中国の台頭、いつ戦争が起きてもおかしくないほど緊張感が漂う朝鮮半島、領土をめぐる韓国、中国との対立など、北東アジアが揺れている。
領土問題は歴史をひも解くと常に紛争や戦争の火種となってきた。英国とアルゼンチンが実際に戦火を交えたフォークランド紛争は記憶に生々しい。日中の対立が尖閣諸島をめぐってあっという間に激化したように、領土問題は引火しやすい爆発物のようなものだ。
今なお冷戦構造が残る北東アジアで、領土を含む対立を乗り越え、いかに平和で安全な地域へと転換していくのか。これこそが21世紀のアジアが直面する最大の課題に違いない。
紛争を抑え、対立を解消する一つの方法は力による秩序の維持だとこれまでされてきた。まさに冷戦時代がそうで、米ソの超大国による覇権によって平和は維持されてきたと考えられている。しかし、超大国が消滅したこの21世紀に、覇権による平和の維持ははたして可能なのかどうか。米軍の軍事的プレゼンスに依って極東アジアの平和を守る―戦後、日本の安全保障はこの日米安保体制に依存してきた。ますます不安定を強める極東アジアだからこそ日米同盟をさらに強化し、日米の軍事力、覇権の力で秩序を維持するというのが安倍政権の基本的考え方だ。果たしてそれでアジアの平和と安定は築けるのだろうか。
冷戦の対立を乗り越え、地域の安定と安全保障体制を築き上げた好例がEUだ。かつてのような戦争が今のヨーロッパで起きることはもはや考えられない。このようなヨーロッパの変化は覇権の力によってもたらされたわけではない。むしろ逆だ。米ソという超大国による覇権の支配がなくなり、覇権的な考えから脱する事ができたからこそEUは「一つ」になれた。
今や北東アジアをめぐって二つの考えが錯綜している。覇権による平和なのか。それとも脱覇権のEUのアジア版「東アジア共同体」なのか。覇権による平和では、北東アジアから冷戦の対立や領土問題を解決していくことはできない。現下の事態がそれを証明している。対立が渦巻くアジアで残された方法は、アジアにEUに匹敵するような「アジア共同体」を作る出すことである。
岡倉天心が「アジアは一つ」(明治36年)と叫んでから110年が過ぎた。当時は「壮大な夢」に過ぎなかったが、今や「夢」ではなくなった。アジアでは対立が渦巻くから不可能ではなく、だからこそ必要なのではなかろうか。日本に問われているのはその構想力である。
主張
■避けられたTPPの争点化
3月16日、安倍首相がTPPへの交渉参加を表明した。
TPPについては国民の間で反対の声が多く、自民党の支持基盤である農業団体、医師会などが強い反対の意思を表明してきた。それ故、衆院選挙でも「聖域なき関税撤廃を前提とする限り、TPP交渉には参加しない」と公約し、選挙ポスターには「ウソつかない! TPP断固反対! ぶれない」と刷り込むなど、「TPP断固反対」かのような印象をふりまいた。
しかしTPP参加は、米国の要求であり、親米自民党政権がそれを拒むことなどできない。そこで演出された2月訪米時のオバマ大統領の「聖域なき、ではない」発言。そして、マスコミを通じての「安倍外交の勝利」「戦後初めて国家と国家の関係になった」など、まるで対米自主外交かのような賞賛。
それでも安倍首相は慎重だった。帰国後ただちに交渉参加表明するだろう、との大方の予想を裏切って党内反対派の説得を行った。そして施政方針演説、そこでは、TPPには一切触れず、「攻めの農業」「美しい瑞穂の国を守る」とか「世界に誇る国民皆保制度」などという反対派を意識した美辞麗句を並べ立てた。参加表明の記者会見でも「攻めの農業」や「国民皆保を守る」ことを強調している。
以上を見て分かることは、安倍政権にとってTPPは難問題であり、非常に神経を使わざるをえない問題だということだ。
集団的自衛権を行使できるようにせよという米国の要求に応え改憲を実現するためには衆院選に続き参院選でも大勝利しなければならない。そのためには、経済に集中し、国民の多数が反対する改憲は封印するというのが安倍首相や自民党の方針であることは周知の事実である。
そうした安倍政権にとって、TPPも争点化したくないというのが本音だろう。しかし、それはできない。そこで日米合作で作り出された「聖域なき、ではない」とのオバマ発言だったのだ。
■広く強いTPP反対の声
TPP反対の声は広く強い。それは、TPPに参加すれば、日本は滅びるという次元での悲痛な叫びにまでなっている。
今行われているTPP交渉では、21の分野で米国が自国のルールを他国に押し付けるものになっている。したがってTPPに参加するということは、日本の国情に合わせて作られた日本独自の経済的な諸制度、システム、安全基準などが全て米国式に変えられ、そうなれば日本の経済は米国経済に完全に組み込まれ、もはや独立国の体をなさないまでになってしまうだろう、ということなのだ。
これについては、多くの人が述べている。ここで、それを詳細に述べることはしないが、懸案の農業、医療だけを見てもひどいものがある。
農業では政府の試算でも、全体で3兆円の損失が生まれ、コメ、砂糖、小麦、牛乳・乳製品、牛肉や豚肉も高級品や銘柄品以外はすべて外国産になってしまうと予想され、食糧自給率は14%にまで落ちる。食糧は米国の戦略物質であり自給率14%になれば日本は米国に完全に牛耳られるようになる。狂牛病、遺伝子組み換え作物、水銀消毒された輸出穀物、農薬まみれの農産物、それで食の安全は守れるのか。
医療について言えば、米国は国民皆保制度を問題視し医療の市場化を要求している。しかし当の米国では格差拡大の結果、保険にも入れず病気になっても病院に行けない人たちが激増し社会問題化している。それに加えて医療器具や薬の安全基準や販売規制が米国化されれば医療や薬剤の安全性も低下する。そればかりではない、医療基準の米国化は米国医療会社の日本進出を促進する。この米国会社の日本進出は医療だけでない、安倍首相が唱える「成長戦略」「教育改革」「攻めの農業」などにも、そのことが予定されているということだ。
保険に関連しては、米国は郵政傘下のかんぽ保険の活動制限を要求し、郵政株の政府所有も問題視している。これは準国営のようなかんぽ保険が大きくなっては困るということであり、郵政がもつ数百兆円のカネを市場に開放して米国も使えるようにせよということだ。
まさにTPPは、米国が日本経済を完全に組み込こみ、その富を吸い上げ、思いのままに使えるようにするためのものだ。
■TPPの狙いは米国覇権ための日本の先兵化
TPPは単純な日本経済の米国経済への組み込み、米国化ではない。日本を先兵に東アジア経済共同体に敵対し、米国覇権の世界的な再構築を狙ったものだ。
米国は、今、「アジア重視戦略」を掲げ、東アジアでの軍事的プレズンスを強化し、この地域に米国覇権型の自由貿易圏を形成することで、アジアの覇権を回復し、それによって世界覇権も回復することを妄想している。
アーミテージ・ナイ報告で、日本が集団的自衛権を行使できるようし、米国の対アジア軍事行動の先兵になることを要求しているのもそのためであり、TPPを持ち出してきたのもそのためである。
アジアでは、東アジア共同体構想が進んでいる。この共同体は、主体であるASEAN諸国が、その参加資格にバンドン精神を受け継いだTAC(東アジア友好協力条約)の締結を義務付けているように、主権尊重を基本原則にして互いに助けあう「自主と協力」の共同体である。すなわち、覇権とは正反対の脱覇権自主の共同体だということだ。
しかし、このようなものが出来れば、米国のアジアでの覇権回復構想は潰える。それ故、米国はこれまでも東アジア共同体構想に反対しこれを妨害してきた。アジア太平洋自由貿易地域構想(FTAAP)の提唱もそのためである。そして日本は、こうした米国の意向に沿った動きをしてきた。2003年にASEANが日本にTACの締結を求めてきた時、外務省は、そんなものを結べば米国が黙っていないと反対したし(2004年に締結)、東アジア共同体構想に域外のインド、オーストラリア、ニュージランドを参加させ米国関与の余地を残そうした包括的経済連携(RCEP)を提唱するなどしてきた。
しかし、こうした妨害にもかかわらず、域内協力を深めて経済を発展させたASEAN諸国は、2015年にSEAN共同体を結成することを決定した。中国なども、それとの連携強化に動いている。日本もその可能性はある。事実、民主党の鳩山政権時にも「東アジア共同体構想」を提唱して、これへの合流姿勢を示した。
こうした状況に危機感を抱いたオバマ政権が唐突に持ち出してきたのがTPPである。米国は、ASEANの一部や日本を東アジア共同体構想から引き離すことで、「東アジア共同体構想」を潰そうとしているのだ。
改憲―集団的自衛権の行使容認が米国の要求に従って日本を軍事的に東アジアの脱覇権自主の動きに敵対させるものであるとすれば、TPPはその経済版なのである。
そうなれば、日本はどうなるか。東アジア共同体から引き離され、脱覇権自主と軍事的に対決する道。しかし、米国経済に組み込まれ米国化した日本は、そうした米国の要求を自らのものにして突き進むしかなくなる。そして最後は戦争、日本はその矢面に立たされる。まさに、それは日本亡国の道である。
■TPPを参院選の争点に
TPPによって日本は米国経済に完全に組み入れられ、その富を米国に吸い尽くされる。そればかりでなく、東アジア共同体作りから引き離され、アジアの脱覇権自主に敵対する米国の軍事戦略の先兵にされる。
このようなとんでもないものを受け入れて、交渉参加を表明した安倍政権にとって、TPPはアキレス腱である。だから安倍政権は、「交渉参加では断固、国益を守る」と、交渉であたかも対米自主であるかのかのように糊塗して、TPPそのものが争点化されることを極力避けようとするだろう。
TPPこそ、安倍自民党の大勝を阻止する重要なカギである。TPP論議を大いに巻き起こし、これを参院選の大きな争点にしていくこと、それによって自民大勝を阻止し選挙後の改憲反対にも有利な条件を作っていくことが今、切に求められている。
議論 「橋下・維新」の安保政策批判
米一極支配の崩壊にともない、日本の安全保障についても見直しが盛んだ。その一つである「橋下・維新」の安保政策を検討しながら、今求められる最強の日本安保は何か、考えてみたい。参院選のもっとも重要な争点の一つは、まさにここにあるのではないか。
■「橋下・維新」の安保政策とその背景
「日米同盟の深化」。「橋下・維新」の安保政策は、一言で言って、そう言えると思う。事実、去る衆院選で「維新」は、安保政策として第一にこれを掲げた。だがそこで、「深化」とは何か、どうすることなのか。それに答えるかのように、「維新」は続けて、集団的自衛権の行使を安保政策として挙げた。この問題について橋下氏は、「行使のできない保持など意味がない」と政府による憲法解釈の変更を求めながら、同盟国(米国)が攻められたとき、集団的自衛権を行使し、武力をもってその国を守るのは憲法九条に抵触しないと強弁した。さらに続けて「維新」は、安保政策として防衛費枠1%の撤廃や自衛隊武器使用基準の見直しなどを挙げたが、これも、「日米同盟深化」の内容だと言ってよい。武力を増強し行使できるようにして、「同盟の深化」を図るということだ。
この「橋下・維新」の安保政策は、安倍・自民党のそれとほぼ軌を一にしている。「日米同盟の深化」と「強化」、「集団的自衛権の行使などを定める国家安全保障基本法の整備」と「制定」など表現まで酷似している。さらに、自衛隊武力の増強とその行使基準の見直しに対し、憲法改正による自衛隊の国防軍化だ。「維新」の憲法政策、「自主憲法制定」まで併せて見ると、両者の間には何も異なるところがない。
「維新」と「自民」のこの一致の背景には、日本を取り巻く安全保障環境の変化とそれをめぐる共通の認識がある。それは、絶対的強者だった米国が日本の安全保障に義務を負う一方、日本には米国を守る義務がなかった「片務性」はもはや許されない、今やその強さが相対的なものに低下した米国の安全保障に日本も義務を負う「双務性」が求められているという認識だ。
■現時代をどう見るか、それが決定的だ
「片務性」から「双務性」へ、この日米安保の転換でその根拠にされているのは覇権国家、米国の弱体化とその覇権の崩壊だ。
問題は、この「崩壊」をどう見るかだ。米一極覇権の崩壊に基づいて日米安保「双務化」の必要性を説く安倍・自民党や「維新」は、この「崩壊」を米一極覇権の時代から覇権多極化、それにともなう覇権競争の時代への転換と見ている。すなわち、これまで米一極覇権の下、日本が庇護を受けるだけだった時代から、米国による覇権を日本が支え、その下で日本も覇権競争する時代への転換だということだ。
米覇権の崩壊にともなう覇権競争にはいろいろあり得る。崩壊した米国覇権を再構築し、あくまで米覇権の下、地域大国間の覇権競争をすることもあれば、中国など地域大国と組んで米国と覇を競う覇権競争もあり得る。
そうした中、安倍・自民や「維新」が想定する覇権競争が前者であるのは言うまでもない。と言うより、米国によって押しつけられ、「自民」、「維新」などがそれに従う覇権競争が前者になるのは当然だということだ。昨年八月、アーミテージ・ナイ報告が発表され、「強い日本」への勧告がなされて以降、右向け右の雪崩を打った日本政治の流れは、そのことを白日の下に晒している。
この「報告」で求められたのは、何よりも日本による集団的自衛権の行使だ。すなわち、米国が敵国による攻撃を受けるとき、日本がそれを共同で防御する国になってくれということだ。これは、言い換えれば、米国との共同覇権国家になるよう促す日本への呼びかけであり、より本質的には、日本が米国覇権の「先兵」になるようにとの「命令」だと言うことができる。
なぜそう言えるか。それは、今米国が推し進めている日本における米軍再編を見れば明らかだ。米陸軍第一軍団司令部の座間基地への移転とその下への陸上自衛隊中央即応集団司令部の併設、横田基地の米第五空軍司令部の下への航空自衛隊航空総隊司令部の併設など日米の軍事一体化は、どこから見ても、自衛隊の米軍への組み込みであり、その「先兵」化に他ならない。
覇権競争の時代というこの時代認識に基づく日米安保の「双務化」が、実は米国覇権のための日本の「先兵」化であり、それが日本の安全を著しく損なうもっとも危険な道になるという判断こそが、今切実に問われているのではないか。
今日、日本にとっての真の安保は何か、この問題を考える上でもっとも重要なのは、米国覇権の崩壊とともに繰り広げられる現時代に対する正しい認識を持つことである。
米国は今、中国をはじめ、BRICS諸国、地域大国による覇権など、ことさら覇権の多極化と競争の喧伝に余念がない。それは、この覇権競争の混沌にあって、米国覇権の再構築にこそ混沌からの脱却と世界平和への鍵があるという認識を広く創り出そうとしているからに他ならない。
だがそもそも、今日の「混沌」は覇権競争によるものなのか。そうではないだろう。もはや大国による覇権そのものが通用しなくなったこと、そこから来るものではないのか。それは、大国による国連安保理決定が何の効力も発揮し得なくなっていることなどに端的に現れている。
■九条自衛こそが現時代最強の安保だ
現時代は、覇権競争の時代ではない。覇権そのものが通用しなくなった脱覇権自主の時代だ。私は、この時代認識こそが重要だと思う。
脱覇権自主の時代にあって、日米安保の「双務化」は、米覇権再構築のための日本の「先兵」化を意味しており、より具体的に言えば、米国覇権に反対する脱覇権自主勢力との戦争で日本がその最前線に立たされることを意味している。
事実、今、米国は日本を第二次朝鮮戦争や対中国包囲の矢面に立てようとしている。集団的自衛権の行使に向けた憲法解釈の変更、それに加えた自衛隊の国防軍化のための改憲、自主憲法制定、それを実現するための参院選での自民、維新など改憲派の圧勝、そのためのアベノミクスの成功、TPP交渉での安倍自民党政権の「国益重視」、「対米自主」など米国と対等の外交姿勢アピール、等々は、それを後ろで保障する米国がいかに「強い日本」の実現にご執心であり、どれほどこの「戦争のできる強い日本」を前面に立てての対朝鮮、対アジア攻略に血道をあげているかを示している。
こうした認識の下、脱覇権自主の時代の真の安保、最強の安保が問われている。それは何か。私は、それこそ九条自衛の実現だと断言する。
今日、世界を動かしているのは覇権競争ではない。覇権か脱覇権自主かの熾烈な攻防こそが世界を動かしている。
したがって、覇権競争を前提とした「日米同盟の深化」は、他の覇権大国の脅威から日本を守るための安全保障にはならない。それどころか、脱覇権自主勢力に敵対しそれを攻撃するための米国による日本の「先兵」化を促すものになるだけだ。
当然のことながら、脱覇権自主勢力が覇権のために日本を攻めてくることはあり得ない。もし、その攻撃があるとすれば、それは覇権に反対し、脱覇権するためのものだ。だから、脱覇権自主勢力との闘いで日本の安全を保障するための最上策は彼らへの覇権をやめることに他ならない。
覇権の放棄、そのために憲法九条以上のものはない。憲法九条は、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、そのための戦力不保持、交戦権否認を明記した人類史上かつてない不戦の大典、覇権放棄の国家宣誓だ。この九条こそが脱覇権自主の時代の世界の模範であり、それを率先垂範すること以上の覇権の放棄はあり得ない。
もちろん、この脱覇権自主の時代にあっても覇権策動自体は残存する。この米国など覇権国家による侵攻に対し、それを撃退する闘いは、国際紛争を解決する手段としての戦争とは根本的に異なる。それは、国家が国家として自己の存在を維持するための自衛権の行使であり、そのための武力、自国の領域内でのみ使用する敵撃退のための武力は、戦争のための戦力とは明確に区別される。この自国領土への侵攻を一寸たりとも許さない強力な撃退武力と全国、全国民を挙げての徹底した撃退戦を内外に公然と宣言する九条自衛は、アジアと世界の脱覇権自主勢力による物心両面にわたる圧倒的な支援を受けて、これ以上にない、現時代、最強の安保になるに違いない。
書評
著者、松平直彦の40数年にわたる闘いの集大成とも言える力作だ。そこには資本主義と向き合い、その滅亡を信じ、そのために闘ってきた自らの信念の正しさへの確信が滲んでいる。
本書を読んで、何よりも共感するのは、著者の自らの闘いへの真摯な姿勢だ。1969年11月、首相官邸占拠のためその責任者として大菩薩峠で訓練を組織しながら一網打尽された獄中で、その敗北を総括して教訓を探し求めたこと、1973年出獄後その足で入った釜ヶ崎で「仕事よこせ」の闘いを組織し、その闘いに教訓を活かしたこと、そして1990年代初頭以降、時代の変容と世界史的な変化のただ中にあって、革命理論の再構築を志しそれに没頭したこと、そこには革命理論をあくまで自らの実践と客観的現実発展の要求を通して検証する革命家としての真摯さが浮き彫りになっている。
著者の理論活動で特出しているのは、問題を根本的に見るその態度だ。それは何より、1970年代の時代の変容からマルクス主義そのものの再検討を考えたところに現れている。
著者は、1970年代に入っての現実発展とマルクス主義理論との間に生じた「ずれ」を見、そこに革命理論自体の再検討の必要性を見た。
著者が言う時代の変容、その核心は機械制大工業の発展時代が終わったというところにある。著者は、それを「機械制大工業の発達は、ほぼ二百年の間に、・・・先進諸国社会の全ての経済領域」を機械化し、「さらなる産業発展は幻想」になったとしながら、その「産業の成熟」とそれとの関連で生まれる「地球環境限界への逢着」、そして「物質的豊かさ」から「人間関係の豊かさ」への人間の欲求の転換とを併せて、「(新しい)人間の時代への三つの契機」と見る見解を打ち出した。この「三つの契機」が資本主義に適合しないところから生じる「社会の崩壊」と「国家の機能不全」、そしてそれとの関連と生存の必要に迫られた労働者民衆のやむにやまれぬ闘い、ここに「資本主義終焉の実相」を見るということだ。
著者の見解を概括すると大体こういうことになると思うのだが、ここで最大の問題だと思うのは、今日、物質的豊かさを追求することが限界に逢着し、それによりこれまでそのために寄与してきた体制である資本主義の終焉が必然的になっているとする考え方だ。
まず第一に、物質的豊かさの追求は限界になどぶつかっていないと思う。もしぶつかっているとすれば、それは資本主義自身の矛盾のためだ。独占資本家など極少数支配層への富の集中と圧倒的多数国民大衆の貧困、これが市場の縮小、生産の停滞、さらには経済の投機化を生み出している根因であり、地球環境限界への逢着問題も、その原因は利潤第一に環境保護や改善に意を用いない資本家の企業活動、経済運営にある。もちろん、これまで社会主義で公害問題が生まれているのは事実だが、これは制度的問題でなく、社会主義を運営する人間の思想的問題であり、それは克服可能である。さらに人間の欲求について言えば、人間関係の豊かさへの欲求は資本主義による人間関係の破壊が原因でより切実になっているのであって、物質的豊かさへの欲求が満たされたからでは決してないと思う。それはこの間の選挙などで経済問題、生活問題がもっとも切実な問題となっているのを見ても明らかではないだろうか。
第二に、物質的豊かさはこれからも無限に追求されるべきであり、それが精神的豊かさ、人間関係の豊かさと一体に追求されていくようにすることこそ資本主義後の新しい社会に問われていることではないかと思う。
その上で第三に、それでは資本主義終焉の必然性はどこにあるかということだが、この問題について、ここで簡単に述べられるのなら世話はない。ただ松平さんに一つ提起するとするなら、今問題になっている新自由主義やグローバリズムについて、それを資本主義の極致として見、そこに資本主義の本質がもっともよく現れていると見ること、そして機械制産業から情報産業への転換が資本主義のあり方にどのような変化をもたらすのかを見ること、さらにその上で、それらに対する人々の要求はどうかなどを見ていくこと、等々についてともに考えていければと思う。
『資本主義終焉の実相―新時代への展望』
(松平直彦著 同時代社 2012年8月発行)
―赤軍派破産の総括と、釜ヶ崎での闘いから40年。社会の崩壊と国家の機能不全をもたらすメカニズムの解明に挑戦し、マルクス主義の現代的発展をめざす意欲作―(帯より)。
松平直彦:1947年生まれ。早大政経中退。1968年の国際反戦闘争や1969年の大菩薩事件で逮捕。1973年の暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議運動に参加。釜ヶ崎仕事よこせ闘争で逮捕。1980年大菩薩峠事件等で下獄。現在、労働者共産党(日本共産党<マルクス・レーニン主義>と共産主義者同盟赫旗派が統合・結成)に所属。「これからの社会を考える懇談会」の会員。
時評
先日、湯浅 誠氏の講演「貧困の実情をふまえた人権のまちづくり」に出向いた。湯浅氏は言わずと知れた2008年に不況による生産中止を口実に、大量に派遣切り解雇された労働者を救済するため、国会議事堂の門を開かせ、「年越し派遣村」を開催した行動力で世間を驚かせた、社会活動家だ。昨年より、東京のみならず大阪にも活動拠点を置くことにされたそうだが、TVで見る固そうで神経質なイメージとかなり違い、ユーモアが多くて明るくサバサバした人だ。講演のテーマはー"人権で飯が食えるか?"ー意外な問いかけだったが、約90分の話の内容は湯浅氏の最新刊のうち、自身の家庭事情を実例に挙げた件から、助け合いの社会構造の目に見えない重要性を展開したものであるが、聞くほどに今の世の中が失ってはならない大切な絆を感じ取ることができる。
各企業が生産性向上を目下の課題とするのは仕方ないことだが、湯浅氏の兄の業務処理ペースは通常の身体機能を持つ人の1/10ほどだと言う。それを企業が「お荷物」と感じるか、「利益の源泉」と捉えるかで社会構造における公益(富)に大きな開きが出るということだ。彼の兄のような人を、会社が人権を考慮せず非効率的と決め付けてピンセットでつまみ出して、社会的役割から除外してしまうと、居場所を失った兄は家に籠もりがちになり、母親や湯浅氏自身までも、兄の介護のために仕事や活動を辞めざるをえなくなり、母親が楽しんでいる社交ダンス教室にも結果として収入低下と時間減で通えなくなる。ダンス仲間と行く喫茶レストランも集客減、これが積もると地域経済にも大きな損失にもなる。一例だが比較的真実味のある、実感のこもったシミュレーションである。
そして、何事もお金に換算しないと話を理解しようとしない人たち向けに、かなり大規模の数値対比もあった。それは、この15年に亘る日本国内の年間自殺者約3万人という数値である。これを、経済の利益損失に換算すると年間約2.7兆円に及ぶという。数字が大きすぎて実感が伴わないが、安倍政権の唱えるTPPに参加した場合の見込み利益が、年間約4千億円だそうだ。早い話が、喧々諤々の渦中にあるTPPに政府が無理強いに加入しても、見込み利益は年間自殺者の逸失利益の1/7程度。ならば年間4千億を引き当てて自殺者防止に本腰で取り組むか、怒りの生産者や医師会に目を伏せてまで、きな臭いTPPの不透明な利益に賭けるか、どちらが本来の得なのか、そして徳なのかは論を待たない。
ところで、障害者の方を含む社会的弱者を企業が「利益の源泉」と捉えられるか、という疑念について湯浅氏は、自社だけが儲かればよいと考える個人エゴの経営者も含め、"社会的共有利益の創出"という企業本来の存在意義に立ち返り、全体で長い目で見て捉えられるよう、経営者は努力するべきと言っている。さらに「隠れた稼ぎ頭」に着目すべきとのことだ。それは何も、億千万以上の収入を誇る個人投資家や、数十兆円の利益を出すトラスト・コンツェルン企業を指すのではない。キツイ業務の割に実入りが少ない介護職や、清掃業等に従事する人の事である。その人たち個々は低収入の仕事で表に見えずとも、縁の下で支えるその無数の柱の経済的波及効果によって、目に見える有能な稼ぎ手はもちろん、衣食住に関わるそれぞれの業界も潤うというわけだ。それでこそ、相互共存共栄の人間社会の姿である。
ダイバシティ型企業…。東レなど、多様化という意味のダイバシティ構成を取り入れた会社が、徐々に増えつつあると湯浅氏は語っていた。現代は、未来に向かっての更なる高齢化社会の形成は避けて通れない課題である。高齢者・障害者を全く成員に入れずに、若い健常者の社員だけで業務する会社に、多様化する地域社会のニーズが汲み取れるかということだ。なるほど、押しなべて人間とは、自分の生活環境を発信源に物事を進めていくケースが多い。昭和後期から社会現象化してきた核家族の定着により、幼少期から祖父母らと共に生活してきた若い世代は全国的に減少、特に都会では激減している。この為、老齢世代と付き合う経験がほとんどないまま成人する。これでは、よほど感性鋭い若者がそろわない限り、高齢者、ましてや障害者のニーズを汲み取り、経営や促進に反映させることなど、至難とも言える。だからこそ企業内に、「多様化世代と障害者」も取り混ぜた社員構成をシフトし、間近に迫りくる"多世代編成社会"に柔軟に対応していこうということである。そしてそれは、大きな観点で結局は社会全体が得になるからである。
当日の湯浅氏の講演会場も、そういえば若年層から中年層、そして高齢者層から障害者の方まで多様化していた。あたかも、湯浅氏の言葉を裏付けるかのようだ。そんな彼からの提言は、会場に集まって下さる「物好きな」人権関心派の方たちが、せっかく足を運んでくれても"絶対人口比率"が増えないので、行き詰まり感に悩んでいるという。関心派の人たちは、周囲の人権無関心派の人たちに飯が食える「TPP利益をしのぐ人権社会潜在能力の展望と抱負」を、嫌がられても自信を持って伝えてもらいたいとの希望があった。直球がだめなら、球種を工夫してフォーク、シンカー、スライダー、チェンジアップなど、相手に応じて使い分けて話して欲しいとのお願いだった。それが実っていってこそ、日本の社会意識の大きな変貌となって現われていくのである。
転載
東京都町田市教育委員会は同市小学校の新入学児童に無償配布する防犯ブザーを、市内の朝鮮学校「西東京朝鮮第二幼初級学校」(同市金森東)の新入学児童四十五人には配布しないことを決定した。現情勢下で市民の理解を得られないというのがその理由だ。町田市には四日、決定を知った市民らから批判や抗議の電話が殺到し、教育委員会は決定を撤回した。この「抗議文」はその時に市教委に送られたものだ。こうした事実を広く知ってもらいたいと思い、了解を得て転載させていただいた。 (編集部)
4月8日付けの『朝日新聞』朝刊で、貴教育委員会が西東京朝鮮第二初中級学校の新入生に対してだけ、【防犯ブザー】を配布しなかったということを知り、おおいに驚き、ついで怒りがこみ上げてきました。最近、政府をはじめ、メディアもこぞって、明確な根拠もないまま、朝鮮民主主義人民共和国に対するバッシングを行っているこんな時期にこそ、逆に【防犯ブザー】が必要なのではないでしょうか?
行政は施策を理解しない市民がいた場合は積極的に説明をすべき立場であって、朝鮮学校に対する差別を助長するなんてとんでもありません。一刻も早く、今回の愚かな決定を撤回し、朝鮮学校の子どもたちに従来通り【防犯ブザー】を配布してください。
しかし、【防犯ブザー】を配って終わりと言うことにはなりません。どう考えても、そんなものを持たせなければならない社会が異常です。大人は子どもの国籍や民族に関わらず、子どもに安全で安心できる通学路、学びの機会も保障してやらなければなりません。町田市に限らず、全ての自治体をはじめ、日本政府もその責任があります。
※ついでにいうと、こんなことが世界に知られたら、東京へのオリンピック誘致なんてとんでもないと言われて、世界中の笑い物になります(苦笑)。
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