざまな見世物に熱狂する「劇場政治」が展開されます。
 「勝ち組」「負け組」に二極化する日本で、「負け組」にされる圧倒的多数の人々の政治からの排除。彼らは、古代ギリシャの奴隷なのか、はたまた古代ローマの下層市民なのか。
 世界を見れば、米国は古代ローマ帝国さながらのやり方で、米一極支配を維持しようとしています。その、米国に従うだけの日本は属州化し、傭兵を差し出し、対米融合化したアメリッポンの内部で進む、二極化した下層の政治からの排除・・・。
 主権国家、国民国家解体の下で、民主主義も崩壊しつつある。参院選の結果がしめすのは、まさにそういうことではないでしょうか。


※        ※        ※

 集団の崩壊と社会の個人化がもたらす、政治的無関心の広がりと深化、その中で日本の「民主主義」は、少数「勝ち組」のための「民主主義」となっています。
 いっそう、はなはだしくなる政治離れの拡大は、日本の民主主義の歯止めのない崩壊を予感させます。
 しかし、そこにまったく展望がないわけではありません。それは、家族、地域、職場という共同体、集団が破壊される中、人々の共同体志向が強まっていることです。
 日スポのドラマ部門での4ー6月期での作品賞が「ホームドラマ」でした。堂本剛扮する主人公が古いしがらみ、常識に囚われず作る「新しい家族」とは、一人一人が大事で欠けてはならないという家族です。
 今、日本では、このような考え方が求められているのではないでしょうか。その要求の高まりの中で、古い集団は破壊されても、人々の気持ちに合う新しい時代に合った新しい共同体的な関係が育まれていきます。そこに日本の新しい民主主義実現の展望も開けていくのではないでしょうか。


 
研究

ファンド資本主義

魚本公博


◆「はげたか」が「再生」に
 最近「ファンド資本主義」という言葉を耳にするようになった。いわいる「再生ファンド」が日本企業を再生させ、それによって景気も上向きになったというわけである。
 しかし、この「再生ファンド」とは、かつて「はげたかファンド」と言われたものである。
 米国金融が日本の不良債権を買い取って再生した後、その会社を再上場したり、他に高く売りつけて儲ける手法。その典型的なものは、新生銀行の再上場であろうか。米国リップルウッドが「破産」した長期信用銀行をわずか10億円で買取って再出発した新生銀行は、今年2月再上場したが、その株価は1兆円をつけた。リップルウッドが投資したのは買収費の10億円と投資家を募って集めた1200億円である。この1210億円が1兆円に化けたのである。
 その再生過程では、「外資に人情は通じない」と言われるほどの非情な「貸しはがし」や「リストラ」が行われた。
 この方式で多くの有名企業が餌食にされている。日本コロンビア、宮崎シーガイア、旭テックなど。不祥事続きの三菱自動車の筆頭株主も「フェニックス」という「再生ファンド」であり、株式の3分の1超をもっているという。
 彼らは、不良債権と共に「バルクセール」という方式で土地も買っている。不良債権を買ってやるのだからと不動産を買い叩き、そこに新ビルを建て十数倍の値で売るというのだから、たまらない。
 また、今では「再生ファンドの地域版」として、地方銀行が所有していた不良債権にも外資は目をつけている。その場合、日本のファンドという形態にして行われ、「日本のファンドです。見捨てるわけではありません」(福岡銀行の例)というようにしてるらしい。
  日本向け投資ファンドの規模は昨年1兆円を超えたというが、モルガン・スタンレーだけでも、これまで買った不良債権の簿価は10兆円以上にもなるという。その上、06年からは株式交換の方法で買収が可能になるというのだから、外資「再生ファンド」はまさにわが世の春であろう。

◆外資の思うままに
 その手法はあくどい。
 長期信用銀行が破産に追い込まれたのは米国「格付け会社」が「危険」の烙印を押したことが契機になっている。そして、旧長期信用銀行の不良債権処理に8兆円もの国家支援(国民の税金)をさせている。
 「りそなグループ」の「破産」では、親米派・竹中金融財務担当大臣の指示で監査法人が必要以上に不良債権を洗い出したのが原因だと言われている。この過程では、担当した、朝日監査法人の会計士の自殺という事件も起きている。
 最近のUFJをめぐる騒動も監査法人「中央青山」が動いている。経営難が伝えられたUFJは1−6月期の決算では当初1000億円の黒字を計上していた。ところが監査に入った「中央青山」が、あれもこれも不良債権だと査定したため、赤字を計上せざるをえなくなり、それも2000億円、4000億円と段々と膨らむ始末だった。
 そして外資。UFJには外資が31%も入り込んでいたが、この時期、彼らは株を売って株価を下げ、それによってUFJは「自力再生の道は絶たれた」のだという。
 すでに、3大金融グループにも20%以上の外資が入り込んでいるというし、東京株式市場上場企業の上位100社のすべてに外資が20%から35%も入っている。こうして日本の企業は「外資の顔色をうかがわざるをえない」状態になっている。
 外資依存の日本経済は、外資の思うままである。例えば、ソフトバンクが日本テレコムを3400億円で買収した時、ゴールドマン・サックス証券が両者の株主であった。結局、外資が裏で取り仕切っているのである。その違法性が指摘されたが、彼らはどこ吹く風である。
 UFJと東京三菱との合併問題は裁判所がUFJ傘下のUFJ証券との合併で先に話があった三井住友側に優先権があるという判決を下ろし白紙にもどされた。元々、「UFJも外資が買うらしい」という噂があったのであり、そうなると、この白紙撤回もあやしい気がする。

◆もはや「ナイアツ」?
 こうした中、在日米国商工会議所(ACCJ)の会員たちが米系企業での雇用者数も30万を超えるようになり、自分たちの多くは日本人と結婚してることなどをもって、「いまやガイアツではなくナイアツ」だとうそぶいているという記事を見た。彼らは、「日米経済外交の関心は通商から投資に」移ったとして、「再生ファンド」による日米融合を進め、毎月最終水曜に米大使館で情報交換会しながら、米国や日本をまたにロビー活動を行っているのだという。
 軍事外交関係では対日専門のアーミテ−ジ米国務省副長官がプロレスラー顔負けの容貌で日本に恫喝をかけているが、経済でも、日本はいろいろな線から圧力を受けているのだろう。
 米国が狙うのは、最終的には、1400兆円の日本人の個人資産だと言われている。まずは、今、国会で審議されている「郵政改革」による300から500兆円の郵貯、簡易保険。年金の140兆円の積み立て金も狙われている。
 今回の参院選挙では56%という低投票率で政治的無関心の増大が顕著になったが、こうした状況を尻目に今回の選挙では外資が大いに関心を示したという。
 カネのなる木、日本への外資=米金融の関心のほどがうかがわれるが、このことほど、対米融合したアメリッポンは日本国民のための日本ではなく、米国人のための日本になっているということを如実に示すものはないだろう。
 「再生ファンド」「ファンド資本主義」と喜んでいる場合ではない。


 
評論 −漱石・「それから」百年後の日本で−

働くということ

若林盛亮


 日経夕刊コラム「あすへの話題」で漱石の「それから」を引用しながら経済学者の猪木武徳氏が「働くということ」について問題を提起した。
 「それから」の主人公代助は、食べるための職業を持とうとしない。実業家である親からの援助で高等遊民のような生活をしている。日露戦争後、強引な工業化に進む日本を「牛と競争する蛙」の寓話同様、「いまに腹が裂けるよ」と看破し、「ゆがんだ西洋化の片棒を担ぐ」働くことを蔑視する代助に新しい型の知識人像を漱石は託した。
 代助は、密かに愛しながらも「自然に背き」友に結婚を斡旋した三千代への愛を自覚、愛という「自然に返った」瞬間から、親から離縁され高等遊民生活は破綻、意に反して「食うための職業」を探すという「自然に背く」妥協を強いられる。
 「『それから』が書かれて百年近く経った現在も、代助が苦しんだのと同じ問題が存在するような気がするのだが・・・」と猪木氏は括っている。
 明治当時、「働くということ」そのものを問題にした人はまだ少数派である。代助の親友であり三千代の夫である平岡は、「食うための職業」に精いっぱいであり、「ゆがんだ西洋化の片棒を担ぐこと」などとは考えもしない。
 明治の日本で「働くこと」の意義を問う代助は、少数派知識人にすぎなかったが、百年後の平成日本では日本人が総「代助化」したと言える。
 いまや日本は、「牛(西洋)と競争する蛙」から世界市場で覇を競う経済大国になった。覇を競うためには、米一極支配を受容し米経済との融合も甘受する日本になった。その結果、日本やアジアの国民経済を破壊することも厭わない「痛みを伴う改革」の渦中に日本はある。労働は「高度な職能」とアジアで代替可能な「低度な職能」に区別され、今日の「高度な職能」も明日は陳腐化し、価値なき職能になりさがり、「低度な職能」は日本からアジアに移り、国内には、誰とも代替可能などうでもいい労働、膨大なフリーター労働が常態化されている。労働は、ますます「食うための」、サバイバルのためのものに堕ち、「働きがい」を求める今日の代助が大量に生まれている。
 猪木氏は、「気が進まない仕事にも、一日の一定時間を義務として割くことで、精神の弛緩を防ぐという知恵は、西洋の修道院や仏教僧の生活の中にもあった」という労働観を示しているが、漱石はどう言うだろうか。
 労働は人間生活の重要部分を占めるものだ。気が進まない仕事の存在自体が、漱石の言う「自然に背く」異常な人間生活なのだ。働くということの意味、有意義な労働とは何か? 漱石が先駆的に提示したこの問題の解決が、「それから」百年後の日本でついに国民的課題になったのだと思う。


 
朝鮮あれこれ

ピョンヤン風 鰻料理

田中協子



鰻料理店「柳京ルンラ食堂」

 暑い盛りの土用丑の日に鰻を食べるのは日本人の昔からの風習である。日本ではこの夏、記録的な猛暑≠鰻料理でしのいだ方も多いことと思う。
 同じアジアの国である朝鮮にも土用に当たるサムボク(三伏)がある。立夏からの18日間、チョボク(初伏 7月20日頃)、チュンボク(中伏 7月30日頃)、マルボク(末伏 8月7日頃)の期間である。この一番暑い盛りに朝鮮の人々は昔から鰻ならず犬肉(タンコギ)≠食べる。ニンニク、ネギ、唐辛子、ゴマ、塩の薬味をかけ、こってり煮込んだ犬肉スープを汗をびっしょりかきながら食べる。とはいえ私達はやはり日本人、土用の日が近くなると鰻が恋しくなる。それでこれまで何回か故郷の味をまね鰻丼を作ったりした。
 朝鮮の人に聞くと鰻(ペムジャンオ)は虚弱者の補薬のように考えられ一般的にはあまり食べないそうだ。しかし、数年前から南浦で鰻養殖が始まり市場にも出回るようになった。その養殖場から鰻をもってきてピョンヤン市民に鰻料理を食べさせる専門店がルンラ島にあると聞いて行ってみた。ルンラ島はピョンヤン市の中心を流れる大同江の中州である。メーデー競技場やプール、テニス場があるスポーツ島でもある。その島の入り口付近にお目当ての鰻料理店「柳京ルンラ食堂」があった。平日なのに駐車場に車がびっしり詰まっている。野外でも蒲焼きをやっていたが、私たちは地下にある食堂に入った。すぐ目に付くのが水槽だ。良く肥えた鰻数匹が水中で立ち泳ぎしている。店内は大きな丸テーブルを囲み鰻料理に舌鼓を打つ客でたいそう賑わっている。どのテーブルも満席で席が空くの待っている人が入り口に沢山いる。
 市民が食べている鰻定食を注文した。まず、鰻の蒲焼きが出た。甘ダレの蒲焼きに慣れている私たちからすればタレの甘味がもう一つだが、鰻肉も、焼き具合もほどよい。次は酢豚風の鰻料理。うーん、意外とイケル。微妙に酢が薄いのも朝鮮民族ならではの味覚だろう。その次は、鰻の天ぷら。からっと揚がって香ばしく、にんにくのタレにつけて食べたがなかなか美味しい。いずれもビールとの相性が良かった。最後はペムジャンオ・タン(鰻スープ)。ご飯とマッチして食がすすむ。合計2500ウォン(日本円で約200円)。
 メニューを見れば「鰻団子」や「ケチャップ和え」もある。想像を超えた料理方法だ。朝鮮の人は「食に関して保守的」と思っていた私は、ピョンヤン風 鰻料理の自由な発想に驚かざるをえなかった。


 
 

編集後記

魚本公博


 サッカーのジーコJapanがアジアカップで快進撃です。
 ジーコ監督の場合、各人の個性・自主性を大事にするというやり方ですが、トルシエ前監督が自分の構想・戦術の通りに選手が動く事を要求しそれに合う選手を選ぶという方式だったのに比べると何も指導をしてないように見え、当初は、いろいろと批判がありました。
 しかし、今回の快進撃は各自の個性・自主性を大事にしつつチームが一つになったとき、より強いチームになることを示したようです。
 本文で取り上げたテレビドラマ「ホームドラマ」もそうですが、、一人一人がなくてはならない、かけがえのない存在でありながら、ひとつの集団として結び合っていくべきだというような考え方が強まっているようです。
 米国式市場原理によって集団が破壊された日本で、こうした新らしい集団についての考え方が生まれているのはうれしいかぎりです。


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