研究誌 「アジア新時代と日本」

第124号 2013/10/10



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 時代に逆行する新たな「日米新時代」

議論 どうする、社会法制度の見直し

読者からT 「歴史認識」を日本再出発の原点に

読者からU 「歴史認識」を改めるべきは誰か

闘いの現場 良識を示した堺市民

コミック評 痛快!SUKET DANCE




 

編集部より

小川淳


 脱覇権こそ日本の課題
 集団的自衛権の容認に向けて、解釈改憲が着々と進められている。
 集団的自衛権と表裏一体で進む特定秘密保護法の概要も明らかとなった。集団的自衛権を行うためには同盟国米国との情報共有は不可欠で、情報漏洩に対して厳罰化をアメリカは要求していた。特定秘密に指定された情報を漏らした公務員らへの罰則を最長10年にするという。集団的自衛権行使を念頭に外交・防衛の司令塔となる国家安全保障会議(日本版NSC)や敵地攻撃能力保有も急ピッチで検討されている。オスプレイの自衛隊との共同訓練が10月、滋賀、高知両県で始まる。「専守防衛」から「戦争のできる国へ」、戦後の防衛政策は根本的に転換されようとしている。
 集団的自衛権も特定秘密保護法も、もともとアメリカ側の要求があるのは確かだ。自民党の中でも最も対米従属的な安倍政権だからこそ、そうなるのだという説明もできなくはない。
 あの戦争で日本は米国にこっぴどい目に遭わされた。だから世界覇権国家の米国に逆らってはならない。戦後日本の対米従属政治はこの「敗戦の総括」と「教訓」に基づいている。アメリカの要求ならそれが日本の利害と一致しなくてもつき従う、というニュアンスで語られることが多い。
 民主党はそのような対米従属の政治からの脱却を唱えて政権を奪取したが果せなかった。というよりアメリカの圧力に屈服させられた。その意味で言えば、民主党こそ対米従属的と言えなくはない。
 一方の自民党、とりわけ安倍政権は違っている。自らの意思で「戦争のできる国へ」突き進んでいる。そこにアメリカの要求があるのは確かだが、それ以前に安倍首相自身がそれを目指している。
 戦後の日本という国は、嫌々アメリカにつき従ってきたわけではない。嫌々アメリカの要求に従うというよりも、自らの覇権のために嬉々としてアメリカにくっつき、利用してきたのではないのか。覇権という文脈では日本とアメリカは利害が一致している。
 この日本の覇権的体質は、本質的には明治維新から今日に至るまで何一つ変わっていない。日本のあらゆる問題の根源がここにある。脱覇権こそ近代日本の最大の課題であることを、「戦争のできる国へ」が目前の今、改めて痛感している。



主張

時代に逆行する新たな「日米新時代」

編集部


 安倍政権による集団的自衛権の行使容認、即ち米軍の下で日本が実際に戦争するための策動が露骨化してきた。安倍首相は、それを「対等な日米関係」の下、新たな「日米新時代」を切り開くかのように言う。それは90年代に唱えられた「日米新時代」とどう違うのか。それによって日本はどうなるのか。

■国民愚弄のやり方
 9月12日、首相の私的諮問機関として「安全保障と防衛力に関する懇談会」(座長、北岡伸一国際大学学長、略称「安防懇」)がスタートした。
 安防懇は、今後の日本の外交・安保政策の指針である「国家安全保障戦略」(NSS)を討議し10月下旬から11月にかけて結論を出す。その報告を受けて政権はNSSと新防衛大綱をそれぞれ閣議決定する方針だという。
 その初会合後、座長の北岡氏は、NSSのキーワードを「国際協調主義による積極的平和主義」と説明したが、これが、集団的自衛権の行使容認を前提としたものであることは明白だ。事実、9月27日の国連総会での演説で「積極的平和主義」を唱えた安倍首相は、保守系シンクタンク「ハドソン研究所」での講演で、「積極的平和主義」を集団的自衛権の行使容認と関連して説明している。
 一方、首相は、集団的自衛権の行使容認を来春に延ばし、「憲法解釈の問題については具体例に即して国民の理解が進むように努力する」(国連演説後の記者会見)とした。その具体例とは、共同行動している米艦船が攻撃された場合に自衛隊艦船が反撃できるかなどであり、こうした支持を得やすい事例を示しながら「国民の理解を得ていく」というのだ。
 集団的自衛権の行使容認を前提とした「国家安全保障戦略」を私的な諮問機関で討議し、閣議で決めてしまう。そして、その後に枝葉末節的な問題を提起して国民の理解を求めるという、これほど国民を愚弄した悪辣なやり方がどこにあるというのか。
 10月3日、日米の2プラス2会議の共同声明では、2014年末までに新たな「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を策定することを合意し、国家安全保障会議(日本版NSC)の設置や集団的自衛権の解釈見直しについて、米国が歓迎する意向を表明した。
 それは、これらの策動が米国の支持の下に行われていることを如実に示すものであり、安倍政権の国民愚弄の根源がどこにあるかを示している。

■「対等な日米関係」の内実
 安倍政権は、こうした動きを「対等な日米関係」を作るためだと言う。そして、そのために、集団的自衛権の行使を容認することで、「安保を双務化する」と言っている。
 日米安保は、これまで、米国が日本防衛を行うだけで日本が米国防衛に参加することはない片務的なものだった。だから、それを日本も米国防衛に参加する双務的なものに変えなければならない。そうしてこそ日本は米国と対等な関係になれるというのである。
 しかし安保の片務性は、米国だけが日本に軍隊を駐留させているという不均衡で不平等なあり方自体から生み出されたものではないのか。
 元々、米軍の駐留は、敗戦国日本を占領したことから始まる。そして、講和条約によって占領が終わった後も、米軍が駐留したのは、米国の下に日本を縛りつけ米国の利益に合うように日本を統制利用するためだった。
 安保の片務性とは、そうした米国の対日戦略が生み出したものであって、米国だけが日本に軍隊を駐留させているという不均衡で不平等な関係をそのままにして「双務性への移行だ、だから対等な日米関係だ、独立だ、自主だ」と言っても、それは言葉遊びにすぎない。
 そもそも、安保の双務性への移行が提起されるようになったのは、力を落とした米国が日本の力を一層利用すべきだと考えたことから打ち出してきたものだ。したがって、それは日本の軍事力利用のための口実であり、その内実は、日本の軍事力を一層利用活用するためのものだということを押さえておかなければならない。
 考えて見れば、鳩山民主党政権も「対等な日米関係」を主張した。そして実際に米軍基地縮小(普天間基地移転)に着手しようとした。しかし、それは米国の怒りに触れ政権は短命に終わった。
 ところが安倍首相の「対等な日米関係」は、米国に歓迎されている。それは、「安保の双務化」が米国の要求に応えるものであり、「対等な日米関係」とは全く逆のものだということを示している。

■「日米新時代」の新段階
 90年代、日本の自由化、グローバル化が促進される中で「日米新時代」ということが盛んに言われた。安倍政権による日米関係の転換は、その新たな段階を意味している。時あたかも米国がキャロライン・ケネディを駐日大使として送りこんできた。日本でも人気のあるケネディの娘、初の女性大使の起用は「日米新時代」の新段階にふさわしい演出だ。
 90年代の「日米新時代」は、東西冷戦が終焉し、唯一の超大国として残った米国が米国覇権を全面的に確立しようとした時期に該当する。それ故、安保体制もそれに服務するものに変えられた。そこで米国が提起してきたのが安保再定義。それは、日米安保を日本防衛だけでなくグローバルな問題に共同で対処するものに再定義するということであり、96年のクリントン訪日での合意を経て、ガイドラインによって大枠が決められ、周辺事態法に具体化された。それと同時に「日米軍事の一体化」が言われ、日米軍事は完全に融合一体化し自衛隊は完全に米軍の指揮下に入れられた。神奈川県のキャンプ座間にアジア・太平洋を担当する米第一軍団が移駐し、そこに自衛隊の中央即応集団の司令部が同居し米軍指揮下で動くようになったのは、その端的な例である。
 そして経済。91年から始まった日米構造協議は、米国が要求するグローバリズム、新自由主義に対応して日本の構造を変えるものであった。
 しかし、反テロ戦争の失敗、リーマンショックによる金融危機発生など米国覇権は崩壊局面に入った。「日米新時代」の新段階とは、米国覇権が崩壊局面に入る中で、米国が覇権回復を必死になって行おうとする時期に該当する。
 この覇権回復のために、日本の力を全面的に組み込み利用する。軍事では、すでに日米一体化した日本の軍事力を実戦に使えるようにすること。経済では、アベノミクスで株式バブルを演出し、その第三の矢である経済振興策では特区形式を取り入れて外国企業(即ち米国企業)を呼び込むことを目玉として打ち出している。そして米国スタンダードを日本の基準にすることによって日本経済を米国経済に融合一体化させるTPP。
 「日米新時代」の新段階とは、日本が完全に米国に組み入こまれ、その力(軍事力、経済力)を米国覇権回復のために全面的に使われる段階ということである。

■完全な時代への逆行
 この間のシリアへの化学兵器使用を口実にした軍事攻撃が世界の世論の前に挫折したように、米国覇権は回復できないほどに弱体化し、米国を頂点にした世界の覇権秩序がさらに崩壊の度を強める「覇権終焉の新段階」(前号の主張)に至っている。それにもかかわらず米国は覇権回復にしがみつき、そこに日本を取り込み、日本の力(軍事力、経済力)を利用しようとしているのであり、安倍首相は米国覇権とその回復を疑うことなく信じて、その道をまっしぐらに進もうとしているのである。
 しかし時代遅れのものが成功するはずがない。それでもやろうとすれば、それは時代の流れに敵対するものになる。TPPも「年内妥結は無理」という状況。しかしTPPは同時に日米FTA交渉として行われることが合意され、日本経済を米国経済に組み込むことは進んでいく。米国は、この日米融合した経済力で主権尊重の東アジア共同体を破壊し押さえ込もうとしているのだ。
 集団的自衛権行使を容認して米国と共に実際に軍事行動を行おうとするのも、こうした東アジアの脱覇権自主の動きを抑えるためだ。しかし、そうした敵対軍事行動も失敗するしかなく、日本を滅亡させるほどの結果を招くだけである。
 2020年の東京オリンピック開催が決まったが、思うのは、1936年のベルリンオリンピックである。このナチスドイツの「力」を誇示したオリンピックは、第二次世界大戦を告げる花火となった。東京オリンピックを米国の手の平の上での第二の「ベルリンオリンピック」にしてはならない。



議論

どうする、社会法制度の見直し

小西隆裕


 社会保障制度のあり方が問われている。社会保障をめぐる状況が大きく変化したのにともない、制度の見直しが求められている。
 具体的な見直し案としては、去る8月、社会保障国民会議報告書が出された。安倍政権は、自らの経済政策の柱となる「骨太の方針」が色濃く反映されたこの案に沿って、来年度社会保障予算編成を構想しているようだ。
 問題は、一層切実さを増す国民の社会保障見直しへの要求と国民会議報告に示された政府見解との間にある違いの大きさだ。今回は、社会保障見直しをめぐり民意と安倍政権の意思の間に生まれているねじれに焦点を当て、議論を提起したい。

■社会保障見直しの必要をどこに求めるべきか?
 社会保障見直しをめぐる民意と政府見解のねじれを見るとき、まず、見直しの必要をどこに求めるのか、そこから問題にしなければならない。
 国民会議報告(以下、「報告」と略す)は、その冒頭から見直しの必要を「少子高齢化」に求めている。すなわち、世界一の長寿国になったために生じる高齢者への医療、介護、生活保護など各種社会保障給付の増大が年毎に1兆円の社会保障費自然増となって現れており、急速な少子化が社会保障財源の減少を生み出している。これでは世界に冠たる日本の社会保障を将来世代に伝えることができない。だから見直しだということだ。
 ここから言えるのは、「報告」が財政の要求から社会保障見直しの必要を説いているということだ。社会保障を考えるとき、もちろん財政も重要だ。財政的に破綻すれば、社会保障も成り立たない。しかし、一番重要なのは、財政よりも何よりもやはり国民の要求だ。なぜなら、社会保障自体、国民の要求から生まれたものだからだ。そこから見たとき、社会保障見直しの必要はどこにあるか。それは、明らかに「少子高齢化」ではない。国民は、ますます深刻化する「貧困の拡大」故に社会保障の見直しを求めている。実際、雇用者報酬や都市自営業者収益など個人収入の大幅減、それにともなう生活保護世帯の激増、等々、貧困の拡大はかつてないものになっており、それが社会保障見直しの必要を一層切実にしている。
 もちろん、社会保障も財政の一領域であり、少子高齢化による財政逼迫が社会保障の見直しを求めているのは事実だ。しかし今日、少子化の最大の要因が貧困にあり、貧困の拡大が税収減など、財政難につながっているのも事実だ。これらすべては、貧困の拡大にこそ社会保障見直しの必要性があると教えてくれている。

■社会保障給付はどう見直すべきか?
 社会保障を見直すといったとき、その一つは給付の見直しだ。「報告」はこれについて、給付の「重点化」「効率化」と言っている。
 医療について言えば、「病院完結型」から「地域完結型」への見直しだ。急性期、高度医療を集中的に行い、後は地域病院が自宅長期療養をケアするということだ。介護については、比較的軽い「要支援」向けサービスを介護保険から切り離し、地元のNPOやボランティアに任せる案が出されており、年金は、受給開始年齢の引き上げが検討されている。そして、生活保護に対しては、最低生活費以下への支給額の削減が打ち出されている。
 これを見れば明らかだ。重点化、効率化という名の削減、それが「報告」の言う社会保障給付の見直しに他ならない。
 広範な貧困が深まる中、このような見直しをすればどうなるか。長期在宅治療や自宅介護を余儀なくされる家庭の生活難の深刻化、すでに最低の食生活にあって、母親が自分の食をさらに切りつめる生活保護受給母子家庭の飢餓化、等々、生活破壊の広がりは想像を絶するものになるだろう。
 こんなことは許されない。貧困が深刻化し拡大すればするほど、社会保障の給付は、真逆の方向、増加の方向で見直されなければならない。
 もちろん、見直しは支給額を上げれば良いというものではない。基礎的自治体を単位とする福祉、医療の対人社会サービスの強化など、給付を受給者に近づける手厚い見直しが求められている。

■どう見直すか、社会保障の財源
 「貧困が広がる中で社会保障の給付を増やすだって!そんなことができるなら世話はない。一体、その財源はどうするのか?財源の捻出にどれだけ頭を捻ったか分かっているのか!・・・」。国民会議の有識者の皆さんからは一斉にこうした反論を受けそうだ。実際、「報告」では、社会保障の財源が多岐にわたりいろいろと捻出されている。それらは結局、一言でいって、「皆で」「能力に応じて」負担しようということに要約されると思う。
 一つは、現役世代だけでなく、負担能力のある高齢者まで含め皆で負担する全世代型の負担だ。もう一つは、「国民健康保険」の運営を市町村から都道府県に移し、財政基盤の強い地域が弱い地域を支えて負担する方式、さらにもう一つは、収入の高い大企業や公務員・教員の「健保組合」「共済」が収入の低い中小企業の「協会けんぽ」を助け、国民健康保険の財源を皆で負担する「総報酬割」方式だ。また、70?74歳の医療の窓口負担(自己負担)を1割から2割にする一方、70歳未満の患者の高額療養費支払いを所得区分をより細かくし、能力に応じた負担に見直すこと、等々だ。
 この「皆で」「能力に応じて」、増える一方の社会保障給付の財源を負担しようという「報告」の財源見直し案は、一見、至極もっともなものに見える。しかし、よくよく見るとおかしい。「皆」の中から「企業」、それも「能力のある」大企業、グローバル大企業がすっぽりと抜け落ちている。一体、「企業」は国民の中に入らないのか。と言えば、国民会議の有識者の皆さんからは、「皆」とは、「国民皆」ではなく「受給者皆」のことだという反論が返ってくるかもしれない。「企業」は受給者ではない、だから社会保障負担者になる必要はないということだ。
 ならば問いたい。「企業」は社会保障の恩恵を受けていないのか。誰よりも受けているのではないのか。社会保障があるからこそ、従業員の生活が保障され、彼らを使って誰よりも儲けることができているのが「企業」ではないのか。事実、雇用者報酬や都市自営業者収益が大幅減になっている反面、大企業の資産は倍増している。だから、「皆で」「能力に応じて」と言うなら、誰よりも「企業」、それも「能力のある」大企業、グローバル大企業が財源を負担するよう見直すべきではないのか。

■国民中心、民意基準の社会保障の見直しを!
 国民の要求から出発し、貧困の拡大に社会保障制度見直しの必要を求めるとき、給付はそれが必要とされる人に実質的により手厚く行き渡るよう見直されねばならず、財源はグローバル大企業をはじめ能力のあるものが能力に応じて担うよう見直されねばならない。
 大企業中心社会である今日の日本にあって、このような社会保障見直し案が受け入れられるはずがない。猛烈な反対に遭うのは目に見えている。そんなことをすれば、グローバル大企業が日本から逃げ出し、経済が破綻し、貧困がさらに拡大して、社会保障制度自体が崩壊してしまう、云々。
 しかし、考えても見よう。「報告」で言うように、給付を削減する一方、財源の負担からグローバル大企業を免除し、国民に負担を押し付けていては、国民の間に広がる貧困の拡大はさらに一層進行するだけだ。そうなれば、貧困の拡大が経済の停滞を促進するという悪循環には歯止めがかからなくなり、結局、グローバル大企業の海外逃亡にもさらに拍車がかかるようになる。
 今一番問われているのは、果てしなく進行する貧困拡大と経済停滞の悪循環の連鎖を断ち切ることだ。グローバル大企業をはじめ能力のあるものを対象に適用される応能負担原則による社会保障の見直しはそのための鍵だ。
 その実現は、主として法人税引き上げ、所得税の累進性強化、相続税引き上げ、等々、税制改革によるものとなるだろう。これは、日本のグローバル大企業だけでなく、それ以上に、復興特区など数多くつくられた特区への大量進出、アメリカン・スタンダードの日本への押し付け、それにともなう日本経済の米国経済への組み込みをもくろむ米系グローバル大企業の猛反発を引き起こすに違いない。彼らは、日本への法人税納入などさらさら考えておらず、負担ゼロでの無制限の利得を狙っているだけだ。
 こうして見たとき、今、問われている社会保障の見直しは、安倍政権が推し進める米国、グローバル大企業中心、彼らの意向基準の見直しと真っ向から対決する国民中心、民意基準の見直しだと言うことができる。


 
読者からT

「歴史認識」を日本再出発の原点に

Y・S


じっくり読ませていただきました。今回の「歴史認識問題」はこれからの日本の再出発の原点になるべきことであり、この事を抜きに日本の再生はないと思います。
 そして「歴史認識問題」をきちんとしない限り、日本はいつまでたっても真の意味で信頼される日は来ないでしょう。いくら安倍首相がもっともらしいことを言っても本心は違う。
 たまに本心を喋っても、国際的に非難されたならすぐに詭弁を弄して訂正するかもしくは誤魔化してしまう。このようなやりかたで自国民ならびに他国の人を「コントロールできる」と考えていること自体が世界の信用をなくしていることに御本人は気付いていないようです。これは能力の問題ではなく人間性の問題なのでどうしようもありません。以下私の考えを述べさせてもらいます。
 我々が生まれたのは戦争が終わる直前で、戦争が終わったとき自分たちは赤ん坊でした。しかし、生まれたばかりの赤ん坊であったからといって、責任を免れる訳ではありません。アジアにおける戦争責任については、常に自分たちの意識から消え去ることはなく続いてきました。直接関与していなかった我々が一体いつになったらこのような意識から逃れることができるのか、本当に重い足かせとなってきました。
 そして現在は戦後最悪の状況下にあるといっても過言ではない状況となっています。これからは安倍首相のように戦争を全く知らない世代が世の中を動かす時代になってきました。広島の原爆記念館に「あやまちはくりかえしません」との碑がありますが、あやまちとは何であったのか全く曖昧になりつつあるのが、現在の日本だと思います。大本営発表の原発の状況が、嘘を繰り返せば本当と思われるようになり、現状を直視している人が非国民、拗ね者と思われる時代は戦前の状況にかなり近づいているのではないでしょうか。
 戦後国民全体が負い目をおってきた、その意識を現在はなくす方向に進んでいます。自虐史観をなくすという考え方で、戦争に責任はなかったという考えを若い人に植え付けようとしている。戦後このようにひどい時代はなかったでしょう。結局なんの反省もしていないのではないかと他国が考えるのも無理はないと思います。
 原発再開、オリンピックでのコントロール発言も一連の流れの一つであると思います。もうこれ以上、アジアに対し日本が戦争責任を曖昧にし続けることは許されない。そのように考えます。



読者からU

「歴史認識」を改めるべきは誰か

O・Y


 今回はどうしても同意しかねる部分があるので躊躇していました。  韓国、朝鮮については強制使役、言葉や姓も奪うということまでしたのですから、何べんでも謝るしかない、そして朝鮮民族は他民族を侵略したことがないので、日本を糾弾する資格があります。
 しかし、中国はどうでしょうか?白髪三千丈と南京30万人虐殺がだぶりますが、それはおいて、日本軍の蛮行は事実で謝罪するのはいいのですが、あなたはどうなんですか?といいたい。
 チベットとウィグルへの現在的弾圧、過去何千年の他民族虐殺の歴史をどう認識しているのですかといいたい。
 そもそも西欧列強に食い荒らされ滅びた清帝国は日本で力をためた孫文=漢民族?=によって中華民国として新生した。
 大東亜共栄圏は白人列強の植民地で苦しむアジア人民の解放闘争を鼓舞した。大英帝国等にかわり大日本帝国の支配を野望したものであることは明白であるにもかかわらず。初めて白人を破って有色人種から喝采を浴びた日ロ戦争以来、日本がアジアの雄として白人と戦争するのは、インドや東南アジア諸国は歓迎したと思います。彼らの戦略は"帝国主義戦争を植民地解放へ"だったでしょう。
 今や誰が見ても中国は漢民族の覇権国家です。だから日本のみならずフィリピン、ベトナムなど周辺との軋轢が大きくなっているのです。
 歴史認識を改めるべきは中国の方だと思います。
 私が訪れたころは、朝鮮が中国に反発する気配があり期待がもてましたが、今はまた中国に懐柔されたようで残念です。なぜお前たちだけ核を独占して我々には持ってはいけないというのだといい続けてほしいと思います。
 安倍総理の唯一評価できるところは、アメリカに警戒されていることです。"民主主義"帝国主義のアメリカの神経を逆なでするところがあるからでしょう。
 しかし、アメリカも中国もロシアも戦勝国体制を堅持し、日本、ドイツを封じ込める戦略は同じようです。
 戦争の勝ち負けを正義の有無で判定することは、兵士の士気を決めるものとしてきわめて重要だと思いますが、最後は軍事力だと思います。
 実際ロシアが火事場泥棒的に入り込んできて、満州や朝鮮半島から日本人を一掃し抑留もしました。
 沖縄を殺しつくして、東京大空襲、そして広島、長崎と、シリアどころではない民間人を大量虐殺しもっとも残虐な戦争をするのがアメリカであることを証明しました。
 敗戦はこのような野獣のような連中には勝てないと悟って白旗をあげたのです。正義は国際軍事法廷にあるとは思えません。インド人判事もそう思ったのでしょう。



闘いの現場から

良識を示した堺市民

秋田好憲


 9月29日、堺市長選挙があった。維新の会の西林候補は大阪で大人気の橋下徹・大阪市長の支援を受けて、現職・竹山市長を上回るのではないかと思われた。もちろん西林候補は「大阪都構想推進」が公約。一方、「橋下人気で4年前通ったのに裏切った」と宣伝され、4年前の支援者、有権者を引き剥がされ惨敗の予想すらあった竹山・現市長。
 しかし、堺を分割・消滅させてはならない、堺の税金の使い道は堺市民が決めよう、との声が日増しに強まり、竹山陣営には自民党、民主党、社民党、共産党に加え無党派市民が毎日駆けつけるようになった。一方の維新は口汚く現職市長をののしる宣伝しかできず、維新・橋下信者以外への広がりは見られなかった。例えば市内を回って有権者との対話を毎日行なった人の話では、竹山市長を支持する人が過半数で、維新・橋下を妄信している信者がごく一部突っかかってくるものの、「では橋下さんが府知事・大阪市長になって市民生活が良くなった事がありますか?」と聞くと誰ひとり答えられない有様。終盤慌てた維新が近隣市の議員や国会議員秘書を大量動員して戸別訪問したと言われているが、市民から手厳しい批判を浴びて意気消沈。財界から献金やパーティーで大金を巻き上げた(既得権益からのお金そのもの!)豊かな資金力に物を言わせ、何百万円かかると思われる前代未聞の超大画面ディスプレイ街宣車も運行したものの、見事に空回り。
 そして投票一週間前、竹山候補が維新候補をリードし、有権者の過半数が大阪都構想に反対しているとの世論調査が発表された。竹山陣営はこれに油断することなく、それぞれが全力を出し切った。一方の維新は「堺市はなくしません」と見え透いた言い訳や「老朽化した団地をキレイに建て替えてあげます」という旧体質的利益誘導までしたが通用するはずもなかった。
 結局、5万8千票の差で維新候補は惨敗した。
 大阪市に次ぐ規模の堺で明確に「大阪都構想」が拒否されたことで、維新政治は「終わりの始まり」に直面したと言えるが、しぶといので引き続き幅広い団結の力で息の根をとめなければならない。まずは、橋下信者が多い大阪の中で、良識を示した堺市民に大きな敬意を!!



コミック評

痛快!SUKET DANCE

林 光明


 いつの頃からだろう。毎日、おんなじ場所に行く。そこにおんなじ仲間がいつもいる。だけど決してマンネリではなく、その仲間たちと共に常に新鮮な、そして退屈しない毎日が待っている…そんな楽しかった頃を忘れ去ってしまったのは。
  "スケットダンス"とは、本作品の舞台「開盟学園高校」の学園生活支援部の通称名「スケット団」を意味する作品のタイトルだが、団⇒ダンスにしたのは、恐らく作者の篠原健太先生の単なる「ノリ」だったと思われる(笑)  主人公含む3人の頼れる?スケット団は、学園の便利屋扱いされているのが実態と言う点が、現実味と親近感を感じるところである。この3人に舞い込んでくる依頼は、大変な案件からホントにただの変な相談まで実に多種多様、それを解決してゆく手段も通り一遍等ではない。出演したCMがオンエアされる話、"捨てフクロウ?"を助けて部室の仲間にする話、ジェネシスという架空競技の世界大会に出場する話…全く予測できない、作者のアイディアと展開力に脱帽してしまう。
 個性豊かな今の高校生を取り巻く、現代の国と地域社会の環境に、現代青年の多感な個性が実に巧みにストーリーに組み込まれている。各編の登場人物も、不思議なクラスメートから個性ありすぎの教師達まで何とも多種多様である。
 それでいて、ストーリーの拠点はほとんど常にスケット団の部室にある点も、作品がブレない、ある種の安心感を与えている。
 この作品のもう1つの鍵は、学園の生徒会の存在である。本来は、学園生活の相談事は生徒会が守備範囲のはずだが、何とこの学園の生徒会副会長(後に会長となる)はスケット団のリーダー、ボッスンと双子の弟と言う関係だ。この絶妙な設定が両組織の力関係にバランスを与え、構成に深みを増している。結局は生徒会には話せない、生徒会も対応出来ない相談をスケット団が担う形で構成されている点が、本作品を貫く要である。
 本作品は少年漫画誌に連載された為、政治的な趣向はないと思ったが、時に局面で尋常ならざる能力を出すボッスン、一番の度胸を発揮する紅一点ヒメコ、緻密な計算と冷静沈着なスイッチ…3名のスケット団の行動は、驚くほど政治的である。
 学園の運営権は学校法人であり、生徒会は学校と生徒たちに推挙された議会であり、あたかも司法と行政を一体化したような組織である。だが行政だけでは解決しきれない課題が多いのが実情だ。
 それを解決する不可欠の存在が政治力であり、それを担っているのが彼らスケット団である。つまり、スケット団3人は今の社会に最も必要が叫ばれている、魅力ある政治的行動をこの作品の中で器用に繰り広げているのである。
 現代風な感情交錯の満載が持ち味の本作品は、架空の怪物を相手に正義を唱えるストーリーが横行し、友情・団結を培う青春ドラマが流行らないとされる現代コミックに、事実はそうでない事を証明している。日本だからこそ、生まれた作品かも知れない。
 スケット団は常に相談者の気持ちを読み取り、全力でぶつかる。そして、3人が力を合わせ、相手の自主性を尊重し、立場を汲み取って、優しく粋な計らいで解決に導く。これまでのコミックには無かった、優しさと強さを併せ持つ新しい時代の波を捉えた内容と言えるだろう。
 6年間の連載終了を悲しむファンの声が今も続く。その人気の秘密もやはり、作品に現時代を感じ取った読者の感性に触れたからだと思えた。
 最終回では、スイッチの答辞が感動で泣けるそうである。私はまだそれを読んでいない。後の楽しみに取っておきたいからだ。
 最近のアジア新時代は明るい未来が書かれていない、という指摘を一部の若い読者から寄せられていると聞いた。それに対し、本作品に若者達の支持が絶大である事実は煌々と明るい日本の未来を確信できる。
ところで、どうすれば本誌の内容が明るく希望あるものに変わるか?スケット団の3人なら、どう答えるだろう…。


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