研究誌 「アジア新時代と日本」

第138号 2014/12/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 解散・総選挙 民意への愚弄は許されない

論評 安倍政権と財界の労働政策は、労働力解決でなく日本消滅への道だ

日本民族史の視点 真の武士道を求めて

書評 「永続敗戦論―戦後日本の核心」

時評 豊かな来年をアベノミクス終焉で




 

編集部より

小川淳


 総選挙が低調だ。選挙に一票を投じてこの国が「変わる」という期待はまるでない。とはいえ、このまま棄権して安倍政権を黙認するわけにはいかない。なんとも足の重い選挙となった。
 前回の総選挙で安倍政権は圧勝した。その結果、日本はどうなったのか。国家秘密法を許し、解釈改憲によって集団的自衛権でさえ成立を許し、フクシマは放置したまま原発再稼動も目前となっている。戦後70年の間、かろうじて守られてきた「平和国家」の国是でさえ風前の灯となっている。
 前回の自民の圧勝はもとより、これら一連の安倍政権の施策が民意によるものでないことは明らかだ。前回の選挙で自民は294議席獲得したが、自民のそう得票率は24,6%(比例は15,9%)でしかないこと。加えて、自民が選挙で掲げた公約はアベノミクスによるデフレからの脱却でしかなかったが、政権2年で安倍政権が最大のエネルギーを費やしたのは秘密法と集団的自衛権の容認を成立させることだった。この政権の目玉政策を公約に掲げない「争点隠し」によって自民は勝利した。
 安倍政権を見ていて惨憺たる想いに駆られるのはその顔ぶれだ。閣僚19人中、15人は日本会議所属の国会議員だ。自主憲法制定、靖国公式参拝、「自虐史観」の克服、在日外国人への参政権付与反対などを掲げているのが日本会議だ。戦後体制を全否定する右翼の考え方に賛同、共鳴している閣僚が安倍政権の大多数を占めている。安倍政権の掲げる「戦後レジームからの脱却」はこのような国会議員によって推進されている。
 今年、2014年は第一次世界大戦から100周年にあたる。さまざまな記念式典が戦場だった町々で行われたという。それは戦勝を記念する式典ではない。独仏の大統領が集い、対立の過去に終止符を打ち平和と共存を確認する日だという。フランスの激戦地では敵味方すべての戦争犠牲者を追悼する記念碑が建てられた。
 振り返って、アジアの視点から見ると、日本の現況はどうだろうか。あのアジアを惨禍に巻き込んだ戦争を正義とし、慰安婦も強制連行も無かったとする人物らが政権の中枢に座っている。そのような国に私たちは生きている。
 日中韓首脳が一堂に会して不戦を誓う。その為には、日本は歴史に真摯に向き合うことが不可欠だ。そのことなしにアジアの明日も、日本の明日もない。



主張

解散・総選挙 民意への愚弄は許されない

編集部


 誰も思ってもいなかった。今回の解散・総選挙は、そうとしか表現しようがない。だから、意表をつかれた諸野党は、異口同音に「大義なき解散」云々と言っている。  だが、この常軌を逸した意表のつき方には、そんな表現ではとても表しきれない、何か尋常でない、途方もなくどす黒い底意のようなものが感じられる。それがいかに民意を愚弄するものであるのか、そしてこの民意への愚弄がいかに許し難いものなのか、その辺について見ていきたい。

■解散・総選挙、隠された目的
 安倍首相は、今解散の「大義」として「消費税増税の18ヶ月延期」を挙げた。「税は民主主義」、だから、それについての公約を変更するからには、解散して国民に信を問わねばならないというわけだ。だが、このような詭弁を誰が信じるか。増税をするなら、それは確かに国民の信を問う必要があるだろう。しかし、その逆に延期するなら、そこまでする必要はない。集団的自衛権行使容認のような重大事を閣議決定で済まして平然としている安倍首相が、なぜ消費税増税の延期を解散・総選挙に訴えるというのか。
 案の定、安倍首相は、増税延期の理由を、当面消費を落とすことなくアベノミクスを軌道に乗せるためだとしながら、そうするのが良いか否か、今回の解散はそれを問う「アベノミクス解散」だと規定した。解散・総選挙の争点を、アベノミクスが正しいか、間違っているか、間違っているなら対案はあるかと迫る経済問題に置こうということだ。かくして安倍首相は、増税延期というどちらかと言えば民心をくすぐる方策を、解散の「大義」づくりに使ったばかりか、総選挙の争点を安倍自民の独壇場、「経済」にするため利用した。
 それだけでない。今回の解散・総選挙で特徴的なのはその電撃性だ。誰も思いもしなかった意表のつき方。そして首相による解散発表から選挙までわずか3週間あまりという最短準備期間。これでは野党が選挙に向けろくな準備ができない。この間の野党のドタバタ振りはその証拠だ。民主、維新、次世代、みんな、生活など諸党派の若手50人で進められていた、一強多弱打破の野党大同団結への動きも時間切れ失敗に終わった。その他、選挙に向けた野党再編への動きは、ことごとくまとまらず、各党のマニュフェストや公約取りまとめ、争点づくりも大幅に遅れた。
 「経済」を争点に安倍自民主導でつくられた選挙の土俵、そこに上がる野党は身も心も準備できていない。これでは、解散直前にあった、政治とカネの問題での女性閣僚二人の辞任劇、沖縄知事選での大敗北、GDP成長率の二期連続のマイナス、等々といった、このところ目立ち始めた安倍政権にとっての「禍」も、野党を総選挙の場に引き出すための「福」に換えられてしまう。
 この狡猾きわまりない術策を目の当たりにしてつぶやかれているのが、「一強多弱」の強固化だ。すなわち、今回、準備万端、意表をついて仕掛けられた解散・総選挙の目的がそこにあるとの評価だ。実際、このまま行けば、そうなる可能性大である。だが、問題はそこからではないのか。「強固化」の目的がどこにあるかということだ。

■何のための「一強多弱」の強固化か?
 「強固化」の目的で一般的に考えられるのは、安倍長期政権のためということだ。実際、2020年東京オリンピックなどが安倍首相の視野に入っているのは事実だろう。だから、このところ政治、経済的にガタついてきていた政権の立て直しだというわけだ。それに加えて、来春には、統一地方選がある。地方は、アベノミクス最大の弱点の一つだ。下手をすると、ここから安倍政権倒壊の流れができてしまわないとも限らない。沖縄知事選で大敗した後だけにそれはなおさらだ。それで「地方創生」をいち早く打ち出したのだが、それだけでは不十分だ。解散・総選挙の奇手はその辺を考慮してのことではないか。
 だが、いずれにしても、単なる「長期政権」だけでは答えにならない。問題はその目的だ。そこで誰の目にも見えてくるのが、集団的自衛権行使容認や新ガイドライン策定、特定秘密保護法実施など一連の「戦争できる国」への策動だ。それが「経済」の陰に隠されている。この「争点隠し」にこそ、真の目的が示されているのではないか。
 だが、それだけだろうか。それだけで、今回の解散・総選挙の常軌を逸した尋常でなさは説明できるだろうか。そこで想起されるべきは、もともと安倍政権が擁立された出発点はどこにあったかだ。それは、2012年8月15日、アーミテイジ・ナイ報告(米戦略国際問題研究所=CSISの第三弾報告)にあった。この報告で米国は、「強い米国は強い日本を必要としている」としながら、集団的自衛権行使の容認やTPPの締結、原発の推進などを日本に求めて来た。それからだった。日本政界の総右傾化が堰を切ったように始まり、その奔流に乗るかのように、政権交代での自民大敗以来くすぶっていた安倍晋三が9月、自民党総裁に担ぎ出され、12月には総選挙で圧勝し、あれよあれよと言う間に首相に選出されたのだ。
 この2年間、安倍政権の「実績」はどうだったか。米国によってテコ入れされたアベノミクスの強行の陰で、「強い日本」への転換は、ほぼ米国が望んだ方向で強行されてきたのではないか。
 問題はこれからだ。日米軍事、経済の一体化と米覇権戦略(リバランス戦略)への日本の組み込み、その最後の仕上げだ。そして来年には、「強い日本」の「日米共同戦争」への発動。そのためには、アベノミクスの破綻、沖縄基地移転問題など、このところ矛盾が吹き出てきている安倍政権を立て直し、戦争への体制を固め直す必要がある。ここにこそ、「一強多弱」強固化の隠された真の目的があるのではないだろうか。

■民意愚弄の政権、安倍政権を許すな
 歴代自民党政権の中でも、安倍政権ほど民意を意識し民意を気にしている政権はない。
 安倍政権は、いつも民意を意識し恐れている。それは単に、この政権がこれまでのどの政権にも増して民意に反することを企んでいるからだけではないだろう。自分たちが高い民意に敵対している自覚があるからではないだろうか。
 安倍政権は、その誕生の最初から、高い民意を意識し、それを騙すのに意を用い、民意を愚弄してきた。それは、執権した最初から党と政権の言動を「経済」に集中させ、「改憲」などタカ派的言辞は慎ませて、参院選に備えさせたこと、政治の前面に「アベノミクス」を押し立て、経済に対する民意の切実な要求に応えるかに見せかけたこと、一方で、「これまでの古い日本」を変えることを求める民意に応えるかのごとく、「日本を取り戻す」、「戦後レジームの転換」「改革」などのスローガンを掲げたこと、等々に現れていると思う。
 一言で言って、安倍政権は、「経済」や「変革」など民意の要求を踏まえ、それに応えるかに見せながら、その実、アベノミクスや新自由主義改革など、民意に反し民意を踏みにじる「経済」や「変革」を実施する一方、「経済」を掲げ「経済」を争点に選挙で大勝し、そのお墨付きの下、集団的自衛権行使容認や新ガイドライン策定、秘密保護法実施など、「戦争できる国」に向けた政治を行って来たと言うことができる。
 これを民意への愚弄と言わず、何と言うのだろうか。そして今回の解散・総選挙は、この民意を欺き騙して行う民意への愚弄の極致になる公算が高い。
 高まった民意が時代と世界を動かす民意の時代にあって、少数の支配者、覇権者が行う支配と覇権の政治は、民意に応えるかに見せかけながら、民意を欺き騙す民意愚弄の政治になるしかない。民意を煽り、その熱狂によって政治を進めたファシズムはその典型だと言える。安倍首相の政治手法にそうした要素が色濃くあるのは誰もが認めるところだ。
 民意の時代にあって、民意愚弄の政治を打ち破るため決定的なのは、高い民意を体現する民意の受け皿があることだ。問題は、民意が低いところにあるのではない。高い民意を受け止め、その実現のため献身する民意の受け皿がないことだ。
 安倍政権によって「解散・総選挙攻撃」がかけられてきている今日、最大の問題は、民意を掲げてこの攻撃を受けて立てる野党がいないことだ。
 だが、受け皿がないと嘆いていても仕方がない。受け皿がないならないで闘う方法がある。史上最低が言われた前回をさらに下回る投票率と言われる今回の総選挙、むしろ投票所に行くのをやめて、「安倍政権への不信任を確認する選挙」にしてしまうのはどうだろうか。



論評

安倍政権と財界の労働政策は、労働力解決でなく日本消滅への道だ

東屋浩


 前号までの2回にわたる主張において地方消滅の危機に直面していることが論じられたが、その地方消滅により、現在、人口の急速な減少とそれにともなう生産年齢人口(15〜54歳)の減少がすすんでいる。このことにより、今、労働力不足が深刻な問題になっている。
 すでに建築業では労働力が足りないために企業が倒産し、地方の公共事業が不可能になるケースが生まれている。コンビニではベトナム人などの外国人労働者が担っているケースが多くなっており、介護士、看護士の不足も常態化している。
 この中で安倍自民党政権と財界は、「労働者派遣法改正案」を提出したり、女性の活用、高齢者の活用とアジア諸国からの外国人労働者の受け入れをすすめ、労働力問題を解決しようとしている。

■増える不安定雇用
 「労働者派遣法改正案」は専門26業種だけの制限をとりはらい全業種で3年有限で派遣労働者を雇用でき、さらに3年で辞めさせ同じ職場に別の派遣労働者を雇用することができるようにするものである。安倍首相はこの法案を「正社員化を促進するものだ」と言うが、これほど人を馬鹿にした言葉はないだろう。派遣労働者が3年目に正社員になるのではなく、辞めさせられることが常態化している現状で、低賃金でいつでも解雇できる派遣労働者をさらに増やそうというものでしかないということは火を見るよりあきらかではないだろうか。
 それは現実が示している。この一年で正規雇用は94万人減少し、非正規雇用は133万人増え、1956万に達し、就業者の三割を占めている。男性の非正規率が21・7%、女性は57・4%である。(今年一月調査)。
 非正規雇用で増加した年代は60歳以上の男性高齢者と35〜54歳の女性である。
 安倍首相が「女性と高齢者の活用」を強調するのは、女性と高齢者を非正規雇用で働くようにすると言いかえることができると思う。
 さらに財界は外国人労働者を研修の名で大々的に受け入れようと必死になっている。企業がベトナム、ミャンマーなどで労働者争奪戦を繰り広げているという。来年から6年間に建築業で延べ15万人の労働者が不足する見通しだが、その内7万人は外国人労働者で補充していくという。

■日本消滅の労働政策
 今年の春闘で安倍首相は企業に賃上げを要請したが、それは主に大企業正社員がわずかの恩恵を受けただけで、非正規労働者、中小企業労働者には無縁であった。
 4月の消費税8%導入に際し政府が試算した貧困層は2400万人であり、国民の2割に達している。その多くは派遣などの非正規雇用の労働者が占めている。
 仕事のない地方から若者がさらに東京などに集中し、東京では生活難から若者が結婚できないか、結婚しても保育所問題や高い教育費など子供を育てていく条件が整っていない。少子化の根本原因は、地方の消滅と社会の二極化をもたらした新自由主義政策にある。
 安倍政権の派遣など不安定雇用を増加させていくという労働政策は、この地方消滅と社会の二極化を極限まで推し進めていくというものであって、少子化問題をさらに悪化させることになる。少子化が進めばさらに労働力が不足し、不安定雇用をさらに拡大させ、低賃金の外国人労働者に頼るしかないという悪循環に陥る。
 正社員も一層少数になり、残業手当なしの長時間労働、過密労働を更に強いられるようになる。
 もはや、単なる労働力の解決問題でない。働く人々によって日本社会が成り立っており、彼らがいかに意欲をもって働き、報われるかによって日本の未来があるはずである。安倍政権と財界のすすめる労働政策は、日本社会の根幹をなす勤労者の生活を全面的に破壊し、家庭・家族、地域と社会そのものまで破壊していくものである。
 安倍首相は「日本を取り戻す」と宣言したが、実際は日本を消滅させていっている。
 労働力問題、少子化問題も、労働力と少子化の解決の問題としてだけでなく、日本をいかに新しく創生していくかという見地から解決の途を見つけなければならないだろう。


 
日本民族史の視点

真の武士道を求めて

赤木志郎


 武士のあり方、生き方が今でも日本の人々に大きく影響を与えている。私は武士道というのはむしろ刀を下げた軍人の軍国主義のイメージと重なり、あまり良いものでないと思っていた。
 ところが、鎌倉武家政権を調べるときに、武士のあり方、生き方に大きく心が動かされ、武士道に関する文献に当たってみた。その中でもっとも興味深かったのは、菅野覚明著「武士道の逆襲」であった。それは鎌倉武家政権を作り上げた武士の生き方から武士道をとらえていた。また、明治の武士道というものがいかに本来の武士道の良い面を骨抜きにし、軍国主義に利用されたかについても分析している。
 今回、元来の武士道について菅野覚明氏の「武士道の逆襲」に拠りながら述べてみたい。

■武士道の出発点と核
 菅野氏は、武士とは戦闘を生業とし、妻子・親族などの共同体を形成し、その生存のために私有地(領地)の維持、拡大を生活の基盤、目的とする存在であると規定し、農業や商売を営む人でなく刀で斬り殺すことで所領を確保し、一族を養っていく血塗られた存在こそ本来の武士であると言う。
 それだからこそ、強烈な独立・自立精神を培うことができたと思う。自分の手で土地を得、生活を築いていく生き甲斐と喜び、同時にそのすべての責任を負っていく強い自立精神こそが、武士道精神の出発点であった。汗を流さない無為徒食の公家の社会を覆すことができたのは、まさに東国武士団の自立への強烈な志向があったからだ。
 ところで、自立するためには勝たなければならない。武士にとって勝つことがもっとも重要な問題であり、そのために自己の実力を身につけなければならない。菅野氏は、そこから真の強さは何かを生命をかけて問い、いかに真の強さを身につけるかを己に問うていく自己探求精神、自己錬磨精神が研ぎ澄まされていったと指摘する。
 日本人は宮本武蔵が剣術の極意を究め、世阿弥が能の奥義を探求したように、何事も真剣にその道を究めていくという良さがあると思う。そのなかでも武士は生死をかけて自己の存在を探求するゆえに、真剣にならざるをえない。実際、数知れない武士たちによってその苦闘が歴史に刻まれていった。
 菅野氏が言うようにこの生死、存在をかけて自己を問う姿勢こそが武士のあり方であり、私はそれが武士道精神の核をなしていると思う。
 その武士の生き方の中から武士ならではの考え方が形成されていった。

■武士道の特徴
@独立の自立精神、これについてすでに触れた。
A現実主義、証拠主義
 菅野氏の本から意外だと思ったのは、この現実主義であった。たしかに観念や主観主義で敵に勝つことができない。現実に通じそれに適応していくこと、証拠によって現実を確認することが、武士の生き方の大きな特徴であった。自分の都合のよいように見るのは心が動揺しているからであり、それは「ふたごころ」と同じであるとする。
B生の哲学の深まり
 真の武士道は真剣に自己の生を問うものであるゆえに、武士をしていかに生き戦うか、本当の人間の生き方は何かという生の哲学を深めさせ、人間性を豊かにさせていく。
C水も漏らさない団結
 武士はその背後に親密な共同体を背負っている。そこには家族関係と主従関係がある。団結の要因は、運命と苦楽をともにしてきたことから生まれる絆である。とりわけ主君の情けと慈悲は、家臣団を報酬以上の奉公に奮い立たせる。
 これらは様々な逸話により裏打ちされている。
 もちろん、所領をめぐり互いに争えば戦国時代のように戦乱が果てしなく続くゆえ、武士の在り方や自立精神に歴史的な制約があるのは明らかだ。
 しかし、私は武士の強烈な自立精神、強靱な闘争精神が現代にこそ必要だと感じた。
 侵略と対米従属の歴史に終止符を打ち、新自由主義社会を変革していくことは簡単ではない。非常に複雑で困難な事業である。それゆえ今こそ、家族や地域住民、国民大衆を背に死に物狂いで新しい日本を拓いていく愛国自主の武士道精神が求められていると思う。



書評 白井 聡 著

「永続敗戦論―戦後日本の核心」

小川 淳


■「戦後」とは何か
 来る2015年、私たちは戦後70年という節目の年を迎えようとしている。70年も過ぎてなお私たちは今私たちが生きている時代を「戦後」と呼び続けている。
 「戦後」とはある意味特殊な時代の形容であるはずだ。戦争が終わって戦後の混乱や無秩序が社会を覆い、破壊から社会が立ち直るまでの「時代」をそう呼ぶなら分からないでもない。しかし戦後復興をとうに終えて、高度成長を遂げ、日本社会は大きく変貌した。にもかかわらず私たちは未だに「戦後」を生き続けている。そこにある社会的含意は、「戦後」という時代はまだ終っていない、ないしは未だ何も変わっていないという認識からくるのだろうと思う。
 では「戦後」とは何か。「戦後」という時代をひとつにくくるものは何か。その解明をしたのが本書だ。
 「戦後」を明らかにするためには、その対比として「戦前」が問題となる。私なりに解釈すれば、「戦前」とは、絶対不可侵の天皇制を核とする、国家主義という時代だった。明治から大正、昭和とこの体制は「戦前」に一貫して流れている、つまるところこの時代精神が太平洋戦争へと至る一つの必然的な流れを生むその原動力となった。
 本来ならこの「戦前」的なものからの決別と清算が「戦後」なるものの出発点となるべきだった。
 1954年に施行された現憲法は「戦前」とはまったく異なる「もう一つの日本」を示していた。敗戦と降伏は、日本が「もう一つの日本」へと生まれ変わる絶好の機会を日本に与えた。
 しかし時代は憲法施行から2年を経ずに再び暗転する。逆コースによって「もう一つの日本」を実現する施策はすべて否定され、それを実現しようとする勢力は弾圧(レッドパージ)された。全面講和から米国を盟主とする西側諸国との単独講和へ、全土に米軍の駐留と基地を認め、琉球を米国の支配下に置いたまま安保条約を締結した。
 以来、平和憲法と安保体制という矛盾した二つの体制の並存とも言えるような奇妙な体制が構築され、それに呼応した形で55年体制という戦後体制の構図が生まれた。
 この二つの法体系、二つの流れが戦後日本を規定してきたといって良い。その中で、あくまでも政治・外交の主流を形成してきたのは安保体制だった。憲法体系はあくまでも安保体制に矛盾しない範囲でその存在を「許されてきた」に過ぎない。
 問題はなぜかかる構造が生まれたのか、そしてこの構造がもたらしたものは何か。

■日本的無責任の体系
 日本社会の表には見えない「本当の構図」が露呈したのが3・11だと本書は指摘している。事故の発生に際し、政府は住民の非難に全力を尽くさなかった。たとえば緊急時ネットワークシステムのデーターが国民に知らされず米軍にはしっかり提供されているという事実。今なお事故そのものが収束したというには程遠い状態にあるにもかかわらず「収束宣言」が出されるというまやかし。原発事故が露呈させたこの腐敗しきった「構図」の根底には「日本的無責任の体系」があり、そして「あの戦争」を無謀にも行ったかつての日本と同じ構造がそこにあると著者は指摘する。
 「戦争指導層の大言壮語、不都合な真実の隠微、根拠なき楽観、権威への盲従、批判精神の欠如、究極の犠牲を強要しておきながらその落とし前をつけないというメンタリティ・・。これらのすべてが3・11に再現している」と。
 著者は、前福島県知事佐藤栄佐久の事故前の言葉を引用している。
 「責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本型社会の中で破局へと向かって全力で走りきるかのように思える。つい60年前、大義も勝ち目も無い戦争へと突き進んでいったように。私が『日本病』と呼ぶゆえんだ」。
 そして福島の原子力事故がやりきれないのは、その被害の甚大さが予測困難であるためだけでない、「われわれが一員である社会の根本的性質の必然的帰結として生じた故にである」としている。

■対米従属という構図
 著者が指摘する日本社会のもう一つの病が「対米従属」だ。
 著者は述べている。
 「問題の本質は突きつめれば常に『対米従属』という構図に行き着く。アメリカに対する排外的ナショナリズムの主張は、日本に駐留する米国のプレゼンスの下で可能となる。日本が『東洋の孤児』であり続けても一向に構わないという甘えきった意識が深いほど、それだけ庇護者として米国との関係は密接でなければならないという結論が必然的に出てくる。愛国主義を標榜する右派が『親米右翼』『親米保守』を名乗るという外国の力によってナショナリズムを支えるという構図が定着してきた」。
 著者は続ける。この「欺瞞に基づく虚構」はどこから生まれたのか。「敗戦」を「終戦」と呼びかえる欺瞞によって戦後のレジームの根本が成り立っていると。本書の核心部分といえる。
 そしてこの欺瞞が明らかなほころびを見せるきっかけとなったのが09年の政権交代であったと見る。つまりこの国においては国民の支持を得た一国の首相(鳩山)であっても、基地の海外移転という「国民の要望」よりも辺野古移転という「米国の要望」を取らざるを得ない構図が誰の目にも明らかになったと。

■永続敗戦の構造
 そこに浮かび上がるのは「永続敗戦の構図」だと著者は言う。
 「事あるごとに『戦後民主主義』に対する不平を言い立て、戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が『戦争を終らせる』ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも長きに渡って権力を独占できたのはこのレジームが相当の安定性を築き上げるのに成功したゆえである。彼らは主観において『大日本帝国は負けておらず戦争は終ったのであって負けたのではない』『神州不滅』の神話は生きている。しかしかかる『信念』は究極的には第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それはポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定することになる。彼らはそのような蛮勇を持ち合わせていない。故に彼らは国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの信念を満足させながら、自分らを容認してくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける。敗戦を否認するが故に敗北が無期限に続く―それが『永続敗戦』という概念がしめす状況である」。
 戦前のレジームの根幹が天皇制であったとするなら、戦後のレジームの根幹は『永続敗戦』であると著者はいう。すべては「戦争は負けたのではない、終ったのだ」という欺瞞から始まっていると。
 言うまでもないが、本書のように日本が戦争責任をしっかりと果たさなかったと指摘する本や論考はあまた存在するし、珍しくない。その中で本書がこれだけの注目を浴びたのは、日本において戦争責任の追及が不十分だったと指摘するだけでなく、そのことによって生み出された欺瞞の構図が戦後70年を経てもなお日本社会を腐食し続けているという、この「永久敗戦」という「戦後日本の核心」を見事に解明して見せたことにある。
 「目からうろこが落ちる」という形容があるが、読後感はその言葉が相応しい。

■日本に未来はあるか
 ではこれからもこの『永続敗戦』の構図は続くのか。著者はそれはないという。
 なぜなら歴史の記憶が正しくよび覚まされるとき人々は必ずや覚醒するからだ。
 「日常生活において人々が直面する抑圧、そして侮辱が、その社会が歴史的にたどってきた軌道から生じる必然的な産物として把握されるとき、その社会体制は我慢することのできない全般的犯罪として現れる。すなわち歴史の支配を失った権力は現実に対する支配をも遠からず失う運命にある。そしてこうした歴史の牢獄への不満、歴史認識の枠組みの変更への要求はかつてなく高まっている」と著者はいう。
 欺瞞に満ちたこの虚構を突き破る民意はマグマのように地底にたまり続けている。沖縄で、フクシマで・・。
 臨界点はそう遠くないはずだ。本書はそのことを確信させてくれた。



時評

豊かな来年をアベノミクス終焉で

林 光明


 「日本は今、15年苦しんだデフレから脱却しようとしています。アベノミクスで雇用を増やし、所得を増やし、地方を元気に、国民生活を豊かにしていきます。景気回復、この道しかない!自民党」
 …何度も流れる安倍総理の訴える自民党の衆院選挙CMであるが、本当にそうか?アベノミクス。低所得にあえぐ大衆なら一度は考えただろうが、所得増大のカンフル剤の効能にあやかれたのは、どれだけのどんな人達なのだろうか。
 今年の2月に公表された船井総研の小林氏の分析によると、独自算出した5億〜10億以上の金融資産を保有すると推定される約3万5千人を超富裕層、1億〜5億未満のそれを持つ約170万人弱をプチ富裕層と定義づけるそうだ。同じく、同志社大教授の橘木氏による「高額納税者番付」に基づく調査では、00年と01年の2年連続で1億円以上稼いだ人は、約6千人いたそうである。勿論、人口比からすれば2万人に1人程度である。
 先の小林氏の調査では、金融資産1億円以上を保有する全国の170万人弱のおよその内訳は医師・税理士・大企業役員・従業員、更に公務員でもその程度の金融資産を持つ者は「少なくない」そうだ。しかも、本人達気付かぬうちに1億以上の金融資産を持っていたなんて事もよくあるそうだ。もはや馬鹿らしくて聞いていられない読者の方もいるだろうが、現実のようである。
 右上の図@を見ると、さも日本には富裕層が増大していっているかのごとき内訳である。だが、更につい3日前に公表されたニュース特集に示された右下の図を見て頂きたい。この図@ピラミッドは、右図の頂点の塗り潰し部分に過ぎない。右図の中間層以下が貧困層であり、圧倒的大多数の国民が彼等を支えている構図だ。
 この実態のどこが「この道しかない」のか。株の差益で実った黄金の果実は、高木のはるか頭上に成っている。多くの一般人はそれが見えても到底届かない。だが、高額な高所用クレーン重機を持つ者は操作して上手く近づけば、その先端に取り付けた道具で簡単に収穫できる。又、持たない者もこの重機を借りる手段(財力、コネ)を持っていれば、その収穫にありつける。そのどちらも持たない大多数の大衆は、高所での収穫作業でまれにこぼれ落ちた果実か、連中の取りこぼしで腐れ落ちた果実くらいしか手にできないのであり、アベノミクス景気とは、おおよそこんな仕組みでしかない。
 今年は衆院選挙で終わるが、近隣アジア諸国との連帯平和重視を政策の柱に掲げた政党が1つもないのが残念でならない。その中で、日朝交渉が本腰で継続されている現状はせめてもの救いであろうか。中・韓避難に傾倒せず、アジア経済圏を強化する事こそ、日本の各地方を強くする"要"に思えてならない。豊かな日々とは、それなりの生活と不安のない社会制度であり、株の儲けでなく、額に汗する代償にある。選挙結果がどうあれ、来年は国民大衆主体の政治元年としたい。年の瀬にせめて願う、私の思いである。


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