研究誌 「アジア新時代と日本」

第122号 2013/8/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 国民中心で新しい政治を!

議論 「愛国」を議論する

批評 8・15が打つ平和の警鐘

コラム 映画「ハナ〜奇跡の46日間〜」を見て




 

編集部より

小川淳


 8・6記念式典に参列した安倍首相は次のように挨拶した。
 「私たち日本国民は唯一の戦争被爆国民であります。そのような者として我々には確実に核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を世界に伝え続けていく責務があります。(中略)核兵器の惨禍が再現される事のないよう非核3原則を堅持しつつ核兵器廃絶に恒久平和実現に力を惜しまぬことをお誓いし・・」
 その直前に開かれたジュネーブでのNPP再検討委員会では、核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同したが、日本は結局署名しなかった。なぜなら、「核兵器を二度といかなる状況でも使わないことが人類生存の利益になる」という声明文の「いかなる状況でも」という部分の削除を求めたが提案国から拒否されたからだ。「いかなる状況でも」という部分を削るとは、言い換えるなら「状況によっては」核兵器は使用しても構わないと宣言するに等しい。これでは何のための宣言か分からなくなり、提案国が拒否するのは当然だった。
 日本のこのような態度(核兵器またはその使用に反対しない)は今に始まったわけではない。過去に核兵器廃絶のために動いたことは一度もなく、戦後、国連総会での核廃絶への決議にはことごとく反対(棄権)してきた前科がある。日本がこのような態度をとるのは、「米国の核抑止力」に依存しているからに他ならない。
 このような事実を踏まえた上で上記の安倍首相の発言を聞くと、その言葉の空々しさに慄然とする。広島の被爆者の耳にこの安倍首相の言葉はどのように響いたのか、腹立たしさがこみ上げてくる。
 なぜ日本に米国の「核抑止力」が必要なのか。安倍首相の言葉を引くなら、「北朝鮮の核」の脅威があるからだとなる。沖縄の人々があれほど反対している米軍基地やオスプレイを沖縄に押し付ける理由も、中国や朝鮮の軍事的脅威ということになる。これが核抑止力や基地を是とする人たちの論理だ。そうであるなら、日本が米国の核抑止力から抜け出すためには結局、いかに平和な東アジアを築くのか、この一点に行き着く。それは「アジア新時代と日本」という私たちの問題意識ともぴったりと重なっている。今まで日本の首相は一度たりとも、ヒロシマや沖縄に真摯に向き合うことはなかった。アジアに真摯に向き合うことなしに、ヒロシマや沖縄に真摯に向き合えない。そのことを改めて確認したいと思う。



主張

国民中心で新しい政治を!

編集部


 余りにも予想通りだった。衆院選での教訓は活かされなかった。民意を反映した路線、政策も、それを掲げての結集軸、民意の受け皿もとうとうつくられなかった。自民圧勝の参院選結果は「必然」だったと言える。
 だが、地獄の底にも光明はある。都議選に続く共産党支持の高まり、そして「山本太郎」だ。国民中心の新しい政治への希望の光が射した。

■参院選結果、その特徴は何か
 衆院選と何も変わらない自民の圧勝。予想されたこととは言え、余りに変わり映えのしない風景に思考の回路までが止まってしまう。しかし、よく見ると違う。目を凝らすと何やら見えてきた。衆院選とは異なる参院選結果の特徴がある。
 その一つは、同じ「圧勝」でも、「これしかないじゃないか」という単なる消去法ではない、自民への「期待」のようなものがあるということだ。これが「アベノミクス効果」とでも言うものなのか。「どうなるか分からない。しかし、とにかく安倍自民は日本を動かしてくれた」。国民の「期待」の基はこの辺にあるのかもしれない。
 もう一つは、民主、生活、みどりの風、社民などの「大敗」と言うより「全滅」だ。一般に「リベラル」と呼ばれるこれらの党にはどこか共通したものがある。それは「力の無さ」だ。アベノミクスを批判し、「国民生活を」と言いながら、生活を良くする路線も政策もない。日本を変える気力、腕力が感じられないのだ。
 参院選結果の特徴はこれだけではない。重要なのは次からだ。第三に、共産党が伸びた。維新、みんなと並んで8議席だ。中、選挙区が3議席。都議選に続く大躍進だ。投票意欲があり選挙に関心がある層に支持者が多かったという。アベノミクスに批判的な人の20%弱が共産支持だ。共産には、アベノミクスや改憲など、安倍自民と正面から対決する明確な政策と勢いがあった。
 もう一つさらに重要な特徴があった。勝手に名付けて「山本太郎現象」。太郎さんの下には、ボランティアの運動員、1200名超。太郎さんの行く先々に、熱気に満ちた黒山の人だかりができた。その移動まで、太郎さんの一挙一動ネット配信。ネット解禁の今回、型破りの選挙戦で、激戦区東京5人中4番目の当選を勝ち取った。彼の主張は、脱原発だけではない。憲法、TPPから過労死まで、「分かりやすく、熱っぽく」、安倍政治そのものに真っ向から立ち向かい、大衆の中に広く深く入っていった。

■「日本を何とかしてくれ!」
 これら参院選の結果から何が言えるか。それは何よりも、「日本をなんとかしてくれ」「変えてくれ」という国民の叫びだ。この痛切な国民的要求こそが選挙結果から言えるもっとも大切なことではないか。
 生活の党の小沢一郎さんは選挙結果に「驚いた」という。あの「選挙のプロ」が驚くほど国民の要求は切実だったということだ。これが分からずこれに応えられなかった生活の党は全滅するしかなかった。
 逆に、新党「今はひとり」の山本太郎さんは当確の報を冷静に受け止めた。彼は、「万歳」ではなく、事前に用意していた言葉、「もう一人じゃない」を叫び、「選挙は長く辛かった。でも、これまでと比べものにならないイバラの道は始まっている」と語った。これは、国民の痛切な叫びを自分の叫びとし、それに応える決意をしている者のみが言える言葉だと思う。

■どう出てくるか、安倍政権
 参院選の結果をふまえ、日本政治の今後について、様々な憶測が出されている。安倍自民の余りの圧勝を見て、国民の間では「期待」と言うより「不安」が広がっている。そして、中国や韓国など近隣アジア諸国では、日本の右傾化、軍国化への懸念が強まっている。その「不安」や「懸念」を裏書きするかのように「産経新聞」などは、「圧勝」を「千載一遇の好機」と見、改憲をはじめとする「戦後の大改革を!」と唱っている。一方、そうした論調に反対する評論家諸氏もいる。彼らの間では、今回の圧勝はアベノミクスなど経済問題を前面に、改憲など安倍色は極力抑えて勝ち取られたものではないか、集団的自衛権や改憲などの強行は慎むべし、との主張が出されている。
 しかし、忘れてならないのは、今回の圧勝が安倍自民、そして何より米国のもくろみ通りだったことだ。策略は成功した。安倍政権誕生の流れをつくった「アーミテージ・ナイ報告」が要求する集団的自衛権を行使する「強い日本」実現のための条件がこれ以上にないかたちで整えられた。
 改憲に必要な参院での3分の2議席確保は、十分に可能だ。すでに与党(自、公)と改憲賛成勢力(維新、みんな)4党を合わせた議席数162は3分の2にきっちり届いている。もちろん公明20が反対に回る可能性はある。しかし、それがあっても、民主党内改憲派を加えれば、それをカバーして余りある。
 改憲を最大のテーマとする安倍政権にとって、今問題は国民の過半数の獲得だろう。今回の参院選で衆参のねじれは解消された。しかし、政府と民意のねじれはむしろ拡大した。史上3番目に低かった投票率(52・6%)はその現れだ。改憲をめぐる世論調査も、反対が賛成を上回っている。
 こうした条件で、改憲よりも集団的自衛権の行使を合憲とする憲法解釈が強行されてくる可能性は大きい。元来、「アーミテージ・ナイ報告」はこれを要求していた。

■求められる、国民中心の新しい政治
 「日本をなんとかしてくれ」「変えてくれ」という国民の叫びに応えるかのように装う安倍自民党政権はとんだ食わせ物だ。確かに彼らは、日本を変えようとしている。しかし、それは国民のためではない。米国のため、グローバル大企業のためだ。
 国民が求めてもいない改憲や集団的自衛権行使の合憲化に必死になっているのも、TPPやアベノミクス、そして震災復興で、農業や漁業などの聖域にまで踏み込んで、大企業や外資に様々な特典を与える各種特区開設とアメリカン・スタンダード導入を図っているのも、インフレ化を促し、法人税引き下げ、消費税増税、社会保障大幅削減などを画策しているのも、子どもや教育現場の要求には無関係な教育改革、地域コミュニティ破壊の地方改革に血道をあげているのも、すべて、安倍政権の日本見直しがいかに民意とかけ離れているか、その証明に他ならない。
 今問われているのは、日本見直しをめぐる闘いだ。国民のための日本見直しか、それとも米国やグローバル大企業のための見直しか。参院選はそのための一大決戦場になるべきだった。しかし、そうはならなかった。日本見直しへの構えを見せた安倍自民党の圧勝だった。見直し案を提起もできなかった野党は全滅した。
 なぜ民主をはじめ野党は日本見直しをもって安倍自民と対決できなかったのか。それは、彼らの政治が国民を中心に置いたものになっていないからだと思う。国民のためなのか、それとも米国のため、グローバル大企業のためなのか、その対決点自体が非常に曖昧だった。そして何より、国民のための日本見直し案が出てこなかった。米国のため、グローバル大企業のための安倍日本見直しと真っ向から対決する国民のための日本見直し、その路線、政策がまったくなかった。彼らは、米国なしの日本、グローバル大企業なしの日本はあり得ないという固定観念にがんじがらめに縛られているように見える。だから、米国やグローバル大企業中心でない国民中心の経済や安保の見直し、日本見直しを思い描くことさえできないのだ。
 この暗黒に光が射した。熱気に満ちた黒山の人だかりの中、聴衆と心を通い合わせられる政治家が登場した。参院選当確の報にも万歳を叫ばなかった山本太郎さんの心の中心には国民がいる。「このままじゃ企業に殺される。過労死防止基本法を一日も早く制定する必要があります」・・・。国民の立場から国民の思いを全身全霊で受け止め訴える山本太郎さんにとって、政治の中心は徹頭徹尾国民だ。国民の思い、国民の願いを路線とし政策にする観点があり力がある。
 「彼ら(山本、三宅氏)が出てきたことによって、政治が私たちとつながり、民意が伝わるものに変わる」。山本太郎さんたちの「選挙フェス」に集まった人々のこうした思いが国民中心の新しい政治のあり方を示唆している。これが、これまでマスコミがリードしてきた世論形成に国民一人一人がメディアになって加わるネット選挙、ネット政治に結びついた今、日本政治のまったく新しいあり方と全国民的日本見直し運動への展望は洋々と開けてきていると思う。



議論

「愛国」を議論する

魚本公博


 安倍晋三氏が自民党総裁に返り咲きを果たして以来の安倍人気、今回の参院選での自民の圧勝。マスコミなどは、この背景には国民の「愛国気運」「総右傾化」があり、在特会の動き、百田尚樹氏の小説のベストセラーなども、その表れだとする。今回は、この「愛国」について議論を提起したい。

議論@ 国民が求める愛国とは
 私は、こうした状況をネガティブに「右傾化」「タカ化」と見るのは反対だ。参院選で自民党は圧勝したが9条改憲を支持する人は少ない(選挙前の世論調査で36%)。
 大事なことは、「愛国気運」「右傾化」とされる現象の中から国民の愛国の要求がどのようなものなのかを見つけ出すことだと思う。
 そこで、百田尚樹氏の空前の大ベストセラー小説「永遠の0」「海賊と呼ばれた男」の中から、それを探ってみたい。
 出光興産の創始者・出光佐三を描いたという「海賊」の小説としての山場は二つある。一つは、戦争直後の時期、庶民に安い石油を販売するために、国策会社「石油配給統制会社」に真っ向から闘いを挑み、それを実現した話。二つ目は、英石油メジャーの妨害(50年代に成立したイランのモサデク政権は石油の国有化を宣言したが、英国はそれを認めず、イランと石油取引すれば、その輸送船は撃沈すると警告)にもめげず、イラン石油の輸入を敢行して成功させた話。
 すなわち、国民のために、どのような巨大な圧力にも屈せず戦うところに読者は感動しそこに愛国を見るということなのだと思う。
 「永遠の0」は、帝国軍人らしくもなく、「家族のために生きて帰りたい」が口癖の宮部久蔵が主人公だ。その卓越した操縦術によって幾多の戦場を生き抜くが、最後は沖縄特攻に出撃する。彼は予科練での教え子たちが特攻に行くのを傍観するしかない苦悩の中で、妻子を守るためにもと特攻を決意する。出撃直前、搭乗機のエンジン不調を見抜き、教え子の一人に飛行機の交換を申し込む。そして不時着した教え子がフト気づいた走り書きには「もし大石少尉がこの戦争を運よく生き残ったら、お願いがあります。私の家族が路頭に迷い苦しんでいたら、助けて欲しい」とあった…。
 涙なしには読めない場面。愛する家族のために仲間のためには自己を犠牲にする。そこに読者は感動し愛国を見るのではないだろうか。

議論A 安倍「愛国」は、愛国たりうるのか
 では、安倍「愛国」は、どういうものなのだろうか。
 安倍首相は、首相就任後の最初の所信表明演説で、「…今後のあるべき日本の方向を、勇気をもって、国民に指し示すことこそ、一国のトップリーダーの果たすべき使命である」と述べながら、その国家像を「美しい国、日本」として以下の4つを示す。「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」「自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国」「未来に向って成長するエネルギーを持ち続ける国」「世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国」と。
 すなわち、安倍首相は、自分が考える国家像を国民に示して、これに従って欲しいと言うのであり、さらに言えば、私の「愛国」に従えということだ。
 この思考方式は、自民党の憲法草案に多用されている公の思想と同じだ。その第21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」としながら、2項で、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」とある。
 実に、戦前を思わせるファッショ思考。事実、この「公」の論理は、戦前の軍国主義者がファシズム、ナチズムの論理から借用したものであり、その基本は、「人間は利己的存在だから公によって統制・監督しなければならない」ということにある。
 最近、麻生副総理が「ある日、気が付いたらワイマール憲法がナチス憲法に変っていた。あの手口に学んだらどうかね」と発言して問題になったが、それは失言でも何でもない。まさに自民党政治家の本音が吐露されたにすぎない。
 安倍「愛国」とは、国民を自分の「愛国」の下に従わせようとする「愛国」なのだ。
 次に、見ておくべきことは、安倍首相が示す国家像として、国際関係で「リーダーシップのある国」とあることだ。このリーダーシップとは、オバマ政権のアジア政策である「関与と指導力発揮」のリーダーシップであり、昨年8月15日に発表されたアーミテージ・ナイ報告が示す「一流国」の資格だ。すなわち、日本が一流国の地位にとどまりたいのなら、集団的自衛権を行使できるようにし、アジアにおける米軍の軍事行動に協力せよということだ。
 この米国の要求を最も忠実に最も果敢に実現する者として安倍首相はある。その彼は、「侵略という定義は学会的にも国際的にも定まっていない」という歴史認識を持ち、過去の侵略を認めない。だから安倍「愛国」は、米国の手先になってアジアでリーダーシップを発揮し侵略もするという「愛国」になる。
 その手先化は軍事にとどまらない。TPPで米国スタンダードを受け入れ、アベノミクスの「成長戦略」での法人税引き下げやアベノミクス特区などで米系企業を呼び込んで経済の活況化を図るという政策は日本経済を徹底的に対米融合させる。
 この軍事的にも経済的にも日米融合した新しい権力。安倍首相の言う「新しい国」の本質はそこにある。
 安倍「愛国」とは、日米融合の新たな「公」に国民を従わせるファッショ「愛国」であり、米国覇権の下、アジア諸国を従わせて覇者たろうとする従属覇権の「愛国」なのだ。

議論B 安倍「見直し」と対決する国民の愛国を
 今日、世界はこれまでの生き方ではやっていけないという歴史の岐路に立っている。それは、米国覇権の衰退、崩壊によって、これまでの米国中心の覇権秩序が崩壊局面に直面しているからだ。
 安倍首相が「強い国」「新しい」を標榜して「見直し」を打ち出すのも、そのためである。しかし、それは、米国覇権を立て直しその下で覇権的な生き方をやるという「見直し」であり、米国のためのグローバル大企業のための「見直し」である。
 安倍「愛国」は、この安倍式「見直し」を推し進める核になっている。これに対し国民のための「見直し」は当然、国民の愛国を核として打ち立てねばならない。その愛国は、国民自身の中にある。
 愛国は、国民が自身の内にもっている家族や仲間、同胞にたいする自然な感情なのであり、元々、国民自身のものだからだ。百田氏の小説に人々が感動するのも、身近な人たちを愛し、支配と圧力に屈せず自己犠牲的に闘う者たちに愛国の心を感じ取るからだ。
 重要なのは、国民自身の中にある愛国を高く掲げ、それをもって安倍式「愛国」と闘い、安倍式「見直し」を打ち破ることだ。
 私が言うまでもなく、今日本では、そうした営為がすすんでいるように見える。論壇界を見ても、一昔前のように愛国そのものを否定し排斥するような論調は少ない。安倍「愛国」は「排外主義」なのであり、在特会の行為についても「それはないよ」というのが前提になっている。その上で在特会など「ネット右翼」と言われる人たちの主張にも耳を傾け、二極化された下層の人々の怒りに共感し理解しようとする姿勢がある。
 また週刊金曜日で西川伸一明大教授が一水会の木村三浩氏が朝日新聞(7月17日)への文章で「何を誰から取り戻すのか」として米国から日本を取り戻すという趣旨の発言をしていることについて「彼の見識に深く敬服した」と発言していたが、立場の違いを乗り越えて評価すべきことは評価しあい互いに議論を交わすという状況も生まれている。
 こうした、愛国をめぐる国民的論議の中で、国民が求める愛国の内実が深められ、国民のための「見直し」政策に具体化されることを願ってやまない。「アジア新時代と日本」誌でもそうした議論をどしどし企画してほしいと思う。


 
批評

8・15が打つ平和の警鐘

林 光明と y.y@ドットcom


 この8月15日で、太平洋戦争終結から68年が経過する。1941年(昭和十六年)12月8日に、ハワイ真珠湾で始まる戦況有利な勝ち戦の時でなく、私の父は負け戦の時に、フィリッピン戦線ミンダナオ諸島へ衛生兵として送られた。
 深夜に行軍する熱帯ジャングルの、めまいで倒れそうな蒸し暑さと軍服に潜り込む大型吸血ヒル、そして密林を踏み越えて赤外線レーダーで追跡して来る、米軍の火炎放射器と戦車に、父の所属した部隊第103師団は苦しめられた。
『こげな地獄はもうご免じゃ。早う九州帰りたいのう。帰ったら真っ先に、大里の浜に弟ば連れて釣り行くけん。母さんの作った握り飯持っての』
 だが、そのほんの数日後、その同じ郷里出身の父の戦友は、米軍と応戦中、父の真横で砲撃を受け、頭が吹き飛んだ。早く故郷へ無事帰りたかった当時18歳の戦友の夢はこうして潰えた。30年以上過ぎた今もその映像が目に浮かぶと、夏休み中で当時14歳だった私に父は語った。国内外で数百万を犠牲にした非道の国家…それでも、覇権に狂った國政府は戦争を止めなかったのである。
 沖縄県に米軍が上陸、ひめゆり学徒隊など多数の犠牲者を出した後の1945年(昭和二十年)8月6日、米軍が広島県に投下した原子爆弾により、わずか数分で十数万の一般市民が殺戮された。だが、大日本帝國の愚かな夢を捨てきれなかった、当時の枢密院議長出身の鈴木貫太郎内閣は、8月9日に今度は長崎県へ原爆投下されてもなお、本土決戦と言う愚作まで検討していたが、ようやく無条件降伏を決める。
 但し、恐ろしい大罪に人間として目覚めての反省からでは到底なく、「あんな兵器を落とされてはもはや勝算なし」の計算からの降参である。後の東京裁判で戦犯が何人断罪されようが、所詮、力ある悪が力尽きた悪を裁く茶番であり、日本国民と奴隷まがいに扱われたアジア人民の数千万もの大切な生命は返らない。そして、核兵器原爆の投下こそ、日本国民と他国アジア人民虐殺の最たるものであり、まさに悪魔の所業である。
 広島市の空中から投下された全長約3メートル、重量約5トンのウラン濃縮型原爆"リトルボーイ"(ピカドン)は、上空約300メートルで炸裂し、瞬時に視力を失う閃光と地響きの爆発が同時に起き、数万の人々や動植物が溶けて消えた。その地獄絵図は、中沢啓二氏の『はだしのゲン』に詳細にあるが、あれは決して大げさな描写ではない。
 「核先進国」と言う負の自慢をする米国は、1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠でのプルトニウム爆縮型原爆(ガジェット)のトリニティ実験で、炉芯温度数千度の核物質が連鎖化学融合を起こすと、その高熱爆風により半径数十キロ周囲は砂さえ溶けて気化し、違う物質に変化してしまう現象を確証していた。この原爆"ファットマン"が、長崎市の非武装地帯に落とされた。
 原爆被害こそが戦傷後遺症の最たるもので、1世被爆者はこの70年近く、忘れようが無い毎日を送っているのである。実は広島型"リトルボーイ"は、理論上で間違いない威力が見込まれた為、核実験すら行わないまま実戦使用された。即ち、広島への投下が「実験」だったのである。更に、長崎型"ファットマン"では上記実験でより確実に威力を知りながら、またも投下した確信犯の行為でしかない。しかし、人の心を持たない米国には、この2回の投下自体が実証データーを取るための単なる臨床実験だったのである。
 本誌5月号議論で朝鮮の核開発反対意見を述べた際に、編集部を通じ幾つか意見を頂いた。それに関連してあの文面では触れなかった補足を、今回させて頂きたい。
 "先ずは飽くなき攻撃的核所有しか脳が無い米国は、最優先に全ての核を廃棄するべきである。そして他の保有国も当然順次に廃棄すべきであり、その兼ね合いの中で朝鮮も放棄に応ずるのが筋道だ"と言うのが、朝鮮の核所有と開発に賛成する人に概ね共通する意見のようである。米国の核脅威に晒される朝鮮の立場だけを考えれば、現状では致し方ない見解の1つだろう。私は朝鮮の核所有に絶対反対だが、実は別角度から一定の意味を持つ可能性はある…とは思っている。
 決して恵まれた大国とは言えない朝鮮が、国防総力を挙げての核装備…私の思う一定の意味、それは米国のイメージを「世界中が民主化されるまで日夜努力する民主主義の大家」と誤認している人達に、少なからず疑問を投げかける効果を持つと考えられるからだ。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、全て米国が引き起こした戦争である。しかし、米国への好感度は今年も第1位…その感覚に慣れてしまう恐ろしい矛盾を、米国に対して核ミサイルを突きつける事で、逆説的に我々に示しているようにも思える。
 反原発運動に先月参加した。県警総動員の厳戒態勢の中、全国各地から集結したデモ隊は、関電大飯原発正門前で抗議声明文を読み上げ、職員に手渡した。これらのデモに参加する方を含む、全国の原発依存の電力供給反対者の中に、原発には反対するが大義名分あらば、核兵器所有は容認、又は賛成と言う人が果たしているだろうか。もしいるなら、統一性の無い論理や信念は、自己に内在する潜在的矛盾を抱え続ける事になる。私も誠に微力だが、全世界の核廃絶を願う1人として、朝鮮の核装備に反対する重大な根拠はここにもある。
 米ソ核所有に危機を感じたフランスは、1959年にシャルル・ドゴール将軍がフランスにも独立した核戦力が必要と、核開発を宣言し、翌年の核実験で保有国となった。それを理論化した1965年の「抑止と戦略」でボーフル陸軍大将は、"大国と小国の間には相互に抑止力が機能する軍事的安定状況をつくるべき"と述べた。そしてこう続けている。
"ヨーロッパがソビエトの攻撃を受けた場合、米国は核兵器使用の決意を持っていない。核兵器は米国を守る事態にのみ、使用されるだろう…核使用が即時可能な体制だけが、ソビエトを抑止できる"と。抑止核の理論根拠など、そう複雑多岐にあるものではない。
 又、広島県被団協は、"どんな国のどんな理由による核実験も反対"する社会党・総評の主張と、"防衛的立場の社会主義国の核保有と、帝国主義国のそれとを同列に論じるべきでない"とする共産党の対立で、1964年(昭和39年)に分裂した経緯を持つ。
 インドが初参加した今年の平和宣言祈念式典で、広島と長崎の市長は恒例の「核の無い世界」を騙る米国と、それに対抗するロシア、原発推進の日本政府に強い非難と矛盾の是正を質した。更に、悪魔の兵器による損害は環境被害にも痕跡を遺した。
 1946年7月1日の原爆実験から1954年3月1日の水爆実験にかけて、米国がマーシャル諸島で行った核実験で、美しいビキニ珊瑚礁が全滅状態になった。現在は環礁の80%が回復したが、絶滅した貴重な28種のサンゴが甦らない。
 近年、世界規模の気候変動に伴い、野生の混合種が懸念されている。未発見の新種と違い、既存種同士が自然交配の結果、双方の遺伝子を備えた個体が誕生している。
 ハイブリッド種と呼ばれる彼らのDNAは正常ではなく、生育途中で免疫抗体が作れず多くが死んでゆく。例え成長して混合種同士が交配しても、遺伝子構造が弱い為、孵化や出産前に死ぬ可能性が高い。やがては元来生存する既存種にも影響し、どちらも絶滅する事態が危惧されている。温暖化環境異変に、核実験も大きく関与していると辿り着くのが自然である。なぜ彼らが絶滅せねばならないのか。本当に絶えるべき魔物は、様々な口実の庇護を受け、ご丁寧な扱いで全世界に2万頭近く管理されているのが地球の現状である!
 もうすぐ8・15がやってくる。赤痢を患い、上官の計らいで行軍を離脱した父は約4ヶ月、わずかな米を背負い、軍刀と自決用手榴弾を手に、たった1人でミンダナオのジャングルを当て無くさまよった。やがて合流した部隊も物資は尽き、精魂尽き果てた。洞穴の外で取り囲む米軍戦車に、中尉以下全員が軍刀で一斉突撃を覚悟した刹那、マレーの山下将軍の伝令兵が大声ではせ参じ、原子爆弾による本土壊滅と日本の敗戦を知る。
モハヤ1名ノ命トテ失フ事許サズ、降伏セヨが最後の命令となった。
 思えば父は、戦争の悲惨と愚かさを子供にしっかり伝え続ける事で、旧軍人として最も大事な仕事をしたのかも知れない。そして、終戦から58年後の平成日本で誰にも看取られず、ひとり死を迎えた。事情はどうあれ、親不孝の極みである。
呼吸が止まる寸前、父の脳裏に去来した物の中に、遠い南方の地で無念にも果てた、あの戦友の姿もきっとあった事だろう。
 八月十五日に議論の余地は無い。日本が無益な戦を辞めた日である。
 そして、翌年11月に日本国憲法が発布され、大和の国は永久不戦を誓った。



コラム

映画「ハナ〜奇跡の46日間〜」を見て

金子恵美子


 この日は、南北統一チームの結成に尽力した日本人荻村伊知郎さんの伝記「ピンポンさん」を書いた城島充さんのトークもあるということで、会場は多くの人で占められていた。
 映画は、1991年、千葉の幕張で行われた世界卓球選手権大会で、初めて南北朝鮮の統一ナショナルチームが結成された、その過程を実話ベースで描いたものだ。1945年の分断後、南北朝鮮が紆余曲折を経て、統一チームを組み、女子団体で9連覇を狙う中国を破り優勝するまでの姿を描いたものである。46日間というのは、統一チーム結成に向けての様々な協議と難題を乗り越え、南北の選手が日本に降り立ち、合同練習を始めた時から競技が終わるまでの期間である。わずか一ヶ月足らずの合同合宿と練習、そして試合の日々、最後の別れまでが笑いあり、涙ありで描かれている。映画なので少々過剰演出かと思われるところもあったが、複雑な互いの国家情勢を背景にした選手たちが、共に生活し優勝という目標に突き進んでいく中で、次第に様々な違いや心の壁を越え、映画の題目にもあるハナ=ひとつになっていく。南北の選手の対立や朝鮮側の人物造形が少々戯画的に描かれているが、朝鮮から随行してきているいわゆる「監視要員」たちが、統一チームが中国を破り勝利したというラジオのニュースに相好を崩しガッツポーズをして、すぐにまたロボットのような佇いに戻る場面では会場に笑いが広がる。そしてクライマックスは最後の別れのシーンだ。帰国するためにバスの乗り込んだ朝鮮の選手たち。見送る韓国の選手たち。主役の韓国選手役を演じたハ・ジオンが滂沱のような涙を流しながら、朝鮮の選手役を演じたペ・ドウナに「こんな時、なんて言えばいいの。また電話する? 手紙を書く? 無理なのに」。分断の悲しみと憤怒が最高潮に描かれる。実際の最後の別れはバスに乗って宿所に向かうのは韓国の選手団であった。しかし、なかなかバスは出発しない。韓国のエース、ヒョン・ジョンファ選手が朝鮮のエース、リ・ブンヒ選手とバスの外でずっと抱き合ったまま涙に暮れていたからだ。(「ピンポンさん」より)私としてはこの史実の方にもっと涙が流れた。
 朝鮮の分断は彼らが望んでなったものではない。日本による植民地統治とそれを戦勝国として南半部で引き継いだアメリカによる分断統治の結果である。そういった意味でエンターテイメントとしてのこの映画に笑い涙することはあっても、決して客観的立場で見ることはできなかった。しかし、46日間という僅かな時間に分断46年の壁を乗り越え、ハナ=ひとつに融合した選手団の心は正に「奇跡」であり、大きな希望でもある。全ての違い、壁を乗り越えるもの、それは離し難く結ばれている民族の血であり、人間的感情であった。
 私がこの映画と関連して、日本人として興味を持ちかつ感動したのは、この統一チームの実現のために、韓国には20回、朝鮮には15回も足を運び、最後の難問だった統一チームの合宿所の問題を先見の明をもって解決し、統一旗を作るにあたり、その青の色合い(青は青空のような青ではなく日本海のような分断の悲しみを伝える深い青にするようにと指示)にいたるまで細かく心を砕いた荻村伊知郎という卓球人についてであった。荻村氏は戦後「卓球ニッポン」の一時代を築いた立役者であり、世界の卓球の発展に多大な貢献をし、中国とアメリカの国交正常化に一役買った「ピンポン外交」の下地を築いた人でもある。
 94年に62歳という若さで病死するまで、卓球を通じて民族や人類の融和や平和のために奔走している。卓球界で名を残しただけでなく、人類発展でのスポーツ、スポーツの中での卓球の役割と、広くて深いところから卓球を捉え、卓球を通じて政治の世界を援護射撃して行った、本当にすごい日本人だ。日本人がこの映画を見る意味は、かつて日本に南北朝鮮の統一や世界の融和のために相手を知り、尊重し、そのための戦略・戦術をたて、実現のために行動するこのような日本人がいたということを知ることであると思う。だから、この映画の最後の所でも良いから少しでも荻村さんについて触れるとかの場面があれば良いのにと思った。
 最後に角川文庫より出版されている「ピンポンさん」、ぜひ是非読んでみて下さい。こんな日本人が居たことをひとりでも多くの人に知って欲しいと思います。


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