研究誌 「アジア新時代と日本」

第129号 2014/3/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 「田母神現象」から何を学ぶか

議論(1)9条は覇権国家にとってこそ積極的平和主義

議論(2)ウクライナ情勢―覇権抗争か、覇権対脱覇権か

投稿 現代版 貧乏物語 派遣労働体験記(2)

時評 「明日、政治(ママ)がいない」

資料 辺野古基地に反対する国際声明




 

編集部より

小川淳


 里山が変われば日本も変わる
 「里山資本主義―日本経済は『安心の原理』で動く」(藻谷浩介、NHK広島取材班著)を読んだ。昨年の新書大賞第一位となった話題の本だ。
 里山資本主義とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築されたマネー資本主義の経済システムの横にこっそりとおカネに依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。決して江戸時代の暮らしに戻せというような主張ではない。お金で買えない資産(日本は豊かな資産に恵まれている)に最新の技術を活用することでマネーが頼りの暮らしより、より安心、安全で豊かな生活が営める。そのような実例を中国山地の山里を訪ね歩き丹念に拾い集めてきたのが本書だ。
 山の木を丸ごと活用して自家発電やペレット暖房、バイオマス発電所建設とエネルギーの地産地消に取り組む広島県真庭市の取り組みなどはその一例だ。木材という資産を活用すれば、経済は都市中心から地域中心へと劇的に変わっていく。日本の田舎には1000万haという戦後造成された人工林が活用されないまま眠っている。
 本書のすばらしさの一つは、高齢化と限界集落、耕作放棄地など大きな社会問題とされ根本的な解決策がこれまで示されてこなかった過疎地へのイメージをがらりと明るいものに変えて見せた事だ。マイナスのイメージしか持てなかった過疎の里山こそ、時代の最先端をゆく場所なのだという逆転の発想に、多くの読者は文字通り目から鱗が落ちる思いがしたのではないか。
 マネー資本主義が世界を席巻する中でマネー資本主義とは違うもう一つの世界は可能か、多くの人がその回答を捜し求めている中で、本書はそういう時代の空気を見事に嗅ぎ取っている。マネー資本主義に代わる世界というと、どうしても政治的なテーマに収束してしまうのだが、本書は里山という私たちがまったく見向きもしなかった足元に、もう一つの世界が広がっていたのだということに気づかさせてくれた。そこに24万部も本書が売れた秘密があったのではないか。
 もちろん、里山資本主義がマネー資本主義に代わって日本経済のメインシステムになりうるわけではない。しかし3・11を経験した日本人の意識に変化が起きていることも紛れもない事実だ。過疎や高齢化という暗いイメージしか持てなかった里山が変われば日本も変わる。その可能性を示す一冊だ。



主張

「田母神現象」から何を学ぶか

編集部


 「脱原発」を掲げた細川・小泉連合の出馬で、ストップ・ザ・安倍自民への期待が一気に膨らんだ都知事選。だが、その盛り上がりも急速にしぼみ、終わってみれば、最低レベルの投票率など、一昨年、昨年の衆院選、参院選と大差ない結果だった。だが、そこにいくつかの特徴があったのも事実だ。中でも注目されたのは「田母神現象」。「田母神氏、60万票を超える」「20代の4分の1が田母神氏へ」。当のご本人まで驚かせたこの現象をどうとらえ、そこから何を学ぶか。考えてみたい。

■若者はなぜ田母神氏を選んだのか
 「田母神現象」で驚かされたのは予想をはるかに超えた大量の田母神氏の得票だ。だが、中でも注目されたのは、年齢が下がるほど増えた若者票の田母神氏への傾斜だった。20代で投票した人の24%が田母神氏へ。これは、舛添氏への36%に次ぐ第2位。30代でも細川氏への15%を上回る17%だった。
 これを単に若者の「右傾化」ととらえるのは、少々単純に過ぎると思う。実際、田母神陣営自身、一部「ネトウヨ」「ネット保守」に頼っていては選挙戦を戦えないと、街頭演説への日の丸持ち込みを禁じ、演説内容も景気対策や防災、福祉政策などに3分の2を割いた。また、「強面の右翼」ではなく、田母神氏の明るい人柄や政治家らしくない素人っぽさを前面に出した。
 そうした中、なぜ若者たちは田母神氏を選んだのだろうか。都知事選当日、田母神氏に投票した若者たちが言っていたのは、侵略戦争、南京事件、従軍慰安婦を皆ウソだと決めつける田母神氏を指しながら、「歴史はよく分からないが、あのように考えれば、誇りを持てる」だったし、「ぶれる政治家が多い中で、田母神さんにはぶれない力強さがある」だった。そこからは、経済まで含め、すべてが行き詰まり、誇りも自信も持てなくなった今日の日本、経済停滞から抜け出る展望も見えないまま、若者たちが脱落せず生きていくのに精一杯のこんな日本をどうにかしてくれ、変えてくれ、そのような力強い政治家はいないのか、という叫びが聞こえてくるようだった。
 侵略戦争、南京事件、従軍慰安婦、等々、その正否はよく分からないが、それよりも、自分たちにとって一番問題なのは、誇りも自信も持てなくなった今の日本なのだ。護憲や平和、民主主義・・・、理想や正論を吐く政治家は数多い。だが、このどうしようもない現実の中で、ただきれい事を言っていても何にもならない。少しぐらい無茶苦茶でも良い、求められているのはこの現実を変えられる腕力のある政治家だ。
 あの都知事選開票の日、田母神陣営で「戦後日本の欺瞞、偽善にうんざりしている人たちがこれだけいる。新しい政治勢力の誕生だ」と興奮を抑えきれなかった熱気と若者たちの思い、両者には重なり合うところがある。そこにこそ、「田母神現象」の秘密が隠されているのではないか。

■「日本をどうにかしてくれ!」
 「日本をどうにかしなければならない」。これは今、若者たちだけではない、日本全体の要求になっている。だが、その要求が一番強いのは、やはり若者たちだと思う。年齢が下がるほど田母神票が増えたこの「現象」はそのことを物語っている。
 日本の行き詰まり、その矛盾は高齢者とともに若者に集中されている。行き詰まり打開のためと言われた、規制緩和など新自由主義構造改革も矛盾をさらに一層深めただけだった。雇用の不安定化、「ブラック企業」の横行、そして貧富や教育など格差の拡大、等々、若者たちこそその犠牲者だ。結婚も、家庭も、未来の夢も、理想もない。誰よりも、真理と正義を愛し、活力に満ちた若者にとって、これは耐え難いことだ。
 この矛盾からの脱却、それはもはや個人の限界を超えている。「自己責任」は死語になった。「日本をどうにかしてくれ」「変えてくれ」、「田母神現象」の根底には、若者たちのこの心の叫びがある。

■「誇りある日本」「未来ある日本」はどこに
 若者たちが田母神氏に託した日本、それはどういう日本だったか。彼らの発言は、それが「誇りと自信を持てる日本」「現状を打破する未来ある日本」であることを示している。
 田母神氏は、この要求に「侵略戦争、南京事件、従軍慰安婦、これらは皆ウソだ」等々をもって応えた。それがなぜ若者たちに受け入れられ、共感されたのか。それは、決して侵略戦争や南京事件などをウソだと否定したこと自体への賛同ではなかったと思う。彼ら自身が言っているように、歴史の真実はともかく、「田母神さんは日本に誇りを持っている」、それへの共感だったと思う。だから彼らは、田母神氏の言によって日本への誇りを持てるようになったのだ。
 若者たちが求める日本に対する誇りや自信、それへの彼らの共感を呼び起こすためには、何よりも、われわれ自身、日本に誇りを抱き、自信を持たなければならない。共感はそこからのみ生まれる。「田母神現象」はそのことを教えてくれている。
 その上で確認したいのは、当然のことながら、日本への誇りや自信は、ただ日本の歴史や今の現実、その真実に基づいてのみ生まれてくるということだ。やったことをウソだと言う虚構のでっち上げからは、本当の誇りも自信も生まれてこない。
 では、われわれが日本に誇りや自信を抱けるようになる真実とは何か。核心的に言ってそれは、時代の要請、その時々の日本と日本国民、そして世界の要請に応え、日本がこれまで国としての役割をどう果たしてきたかということであり、今現在、日本と日本国民の前に提起されている問題に対し、どう向き合い応えようとしているのかということだ。その歴史の真実に光を当て、これからの闘いへの自負と展望、決意を豊かにし固めていくこと、日本への本当の誇りと自信はそこから生まれてくるのではないだろうか。
 今、歴史認識でもっとも切実に問われているのは、あの戦争に対してであり、それとともにその後の日本に対してだと思う。あれがアジアへの覇権野望からの侵略戦争だったと認めるのはもちろん、覇権抗争で敗れた相手、米国の覇権の下、アジアへの従米覇権をこととしてきた戦後日本のあり方にこそ、本当の「欺瞞」「偽善」があると断罪し、そこからの脱却を図ること、これなくして日本への真の誇りも自信もあり得ない。
 それは、今現在の日本にどう向き合うかに直結している。今日、覇権から脱覇権へ、時代の大きな転換の時にあって、日本の前には、欧米の覇権の下、アジアに覇権してきた明治以来今に続く日本のあり方を見直し、戦争と覇権の放棄を宣言した不戦と脱覇権の法典、憲法9条を持つ国、世界で唯一の被爆国として脱原発の先頭を担うべき国として、時代を世界に先駆け切り開くことが求められている。日本への本当の誇り、本当の自信は、こうした時代の要請に応え自らの役割を果たす闘いを通してこそ生まれてくるのではないか。

■未来を切り開く本物の力強さを
 若者たちが脱落せず生きていくのがやっとの今の日本の現状、このどうしようもない現実を変えるには、理想や正論、きれい事ではどうにもならない。それらは、一つの欺瞞、偽善でしかない。米国に急所を押さえられた恐るべき現実を前にたじろぎ、ぶれる政治家が多い中、若者たちは、田母神さんに「ぶれない力強さ」を感じた。それは、この人なら「現状を打破する未来ある日本」を託せるのではという期待に他ならない。だが、田母神氏にそんな力がないのは言うまでもない。
 今日、日本を変える本物の力強さは、日本を巻き込む巨大な世界史的転換への洞察を離れてはあり得ない。
 今、覇権国家の意思で世界が動いた覇権時代が音を立てて崩れ去り、民意によって世界が動く民意の時代がくっきりとその壮大な姿を現してきている。現に、シリアやウクライナ、世界中どこを見ても、覇権国家の意思で物事が決められているところは一つもない。決めているのは、すべて民意だ。日本もその例外ではない。この間の選挙での敗北、それはすべて、民意の受け皿がなく、民意に応えられなかったからに他ならない。
 「誇りと自信を持てる日本」「現状を打破する未来ある日本」、この若者の要求にもっとも先鋭に反映された国民皆の意思と要求、民意に応えるスローガンが掲げられ、一つに団結した闘争主体が構築されるとき、それに勝る力強い政治勢力はあり得ないだろう。都知事選での「脱原発」勢力の分裂に幻滅し、田母神氏に投票した若者たちが、そのとき誰に投票するか、言うまでもないだろう。覇権ではなく民意がすべてを決定する民意の時代、民意から出発し、民意に応え、その下に団結すること、「田母神現象」からの教訓は、結局、そこに帰着するのではないだろうか。



議論(1)

9条は覇権国家にとってこそ積極平和主義

編集部


 前号の議論欄での「今、9条こそ積極的平和主義」について、次のような意見があった。
 今日世界の各地で紛争が頻発している中で、「9条を世界に!」などという言葉も聞かれるが、それを途上国に対しても言うのか? それはおかしいと思うが、それを明らかにするためにも、「9条こそ積極的平和主義」とはどういうことなのかについて議論を深めるべきではないのか、というものである。
 今回は、それについて考えてみたい。

※        ※        ※

 前号で述べたように9条は、戦前の日本が覇権の道を歩みアジア諸国に筆舌に尽くしがたい被害を与え自らも破滅したことへの痛切な反省に基づいており、もう、もう二度とその道は歩まないと世界に誓い、それを率先垂範していくことを決意したものである。
 9条は反戦の条項であると同時に脱覇権の条項なのだ。それ故、もし「9条を世界に!」ということを言うにしても、それは覇権国家の道を歩んだ国々、今だにそうした考え方を捨てようとしない国々に向って言わなければならない。すなわち、「9条を覇権国家に!」である。
 しかし、それを言ったからと言って、では我が国もそうしましょうとなるわけがない。だから日本が率先垂範なのである。
 今、米国覇権が終わりを告げる中にあって、米国は覇権回復に必死である。しかし力を落とした米国にそれを独力でやる力はない。それ故、日本に集団的自衛権の行使容認を迫り、日本をその覇権回復のための軍事行動と戦争に利用しようとしているのだ。
 ここで日本が、米国のそうした要求に応じるかどうかは決定的だ。日本が加担しなければ、米国の覇権回復企図は頓挫する。そして、それを世界は注視している。
 それ故、今、率先垂範がもつ意味は限りなく大きい。9条を堅持し、米国の覇権回復の企図に組みしないことを世界に示す、それこそが今、日本に問われる積極的平和主義である。

※        ※        ※

■「9条を覇権国家に!」ということは言えても、発展途上国に「9条を!」とは言えない。
 発展途上諸国はかつて列強の植民地にされた国々だ。列強諸国は、互いに覇権競争を繰り広げながら世界を植民地化し自分の勢力範囲に組み込んで行った。その植民地支配に対して血みどろの民族解放闘争を展開してようやく独立を達成したのが発展途上諸国である。
 そうした彼らにとっては、主権を守り、そのために自衛力を強化することこそが歴史の血の教訓である。
 それは今でも変わらない。事実、覇権国家を自認する米国はイラク、アフガニスタンを侵攻した。さらには、自分の言うことを聞かない国々に対して「悪の枢軸」だ、「ならず者(アウトロー)国家」だと決め付け、「核による先制攻撃」までほのめかしてきた。
 しかし、そうした覇権行為はイラク、アフガンスタンの例が示すように失敗した。それは今や覇権の考え方が通用する時代ではないことを、米国覇権の時代も終焉したことを示している。
 それにもかかわらず覇権回復に必死の米国は「価値観外交」を掲げ、自分の気に入らない国々、言うことをきかない国々に難癖をつけては介入の機会をうかがっている。それに対して発展途上諸国が警戒し自衛力を強化するのは当然のことである。
 それ故、「9条を世界に!」ということが発展途上国にも向けられるとすれば、それは主権放棄の勧めとなり、米国の覇権主義的横暴と干渉、さらにはその支配に服せと迫ることに等しい。たとえ、そのようなことを言ったとしても彼らが耳をかさないのは自明のことである。
 9条は、二度と覇権の道は歩まないということを日本が率先垂範して米国をはじめとする列強諸国に範を示し、それによって国際平和に貢献するという意味で積極的平和主義なのであり、発展途上国にとっては自衛力強化こそが積極的平和主義だということなのである。

  

 
議論(2)

ウクライナ事態覇権抗争か覇権対脱覇権か

K・T


 昨年末から大規模な反政府集会、大衆デモで始まり、数十名の死者を含む多数の死傷者を出したウクライナ騒乱は、ヤヌコビッチ大統領の逃亡と政権崩壊、それにともなう暫定政権の樹立で新局面を迎えた。この新しい局面にあって、日本のマスコミ各社は、この事態発展を米ロによる覇権抗争の深まりとして伝えている。
 米、そして独、仏などEU諸国によるいち早い暫定政権の承認。これに対しロシアは、暴力的で非合法な政権奪取への非難と新政権不承認。そしてロシア語を話すロシア系住民の保護を理由とする軍事介入の構え。さらにはロシア系住民が圧倒的多数を占めるウクライナ連邦内クリミア自治共和国のロシア帰属の如何を問う住民投票の組織とそれに呼応してのロシア軍のクリミア派遣、そして当地ウクライナ軍への投降勧告。
 こうしたロシアの一連の行動に対する米国などによる猛反発。ロシア・ソチで開催予定だったG8サミットの延期、資産凍結、ビザ発給の禁止、貿易、投資分野での孤立化、等々、政治、経済などあらゆる領域にわたる制裁の警告。 
 そして米大統領オバマによるクリミア半島を含むウクライナ全域での選挙実施への提案、等々、その報道は、まさに米ロによる覇権抗争そのものの観を呈している。
 こうした日本のマスコミ報道を見ながら思うのは、はたしてそれが事態発展の本質を伝えているのかということだ。今進行中のウクライナ事態を米ロによる覇権抗争だと伝える日本のマスコミ報道には何か古色蒼然としたかび臭さが感じられる。
 まず言えるのは、昨年末から始まったウクライナの反政府大集会や大デモが米国による対ロシア攻撃だったのかということだ。
 もちろん、あの反政府行動の指導部が米国と通じていたのは十分にあり得ることだ。実際、暫定政権樹立後の彼らの言動が欧米依存丸出しになっているのを見ても、それはほぼ確実だろう。
 しかし、行動参加者たち総体はどうだったのか。彼らがそうでなかったのは、その後の事態発展にとまどう彼らの言動が如実に示していると思う。彼らは、ロシアとの対立など、もともとまったく望んでいなかった。彼らは、ヤヌコビッチ政権のロシア一辺倒と腐敗に反対していたのであり、そのためにEU加盟を求め、政権交代を要求して立ち上がったのだ。
 言い換えれば、彼らは、ロシア覇権からの離脱と米国覇権への参入を求めて立ち上がったのではない。どこの覇権も望まず、脱覇権を求めて立ち上がったのだということだ。なぜそれが親米反ロシアになってしまうのか。それは、米国によるウクライナ国民の意思と要求の利用に他ならない。
 もう一つ言えるのは、米国、EU諸国とロシア間の経済的、軍事的制裁合戦など、結局、口だけでほぼ何一つできないだろうということだ。
 まず、独仏などEU諸国によるロシア制裁はあり得ない。ロシアによる天然ガス供給など、双方の経済的相互依存はあまりにも大きい。そうなれば、米単独での経済制裁ということになるがその意味は限りなく小さく、米国にとり逆効果になる可能性大である。
 一方、ロシアによるウクライナへの軍事制圧、支配はどうか。もしそうなったとき、それに対し、米、EU諸国が軍事的に対応するということはほぼあり得ない。今、彼らにロシア相手に戦争する覚悟などない。
 では、ロシアの軍事侵攻、支配はほしいままにされるのか。そうはならないだろう。それは逆にロシアの滅亡を意味している。なぜなら、ウクライナ国民自身がそれを許さないからだ。もし、ロシアの軍事行動が意味を持つとすれば、クリミア自治共和国のロシア帰属への民意を助けることぐらいだろう。
 もう一つの可能性は、ロシア系住民が多い東ウクライナの民意がどれだけロシアの軍事侵攻を支持するかだが、これも結局民意が決定するのには変わりがない。
 これらすべてが物語っているのは何か。それは今回のウクライナ事態が米ロの覇権抗争ではなく、覇権対脱覇権の攻防であり、その成否は、結局、民意が決定するということだ。   



投稿 現代版貧乏物語 派遣労働体験記(2) 

清くなく貧しくたくましく

平 和好(たいら・かずよし)


 「おいしっかり運べよ! やる気のない奴は帰らすぞ」
 大手スーパーの店内に現場監督の大声が響く。今日は1万uはあろうかと思われる店舗の販売棚の入れ替え作業。大手Iスーパーの社員がそんな乱暴な言葉使いをするはずはない。下請け会社のそのまた孫請け会社の監督だ。耳にはピアス。派手な帽子とジャンパー。作業指示を聞きに行くときに見つけやすい服装らしい。ひ孫請け会社の我々はとにかく、言われるままに動くしかない。暑い時期は喉がカラカラ。寒い時期は手がかじかんだりする。動きが悪いのを見られると怒声が飛ぶ。理不尽な怒り方をされて、切れかけている若者もいる。
 小声で「怒ったらあかん、我慢我慢」とアドバイスを私はする。親切半分、打算半分だ。もし切れて帰られてしまったら残る私の仕事が倍になってしまう。実際、突然昼から無断退勤した青年の仕事や、二日酔いから半日遅れ出勤の中年労働者の仕事の負担がこちらに来て倍の労働量になった事がある。とにかく「おからだ大切に」を金科玉条に・・・ 。
 派遣労働は毎日、メールで仕事一覧を送ってくる。その中から選んで、会社と交渉が成立したら働きに行くのだ。毎日行けば、月に15万円くらいにはなるかもしれない。
 保険料は自分で払うので手取りは10万円以下である。典型的なワーキングプアー。私は合間にパソコン作業や何でも屋をしているので同程度の収入があるから何とか食べて、飲んで、活動費をひねり出せているが、気の毒なのが若者たち。決して高額ではない給料を使い果たしてしまう人が続出。
 ある日、作業リーダーが資材を載せた車の駐車場代を貸して下さい、と昼前に頼んできたので貸した。一日停めて6百円のところだがそれがないという。気になって「もうすぐお昼やけど、どうするん。お弁当代も貸しとこうか?」と言ってみた。あーいりません、我慢します、との返事。リーダーなのに昼食代が無い!
 別の派遣先新大阪で親しくなった二十歳の若者は、帰り際、駅と違う方向に歩いていく。そっち違うで、と声をかけると「家まで歩いて帰ります」と言う。家はどこ?と聞くと天王寺らしい。電車賃がないから一時間半かけて歩いて帰る!派遣会社の若者は結婚率が極めて低いのも当然だ。
 百貨店の催し会場の仕事で集合しているとリーダーと副リーダーがまだ到着していない人の事を話していた。「来るのは、誰やったかな、名前は知らんねんけどほら、背が高い、結婚してる人・・・」。「あーあの人なあ」名前を知らなくてもこれでどの労働者のことかがわかってしまうらしい、結婚している人が少ないからだ。これが派遣労働者の実態。しかし、行き先は百貨店・銀行・超大手企業ばかり、時にはその中心部(大金庫があるようなところ)や、地方公共団体の現場も経験させてもらった。これらは全て派遣労働者がいないと成り立たない。
 憲法25条は派遣労働に光を差していない。でも、みんなそれぞれに生き抜いている。

(次回は最終回「派遣労働から見えるアジアと日本」を予定)



時評

「明日、政治(ママ)がいない」

Hayasi Mituaki


「『捨てられたんじゃない、 わたしたちが捨てたんだ』、『私たち誰も知らなかった。昨日も今日もいたママが、明日にはいなくなるなんて…』。
 児童擁護施設。 その親のいない子どもたちが暮らす場所の数は全国で約600、生活する児童の数は3万人を超えている。子どもたちがやってくる理由のほとんどは--------虐待だ。このドラマは『愛すること』『愛されること』とは何かを、子どもたちの目線で問いかける。すべての母親に、これから母親になる全ての女性に届ける--------」。
 話題のドラマ『明日ママ』のセンセーショナルなイントロである。日テレの自信とは裏目に、放映開始からすぐさま、これほど相次ぐ非難と攻撃にさらされる番組は日本のTVドラマ史上、恐らくかつてないはずである。児童虐待防止の観点と主人公の役名が「こうのとりのゆりかご」の通名「赤ちゃんポスト」になぞられている事で、先陣を切って即時放映中止を強く求める慈恵病院に対し、最後まで見て欲しいと一歩も引かぬ日テレとの全面衝突に怯え、当初のスポンサー提供企業は早々と番組から逃げ去った。
 1月にようやく双方の和解で新スポンサーも入り収束したが、全国児童養護施設協議会からの内容改善要求は今も続いており、更に今度は2月末、男子高校生が日テレに対し同番組の放送中止と、施設の子供への謝罪を求める約7000人分の署名を提出した。一部に称賛の声もあるが、次々と噴出する非難に困惑が続く『明日ママ』はそんなに顔をしかめる内容だろうか。主演のポスト、ドンキ、ピア美、ボンビ、パチが「コガモの家」でおりなす不思議な見解や素直な発想に満ちた毎日は、逞しく生きる子供の変哲もない日常である。
 更に年長組のオツボネ、施設職員のロッカー、そしてステッキで足を引きずる障害を持ち、良い里親を待つ子供たちを恫喝して、威圧的な躾をする佐々木施設長。この施設長の振る舞いも、施設の誤解を招くと批判の的にされているが、子供達を甘やかさない信念を貫く、厳しい愛情が沢山詰まった人物である。世間の批判を知りつつ、堂々と演ずる子役達だが、ポスト役の主演女優 芦田 愛菜さん(9)の演技力は既に大人を超えている。
 申し合わせた様に続く非難の裏に、何かがあるように思えてならない。「コガモの家」での里親体験《お試し》を含む日々は、現実社会に近い実態が映し出されている。孤児への差別を助長すると言うが、批判勢力の神経に触れない番組は、どうでもいい内容である。社会の現実は家柄・育ち・学歴・学閥・貧富差など、差別が横行している。それを直視して世に問うのも、メディアの社会的使命のはずである。
施設で"魔王"と呼ばれる佐々木施設長が、事件を起こしたロッカーを追い出そうとする子供達を、第6回(♯6)放映の中で円座に座らせて言い聞かせる場面は心を打つ。以下、その抜粋である。
「お前たちは何に怯えている?"世間から白い目で見られたくない"そういう風に怯えているのか?だから、そうなる原因になるかも知れないアイツを排除する…もう一度、この状況を胸に入れて、考える事をしなさい。なぜ庇おうとしない?
世の中がそういう目で見るならば、世の中に向けて"アイツはそんな人間じゃない"ってなぜ闘おうとしない?臭い物にはフタをして"自分とは関係ない"…それで終わらせるつもりか?一度心に受け止めるクッションを、情緒を持ちなさい。この世界には残念だが、目を背けたくなる様な酷い事件や、辛い出来事が実際に起こる。だがそれを、"自分とは関係ない、関わりたくない"と、シャッターを閉めてはいけない。
お前たちは可哀想か?ウンザリだろ!上から目線で可哀想だなんて思われる事に!
可哀想だと思う奴こそが可哀想なんだ!つまらん偽善者になるな。つまらん大人になるな。つまらん人間になるな。お前たちは辛い境遇にあると言うなら、その分、人の痛みが分かるんじゃないのか?自分がそうして欲しい事を、なぜしようとしない?
世界に存在するあらゆる汚れや醜さから目を背けず、一度受け止めてみなさい。それが出来る人間は、一方でこの世界の美しさ、愛おしさを知る事が出来るだろう。」  
1300字を超える長セリフを感情込めて話す俳優 三上博史氏の技量もさることながら、この"演説"は、一部のマスコミも評価した。番組の良し悪しの判断にさえ加わらず、世間の批判の巻き添えを恐れてシャッターを閉めたスポンサー企業と、事なかれ番組ばかり作って安穏とするTV局の、正につまらん大人たち。下らない番組への批判はせず、社会問題を世に送る番組の製作サイドを自己満足の非難で正当化する、正につまらん偽善者たち。どちらも、施設長が社会に向けた"不都合なメッセージ"に身に覚えがあり過ぎだろう。
 この号が届く頃に最終回を迎える「明日、ママがいない」…それはグループホーム「コガモの家」の子供達だけを取り巻く物語ではなく、今日も明日も強硬政治による虐待を受け続ける、庶民の大半の姿でもある。それは、母親達だけに発信されたドラマではなく、ママに見捨てられた子供達のみを描いた訳でもなく、あたかもそれを通して無責任な政治(ママ)に置き去りにされている国民の、ありのままの姿を私たちに投げかけている。だが我々は"私たちが捨てたんだ"と、国家を捨てる事は出来ない。
ならば、"その分、人の痛みが分かる"政治の実現に進む道しかないのである。



資料

沖縄辺野古基地建設に反対する国際署名

 


 国際署名「私達は沖縄県内の新基地建設に反対し、平和と尊厳、人権と環境保護のためにたたかう沖縄の人々を支持します」声明に大勢の方々の賛同をお寄せください。
 『私達署名者一同は、2013年末安倍晋三首相と仲井眞弘多知事の間で交わされた、人間と環境を犠牲にして沖縄の軍事植民地状態を深化し拡大させるための取り組みに反対します。安倍首相は経済振興をエサに、軍港を伴う大型の海兵隊航空基地を造るために沖縄北東部の辺野古沿岸を埋め立てる承認を仲井眞知事から引き出しました。
 辺野古に基地を造る計画は60年代からありました。それが1996年に掘り起こされ、前年に起こった少女暴行事件もあり当時沖縄で最高潮に達していた反米感情を鎮めるために、日米政府は、宜野湾市の真ん中にある普天間基地を閉鎖して、辺野古の新基地にその機能を移転させようと計画しました。辺野古は稀にみる生物多様性を抱え、絶滅の危機にある海洋哺乳動物、ジュゴンが生息する地域です。
 今回の仲井眞知事の埋めたて承認直後の調査では、沖縄県民の72.4lが知事の決定を「公約違反」と言っています。埋め立て承認は沖縄県民に対する裏切りだったのです。
 在日米軍専用基地面積の73.8%は日本国全体の面積の0.6%しかない沖縄県に置かれ、沖縄本島の18.3%は米軍に占拠されています。普天間基地はそもそも1945年の沖縄戦のさなか、米軍が本土決戦に備え、住民の土地を奪って造りました。終戦後返還されるべきであったのに、戦後70年近く立っても米軍は保持したままです。従って、返還に条件がつくことは本来的に許されないことなのです。
 今回の合意は長年の沖縄の人々の苦しみを恒久化させることにもつながります。沖縄は、日本による17世紀初の侵略に始まり、19世紀末の日本国への強制併合を経て、1944年には、米軍の襲撃を控え、天皇制を守るための時間稼ぎの要塞とされました。沖縄戦では10万人以上、住民の4分の1にあたる人々が殺されました。戦後、米軍政下において基地はさらに増えました。沖縄は1972年に日本に「返還」されたものの基地がなくなるとの沖縄住民の希望は打ち砕かれました。そして今日も、沖縄県民は基地の存在によって引き起こされる犯罪、事件、デシベル数の高い航空機の騒音や、環境汚染による被害を受け続けています。戦後ずっと、沖縄の人々は米国独立宣言が糾弾する「権力の濫用や強奪」に苦しめられ続けています。その例として同宣言が指摘する「われわれの議会による同意なしの常備軍の駐留」もあてはまります。
 沖縄の人々は、米国の20世紀における公民権運動に見られたように、軍事植民地状態を終わらせるために非暴力のたたかいを続けてきました。生活を脅かす実弾砲撃訓練に対し演習場に突入して阻止したり、米軍基地の周りに人間の鎖を作って抵抗を表現したりしました。
大規模なデモが時折もたれ、約10万人‐人口の10分の1にもあたる人々が参加してきています。80代の人たちが辺野古基地建設を阻止するために立ち上がり、座り込みは何年も続いています。県議会は辺野古基地反対の決議を通し、2013年1月には全41市町村首長が、オスプレイ配備撤回と県内移設基地の建設を断念するように政府に求める建白書に署名しました。
 私達は、沖縄の人々による平和と尊厳、人権と環境保護のための非暴力のたたかいを支持します。辺野古の海兵隊基地建設は中止すべきであり、普天間は沖縄の人々に直ちに返すべきです。

              

(2014年1月)


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