研究誌 「アジア新時代と日本」

第120号 2013/6/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 「侵略と戦争は許さない」、この民意を参院選にぶつけよう!

議論 「橋下・維新」の教育政策批判 日本の教育再生を考える

批評 世界を変える真のヒーロー

宝塚市長選挙ルポ 兵庫侵出狙った維新の会

投稿 橋下・維新の教育論をめぐって 教育の主体は誰か?

国際短信




 

編集部より

小川淳


 発刊10周年
 「アジア新時代と日本」は今号で120号を迎えた。2003年に発刊してちょうど10年の歳月が流れたことになる。
 この10年、何が変わり、何が変わらなかったのか。この10年の間、2011年3月11日、東日本大震災とフクシマ原発事故という甚大な災害を被り、政権交代もあった。
 しかし、「古い日本」を変えようという歴史的試みは「失敗」に終わった。09年政権交代のときに見られた変革への巨大なうねりも、大震災後に巻き起こった脱原発のうねりも、安部政権の再登場によって、潰えたように見える。
 沖縄米軍基地は今も沖縄の人々を苦しめている。止まった原発は再稼動の日を待つばかりだ。10年前と何も変わっていない。そこにTPPや消費税が加わり、改憲の動きも急だ。「古い日本」への流れは、安倍政権の再登場に象徴されるように一層強まりつつある。
 一方で、人々の意識はどうか。変革のうねりはむしろ強まったのではないか。沖縄の反基地のうねりも、フクシマ後の脱原発のうねりも決定的に高まった。
 日本をめぐるこの二つの潮流がくっきりと鮮明となる中で、目に見えてきたことがある。
 一つは、「構造がきちんと摘出されるならば、原発もTPPも改憲も、沖縄も、全ては一つのパッケージであることが、はっきり浮き彫りになって見える」(内橋克人)ようになったことだ。
 もう一つは、この反動のパーケージが日本のためのものでなく、アメリカの世界覇権体制とパラレルに結びついていること、そしてアメリカの覇権のためのものであることもはっきりした。
 あれほどの沖縄の闘いや脱原発の闘いのうねりがあっても沖縄から基地がなくならず、原発が止まらないのも、それが一つのパッケージだからであり、アメリカの覇権体制としっかり結びついているからだ。だからこそ、一つ打破することさえ容易ではない。
 今年の夏の参院選は、この二つの潮流の決定的な分岐点になるのは間違いない。
 覇権か脱覇権か、戦争のできる国か否か。焦点はいうまでもなく憲法9条にある。この最後の砦だけは明け渡してはいけない。



主張

「侵略と戦争は許さない」、この民意を参院選にぶつけよう!

編集部


■目的は9条改憲だ
 5月1日、安倍首相が「96条改正を参院選の争点にする」と明言したことを受けて、「先行改正」反対の声が高まった。
 元来、憲法は、国の生き方を示す最高原理であり、どの国の憲法もこれを容易に変えることができないようにしている(日本国憲法は「主権在民」「恒久平和主義」「基本的人権の尊重」の3原理)。それ故、この「先行改正」に反対の声が高まったのは当然であった。世論調査でも「先行改正」反対は54%(賛成38%)を占めている。
 安倍政権が「先行改正」を持ち出すのは、参院選で改憲派が3分の2以上を獲得することは容易ではないからだ。参議院の定数は242であり、3分の2以上を占めるには162議席が必要。改憲派の自民、維新の会、みんなの党、新党刷新の4党の非改正議席数は62だから、改選議席121のうち100議席を獲得しなければならず、それはほぼ不可能だ。公明党が改憲を支持すれば91議席で済むが、それでも容易なことではない。
 だから96条改正なのだ。そして、その目的は9条改正であることは、安倍首相自身が何回も表明していることである。
 「先行改正」については、自民党が昨年の4月に発表した改憲案と照らし合わせ、自民党は立憲主義を否定しているとか、主権在民を否定し、21条の「表現の自由」も変えるなど民主主義そのものを否定しようとしているなどという論議が起きた。
 確かに、それは大問題だし大いに議論されなければならない。しかし、「先行改正」の目的は何よりも先ず、9条改憲であることを忘れてはならないと思う。

■急がれる「戦争のできる日本」
 安倍政権が、こうした姑息な手段までとって9条改憲を実現しようとするのは、それが米国の要求だからである。
 昨年8月、米国はアーミテージ・ナイ報告で、日本がアジアにおいて指導力を発揮する「一流国」に留まりたいなら、集団的自衛権を行使できる「強い国」になれと要求してきた。それは、力を落とした米国が、日本を引き入れ、その武力を米国の対アジア軍事戦略に利用し、そのことによって、失われたアジアでの覇権を取り戻し、ひいては世界覇権を回復しようする狙いから来ている。
 しかも、それは今日、切迫したものになっている。アジアは脱覇権自主への歩みを強めているからだ。米中対立は深化し、朝鮮は核保有し米国の核廃絶を要求するようになっている。シリア情勢もレバノンのヒズボラ勢力がアサド政権支援に動くなど、イスラム地域の聖戦の様相を強め「アサド退陣が前提条件」という米国の政策は破綻した。
 こうした中、5月9日にブルネイで開かれた包括的経済連携(RCEP)会議では2015年までの妥結が合意された。RCEPの実体はASEAN諸国が主体になって「主権尊重」のTAC(東南アジア友好協力条約)を参加資格にして日中韓とインド、オーストラリア、ニュージランドに働きかけてきた東アジア共同体構想である。そのASEAN諸国は15年までにASEAN共同体結成を決定しており、その妥結は主権尊重の立場に立った貿易を含む経済協力の促進となるしかない。そうなれば、各国の自主権を否定し米国基準を押し付けるTPPなど消し飛んでしまう。
 そして、東アジア共同体構想は経済だけに留まらず、安保も含めた「主権尊重」の団結と協力の共同体なのであり、この進展は米国の覇権回復策動を不可能にしてしまう。
 この脱覇権自主の流れに対して手を打たなければ覇権国家・米国は破滅する。それ故、米国にとって、日本が集団的自衛権を行使しアジアで米国と共同で軍事行動を起こし「侵略し戦争できる国」になることは緊急の課題なのだ。
 そして、それを経済的にも補完するために、TPPによって米国基準を日本に飲ませ、「関税・非関税障壁」を完全に撤廃して日本経済を米国経済に完全に組み込む。こうして経済的な利害関係を一致させた日本を米国の対アジア戦略の手先に、端的に言えば、対中国、対朝鮮の軍事行動の手先に利用しようとしているということなのだ。そのために金融緩和をやらせて米国金融が主導する株価上昇のアベノミクス成功を演出しつつ、「財政破綻」のリスクを負わせて、この道から抜け出せないように仕向けているのだ。
 こうした米国の切迫した要求によって、他国にも例のない改憲手続きの緩和という邪道までやろうとしているのが「先行改憲」なのである。

■演出される安倍の「自主」
 安倍首相は、「憲法を日本国民の手に奪い返し新しい国を作る」と、まるで9条改憲が「自主」であるかのように言う。しかし、米国の要求に従って、アジアで軍事行動を起こし「侵略し戦争する」国にする。それによってアジアで覇を唱えようとする、従米覇権のそのどこが自主なのか。
 安倍首相の「自主」とは、一体どういうものなのか。それを示す一つの例が「サンフランシスコ講和条約」が発効した4月28日を「主権回復の日」として内閣主宰の式典を行うことを閣議決定し行ったことである。
 これに対し沖縄県民は、この日を「屈辱の日」であるとして大集会を開いた。講和条約によって沖縄を米国の施政下に差出し基地禍を強要したからである。そればかりではない。講和条約と同時に結ばれた日米安保条約によって日本は、米軍の駐在を認め実質的に軍事占領の継続を承認した。これを「主権回復」などというのは、安倍首相の「自主」が、そうしたものでしかないことを示している。
 そして、歴史認識。安倍首相は、戦後50周年に際して行われた「侵略の反省」を内容とする「村山談話」を否定しながら、「侵略の国際的定義は明確ではない」とまで述べた。まさしく、この発言は、侵略を反省した憲法の平和主義を真っ向から否定するものであり、9条改憲の目的が日本を「侵略し戦争する国」にするということを赤裸々に吐露したものに他ならない。
 これに対しては、米国でも批判の声が上がった。しかし、それによって安倍首相は、あたかも米国に対しても言うべきことはいうという印象を与えるようになっているのではないだろうか。
 対朝鮮外交でも、安倍首相が米国へ通知もせず独断で飯島氏を派遣したかのように報道されている。しかし、それはありえない。米国が核を放棄するまで絶対に核を放棄しないと言明した朝鮮に対して、核廃棄を要求しての「圧力と対話」路線は完全に行き詰っており、このまま何もしなければ米国の権威は地に落ちる。そこで、何らかの打開策を見出すために、軍事経済的に米国に完全に組み込まれている日本をして拉致問題で交渉させたという見方が正しいと思う。そして、それをマスコミは安倍政権の自主的な行動かの如く報道して見せたということだ。
 これらは、TPP問題でオバマ大統領から言質を取ったとして、あたかも対米自主外交の勝利かのように騒いだのと同じものだ。
 安倍首相の「自主」は、日米共同の「演出」に他ならない。安倍政権は、徹頭徹尾、米国の手のひらで踊らされている。

■民意に依拠して
 最近の世論調査によれば、9条改正反対の人は過半の52%を占める。また、集団的自衛権について「行使できぬ立場維持」は56%。そして「先行改正」反対は54%である。これを見て気づくのは、「9条改憲反対」、「集団的自衛権行使否認」、「先行改正反対」の数が奇しくもほぼ一致しているということである。
 それは、国民の多くが「9条改憲」と「集団的自衛権の行使容認」と「先行改正」が一体のものであることを、しっかり見抜いていることを示している。
 まさに、「9条改憲反対」「集団的自衛権行使容認反対」、これが民意なのだ。
 26日に発表された自民党の参院選選挙公約原案では、「改憲はできるだけ隠す」という方針の下に、96条改正も「衆参両院で過半数に緩和」として96条という言葉の表記も避けた。それだけ9条改憲反対の国民の声の高まりを恐れている。
 争点を9条改憲反対に据えれば自民大勝を阻止することができる状況が生まれている。その上、売り物のアベノミクスも陰りが出てきた。TPPも交渉の前から米国の日本製自動車への関税は認めるなど酷さが露になっている。
 その他、反原発、基地問題、格差問題、地域問題なども争点化し安倍政権に反対する国民大連合を形成して安倍自民党を窮地に追い込んでいこう。



議論 「橋下・維新」の教育政策批判

日本の教育再生を考える

小西隆裕


 教育の危機が言われ、その再生が叫ばれている。そうした中、昨年、「橋下・維新」は、教育基本条例案なるものを打ち出した。この「改革」案をどうとらえるか。日本のあり方をも左右する教育の問題について考えてみたい。

■何が教育の危機なのか?
 教育の再生について考えるとき、その根拠には、今日の教育危機をどう見るのかがある。
 これと関連してこれまで、いじめや不登校、校内暴力、学級崩壊など「荒れる学校」が学力低下現象などとともに問題にされてきた。しかし、今日、危機はより全般的で根本的なものとして提起されているのではないだろうか。すなわち、今多くの青少年の間に広がる学びに対するかつてない意欲の喪失だ。それは、小学校高学年頃から生まれ、中学を通じ一貫して、少数の勉強熱心な子どもと大多数の勉強嫌いな子どもへの二極化をともなって進行している。多くの子どもたちが早々と自らの将来や能力に絶望し、学習への意欲を失っている。「学校の荒廃」や「学力の低下」なども、この深刻な危機の一つの現れにすぎないと言えるのではないだろうか。
 今日、この全般的で根本的な危機の責任を一人学校に負わせることは到底できない。危機の根因はすぐれて、子どもたちと学校教育が置かれている社会経済的状況にある。
 教育の今日的危機の背景には、社会経済の新自由主義化、グローバル化、そして知識集約型産業を基軸とする情報産業化、知識経済化がある。これによって、若年労働市場が、家庭や地域、学校の著しい格差の拡大をともない、少数の正規労働と圧倒的多数の非正規不安定労働、高次で複合的な知的労働と低次な単純労働へと二極分解するようになっている。これが学習意欲の二極化と密接に結びついているのは容易に想像できることだ。
 教育の危機には、もう一つ、教育現場自体の崩壊がある。周知のように、子どもの教育現場は学校だけではない。地域や家庭も重要な教育現場だ。この教育現場が、今ことごとく崩壊の危機に瀕している。何よりもまず、学校教育現場の崩壊だ。全社会的に進む職場の崩壊の中で教職員共同体の崩壊と学校現場の官僚化、硬直化が進んでおり、教育費の大幅削減にともなう一人一人の教員にのしかかる仕事の雑務化、重労働化と教師本来の教育活動の空洞化が広がっている。一方、地域や家庭の崩壊がそれぞれの教育現場、学校と連携しての教育現場の崩壊をもたらしている。これら社会共同の教育現場の崩壊が子どもたちの学びへの意欲の喪失を加速し、「学校の荒廃」や「学力の低下」につながっているのは明らかだ。

■新自由主義教育改革は危機の上塗りだ
 子どもたちの学習意欲の喪失と教育現場の崩壊が一体に進行する教育危機の深まりを見たとき、「橋下・維新」の教育基本条例案は、まったく無力である。何よりもこれでは、子どもたちの学習意欲は高まるどころか、逆に一層低下する。
 条例案の目玉は、学力調査テストの実施とその結果のホームページ等での公表、それによる学校間、教員間、生徒間の競争と評価だ。この競争で子どもたちの学びへの意欲は高まるだろうか。結果は真逆だ。この10年間の米国や韓国、豪州での「グローバル教育改革運動 (GERM)」がそれを実証している。
 学力テストによる学校・教員評価と公教育の縮小(教育費削減)を基本とするこのGERMにより教育はどうなったか。ニューヨークの150校では、この10年間を「厄災の10年」と言っている。「学校はテストのための勉強ばかり」「子どもたちは機械的な学習に飽き飽きしている」というのだ。ニューヨーク私立大学のダイアン・ラピッチ教授が「典型的なGERMですね」と言う、大阪の教育基本条例案がどのような結果をもたらすかは目に見えている。
 一方、この条例案で教育現場の崩壊がさらに一層促進される。ニューヨークでは、「教員たちは追い立てられ疲れ切っている」という。学力テストの結果の公表とそれによる教員の評価が学校や教員を苛酷な競争に駆り立て、教職員の共同体をさらなる崩壊に追い込んでいる。そして、公教育の縮小、教育費削減だ。それが教員たちに書類づくりなど一層の重労働を強い、本来の教師活動そっちのけにさせるのも自明のことだ。個人優先、集団否定の新自由主義、グローバリズムによる改革は、職場だけでなく、地域や家庭の崩壊を促し、それが教育現場の崩壊を決定づけている。

■社会発展の要求と教育改革
 社会を離れた教育はない。社会を構成している一人一人が社会の成り立ちを支え、その運営と発展に役立つ人材に育つようにするのが教育だ。だから、新自由主義、グローバリズムの社会にあっては、どうしても、教育は新自由主義化、グローバル化されるようになる。
 問題は、それが教育や社会の発展になるか否かだ。絶え間ない学力テスト、その結果のソーシャルメディアを通じての公表、そして教育委、校長、教員相互、親と子どもまで、よってたかっての評価。この競争原理一辺倒の教育から何が生まれるのか。それが社会の二極化と圧倒的多数の子どもの学びへの意欲の喪失であり、ひいては教育現場の崩壊であるのは先に見た通りだ。これは、危機のさらなる深化でしかない。
 今日、教育と社会との関係といったとき、もう一つ、社会の情報産業化、知識経済化がある。これが教育にどういう作用をするか。
 この社会の情報産業化、知識経済化で注目すべきは、それらが従来の価値観を転倒させるものを持っていることだ。自分一人で研究を掘り下げるのではなく、情報をオープンにし、集団の力を総結集し皆の知恵をぶつけ合い、それを通して仕事を発展させていく。そこには従来の倫理観や価値観になかったものが生まれてくる。情報の私有や隠匿を悪だとし、蓄えることより与えることを美徳とする倫理観、競争よりも協力を大切にする価値観、等々だ。
 この社会の発展と一体の社会意識の高まりは、教育に単なる複合的で総合的な知的水準の高まりを要求するにとどまらない。新しい共同倫理、協力倫理の高まりに応じた新しい次元の教育を求めてくる。今日、日本の教育がこの新しい社会発展の要求に全く応えられていないところに大きな問題があると思う。

■教育現場から社会共同の事業として
 今日、日本教育を再生しようとすれば課題は膨大だ。「橋下・維新」は教育基本条例案を出し、安倍政権は「教育再生実行本部」なるものを立ち上げている。これで「再生」ができるか。できないのはすでに見た。
 ではどうすればよいのか。何よりも、社会の新自由主義化、新保守主義化、グローバル化を阻止し国のあり方を転換する国政レベルでの闘いが不可欠だ。そのためにも、教育の再生をめぐっての全国民的な大論議を巻き起こす必要がある。
 この教育再生大論争で重要なのは、真の教育再生のビジョンだ。日本の教育をこうするというビジョンもなしに、政府の教育政策を批判しているだけでは多くの国民の共感を得ることはできない。
 何事でもそうだが、ビジョンも主体からしか出てこない。鍵は、教育の主体、教育現場の建て直しだ。危機からの再生はここから始まる。
 事実、教育現場の再生に立ち上がった校長先生をはじめとする先生方は全国に広がっている。彼らはまず、授業におもしろさを求める生徒たちの要求に応え、教員集団でそれを研究し、社会問題を教える「よのなか科」で生徒たちを傍観者ではなく当事者にして考えさせている。
 一方、教育現場を学校に限らず、地域まで引き入れ、地域学校協議会を設け、学校を「コミュニティ・スクール」にして、教師が地域の人々と連携して、「実地体験」など、多様に愉快に教育活動を繰り広げるようにしている。高校では、普通科に加えて、「人間探求科」や「自然探求科」を開設し、大学院生を呼んでゼミ形式の学習を取り入れ、進学率を一気に高めた高校も出てきた。等々、おもしろい取り組みがいろいろとやられてきている。
 教育の危機は、このように教育現場から社会共同の事業として克服され始めており、それが新しい情報産業化、知識経済化社会の要求にも応える萌芽も秘めているのではないだろうか。
 教育の再生は日本の再生だ。だからといって、教育現場の闘いの延長に教育や日本の再生があるわけではない。教育現場の闘いから、教育再生、ひいては日本再生のあり方が見えてくる。底辺からの大衆的闘いが日本を変える、偉大な時代が近づいていると思う。



批評

世界を変える真のヒーロー

林 光明


 社会を変える原動力とは、強い危機感だと思う。日本社会の「民主主義」の存続に、湯浅誠氏の近著【ヒーローを待っていても世界は変わらない】は、その危機感のシグナルを出している。
 では、閉塞した末期症状日本の現状はと言うと、社会変革を望む民衆は、その原動力をヒーロー(切り込み隊長)に求めている、と彼は分析する。
 かつての「聖域無き構造改革」の流れを汲み、第一に、何が悪(既得権益)かを名指す力が必要、第二に、反対意見を無視する大胆さが必要、そして、物事を決める即断即決力が必要不可欠であると。
 それで選ばれたヒーローを気に入らない人は、"民意は違うはず。マスコミが作り上げた虚像だ"と批判する。だがそれは、格差・貧困問題がクローズアップされ始めた頃、これを認めない立場の人が「社会の極少数の現象を、マスコミが騒いで煽っているだけ」と否定したのと、本質的に同じ心性。
 ここで、現実に多くの人々の支持で当選したという現実から目をそらさず、その現実をどう変えるかの視点が大切なのである。確かに、格差社会を決定付けた小泉構造改革について、地域労組はじめ良識的な団体は、「日本の雇用終身形式の崩壊を招き、企業の論理で働く者は使い勝手にされる」と警鐘を鳴らし、そしてそれは現実化した。
 まさに、湯浅氏もこの惨状の最中に登場した屈指の本物ヒーローだが、あれほどの政治問題になったのに、 "聖域なき小泉行財政改革"の小泉元総理は英雄視され、今も時たま現状打破の勇者として映像が流される。民衆から見れば、英雄どころか悪役に近いはずなのに…。この現実と向き合い、どう変えるかの試みは恐らく実質的になされていない。「資本権力の配下≒マスコミが仕立てればヒーロー?なぜだ!」そう陥らない為に、どうすればよいのだろう。
 「あんなやつを支持する?到底考えられない」と思う自分と周囲、それは限られた少数であり、他の多数との意識の乖離の自覚がなければいけない。いくら否定しても、その自分たちに不都合な現実は消えない。例えば、この所トーンダウン気味の橋下大阪市長は、府民の多数によって選ばれたのは事実である。革新政党や労組がいくら非難を浴びせても、事実が現実なのだ。
 領土問題や靖国参拝問題が切迫しているこの時期に、わざわざ戦時の慰安婦制度の正当性を発言している今なら、ヒーローの資格?は貰えなかっただろう。彼の信奉者で、この発言を多少なり支持するのは概ね男性ばかりで、老若問わず、女性からは嫌悪感を持つ意見が続発中だからだ。しくじれば「ヒーロー」もボロを出す。しかしながら、彼の矛先は図らずも、アメリカ政府の問責にまで及んでいる。品位に欠ける思想性はともかく、"古い柵に切り込んで何とかしようともがく姿"にある種の勇気を感じ、ヒーローに見えるのかも知れない。
 ヒーロー待望の背景にあるのは、規制政治そのものへの嫌気と不信だ。それはかつての、政治家個々の不正やスキャンダル、政党の体質批判や派閥抗争から、今は与野党自体の幻滅や、国会、政党、中央政府にまで転換始めた。遂には、議会制民主主主義システムさえ、"スパッと決められない政治"のレッテルが貼られている。要は政治の信用失墜の中身に質的変化が起きている。それなら、また新ヒーロー出現を待てばいいのか・・・。
 これに対する答はNOだろう。こうなれば「誰か」は頼れない、「自分たちで決めなければ」と言う危機意識が大切だ。そこをハッキリ認識しないと、打開への前進が出来ないのである。
 《自分たちで決める》が常識になる時、切り込み隊長ヒーローの歴史は幕切れだ。その時のヒーローは私たち主権者だから、出来る課題は多くあり、勇気の心で行動しようと言う呼びかけは、地味でも、実は社会変革の最短距離のような気がする。
 熾烈な競争を強いられる社会に個人も社会も疲れ果て、閉塞感が漂う今の日本。より過酷な競争環境ではなく、人々を繋ぎ、その関係を再構築する仕掛けと工夫を自分たちが立案決定し、行動する時代がきている。国民大衆が意識を持って動くその姿こそヒーローであり、たちどころに世界は変わるに違いない。



宝塚市長選挙ルポ

兵庫侵出狙った維新の会

秋田好憲


 維新の会は大阪以外への拡大をはかり、兵庫県に目をつけた。まず、4月14日投開票の宝塚・伊丹両市長選挙に現職若手市議を立てた。同日に、市議補欠選挙ができるよう、事前に辞職して、両市に市議候補も立てて、一挙に4勝を狙ったのである。宝塚市などは維新と手を組むみんなの党を合わせると昨年暮れの総選挙で4万票近くを取っており、勝てると踏んだのだろう。市議補選も勝てれば、一挙に4勝上げられる。「橋下さんが街頭演説3回すればチンパンジーを立てても勝てる」と放言する維新関係者がいたくらいだから、勝算があったのだろう。あとは公務員叩きと、「現職の公務員寄りの姿勢」(実際には公務員寄りなどということはなく、職員にも相当な我慢・努力をしてもらったそうだ)をバンバン宣伝すれば良いとの「戦略」を事前運動からやりまくっていた。いつもながらの、何か敵を作り出して市民の憎しみをあおり、維新の会への票につなげるという「戦略(とも言えない薄っぺらなものであった)」。「現職は、汚職はしないが改革もしない」とデマビラを大量に配布し、宣伝車やスポット演説でも2分に1回以上は「中川市長は…」と悪口を言い、「共産・中川市政」などと事実無根のデマ宣伝を熱心にしていた。また、聞いていると、宝塚市の将来をこのように描きたい、というようなビジョンはほとんどなく、こういう悪宣伝をやればやるほど市民の反感が維新に向いていったと思われる。

■実績に裏打ちされた着実な票固め
 これに対し、中川陣営は同じレベルで言い合うことは極力避けた。陣営内で、おとなしすぎるからデマ宣伝が浸透するのでは?との心配が出たくらいである。率直な議論の末、「そんな事はありません。これこれの実績を上げています。よく見てお考え下さい」という宣伝物を作り、がなりたてるのではなく、辻ツジで、駅前で市民にじっくりと訴えかける戦法を実行し始めた。アルバイト風や、雇われガードマンが運動員という維新に比べて、「十人十色」と言うが、中川陣営は革新から保守系、趣味のサークルの女性達まで実に何十色とも思える多様な人達で事務所が毎日大賑わいの状態であった。それでも選挙戦終盤まで「勝利の確信」はつかめなかったのが実情である。しかし、マイクを握ることなど初めてという女性達が次々、手弁当で駆けつけ、手も声も震えているのに、自分はこう言う理由で中川さんを応援しています、と切々と訴える姿に立ち止まって聞く人が増えて来た。

■終盤でようやく勝利へ爆進。維新、さらに墓穴
 ここへ登場したのが維新の政調会長。「伊丹空港廃港!」それも市民の利益を考えてでなく、関空のジャマになるからということだから説得力ゼロ。阪神間に今度大地震があったら防災拠点となるべき伊丹空港に比べ、関空や神戸は沈下して使い物にならない可能性が高い。しかも「大阪都にするには大阪だけでは足りないので、神戸までの阪神間は入ってもらう」などとぶち上げた。これで侵略者の本質がはっきりしてしまった。「多少乱暴だが、橋下代表がこれを演説すれば喝采してくれるはず。」これが、維新の考え浅はかなところ。市民の反発は日増しに高まり、最終日の街頭演説などは、決して動員力が多いとは言えない中川市長のほうが、聴衆の数も質も維新・橋下を上回る状態となった。通行人も橋下氏の演説中に立ち止まる人がほとんどない状態。維新の候補は慌てて「空港や大阪都は議論しましょう」と言い繕いだしたが、橋下・維新の方針に逆らう者が候補になれるはずがない。言い訳が通用しないとみるや、だんまりを決め込み、長々しい演説のほとんどを公務員叩きと、「親・公務員の市長」なるデマ宣伝で終わり、ついに盛り上がりが作れずじまい、そこへ応援に駆けつけた橋下氏が、全く同じ趣旨の演説に終始して、その時の表情に敗戦色がはっきり出ていた。これを前哨戦として、兵庫県知事選挙、神戸市長選挙で勝利して、兵庫を制圧する、つもりであったのに見事に4敗=死敗した維新。結果として 総得票83759のうち43347票を取った中川市長が、23561票の維新の会・多田候補を打ち破り、2万近い差をつけて勝利した。伊丹は自公民社の現職市長が41267票で維新13041票をトリプルスコアで破った。
 しかし、油断は禁物。全く政策的反省をしない維新・橋下は新たな戦略でこれからも勢力拡張を図るであろうから、保守革新無党派まで広く手を結び、その野望を打ち砕かねばならない。



投稿 橋下・維新の教育論をめぐって

教育の主体は誰か?

O・M


 さて、橋下・維新の教育政策批判はその通りだと思います。新自由主義、グローバル化に適応するために個人の学力を、競争する力を高めるということはホリエモンをいっぱい作ろうということですね。
 グローバル教育改革運動(GERM)なる言葉は初めてです。
 何分の1秒のスピードで株価の変化を読み取り、利益をコンピューターで自動的に得ようという、電子の次元に人が翻弄されるグローバリズムはアメリカ的非人間性の極地ですね。
 それをもたらした情報産業化、知識経済化は、しかし従来の価値観を転倒させるものを持っている。と貴君が言われるのは、コンピューターを良く用いれば、情報をオープンにして集団の知恵が発揮できる、競争よりも協力を大事にする、蓄えるより与えることを美徳とする価値観を内包する等、否定的契機から肯定的契機に反転する弁証法みたいですね。
 なかなか魅力的な論です。
 それはいいとして、荒廃する教育の現場、休職者の6割が精神疾患という教師の苦悩、個人を大前提に家庭教育されてきた子供たちが社会性をいきなり求められ呻吟する生徒たちに何が大事か?
私は、教育の主体は誰か?がなおざりになっていることが大きいと思います。
 義務教育とは親の義務と規定されており、憲法26条には子供が教育を受ける権利をもつと規定されているのに、教育基本法には教育を選び取る主体としての子供の権利について触れられていません。
 私は、子供たちが自らが欲する教育を選び取る(小学校低学年では無理でしょうが)自由が保障されること、多様な教育メニューがあること、新自由主義的教育も抹殺しえない、社会主義的教育も選択肢にある、ことが理想です。ある時は競争を、ある時は助け合うことを学ぶのです。
 多様なメニューを用意し、選ぶことができるように、教育をする側が主体になってはならないのです。そうなると教育を受ける側は主体たりえないのです。
 しかし、生徒が主体として一人立ちできるというのも非現実的かもしれません。さすれば、生徒と教師が混然一体となって教育を進める、混然とした主体というのが現実的ではないでしょうか?  いい先生―生徒関係は混然とした主体というのにいいモデルを提示していると思われます。
 明治にできた制度をそのまま継承していることに無理があるというのが学校の現状を見てきた私の結論ですが、今回は中味の論議なのでその点の意見を言わせてもらいました。
 ではまた。



 

国際短信

 


 「再登場の安倍総理は、戦後レジームを排除したいと考えている。敗戦後、アメリカ占領軍が押し付けた平和憲法、リベラルな教育制度、それに安倍には全く馴染まない歴史理解などの排除だ。この歴史理解は、連合国が戦後、ドイツと同様日本を侵略国として断罪した東京裁判の否定につながる。」
 「安倍総理は日本政府が先に行った煮え切らない反省の姿勢も取り消そうとしている。つまり強制売春をさせるために20万もの女性を拉致した問題で1993年に日本政府が出した公式謝罪を見直すべく、日本軍が実際に慰安婦として売春を強制した点に疑問を発している」

(「シュピーゲル」英語電子版より)


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