時評 日米構造の集約地=沖縄が変わるとき、アジアが変わるとき
明けましておめでとうございます
総選挙での安倍自民の大勝という、なんとも閉塞感に包まれた年明けとなった。にもかかわらず今、日本が時代の大きな「転換点」にあることを改めて確認したい。
そのように見る根拠の一つは、今回の選挙で示された「民意」だ。表面的に見るなら291議席を獲得した自民が「圧勝」したと言えるが、注目したいのは投票率52%という数字だ。09年政権交代(投票率69%)に比して有権者の約1700万人が「棄権」したことになる。自民の比例区獲得票1766万(これが自民の「ホント」の支持票と見ていい)とほぼ同数の有権者が今回は棄権に回った。
10日、尼崎で「里山資本主義のすすめ」と題した井上恭介氏(NHKプロデューサー)の講演を聴いた。藻谷浩介著「里山資本主義」は(NHK広島取材班との共著となっている)井上氏の取材を文字化したものだ。高齢化と限界集落で消滅の危機にある過疎地問題が大きな社会問題となる中で、その解決策が示されてこなかった過疎地のイメージをがらりと変えて見せた本書は大きな話題となり、32万部も売れている。
なぜよく売れたのか。3・11後の人々の意識の変化があるのは間違いないが、それ以上にこの本が売れたのは、「マネー資本主義」に代わるもう一つの「新しい社会のあり方」を具体的に提示したところにあるのではないかと思う。
今、人々が切実に求めているのは、新しい社会のあり方であり、国のあり方ではないかと思う。「アベノミクスの是非を問う」として解散、総選挙に打って出て安倍政権は「勝利」し、なぜ野党は敗北したのか。アベノミクスはいわば古い「マネー資本主義」による改革であって何も新しいものではない。しかし古い形であれ一つの経済の形は提示している。民主党を含め野党はアベノミクスを批判はしたがそれに代わる経済を提示できなかった。それが史上最低の投票率となり、争点なきしらけた選挙となったゆえんだ。
人々は古き社会にうんざりしている。しかし古き社会への批判だけでは人々の支持は得られない。旧思考に懲り固まった自民が「勝利」したのでも、アベノミクスが「支持」された訳でもない。沖縄で反自民の「オール沖縄」が勝利したように、反自公の強力な受け皿が生まれるかどうか、その要もこれまでの古い政治や古い経済に代わる「新しい社会」を提示できるかどうかだ。日本が変わるかどうかは、そこにかかっている。
主張 情勢展望
昨年末の解散・総選挙は情報の宝庫だった。旧年度総括も新年度展望もそこに詰まっていた。それで今回は、総選挙の総括から始める。
昨年末総選挙から言えるのは、一つは、安倍自民「圧勝」とは裏腹の、民意による「安倍不信任」だ。そしてもう一つは、「圧勝」の結果生じる未曾有の危機と「不信任」との関連で生まれる可能性を秘めた救国の「オール日本」の形成だ。なぜそう言えるのか。それについて見ていきたい。
マスコミ大手は、昨年度総選挙結果を一様に安倍自民の勝利と報じたが、その表現は各様だった。読売、産経は「圧勝」、朝日は「大勝」、日経は「勝利」だった。そこに各社の立場がよく現れていて面白いが、それとはまったく異なる角度からの分析、評価も少なくなかった。そこには、今回の総選挙結果は単純に安倍政権への「信任」の表示とは見られないというものが少なからず見受けられた。そうした中、本誌は、「結果」を民意による「安倍不信任」の宣告と断じる。
■総選挙は「安倍政権信任投票」だった
まず確認したいのは、今回の総選挙が安倍政権への民意の信任を問う「安倍政権信任投票」だったということだ。
今回の総選挙が政権交代をめぐるものでなかったのは誰もが認めることだ。解散・総選挙を決めた安倍首相自身、政権をめぐり誰かと競ってそうしたのではない。野党第一党である民主党も「政権交代」のスローガンは最初から降ろしていた。
そうした中、野党各党は口をそろえて「大義なき解散・総選挙」を唱え抗議した。確かに、誰もが「今なぜ解散・総選挙か」理解に苦しんだ。
では、安倍首相の目的はどこにあったか。それが何らかのお墨付きを得るところにあったのは明らかだ。だが選挙の性格は、その施行を決めた首相の目的によって決まるのではない。それはどこまでもその選挙に民意がどう応じたかによって決まる。そこから見たとき今回の総選挙はどうだったか。それは、安倍首相が望んだように、政権への信任を「確かめる」のではなく、「問う」と言った方が正確な選挙だったのではないか。
■民意は「安倍不信任」を宣告した
では、「安倍政権信任投票」の結果はどうだったか?それは、「安倍圧勝」の大文字が躍ったマスコミ報道とは裏腹に「安倍不信任」だったと言える。
「圧勝」した者がなぜ「不信任」なのだ。そんな馬鹿なことがどこにある。と言われるかも知れない。しかし、選挙結果をよく見れば、「不信任」は歴然としている。
「安倍不信任」は、何よりもまず第一に、政治そのものへのかつてない不信として現れた。
政治への不信は、「政治では何もできない」「選挙をやっても同じことだ」という不信であり、それはとりもなおさず政権への不信だ。
この政治への不信は、すでに選挙の前から現れていた。国民の間からは、広く「今なぜ解散・総選挙なのか」という声が起こり、選挙戦はかつてなく盛り上りを欠いていた。
また、これもかつてなかったこととして、選挙ボイコットへの呼びかけが史上初めて、公式サイトに現れた。元外務省の天木直人さんが自らのブログで呼びかけたし、「日本未来ネットワーク」からは「白票」の勧めが打ち出された。
そして選挙当日、投票率が52・6%と過去最低だった前回よりもさらに7%近く低いダントツの史上最低を記録した。
この政治不信がいかに「安倍不信任」につながっているか示すものとして、棄権した人の47%が「もし投票していたら共産党」であり、「自民党」はわずか26%に過ぎなかったという数字まで出されている(大阪毎日放送)。
「安倍不信任」は、第二に、「圧勝」が「安倍信任」ではなく「野党壊滅」の結果であり、自民の得票率はむしろ落ちているところに現れている。
このところ、野党への「不信任」はかつてないものになっていた。「一強多弱」は、自民への「信任」ではなく、ほぼ全面的に野党への「不信任」の現れだ。その結果、「第三極の崩壊」「二大政党制の失敗」などが言われるようになっていた。
その上に今回の総選挙では、安倍自民による徹底した野党たたきが行われたという事情まで加わった。不意打ち同然の解散、解散発表から選挙までわずか3週間という最短の準備期間、野党による宣伝の抑制効果を狙ったマスコミ規制、等々、踏んだり蹴ったりだった。そのため、野党各党は、公約、マニフェストの準備が遅れるなど、ろくに宣伝戦もできなかったし、野党共闘など、組織戦の面でも自民党と対決する陣形をつくれなかった。もともと自民党と対決する理念も、路線・政策もない野党がこれにより、自壊同然の状態に陥ったのは当然だと言える。だから、今回の「圧勝」が自民への信任ではなく野党への不信任によるものだというのは、もはや70%をはるかに超える国民的共通の認識になっている。事実、自民党の得票率は、このところ20%を少し超えたまま回を重ねる毎に低下しており、今回は最低だった。
「安倍不信任」の根拠を挙げるなら、それは第三に、「圧勝」が争点操作によるものだったということが挙げられると思う。
今回の総選挙の争点は経済、それもアベノミクスに置かれた。これで野党が勝つためには、野党が日本と日本国民にとってアベノミクスがいかに不当であるか科学的に分かり易く説得した上で、それに代わる日本経済のあり方を示し、その路線・政策を提示する必要があった。安倍自民は、まさに野党がそれをできないのを見越して、争点をここに持ってきた。安倍首相の殺し文句が「アベノミクスが正しいのか間違っているのか、間違っているなら代案はあるのか」だったところにそれは如実に現れている。
選挙の争点は、元来、日本と日本国民にとっての最大の重大事に置かれるべきである。そこから見たとき、争点は、経済にもまして、戦争と平和の問題に置かれるべきだった。集団的自衛権行使の容認、日米防衛協力の指針の策定など日本を「戦争する国」にするのかどうかが今焦眉の問題になっているからだ。しかし、この争点は隠された。もし、この本来の争点で総選挙が行われていたならどうなったか。おそらく、安倍自民の「不信任」は間違いなかったのではないか。それは、今回の選挙で共産党や公明党など、平和志向の党が大躍進したのに対し、「自主憲法」を掲げ「戦争する国」を公然と目指した次世代の党が19議席からわずか2議席へと激減したところにも現れている。
争点による「安倍不信任」は、沖縄で全面的に示された。辺野古移設反対の「オール沖縄」に安倍自民は4戦全敗だった。
※ ※ ※
民意は、「安倍不信任」を表明し、安倍政権に政治の委任状、お墨付きを与えなかった。にもかかわらず安倍政権は、全議席数の3分の2を上回る圧倒的多数を獲得した。安倍政権がその数にものを言わせた暴政をしてくるのは目に見えている。この矛盾に満ちた現実は、新年度の情勢発展にどのように現れて来るだろうか。
矛盾に満ちた総選挙結果は、新年の日本政治が民意対安倍政権の決戦の様相を帯びてくるのを予感させる。そしてこの「決戦」は、単に日本政治の現実だけが生み出すものではない。それは、世界政治の発展とも密接に連動してくるだろう。
■2015年、安倍政権の民意愚弄
「お墨付き」を得たとする安倍政権が、自らの生みの親であり支えでもある2012年8月の「アーミテイジ・ナイ報告」が求める「強い日本」、すなわち、日米共同で「戦争する日本」の実現のため狂い立つのは目に見えている。あの騙し打ち同然の総選挙の本当の目的がここにあったからだ。
だが、民意に異常に気を配り民意を愚弄する安倍政権は、拙速に目的達成を謀ってはこない。当面、春の統一地方選を前に、もっぱら「経済」と「地方」を政治の前面に押し出して来ている。それは、ちょうど二年前、執権当初、夏の参院選を念頭にそれに向け、前面に「経済」を掲げ、それを党と政権内部で徹底させたのを彷彿とさせる。
総選挙後組閣された第三次安倍内閣の「初仕事」は、景気底上げに向けた総額3・5兆円の経済対策、および地方創生方針や人口減対策を盛り込んだ「長期ビジョン」と、2020年までの数値目標を示した「総合戦略」を決定した臨時閣議だった。しかも、その内容が徹底している。円安による悪影響を緩和するための低所得者向け灯油代補助、中小企業資金繰り支援、運送業者の高速道路料金の割引、「住宅エコポイント」の復活、等々、盛り沢山な経済対策、そして、自由度の高い新しい地方交付金、地方への企業移転を促す税制優遇、農林水産業の成長産業化などによる若者の雇用30万人創出など「地方創生」に向けた政策、「これでもかこれでもか」という安倍首相の声が聞こえてくるようだ。
これら対策、政策が統一地方選で威力を発揮するのは間違いない。もちろん、この間、冷遇され続けてきた低所得者、中小零細業者、地方・地域などが、これでころりとなるはずはない。しかし、これが悪い評価になるはずがないのも事実だ。
統一地方選をなんとか乗り切った後の安倍政権の前には、「お墨付き」を振りかざしての「反動と戦争」の街道まっしぐらあるのみだろう。米軍と自衛隊の役割分担を定めた日米防衛協力の指針、ガイドラインの改定と法整備、TPP締結、原発再稼働、そして法人税引き下げ、雇用や農業規制の撤廃などアベノミクス第三の矢、成長戦略の強行、等々、懸案の課題が目白押しになっている。
安倍執権以来とってきたこの手法を民意への愚弄と呼ばずに一体何と呼ぶのだろうか。
■日米一体化、米覇権戦略に組み込まれる日本
新年、安倍政権が突き進むであろう道は単純な「反動と戦争の道」ではない。それは、徹底した日米一体化の道であり、日本の政治と軍事、経済が米覇権戦略に完全に組み込まれる道である。
改定される新ガイドラインがこれまでのものと異なっているのは、「切れ目がない」ということだ。すなわち、米軍と自衛隊の役割分担に時間的、空間的「切れ目」を設けない、いつでもどこでも日米両軍は協力するということだ。もはや「戦闘地域」か「非戦闘地域」かの区別はない。この質的転換は決定的だ。それは「協力」を「日米共同戦争」の段階にまで押し上げるものだ。
日米一体化の質的転換は、軍事だけではない。経済の一体化もそうだ。アベノミクスやTPPも、その核心は、日米経済の一体化にある。それもこれまでの一体化とは違う。経済のあり方自体の一体化、融合であり、日本を米系外資にとってもっとも居心地がよく動きやすい国にし、日米両国経済の境界を完全に取り払ってしまう一体化だ。ここで重要なのは、これが米系外資の要求であると同時に、米国自身の国家的要求だということだ。
無制限の円の増刷であるアベノミクス第一の矢は、一般的には日本経済のための円高、デフレ対策と言われてきた。だが本当の目的は、米系外資の日本浸透、および日本経済の金融化、米国化を促進するところにあるのではないのか。また、第二の矢である公共事業投資も、震災復興など、米系資本の日本浸透のためのものだ。さらに決定的なのは、成長戦略、第三の矢だ。法人税の引き下げ、雇用、農業、医療などあらゆる分野にわたる規制撤廃は、米系外資の雪崩をうっての日本進出に広く道を開いている。
これにTPPが重なれば、日米経済の融合、一体化は決定的だ。TPPが単に農産物など関税の撤廃だけではなく、より本質的には、制度やシステム、ルール、スタンダードなど、各国間にある経済のあらゆる障壁を取り払い、ISD(国家と投資家の間の紛争解決手続き)条項などにより米系外資を守るためのものである以上、この協定の締結が日本経済に何をもたらすかは自明である。
この日米経済の融合、一体化は、単純な米国経済による日本経済の取り込みではない。それがすぐれて、米覇権戦略に日本を組み込むためのものであるところに問題がある。米国が国家として、米系外資の日本浸透の道を開き、奨励するのもそのためだ。日本の経済主権を握り、日本経済を自在に左右することにより、日本の政治、軍事も一層思うままに動かすということだ。
■主権侵害の米覇権戦略と主権喪失の日本
米国の下に政治も軍事、経済も組み込まれ、生殺与奪の権を握られた日本にとって、決定的なのは米国の動向だ。日本の識者、有力者と言われる人々が情勢を見るとき、まず「覇権国家」米国の顔を見るのはそのためだ。
だが、一方で米国による覇権の崩壊が言われて久しいのも事実だ。実際、今日、世界を動かしているのは米国ではない。だからと言って、中国やロシアでもない。大きな時代の流れは、ますます民意にそったものとなってきている。
しかし、昨年の世界の動きを見たとき、そこに米国が大きく関与していたのも事実だ。南シナ海、ウクライナ、中東と「イスラム国」、等々、今日起こっている紛争という紛争に米国は首を突っ込み、多かれ少なかれ、影響力を行使している。だが、これらをよく見て分かるのは、そのどれ一つとして米国の意のままになっているものはないという事実だ。
覇権から民意へ、第二次大戦以降、朝鮮戦争、ベトナム戦争などを経る中で、その兆しが顕著になってきた時代の転換は、今日、その最終的段階に入っている。それに対し、覇権の回復に狂い立つ米国の最後のあがきが絶頂に達してきているのも事実だ。それが目に余るものになったのが昨年の世界ではなかっただろうか。
新年、そのあがきは収まるどころか、さらに許し難い段階に登り詰めていくことが予想される。「イスラム国」の国境を無視した暴虐無尽とそれを口実とする米国による主権侵害の反テロ戦争はその象徴だと言える。
覇権再構築に向けた米国の最後のあがき、その核心は、人権の名の下に行う主権の侵害だ。この主権の無視と蹂躙が政治と軍事、経済などあらゆる領域にわたり全面化する。それが新年、2015年の米覇権戦略の基本特徴なのではないか。
米覇権戦略に完全に組み込まれ主権を喪失した日本はそのために使い捨てられる。この二年間準備されてきた「日米共同で戦争する日本」が主権侵害の反テロ戦争に動員される時が迫っている。
■参戦阻止!「オール日本」で!
昨年末総選挙での安倍自民の「圧勝」が産み出すもの、それが日本の政治と軍事、経済などあらゆる領域にわたる米覇権戦略への組み込みであり、その主権の完全な喪失が「日米共同の戦争」、主権侵害の反テロ戦争への参戦につながることについて見てきた。
新年、この未曾有の危機とどう向き合いどう闘うか、日本国民の前に問われている最大の問題はこのことを置いて他にないだろう。
この闘いでの勝利を切り開く上で忘れてならないのは、先の総選挙で民意が「安倍不信任」を宣告したという事実だ。ここに闘争勝利の根拠があり、力の源泉がある。
問われているのは、この日本国民の意思に訴え、要求に応えることだ。その上で、われわれには参考にすべき闘いの模範がある。もちろんそれは、沖縄の闘いだ。安倍自民に4戦全勝した沖縄の闘いから学ぶべきは、何よりも、イデオロギーよりアイデンティティーを重視したことではないだろうか。彼らは、左翼の論理ではなく、沖縄を思う沖縄の人々の心に基づき、そこに訴え、それを総結集するスローガンとして、「オール沖縄」を掲げた。それが沖縄の人々の心をつかんだ。
新年の闘いにおいて求められているのも、それだと思う。戦後70年、日本国民は闘い続けてきた。「戦争だけは二度とやってはならない」という思いに基づき、その思いから、戦争の放棄を全世界に宣言し、憲法9条を守り闘ってきた。そこにこそ、日本国民の日本国民たるアイデンティティーがあるのではないか。その思いが踏みにじられようとしている今、そこに訴え、それを総結集するスローガン、「オール日本」が求められている。
「オール日本」はもっとも広範な統一戦線だ。「オール沖縄」が辺野古基地移設に反対する、共産党、生活の党などすべての政党の統一戦線だったように、「オール日本」は、アベノミクス、TPP、そして新ガイドラインなど、日米一体化と日米共同の戦争に突き進む安倍政権に反対し、日本を破滅から救う救国の闘いに立ち上がるすべての政党、すべての勢力を網羅する、もっとも広範な統一戦線として構築されるべきだろう。
救国の「オール日本」は、当然、闘いの中でつくられる。その闘いは、今春、統一地方選挙からはじまって、ガイドラインやTPP、そして原発再稼働、等々に反対する闘いなど、目白押しだ。
これら安倍政権に反対する闘いを通して形成される救国の「オール日本」、それこそが、新しい年、2015年、民意の時代の新しい日本実現への道を広々と切り開いてくれるに違いない。
闘いの現場から
11月27日夜23時45分にその電話がかかって来た。12月のお仕事をどうするか、派遣会社から来るお仕事メールの中から何件かを選んで明日返事しようと思っているところであった。
発信者の名前を見ると、3年前まで御世話をした元代議士だ。一体何なのか。意見の違いもあって事務所を円満退所し、現在は関係が切れている。出ないでおこうか・・。しかし、時あたかも安倍首相が自分の独裁政治強化とアベノミクス破綻の隠蔽のために解散に打って出ていた事に呆れ、怒っているところだった。通話ボタンを押してしまった。
「もしもし、ああ先生ごぶさたしております。お元気ですか?」「夜中にすみません。手伝ってもらいたい事があって」「空いた時間に、できる範囲の事でしたら」「いやそれが、この総選挙に出馬することになりまして、早速明日事務所を契約し、机・イスを運びたいので手伝ってもらえませんか」
「明日午後なら空いてるので良いですよ」
ここまでなら良かった。「お願いします。それとあとの事も相談したいので、明晩の時局講演会に来てもらえないですか?」
翌日、冬と言うのに大汗かいてトラック満載の家具運搬を終えたあとかけつけた時局講演会は満員で座れない。「元代議士」の決意表明を聞き、論旨は全くその通りだと思った(のが、運のつきだった)。終わって誘われるままに懇親会へ。
懐かしい人達がちらほらいた。御世話になった社長もおられて旧交を温め(これも今思えば・・)、私は秘書団の中で先生に一番煙たがられていたはずだから家具運搬で任務終了。閉める時に預かった鍵をサッサとお渡しし、小額の資金カンパでもして辞去するつもりだった。すると元代議士が「明日から投票日までついてくれないか?」
よく見ると「元秘書」団が一人もいない。タテは20キロ、しかしヨコは40キロくらいあるような広大でカントリーな選挙区を12日間走り回る経路と、停めて演説してもらう場所のべ400か所の選定をしなければならなかった。周囲に相談するゆとりもなく、それから2週間毎日、元代議士に睡眠時間以外の20時間近くを提供する事になってしまった。
つまり、朝6時に起きて7時に駅か事務所に行き、ビラを配り、マイクを運び、旗を持ち、街宣車でマイクを握り、元代議士に水と食料を供給して差し上げる、夜8時にマイクを納めて、打ち合わせと翌日の準備をすると睡眠につくのは早くて25時。徹夜が2日。大部分の日は睡眠時間4時間。選挙カーでおなじみの鶯さんを雇う資金も探す時間も無く、マイク係りの基本は元代議士だが、いち早く声が枯れたあとは、私がマイクを持つしかない。全てが手作り感満載の選挙戦を手伝わせていただいたが、人生で一番よく働いた2週間だったろう。
さて結果は1万3千票しか取れず、大敗。供託金300万円を国庫に貢献。とは言え、数十人のボランティアが支えた徒手空拳の元代議士の無謀な挑戦としては、よく取れたとも言えるし、現に行く先々で、見知らぬ皆様方が駆け寄り「あなたの言う通りや」と激励して下さる事が必ずあり、元気が出たのも事実。また、過負担にもめげず、もめごとや過労死死者が出ることも無く無事故で選挙戦が終了できた事は何よりである。
その後? とにかく翌日は15時間寝るぞと思っていたが、次なるたたかいの準備が翌日から始まるので、ささやかに7時間睡眠ののち、「え、また出かけるんかいな、選挙終わったん違うの?」という家族の不審な視線を浴びつつまたもや家を出る私であった。
ああ、やくざな道やなあ。家族は「やくざよりタチが悪いなあ」と思っている。
派遣会社からのメールは相変わらず毎日10本以上。営業くん、ごめん、まだしばらく就業あたわず、ですわ・・。
時評
年が明けてまだ十日余りだというのに世の中では色んな事が起きている。世界が新年をめでたく迎えるような状況ではないことを物語っている。
フランスで起きた週刊新聞「シャルリー・エブド」社襲撃事件は記者や警官・人質17名の命が奪われ、容疑者3名も殺害されるという惨劇でひとまず終結した。ひとまずと言うのは、事態がこれで収まらないことを予測させるからである。
報道によればフランス各地で「テロに屈しない決意」を示す370万人を超す大規模な行進があったとのことだ。120万人に達したとされるパリの行進には「団結こそ力だ。国民よ立ち上がれ」という仏大統領の呼びかけに応え、欧州の首脳、イスラエルとパレスチナのトップ、ウクライナ大統領、ロシアの外相など56の国・地域・国際機関の代表らも参加。宗教の壁を越えた連帯と団結が訴えられた。
しかし一方でイスラム教徒の多い仏独ではイスラム教徒への嫌がらせや攻撃が相次いでおり、「反イスラム」の大規模なデモも起きている。また、今回の事件を指示したとされるアルカイダ系の過激派組織をはじめとする各過激派集団は、この事件を「予言者(ムハンマド)への冒涜にたいする報復」としてとらえ、犯人たちを「真のイスラム戦士、英雄」と称え、支持するデモも起きている。三つ巴のデモが進行している形だ。この三つのデモの交点が見出されない限りいくらデモの規模が大きくなったとしても問題解決には至らない。
そもそも「シャルリー・エブド」紙のイスラム教を揶揄した風刺画がきっかけとなった今回の事件だが、これまでもたびたび風刺画騒動は起きており、そのたびに報復テロや抗議デモが繰り返されてきた。それ故、アラブ諸国では今回のテロ行為を非難する一方、「表現の自由」を絶対に守ると強調する欧米の姿勢に反発する声も少なくない。
これで思い出されるのが、映画「ザ・インタビュー」だ。他国の指導者の暗殺、しかもそれをコメディで描くという神経が理解できないが、配給会社に対するサイバー攻撃の前にいったん公開中止となった。しかし、オバマ大統領の「(サイバー)テロに屈しない、表現の自由を固守」という態度表明の中で公開が決定され、アメリカをはじめとする63か国で順次公開されていっているとのことだ。アメリカはいったん解除した「北朝鮮」へのテロ支援国家への再指定をチラつかせている。これに対し朝鮮はサイバーテロを否認し強い反発を示している。一方韓国の脱北者団体は「ザ・インタビュー」をDVDなどで空から朝鮮に散布する計画をしており、朝鮮は団体代表者を公式メディアで「これ以上生きて見上げる空も、死んでから埋葬されるわずかな土地もなくなるだろう」と威嚇し、韓国当局は「基本的に表現の自由」としながらも周辺住民らの安全を考慮して団体への自粛を促す模様という。
「表現の自由」とは?
我が国においても近年「ヘイトスピーチ」をめぐりこの問題が鋭く提起されている。また最近ではお笑いコンビの「爆笑問題」が新春お笑い番組で政治家に関するネタを没にされたとラジオ番組で明かして話題になった。そして紅白でサザンオールスターズが歌った「ピースとハイライト」の歌詞の内容が安倍政権を批判した風刺として受け取られ、拍手喝さいする人、非国民と憎悪を露わにし、彼らの事務所の入るビルの前で「国民に謝罪しろ」と街宣をする集団(在特会)まで現れている。自分たち=国民という彼らの思考方式と「国民」の威を借る彼らの本性が良く表れているようにも思った。
「シャルリー・エブド」の最新号の表紙には白装束を着て手に「私はシャルリー」のカードを持ち涙するイスラムの予言者「ムハンマド」の風刺画が描かれている。その上には「全ては許される」という文字。通常5万部発行のところを25か国に500万部配布するとのことだ。これでは更なる「テロ」の挑発ではないのか?
世界は混乱し「表現の自由」は錯綜している。テロ行為で「表現や言論の自由」が封殺される事はあってはならない行為であり、それで問題が解決されないことは世界の現実が示している。しかしだからと言って「全てが許される」のであろうか? その表現や言論で人や他国を傷つけたりある人々が崇高な気持ちで大切にしているものや習慣を揶揄したりすることは、人類が長い歳月をかけて獲得してきた「表現の自由」という崇高な理念に合ったものなのだろうか? では、どんな内容の表現であれば許され、許されない表現とは?またそれを規制するものは何なのだろう。法律なのか?人間の良識(心)なのか? というより、果たしてこの問題は純粋な「表現の自由」の問題なのだろうか? 読者の皆様のご意見を頂ければ幸いです。
時評
2015元旦、琉球新報は60年代の米国占領下の沖縄で当時の米軍が、住民全体に警戒監視の目を向けていた事実を報道した。60年代は「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」が結成されるほど復帰運動が高揚した時代であるが、キューバ危機で東西冷戦の緊張が極度に高まった時期であり、同時に日本では、米軍が沖縄と日本の隔離政策を徹底した時期でもあった。報道は、米陸軍対敵諜報隊(CIC)所属兵として政治活動や大衆運動に関わる住民を監視し、諜報・防諜活動をした二名の元兵士が取材に応じたものだ。
沖縄に駐留していたCIC526分遣隊の西岡康成スタンリー氏(ハワイ州)と儀間 昇氏(宜野湾市)の二人は、共に齢90近くを数えるが「米軍が共産主義とみなした人民党のみならず、親米的な政党や企業も総ざらいに資金の流れを調べた」と証言する。尾行や尋問を受けたという監視対象者の証言は過去にも知られるが、諜報活動に携わった当事者側の実名による証言は、これまでにほとんどないという。証言ではCIC526分遣隊は約30人が所属し、防諜活動に携わる諜報員約15名は本島内で政治や経済、労働組合等の情報収集の対象で各班に分かれたそうだ。
「表向きは親米的でも、裏で人民党の協力者である事も想定」し、公的資金が共産主義へ流れる事を警戒し、銀行口座や税務署などでの政党の収支・政治資金を調査、更には公共事業の受注企業も対象だった。本部は60年代、現在の陸上自衛隊那覇駐屯地の近くにあったそうだが、県文化振興会の公文書主任専門員は「米軍統治下時代の沖縄に関する米軍の公文書で、直接行動していた諜報員の氏名記載はない。彼らの身を守れないとオペレーション自体が成り立たなくなるからであり、実名の証言は貴重だ」と述べている。
折も折、ほんの三週間ほど前の解散衆院総選挙で、沖縄は選挙四区すべてで共産前職、社民前職、生活前職、そして無所属新人の反自民4名が全て当選を果たし、沖縄県民の過半数が辺野古移設反対を含めて安倍政権に強烈なNOを突きつけた。この得票結果が先の二人の取材証言に全く影響しなかったとは言い切れないだろう。
人間は年を重ねると、若い時分にしてきた事(悪事)を思い起こすと恐くなるという。名作「ゴッドファーザー」にも、シシリアン・シンジケートのボスが若い時に起こした数々の悪行を思い出し、恐怖に苦悶するシーンが何度も描かれている。米国家の戦略指令であっても、抵抗する沖縄島民を虐殺し、無理やりに軍隊駐屯地を建設して捕虜の人民を虐げ、米国の植民地として反共砦の要塞化にした事は事実である。諜報員ならば、表向きは正当化してきても、実際は沖縄を極東基地化する為に沖縄県民の生きる自由、知る自由、そして政治を司る自由を強行に剥奪する幇助をしてきた事実を、心の奥底では必ず分かっているに違いない。
時代は確実に動いている。昨年の沖縄市長選に続く、オール沖縄の勝利は、基地所在地云々ではなく"米軍基地自体の不要=米国そのものの不要"を意味するものかも知れない。更に、隣国の朝鮮(北)では第一書記が「新年の辞」で、「朝鮮半島の運命を外国に委ねる背信行為をしてはいけない」と強調し、韓国のトップにメッセージを送った。これは正しい指針だと思う。
日本もそうであるべきだろう。我が国もまた、北緯約28度、東経約129度の位置を持って、ある意味分断されている。南北約400km、東西約1000kmの海上に浮かぶ美しい島々から成る沖縄県は米合衆国の領土にあらず、紛れもなく日本国の国土である。ここに沖縄県民の意志に委ねられた政治・経済の自主権を保障する事は、国民の生命・財産を守るべき日本国家の政治的務めであり、沖縄を大切に思う全ての日本人民の悲願であり、未来へ向けたゆるぎ無い平和を望むアジア人民の宿願でもある。この事を肝に銘じ、野党勢力を含む私達は、横暴政治の暴君を野放しにしてはならない。
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