研究誌 「アジア新時代と日本」

第12号 2004/6/5



■ ■ 目 次 ■ ■

時代の眼

主張 イラクの「民主化」と日本の民主化

研究 外資依存経済の危険性

評論 新しい組織、集団への模索

文化 浅田次郎「壬生義士伝」―濃密な「義」の世界の感動

朝鮮あれこれ ソンアム鍾乳洞を訪ねて

編集後記



 
 

時代の眼


 マルクス主義者だった廣松渉さんが亡くなってちょうど十年になります。日本にいたときには、一度講演を聴いたくらいで面識があった訳ではないのですが、当時から「森を見ずに木だけ見ていては駄目だ」式に「関係主義」を強調されていたのが印象的でした。
 その廣松さんが「近代の超克」を評価し、晩年には「日中を軸とした東亜の新体制を!それを前提にした世界の新秩序を!」といった問題提起をされていたと知りました。SENKIに荒さんの講演内容として載っていたのですが、廣松さんは、欧米中心の時代は永久に去りつつあるという認識のもと、「政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、文化においては自由主義の超克を意味」した戦前の「近代の超克」運動を評価し、今こそそれをやるときだと説かれていたようです。
 「近代」、すなわち「欧米」を、即、「デモクラシー、資本主義、自由主義」ととらえることについては、多々、異論はありうるでしょう。しかし、今こそアメリカの超克が問われているという認識への共感は十年前にも増して強まっているのではないでしょうか。
 そこで問題となるのは、理念と主体です。すなわち、どういう理念のもと、誰が主体になってアメリカを超克するのかということです。
 廣松さんは、当然のことながら、理念としてはマルクス主義、共産主義思想を考えておられたのでしょう。しかし、それが日本の今日的現実の要求に応え切れないのはかなり明白ではないかと思います。アメリカを超克するための指針となる理念は、やはりアメリカによる今現にある世界一極支配との闘いのなかで生み出されていかなければならないでしょう。
 この理念の創造と実践を担い、それを通して形成されていくのが主体です。アジアを重視し、アジアと一体にこの「超克」をやろうとするなら、当然、その主体は日本人民とともにアジアの人民が担うようになります。
 だが、戦前の「近代の超克」においては、「大東亜共栄圏」が言われながらも、日本人民、ましてアジア諸国人民は、その主体ではありませんでした。主体どころか、あくまで歴史の対象として、虫けら同然の存在でしかありませんでした。
 今日、アメリカを超克しようとするなら、その前に、戦時中、軍国主義と戦争を擁護した「近代の超克」自身を超克することが問われています。主体の問題は、そのための最も中心的な問題だと言えるでしょう。


 
主張

イラクの「民主化」と日本の民主化

編集部


■「アブグレイブ」の本質
 アブグレイブ収容所でのイラク人収容者にたいする虐待が暴露されました。死にいたる拷問、イスラム教徒が汚れたものとして嫌う犬をけしかけ、肉体的苦痛を与えるための虐待の数々、言葉にするのもはばかられる性的虐待・・・。
 ブッシュは、それが単なる一部の兵士の偶発的な行為であったかのように言いつくろい、その責任を兵士になすりつけ、幾人かの兵士を軍法会議にかけることでイラクの人々の怒りを鎮めようとしました。しかし、その後、こうした行為が国防長官であるラムズフェルト自身の「肉体的苦痛と性的はずかしめによって反抗心をなくせ」という指示によって行われた国家的犯罪であることが明かになりました。
 イラク戦争でいわれた「恐怖と衝撃」、そしてアブグレイブ収容所をはじめとする各地の収容所で行われた「肉体的苦痛と性的はずかしめ」。人間の尊厳を踏みにじるこうした蛮行を聞くと、ブッシュやネオコンが自らをなぞらえる古代ローマ帝国のことを思い出します。
 彼らは征服戦争において「恐怖」を植えつけるために意図的に「殺しつくす」作戦をとったといいます。そして征服地を属州にして住民を奴隷にし、その中から選抜した者を「剣闘士」にして互いに闘わせ、あるいはライオンと戦わせて楽しんだと言います。また母や后、弟を殺しキリスト教徒を虐殺した暴君ネロや性倒錯的な蛮行の数々で有名なカリグラ帝。まさにローマ帝国では「肉体的苦痛と性的はずかしめ」が日常的に行われていました。彼らは、人間の尊厳を踏みにじることによって人々の反抗を抑え自らがローマ世界の主人であることを確認しようとしたのでしょう。
 何の根拠もなく他国を攻撃して恥じぬ大統領、「恐怖と衝撃」など「圧倒的武力」を誇示する軍部、「肉体的苦痛と性的はずかしめ」を指示する国防長官。そして、拷問死したイラク人のそばで「笑顔でポーズ」の記念写真を撮ったり、虐待の様子を「ビデオ日誌」につけていたという女性兵士の話などなど。それはまさに自分たちが世界の主人であり、他国の人間は奴隷としか見ない者の傲慢さと精神的荒廃を示すもの以外の何ものでもありません。「アブグレイブ」はそれを如実に示しています。

■イラク「民主化」とアブグレイブ
 大義なきイラク戦争。「フセインがアルカイダをかくまっている」「大量破壊兵器を隠しもっている」などと戦争の口実を二転三転させた米国が今、口にしているのは「イラクの民主化」です。
 民主主義とは、文字通り民が主人・主体となる政治です。民が主人になるということは人々が人間的尊厳をもち、それを互いに尊重するということです。そのイラクの人々の人間としての尊厳を踏みにじっておいて何が「民主化」でしょうか。「アブグレイブ」の事件は、米国のやっていることが「民主化」とは正反対のものであることを雄弁に物語っています。
 「フセインが倒されたのは1年も前のことだ。戦争を続け息子を殺し何が民主主義だ。そんなものはいらない。もう米軍は出て行ってくれ」。バグダッド郊外のサドルシティで何の理由もなく高校生の息子を米軍に殺された父親の言葉は、ファルージャやラジャフで米軍の攻撃を受け家を失い親族を殺された多くのイラク人の共通する思いでしょう。いや、それは根拠もなく戦争を仕掛け、いまだに占領を続ける米国に対する全イラク人の思いではないでしょうか。
 ブッシュは最近、あくまでもイラク「民主化」を成し遂げる決意を表明しながら、「石油資源の豊富な中東地域でテロリストが支配する国が出現するのを許さない」としてアフガンから北アフリカまでの地域を「民主化」するという「拡大中東構想」なるものを発表しました。
 この「構想」こそ、イラクの「民主化」とは、イラクを押さえ、中東を押さえ、石油を押さえ、さらには、その矛先を朝鮮やアジアに向け世界の一極支配を何としても維持・強化するためのものであることを明白に示すものではないでしょうか。
 人間の尊厳を平気で踏みにじることができるのは、イラク人を奴隷としか見ていないからです。そうした者による「世界一極支配構想」、それは全世界の奴隷化構想だということができます。

■日本の「民主化」とは何だったのか
 イラクの「民主化」について、米国は戦後日本の「民主化」をモデルにすると言っていました。日本の「民主化」とはいったい何だったのでしょうか。
 イラク戦争での「恐怖と衝撃」について、米軍は「圧倒的な軍事力による破壊と動揺をさそう心理作戦の結合によって広島長崎と同じ心理的打撃を与える」と言っていました。となると、広島長崎への原爆投下は、日本人に「恐怖」を味あわせるためのものだったということではないでしょうか。
 実際、日本の敗戦について、「米国と戦ったのが間違いであった」という言説が横行しています。あの技術力、経済力をもった米国と戦って勝てるはずがなかった、それを当時の軍部が神がかりになって勝てるなどと盲信し米国と戦争をしたのが間違いのもとであったというわけです。
 それは、原爆に代表される米国の軍事力への恐怖、畏怖心の現われだといえます。「どんなことがあっても米国には楯突かない」「米国あっての日本」という考え方、日本の支配者階級、為政者に特有の崇米、恐米思想は結局、米国の強大さ、核を中心にした軍事力への幻想と恐れだということができます。
 米国はこうして、米国の言うことは何でもハイハイと卑屈に受けいれる人間的尊厳もなにもない対米屈従分子を作り、彼らを通じ日本および日本国民の尊厳を踏みにじってきました。
 米国が日本国民の人間的尊厳を踏みにじっているというとき、もう一つの重要な内容は、日本人から自分の国と民族を愛する心を奪ったことです。
 米国は戦争の責任を旧軍部のせいにすることによって愛国とは軍国主義であるかのように説き、軍国主義と対比させながら米国式個人主義を浸透させていきました。そしてグローバリズムや市場万能主義の流布は、極端な個人利己主義を蔓延させ国と民族を愛することが何か古めかしく反動的かのような風潮を作ってきました。
 こうした土台の下、イラク戦争の「恐怖と衝撃」はどの国よりも日本を直撃し「従属国益論」とでも呼ぶべき奇怪な国益論が蔓延するようになりました。イラク戦争後、作曲家の三枝成彰氏は「米軍の圧倒的な軍事力を目の前にした今、私たちが問われているのはアメリカの前に、他の国は果たして主権国家たりうるのかという現実である・・・日本はアメリカの優秀な『家来』をめざせ」(中央公論2003年7月号の特集「あなたにとって国益とは何か」)と言い、民族派論客として「反米的」であるはずの福田和也氏がネオコンの論客の一人であるロバート・ケーガンの著書「強さと弱さ」を引用しながらリバイアサン(怪物)になった米国にはもう抵抗できないと説き、「日本の誇り」とか言っていた「新しい教科書を作る会」も従属国益論を唱えています。
 それは、「米一極支配の下でどう生きるかが各国の国益である」というネオコンのご託宣に従い日本を米国の世界一極支配の手先にしファッショ化させて、日本の尊厳、日本国民の尊厳を踏みにじる売国的行為と言わざるをえません。

■今、日本に問われていること
 「アブグレイブ」が見せたもの、それは米国式民主主義の押しつけが人間の尊厳を踏みにじり、それによって人類を奴隷化しようという悪臭放つ醜悪なものであるということです。そして、それ自体は、人間の尊厳を踏みにじり、それを快楽にするという精神的荒廃の果てに滅んだローマ帝国のように、アメリカ帝国もまた滅亡の道をつき進んでいることを示しています。
 日本は、今、米国式民主主義ではなく、皆が政治の主人となって人間一人一人の尊厳を尊重し、日本の尊厳を守っていく民主主義、そのことによって他国の人々が自分の国の尊厳を守り、自分自身の尊厳を輝かせていこうとする心をわかり尊重する、そのような民主主義を実現していかなければならないと思います。
 そのために重要なことは、崇米恐米の精神的拘束をかなぐり捨てることです。
 時代は流れ、もはや米国が世界に君臨する時代ではありません。いくら「恐怖」を世界に振りまいても世界は離米多極化の方向に進んでいます。とりわけアジアでは、ASEAN諸国によるアジア共同体構想が進み、中国、インドもこれに合流しています。
 彼らは力を合わせることで、かつての「崇米恐米」思想を克服しており、それによって、離米多極化はますます力強さを増しています。日本もこの流れに合流しながら崇米恐米を克服し、真の民主主義を自らの力で作り出していくべきです。


 
研究

外資依存経済の危険性

小川 淳


 東証一部の売上高は2月以降、連続して10億株を超え、これまでの連続記録を更新した。4月にはバブル当時の最高売買高28億株の記録も突破、売買高も1兆円が常態化している。
 ここ10年、出口のない景気低迷で漂流してきた日本経済に、本格的な景気回復の兆しが現れた結果なのか、経済界にも経済先行きに強気の発言が目立つようになった。
 確かに、03年4月で236兆円だった東証一部の時価総額は、一年後の今年4月には366兆円、55%も増加した。株価が上昇すれば、企業の資産は増え、不良債権は減り、企業や個人マインドも設備投資や消費拡大に向かう。
 ところが、過去一年間の時価総額増加分の約10%は外国人投資家によるもので、株価上昇の主役は他ならぬ外資なのである。この10%のインパクトがいかに大きいかは、昨年、国内法人が7兆円、個人は1・6兆円売り越しだったにもかかわらず、最高の売買高を記録した事を見ても明かだ。国内分売り越し分のほとんどを外国投資家が吸収した。
 日本市場の異変は、株式市場への巨額な外資の流入に留まらない。株式市場への流入と共に、外資による日本企業の買収と市場支配が着々と進んでいる。
 米投資会社リップルウッドは、日本長期信用銀行の買収を手始めに、日本コロンビア、宮崎シーガイア、旭テックなど、経営破綻した日本企業を次々と買収し、日本向け投資ファンドは昨年一兆円を超えた。「日本の企業は焼き菓子にたとえると砂糖がない状態だ。われわれが加えればすばらしケーキになる」と言ってはばからない。
 今年1〜3月期M&Aは57件、昨年同期の2倍になった。外資に買収されたダイエーを初め、クライスラー・ベンツが支援を放棄した三菱自動車の筆頭株主に米投資ファンドが躍りでたり、産業再生機構に再生を委託したカネボウの売却先に外資が予想されるというように、日本の名門企業が次々に外資の軍門に落ちていく。
 日本市場を徹底的に自由化して外資を積極的に導入、日本経済の活性化を計るという構造改革路線は、確かに狙い通り巨額な外資の参入を生みつつある。しかし、この外資依存が本当に日本経済の再生と活性化につながるのだろうか。
 破産した日本長期銀行を12億円で買収したリップルウッドは、7兆円もの公的資金を投入させ、無慈悲な「貸し剥し」をして「経営健全化」を果たして再上場し、2兆円もの利益を生んだという。
 商法改正によって06年には外国企業と日本企業の株式交換が可能となる。外資は現金を使わずに日本企業を買収できるようになる。三菱東京でさえ株式時価総額は5兆円弱。米シティーグループ27兆円、英HSBC16兆円に比べても資金量では太刀打ちできない。結局資金量の豊かな外資が日本市場を支配するのではないかという懸念も広がっている。
 欧米メジャーの日本市場への参入と支配力は今後ますます強まるだろう。問題は、この外資依存が日本経済に何をもたらすのかだ。
 「我が亡き後に洪水よ来たれ」。資本家は、その本質において国や社会に責任を持てないものだ。だが、そのうえで外資と「内資」とでは明らかに異なる。「内資」が自国社会に一定の責任を持たざるを得ないのに対し、外資にはそれが全くない。純粋に利益が目的である。そして目先の利益がある限りは、投資も続くが、一旦、利益がないと撤収するのもまったく自由だ。
 外資が日本企業の再建に乗り込むのも、従業員や地域経済を考えてではないことは明らかだ。突然の首切りやレイオフ、能力主義による激しい競争、雇用に関しては何の保証もなく、従業員に対して極めて過酷だ。
 仮借のないM&A、悪徳非道な脱税行為など、そこには自分の社会、集団、共同体に対する成員としての道義や思いはかりといったものが、当然のことながら微塵も有り得ない。
 このような外資にべったり依存して経済再建を失敗した国の実例は多い。日本経済がその轍を踏まないと誰が断言できるだろうか。


 
評論

新しい組織、集団への模索

魚本公博


 人間を利己的存在と見る市場原理の導入によって、今日、あらゆる集団が破壊されていっている。しかし、社会的存在である人間は、集団をつくり互いの共同的関係の中で生きることを求める。
 こうした中、「コミュニケーションが組織を作る」という説が出ている。西垣通(東大大学院教授)氏などが主張しているものだが、彼は「我々の社会や組織を『意識をもった個人の集まり』ではなく、無意識をふくむ複雑精妙なコミュニケーションが実行される『情報システム』と見なした方がいい場合もあるのではないか」「『生成消滅するコミュニケーションが社会組織を作る』と考えることもできる」と言っている。
 実際、インターネットを媒介とした「バーチャル家族」や「ネットなつながり」などの現象、世界最大の掲示板で、1日に2000万〜3000万のアクセスがあるという「ちゃんねる2」現象などが人々の連帯志向、集団志向として注目されている。
 しかし、これをもって「コミュニケーションが社会組織を作る」と考えるのはどうだろうか。それはあくまでもバーチャルな関係にすぎないだろう。
 氏の問題意識は「近代的個人の絶対視が自己責任に基づく無制限の市場原理と結びつくと恐ろしいことになる。人々の連帯感や公共心は根こそぎ破壊されてしまうのだ」というところにある。しかし、バーチャルな関係では、この問題解決は氏も言うように「自分が他者と・・・つながった情報流の一部だと考えることも、一種の処方箋になるような気がする」と、心理療法的な処方箋で終わってしまうのではないか。
 人間の社会組織を作り動かす主体はあくまでも人間である。だからこそ、人間の社会組織では互いを愛し信頼し自分個人よりも皆のこと社会や組織のことをまず考える心の関係が重要になり、それを意識的なものとして強化しようとするのではないだろうか。
 バーチャルな関係ではなく、人々が人間主体となった愛と信頼の実体ある組織、集団を求めていることを見て、そうした組織、集団を実質作っていくことが重要だと思う。


 
文化

浅田次郎「壬生義士伝」―濃密な「義」の世界の感動

若林盛亮


 映画で話題を呼んだ浅田次郎の「壬生義士伝」は、ひと味ちがう新選組もの小説だ。
 新選組きっての剣客といわれる沖田総司、斉藤一、永倉新八よりも凄腕とされた吉村貫一郎という隊士が主人公だ。彼はただひたすら給金を蓄え、すべてを妻子への仕送りに当てる。仲間からは武士の風上にも置けぬ守銭奴と陰口されている。脱藩の理由も「尊皇攘夷の大義」ではなく、わが妻子を餓死から救う「出稼ぎ」だ。
 そんな主人公のどこが義士なのか。彼は、北辰一刀流免許皆伝、南部藩校助教という秀でた才がありながらも、藩内ではどうあがいても禄高、二駄二人扶持の足軽同心だ。凶年続きの中、一家餓死の危険が具体的に迫っている。脱藩をもって身を捨てて妻や子を救う吉村の「出稼ぎ」、それは妻子への義を果たす義人の行為とこの小説は描く。
 吉村は、新選組として鳥羽伏見の戦いで深傷を負い、たどりついた藩の大阪蔵屋敷で壮絶な切腹死をとげる。その後、彼の長男、嘉一郎は、単身、蝦夷地に渡り五陵郭での薩長官軍との戦いに自らの死に場所を求める。それは自分たち母子を救うために脱藩までした父への義を果たすための義挙−父を「ひとりぼっちで三途の川を渡すわけにいがねがんす」からであった。
 また鳥羽伏見戦後、大阪蔵屋敷を訪ねてきた新選組隊士である吉村に、その友、大野次郎衛門は、幕府か薩長か藩論が定まらぬ中、藩差配役として切腹を命じざるをえなかった。大野は、その後の奥羽戦争で「薩長は断じて官軍にあらず、会津討つべからず」と「錦の御旗」を恐れる藩論を覆し官軍側についた秋田を討ち、その罪で「朝敵」となり切腹さえ許されず斬首の恥辱を甘受する。彼なりの心の友、吉村への義に殉ずる義挙であった。
 大野は、処刑前、訪ねてきた自分の息子に吉村の長女みつの世話を託し、後に彼らは結ばれる。また、吉村の次男を官軍の迫害から守り生かすため、越後の豪商の養子に送る。父と同じ貫一郎の名を継いだ次男は、維新後、農業博士として「もう誰も飢えさせない」強い稲を故郷にもたらす。
 「人でなしの侍よりお恥(しょ)す武士になる道」を選んだ吉村と大野、いずれも幕末の負け組の義士道−父母妻子や親友、故郷への恩義に応え、愚直なまでに義に殉じる自己犠牲の義挙の道。しかしそれは、次の時代、その義を継ぐ子孫によって豊かな実りを見せる。
 幕末の勝ち組の政治、日本の第一の開国政治が「脱亜入欧」、「近代」の名の下に切り捨ててきた日本人の愚直なまでの義。合理と効率が最優先され、「強い米国に従うが国益」というドライな第三の開国政治に進むいま、損得勘定を越えた濃密な「義の世界」を提示したこの小説が発する感動は、義の復権への強い衝動ではないだろうか。


 
朝鮮あれこれ

ソンアム鍾乳洞を訪ねて

田中協子


ソンアム(松岩)鍾乳洞案内図

 5月中旬、平安南道ケチョン市にあるオープンしたばかりのソンアム(松岩)鍾乳洞に行ってきた。ピョンヤンから妙香山行きの高速道路を2時間ほど走りヨンプン湖(人工湖)を眺めるチョルソク峰の麓に至る。入り口の駐車場には多くのバスが並び、団体客が入場を待っていた。入場料(外国人は10ユーロ、国内の人は80ウォン=約70円)を支払い、黄色い安全帽を着用する。いよいよ入洞だ。最初は下るようにして数十m進む。中に入った途端、ひやっとした冷気が肌を包んだ。上着を余分に着てきて良かった。
 鍾乳洞は全長2Km、約10カ所の洞を入り口から103mの高さまで2時間ほど登りながら巡る。また洞内は白や薄茶の鍾乳石の原色が際立つように強い照明でライトアップされている。この自動照明装置は金策工業大学が開発したという。
 最初の広門洞では道祖神のようなかわいい石筍が私たちを迎えた。洞内を進むにつれ千態万象の石柱や石筍、石灰華柱がつぎつぎと展開する。「末っ子滝」、おいしそうな「蒸しパン」や「ソバ」もある。ポッポドン(滝洞)では長さ6mの滝が流れ落ち、下の池で20センチほどのニジマスが泳いでいる。洞ごとに魚類、鳥類、樹氷、北斗七星などに見立てられた無数の石柱があるが、中には男女の「?」に似たのが天井から下がり、ガイドの娘さんが「みなさんのはどこにありますか?」と言って皆の笑いを誘った。さっき、前の団体が笑っていたのはこれだったのかと納得。中間の広場は「宮殿洞」とよばれスロープを描く階段に白いコンクリートの欄干が据え付けられていておどぎ話の宮殿のようだ。こんなロマンチックな鍾乳洞を人民軍の無骨な青年たちが発掘建設したと聞いて驚いた。また、洞内には鍾乳石が結晶してできた霧氷のような石の花が無数にありきらきら輝いてとても美しいが、青年たちはこの石の花を傷つけないようにノミとハンマーだけで40m掘り進んだこともあったという。彼らが上方の洞を見つけた時のことだ。なんでもその下の洞を掘っているとき休憩して一服したが、タバコの煙が上に抜けていることが分かった。それで煙の抜ける方向にどんどん掘ったら新たな洞が出現したという。
 ソンアム鍾乳洞の建設が始まったのは8年前の「苦難の行軍」の時。食料や工具も不足していた頃だからきっと骨が折れたと思う。いつか人々が笑って参観する、そんな日を思い描きながら掘り進みコースを築いた朝鮮の青年たちの楽天的な姿が瞼に重なった見学でもあった。


 

編集後記

魚本公博


 小泉首相の再度の訪朝、朝日新聞世論調査によれば67%の支持だとか。これだけ反共和国の雰囲気が高まっている中で、おどろくべき数字だと思います。「敵対ではなく友好を、対決ではなく協力を」という精神が支持をえたのでしょう。
 それにしても、訪朝前にもブッシュと連携をとり、帰国後やたら「ブッシュ大統領に知らせます」と言う首相。それだけならまだしも、これが野党を黙らせる「殺し文句」のように使われているということ、そこに日本の恐米病の根の深さを思わずにはいられません。
 確かに米国は怖い、しかし、それを乗り超え世界が自分たちの精神で生きていこうとする志向を強めているとき、日本もそろそろ胆の固めどきが来たのではないでしょうか。


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