研究誌 「アジア新時代と日本」

第117号 2013/3/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 米国の手の平の上で踊るようなことを許すな

議論 朝鮮の核実験に賛成する理由

批評 福島と沖縄に通底する「犠牲のシステム」

コラム 生活保護が既得権ですか?




 

編集部より

小川淳


 真のリベラルとは何か。
 普天間、原発、消費税で迷走した民主党の失敗は、私たちに真の変革の意味を問い直しているように思える。寺島実郎氏は、「リベラルの再生はなるか―真の変革への道筋」(世界4月号)で「民主党は、マニフェストに掲げた事を放棄して『政治的現実主義』の名前の下に妥協と変節を繰り返し、自民党が主張する政策に引き寄せられていった。それは世界観の欠落と政策基軸への使命感の喪失による」と指摘し、真のリベラルの再生を訴えている。
 彼の言う真のリベラルとは何か。21世紀のリベラルが向き合うべき課題として次の五つを提示している。@対米関係の再設計―日米同盟の進化を求めて、Aグローバリズムの中で公正な分配の実現、B平和国家精神の再稼動―憲法9条の実体化、C原子力再考―リベラル必ずしも反原発でない視座の可能性、D代議制民主主義の鍛え直し―議員定数の削減、である。
 日米関係の見直しと格差と貧困の是正、そして憲法9条の具現、これらはだれもが認めるリベラルの課題であろう。その上で、3・11後の日本において最も先鋭な対決点の一つに加えられたのが「脱原発」だった。ところが寺島氏は必ずしも日本は反原発である必要はないとわざわざ断りを入れている。その理由は、「この分野での技術基盤の喪失は日本の発言力と米国との関係が失われる」からだという。リベラリズムに厳密な定義はない。その源流はヨーロッパ市民革命の底流を支える自由や平等の理念であり、言い換えるなら人が人を不当に支配する不条理に反対する思想―とでもいえるだろうか。核も原発も、不条理そのものであることはフクシマの現実が示している。
 寺島氏は民主党のリベラリズムの不十分さを批判しているが、民主党が普天間や原発―すなわち対米関係で迷走したのは反覇権の立場を貫き通す事ができなかったからであり、寺島氏が原発を「認める」のも同じく日本そして米国の覇権を是としているからに他ならない。
 人の人に対する支配に反対はできても国が国を支配する覇権、とりわけ自国の覇権は是とする。これはリベラルが最も陥りやすい思考であり、真のリベラルか偽者かを分ける基準でもある。戦前の改革派や民主主義者がなぜ日本のアジア侵略に反対できなかったのか。フクシマ後もなぜ原発が無くならないのか。沖縄からなぜ米軍基地が無くならないのか。日本の覇権を是とするからだと思う。真のリベラルの再生は反覇権の立場に立てるかどうかにかかっている。



主張

米国の手の平の上で踊るようなことを許すな

編集部


■上昇する安倍人気
 安倍首相の人気が上昇中である。
 内閣支持率は、昨年の内閣発足時に58%であったものが1月には62%になり、2月末には73%にも達した。そして、その勢いは続きそうな様相である。週刊誌などでは、「やること、なすこと全て当たりまくっている」「安倍晋三は、もしかしたら『大政治家』なのか?」などという文字が躍るようになっている。
 この人気の原因は、何よりも国民の最大の関心事である経済で矢継ぎ早の方針を打ち出し、一定の成果を見せて、アベノミクスへの期待を高めたことだろう。
 安倍首相は首相就任前から「量的緩和」、すなわちデフレ脱却のため物価上昇2%まで無制限に円を刷り続けろと日銀に強力に要求。そして経済復興会議を復活させ、国と自治体を合わせると20兆円もの大型景気策をつぎ込んだ。
 これによって円高是正、株価上昇を果たし、日銀総裁人事でも金融緩和派の黒田氏を総裁に据えることで、その指導力も印象付けた。
 外交でも公明党の山口委員長を中国に派遣してギクシャクした関係是正に取り組む姿勢を見せる一方、尖閣問題では一歩も引かない態度をとっている。そして、ロシアには平和条約締結を提起することで北方領土問題を再度浮上させた。震災復興でも、民主党時代の5年間で19兆円の復興支援費の枠を外すことを指示し、何回も現地に出向いてテキパキと指示を出している。
 そして、2月にあった日米首脳会談。ここで安倍首相は、TPP交渉参加問題でオバマ米大統領から、「聖域なし、ではない」という言質を取った。
 これについては、称賛の嵐といった感じで、「日本外交の大きな勝利」、さらには「戦後初めて日米関係が国家と国家の関係になった」とまで評価する論調も現れた。

■それほどのことなのか
 しかし、その「成功」が、それほどのものなのだろうか。
 財源の裏づけのない「量的緩和」とは、要するに円を大量に刷りまくるということであり、それは必然的に円の価値を下げて円安になり、円安になれば輸出増への期待から輸出産業中心に株価が上がるという、あまりに「安直」なものでしかない。
 確かに、「無制限の量的緩和」と「大型の財政投資」は、大企業の収益を改善したかもしれない。しかし、それによって雇用が改善したわけでもなく、輸入品の値上がりによって、電気料金、ガソリン代、食料品の価格も上がっている。この大企業中心の「景気回復」の結果は消費増税であり、結局、大盤振るまいのツケは国民が払わされる。それは決して国民が望む経済回復ではない。
 日米首脳会談でTPP交渉についてオバマ大統領から「聖域なき、ではない」という言質をとったということも、「日本外交の大勝利」、「戦後初めて、日米関係が国家と国家の関係になった」と持ち上げるほどのことではない。
 今行われているTPP交渉では米国は農産物やその他様々な分野で自国が設定している関税や非関税障壁をなくそうとしておらず、「例外なき(聖域なき)関税撤廃」というのは、単なるスローガンに過ぎず、オバマ大統領が「聖域なき、ではない」と言ったからといって、それは米国の譲歩でも何でもない。
 それよりも、米国にとって痛くもかゆくもない「言質」を与えることで、日本がTPP交渉に参加するというのだから、それは逆に「米国外交の大勝利」と呼ぶべきものなのだ。

■米国の後押し演出
 安倍首相は、その登場から米国に後押しされている。
 昨年8月15日のアーミテージ・ナイ報告は、日本がアジアの一流国に留まるつもりなら、米国と共に軍事行動を起こせるように集団的自衛権を行使できる「強い国」になれという、日本への勧告であった。その5日前の李明博韓国大統領(当時)の竹島上陸、15日の米系企業家から資金援助された香港活動家による尖閣上陸騒動を伴いながら「右傾化」風潮の強まりの中で、安倍氏は返り咲くことができた。
 首相就任後の量的緩和を基本にしたアベノミクスでも、米系機関投資家が日本株を大量に買うことによって株価上昇の機運を作った。そして彼らは、「どうせハゲタカファンドは売り逃げする」という予想に反して今も株を買い支えている。また、財政規律を無視した「量的緩和」は、日本国債の格付けが下げられギリシャ危機のような事態が起きるという懸念についても米系格付け会社はそのような動きを一切していない。
 そして今回の日米首脳会談においてオバマ大統領から「聖域なき、ではない」という言質。この日米首脳会談では恒例の共同記者会見がおこなわれなかった。この異例の事態に、米国の日本軽視の表れかなどという声も出たが、実際には首脳会談にバイデン副大統領、ケリー国務長官も同席し予定時間をオーバーした「内容は極めて濃いもの」(安倍首相)だった。
 首脳会談の数時間後にワシントンのシンクタンクCSISで安部首相は「講演」を行っているが、会談の内容について聞かれた安倍首相は、「例えば北朝鮮の核開発に対する共同での提案、海域における航行の自由の問題」と述べている。
 まさに東アジア情勢に対する日米の意思一致と対応策。しかし、共同記者会見が行われなかったことによって、こうしたきな臭く安倍人気に悪影響を与えかねない話は隠され、オバマ大統領から「言質をとった」という「成功譚」だけが浮き彫りにされるようになった。これも、米国の協力なしにはありえないことであり、安倍人気を盛り上げるための米国による主導的な演出と見るべきではないだろうか。

■すべて米国の手の平の上
 米国がこうまでして安倍首相の登場を後押しし、安倍人気の向上に意を尽くすのは何故なのか。それは、改憲―集団的自衛権の行使―国防軍設置の安部路線が米国にとって死活的に必要なものであり、そのためには参院選で安倍自民党が大勝しなければならないからだ。
 米国の弱化は著しい。もはや米一国だけでアジアに対して覇を唱えることはできない。そこで日本の軍事力、経済力を利用し尽くす。
 そのために米国は、「日本よ一流国たれ」という甘言で日本を誘い、これまで、日本の離米自主につながりかねないとして警戒してきた改憲、自主憲法制定も容認する方向に舵を切ったのである。
 安倍首相が唱える「強い国」「新しい国」というのは、まさに米国の要求に応じたもの以外の何物でもない。まさに米国は、改憲にもゴーサインを出したのであり、その後、自主憲法制定を公然と打ち出す「右派連合」が形成されるようになったのも、そのためである。
 TPPも日本の経済力を米国が利用し尽すためのものだ。その交渉の実態を見れば、米国基準の押し付けである。そこでは農産物輸入での安全基準(狂牛病対策、遺伝子組み換え作物の輸入禁止など)、地震国である日本の建築基準、国民皆保制度、郵政株の日本政府所有などが問題視されている。そして、米国企業が障壁と思うものは提訴して撤廃できるというISDS条項。こうなれば日本の経済主権はまったくなくなり、日本経済は米国経済に完全に融合一体化させられる。
 TPPはまた、ASEAN諸国が主導して形成されていっている主権尊重の東アジア共同体を米国が入る環太平洋の枠内に取り込み、米国覇権の下に置き、この形成を妨害するためのものでもある。
 しかし、覇権の時代が終わり、脱覇権自主の流れが強まっている現在、東アジアでも主権尊重と協力の共同体作りは進んでいく。
 米国経済に深く組み入れられた日本は、これにあくまでも敵対していくしかなく、米国の対アジア軍事戦略に従うしかなくなり、その矢面に立たされるだろう。
 安倍首相の登場から、安倍人気の上昇まで、すべてが米国の手の平の上で踊らされている。それは非常に危険な道であり、日本破滅の道であることは、過去の歴史が如実に教えることである。
 今、問われているのは、米国の手の平の上で踊らされるような「強い国」「新しい国」ではなく、時代の流れに合い、日本国民が要求し、アジア諸国が願う「強い国」「新しい国」ではないだろうか。
 安倍改憲路線との対決の中で、その論議が深まり、国民自身が主体となった国民的な大連合が形成されていくことが強く求められている。



議論

朝鮮の核実験に賛成する理由

小西隆裕


 今、朝鮮の核実験に対し非難ごうごうだ。理由はそれぞれ違っていても、非難一色であるのには変わりない。そのまっただ中に一石投じたい。敢えて言わせていただく。私は賛成だ。この一石が非難の渦の中に飲み込まれず、議論の波紋を生み出せればと願いつつ、以下問題提起させていただきたい。

■核兵器の反人間性
 私が朝鮮の核実験に賛成するのは、核兵器自体に賛成だからではない。私も反対だ。
 反対の理由は、核兵器の反人間性にある。
 もともと、人を殺傷する道具である兵器はどれもが反人間的だ。もちろん、あらゆるものがそうであるように、兵器もまた、それを何の目的で使うかによっては人間的であり得る。これにはいろいろ反論があるだろうが、私はそう思う。しかし、人を殺傷する道具という意味では、どの兵器も例外なく反人間的だ。
 その上で、核兵器の反人間性は桁が違う。何よりもまず、その破壊力が違う。核爆発の単位重量当たりの発生エネルギーは火薬爆発のそれの数百万倍になる。核爆発が起きると、数百万℃の高熱の火の玉が生じ、そこから膨大な熱線と放射線が放出される。それが爆風と衝撃波、熱線と放射線として人間を襲う。
 しかし、核兵器の桁外れの反人間性は、単にその比類ない破壊力にあるのではない。それにも増して反人間的なのは、核爆発が引き起こす放射線障害、放射能汚染にある。広島原爆の場合、死者の半数以上は致死量の放射線を浴びていた。さらに深刻なのは、空気中に残留した放射性物質(ストロンチウム90、セシウム137など)だ。これが凝結し、「死の灰」として降ってきた。市街をはるかに超え広範囲を汚染したこの「灰」が生体に取り込まれ、特定組織、器官に集中し、長期間蓄積されて局所的に放射線障害を起こした。白血病、甲状腺障害、その他各種の癌、等々。しかも、これら放射性物質は無毒化できず、長期にわたり半永久的に地球上広く存続し、万物を汚染し、それが空気、水、食物を通じて人間を体内から汚染し続ける。この核兵器の反人間性について、異論のある人はないだろう。

■覇権の道具にされた核
 だが、核兵器が反人間的なのは、単にこの兵器自体が持つ反人間性にあるのではない。私は、それにも増して問題なのは核兵器が覇権の道具にされてきたところにあると思う。
 もともと核兵器は覇権競争の中で生まれた。第二次大戦の最中、ヒトラー・ドイツと英米との原子爆弾開発競争だ。米国では、1942年、原子爆弾製造計画、マンハッタン計画がスタートした。その3年後、ニューメキシコ州の砂漠で世界最初の核実験を行った米国は、時を置かず、直ちに広島、長崎にそれを投下し、対日戦に決着をつけた。
 第二次大戦後は、米ソの核軍拡競争だ。爆弾だけでなく各種核兵器が開発され、それを運ぶミサイルが開発された。そして1970年代、多核弾頭誘導弾が生み出された。一基のミサイルに複数の核弾頭をつけて発射し、それぞれの核弾頭を別々の目標に極めて精度よく命中させる技術だ。これにより、先に少数のミサイルを発射しただけで、相手のミサイルを一気に多数破壊し、相手の戦闘能力をなくしてしまう先制核攻撃が可能になった。他国を脅して覇権するための道具としての核兵器の開発で画期的なことだった。
 覇権の道具としての核を保持するためには、一方で、被覇権の国々に核を持たせてはならない。核による脅しが効かなくなるからだ。1970年の核拡散防止条約(NPT)、1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)はそのためのものだ。2009年、米大統領オバマが提唱した「核兵器なき世界」で核軍縮と核拡散防止が言われながら、後者への圧力が一方的に強められ、オバマ自身の談話で米国が「核をなくす最後の国」という発言が出てくるなど、米国による覇権のための核独占志向は明らかだ。
 国々を支配し、人々を抑圧する覇権は反人間的だ。私は、この反人間性故に、覇権と核兵器は一体だと思う。すなわち、核兵器はその比類ない反人間性故に、反人間的な覇権のためのなくてはならない道具となり、覇権はその悪辣な反人間性故に、桁違いに反人間的な核兵器をその決定的な道具として生み出し使ってきたということだ。

■朝鮮の核は覇権のためか?
 今日、「国際社会」で声高に問題にされているのは朝鮮の核だ。今なぜ朝鮮は核兵器を持とうとしているのか?朝鮮も覇権競争に加わわろうということか?
 それはあり得ないことだ。朝鮮には、覇権をする動機も根拠もない。実際、朝鮮が核攻撃の脅しをかけている対象国は他でもない米国だ。弱小国を相手に、覇権のための核の脅しをかけているのではない。一番の覇権強国、米国を相手にしているのだ。
 それは、現実の朝鮮の核開発に示されている。今回の核実験で朝鮮は、「これまでより爆発力が大きく、小型化、軽量化した原子弾を使用した」と発表した。この発表と昨年末行った人工衛星打ち上げを併せて考えると、朝鮮が米国を核攻撃する力を持ったということを意味している。実際、今強行されている米韓合同軍事演習に反対する直近の声明で朝鮮は、「ワシントンを火の海にする」と公公然と言い放った。
 米国を狙った核兵器開発、それは、覇権競争の果てにたどり着いた米国との直接対決といった代物ではない。朝鮮には米国との間で世界の覇を競い合う、そのような意思も力もない。それは誰の目にも明らかだ。
 では、何なのか?一体何のための核実験なのか。そこで考えられるのが、米国による「先制核攻撃」をできなくする「核抑止力」としての核だ。
 2003年、イラク戦争を引き起こした米大統領ブッシュは、その圧倒的な軍事力でイラクの首都バグダードを一気に陥落させながら、NPT違反である「先制核攻撃」を公然と放言し、その恐怖で朝鮮を威嚇した。この核による威嚇に屈するのか否かが朝鮮には問われた。それに対する応えが「核抑止力」としての核だったのだ。
 それは、相手を挑発しておいて、何らかの譲歩を引き出そうとする「瀬戸際外交」などといったものではない。戦争という最悪の事態まで覚悟した上で、米国の核威嚇にはそれに相応した対米核威嚇で応える、米国を名指しで向こうに回した核兵器開発だ。米国が先制核攻撃してくるなら、それを乗り越えて米国本土を精密核攻撃し一挙に消滅させる、そのような核兵器を開発するということだ。そうしてこそ、米国による核威嚇をはねのけ無効にする、「核抑止力」としての核を持つことができる。

■核をなくすための核
 「核抑止力」としての核は、ただ単に朝鮮一国を米国による「先制核攻撃」の脅威から守るだけにとどまらない。それは、より広く大きな意味を持つようになる。
 朝鮮による核実験、核保有は、何よりも、大国による核独占を突き崩し、核による覇権自体を無効にする。
 この核による覇権の無効化は、ただ単に大国による核独占を打破するだけによるのではない。より重要なのは、朝鮮による核実験、核保有が米国をはじめとする大国による覇権体制そのものを突き崩すことだ。
 それは、米国など大国による核独占を保障するためのNPTなど覇権秩序の崩壊だけを意味するのではない。大国による国連安保理決議を無視し制裁の網をかいくぐって経済事業を引き続き発展させることは、米国を頂点とする覇権体制そのものの弱体化を意味する。覇権強化のための秩序と体制が逆に覇権崩壊を満天下に印象づけるためのものになる。この大いなる転換を切り開くものこそ、朝鮮による核実験、核保有に他ならない。
 覇権から脱覇権へ、この巨大な時代的転換は、覇権の道具としての核兵器の無用化を促進しないではおかない。すなわち、朝鮮による核実験、核保有は、朝鮮における「核抑止力」を強め、米国の対朝鮮核兵器を無用の長物化するだけでなく、覇権そのものの崩壊を世界的な範囲で促進し、それを通して、核兵器の無用化を大きく促すようになる。
 これは、朝鮮の核が覇権を突き崩し、脱覇権を促進する核であり、まさにそれ故、核をなくすための核であることを示している。
 私が朝鮮の核実験に賛成するのはそのためだ。


 
批評

福島と沖縄に通底する「犠牲のシステム」

 


 大震災から2年、東日本大震災による福島原発事故と、日米安保体制における沖縄基地問題。その二つに通底する「犠牲のシステム」の上で戦後日本の「平和」や「豊かさ」が成り立っている。福島や沖縄の「痛み」を私たちはどこまで実感しているのだろうか。そのことを指摘した記事を二つ紹介したい。一つは「福島民報」2月22日の記事、もう一つは、昨年10月5日、シンポジウム「福島・沖縄の犠牲はなぜ伝えられないのか〜メディアを問う〜」においての東京大学教授・高橋哲哉さんの発言だ。

(編集部)

【福島と沖縄】「苦難」を乗り越えて

 福島と沖縄。1700キロ以上離れ、背負ってきた歴史も風土も気候も異なる二つの県が今、似たような苦悩を抱えている。福島は東京電力福島第一原発事故、沖縄は米軍基地の問題が暗い影を落とし、混迷の中にある。双方とも簡単に解決できる課題ではないが、耐えて、いつの日か、この苦境を脱したい。
 今月中旬、約20年ぶりに沖縄を訪れた。那覇から宜野湾、嘉手納と車を走らせると、米軍基地のフェンスがどこまでも長く続く。基地内には学校やスーパーマーケットもある。単なる軍事施設ではなく、巨大な生活空間だ。一枚の金網が沖縄県民との日常を分断している。
 高台から眺めた普天間基地ではオスプレイが翼を休め、嘉手納基地では米軍機が何度も離着陸を繰り返していた。離陸するたびに「ゴー」という轟音で、地元新聞の記者の説明が、かき消された。基地周辺はいくつもの学校があり、記者は「そのたびに授業は中断され、年間では相当の時間が無駄になっている」と説明した。
 沖縄は太平洋戦争で唯一、内戦の地となり、多くの犠牲者を出した。戦後68年がたっても、米軍基地という形で戦後は今なお、清算されてはいないのだと痛感した。原発事故で原子炉が崩壊し、風評や風化に悩まされる福島。沖縄とは形は違うが、両県とも今後、まだ続くだろう厳しい闘いを抱えている。
 福島は米国同時多発テロ後の平成14年1月、観光産業が大きな打撃を受けた沖縄に支援ツアーを実施した。翌15年2月には「うつくしま・ちゅらしま交流宣言」を発表、芸能交流や温暖な沖縄に雪だるまを贈るなどの付き合いを続けている。原発事故では多くの県民が沖縄に避難し、各種支援を受けている。両県は遠く離れていても心は極めて近い隣人といえるだろう。
 福島は国策で進められた原発のエネルギーで高度経済成長を支え、沖縄は国が主導した戦争で悲惨な体験をし、米軍基地との関係で日米関係を支えてきた。共通するのは国のために長年、尽くしてきたが今、不幸な結果に陥り、なかなか出口が見えないことだろう。
 心の隣人である沖縄と交流を進めながら、再生への道を一歩ずつ歩んでゆきたい。沖縄県民は理不尽な立ち位置に我慢し、闘っている。本県も県民一人一人が復興と、風評・風化の払拭に全力で立ち向かう。犠牲を強いられていることに強い声を上げ続け、いつか両県が心から笑える日を迎えたい。

(「福島民報」より)

福島・沖縄の犠牲はなぜ伝えられないのか

 沖縄にオスプレイが配備されてしまいました。岩国にオスプレイが陸揚げされてしまったときにこれを沖縄に持っていってはならないと私は思いました。沖縄の米軍基地の過剰負担はもう限界を超えています。日本全土にある米軍基地の74%が70年にも渡って沖縄に集中しており米軍基地の過剰負担は明らかです。沖縄に犠牲が集中させられてきたのです。
 その上に、世界でもっとも危険な普天間基地に危険きわまりない何度も事故を起こし緊急着陸などで安全性に疑問を持たれているこのオスプレイを、沖縄県民総ぐるみの反対、沖縄の民意を平然と無視して今回強行配備が行われました。
 日米安保体制をやめるつもりがないならば、あるいは今すぐやめられないならば、日米安保を前提にして米軍基地負担の平等をはからなければならないということは倫理的に考えても言えることです。私自身は日米安保以外の安全保障体制をつくっていくべきだと思っています。それには周辺諸国との良好な関係をつくっていく必要がありますが、いまのように歴史問題や領土問題で対立が起こっているような状況では夢のような話のように思われるかもしれませんが、しかし最終目標はそこに置くべきだと私は思っています。
 しかし、日米安保が続き、オスプレイまで押しつけられるなか、沖縄から本土移設論が出て来たとき、本土はこれをしりぞける理由はありません。日米安保体制について積極的に支持してきた人もいるでしょう、消極的に容認してきた、あるいは反対だけれどもその政策を変えることができなかった――私もその一人ですが――そういう人もいるでしょう。しかし、結果として現状のような不平等な形で沖縄に犠牲がおしつけられてきたのです。これは日本国憲法上もあるいはそもそも倫理的にも正当化できません。沖縄の人々の犠牲の上にそれ以外の日本国民が米軍基地負担をまぬがれ「利益」を享受するということは犠牲のシステムです。一部の人を犠牲にして成り立つ犠牲のシステムを正当化できないのです。県外移設論がいま沖縄で高まりつつあるということをやはり在京メディアなどはきちんと伝えきれていないと思います。これまでのパターンで沖縄の基地負担が問題になると県民大会など大きな動きがあれば一瞬は報道するけれども、これを沖縄だけの問題として、これを全国の問題、また東京にある政府の問題、政府を支える日本国民全体の問題として報道する姿勢は弱い。ですからマスメディアも現状に対して責任があります。
 犠牲を強いる状況に追い込まない、犠牲を強いる状況をつくらないために何ができるかを社会全体で考えていかなければなりません。そもそも犠牲はあるべきではない、犠牲はあってはならないのです。それでは犠牲がまったくない社会というのは考えられるのでしょうか?という問いが最後は出て来ます。それは犠牲の定義にもよります。犠牲のない社会はあり得るのか?という問いについては簡単に答えは出ないけれども少なくとも政治的に、あるいは社会的にシステム化された犠牲を批判してこのシステムを変えていく、なくしていくということは十分に可能であろうと私は考えています。
 歴史的に見れば戦前、戦中というのは、国家が国民に犠牲を求める社会システムになっていました。国家が犠牲を公然と正当化していたのです。それは教育勅語にもみられるように国民は天皇のため国のために命を捨てて尽くすべきとされ教育によって強制されていたわけです。だからこそ国のために戦死した軍人は模範として靖国の神となるということだったわけです。かつての国家体制においては犠牲は公然と国によって正当化され、国民に犠牲は要求されていました。その体制が1945年に破綻したわけです。
 戦後は日本国憲法の人権原則からして明らかに犠牲を公然と正当化することはできなくなりました。犠牲を公然と正当化できる国ではなくなったわけです。すべて国民は個人として尊重されるわけですから国のために犠牲になれとか犠牲になることが模範になることだとは言えなくなったのです。沖縄や福島において見られるような人権侵害は、憲法上は正当化することができません。公然と犠牲を正当化できないかわりに、原発においても沖縄の犠牲においても犠牲ではない形がとられているのです。それは、「原発安全神話」であったり、米軍の軍事力による「抑止力神話」などによってそれが犠牲ではないという形がとられるのです。
 私たちは自分自身のすぐそばに、原発がある、米軍基地がある、オスプレイが飛んでいる、と我が身のこととして考えなければならないのです。

(高橋哲也)

※       ※       ※

 「犠牲のシステム」―日本の近代史を振り返って見ると、日本の近代が犠牲のシステムによって成り立っていることがわかる。明治維新で成立した日本は、沖縄を併合し、台湾、朝鮮の侵略へ突き進む。それを足がかりにアジア侵略の道を歩んだ。国内的にも民衆への収奪と圧制を強いた。そのような犠牲のシステムを持つがゆえに、戦前の日本は破滅へと向かった。
 戦後はどうだろうか。敗戦は日本がそのような犠牲のシステムをきちんと清算する絶好の機会となったが不充分に終わってしまった。
 沖縄の米軍基地問題、水俣に象徴される公害問題など戦後もまた様々な問題を抱えたまま解決できずに今日に至っている。そして3・11によって新たに福島の現実が重くのしかかっている。 戦後の終焉とは、これらの問題の清算とつながっている。もう一つ大事なことは、沖縄と福島の問題に通底しているのは、いびつな対米関係であるという事実だ。沖縄の米軍基地は日米同盟の下、日本の防衛のために必要だからとされている。しかし、沖縄の米軍基地が本当に日本の防衛の為なのかは検証されてこなかった。原発においてもなぜこの狭い国土に54基もの原発が作られてきたのか。沖縄も原発もアメリカの核戦略の一環ではなかったか。
 犠牲のシステムの清算は、沖縄から米軍基地をなくしていくことだが、民主党政権下で失敗したように容易なことではない。原発からの脱却も容易ではない。しかし目を転じ、その根底に横たわるのがいびつな対米関係の清算であることがわかれば、決して不可能な事ではないし、解決の道筋は見えてくるのではないかと思う。

(編集部)



コラム

生活保護が既得権ですか?

林光明


 アベノミクス三本の矢が、勢いよく放たれた。私の予感では、どの矢もうまく的をいぬけないだろう。そもそも、レーガノミクスの二番煎じの様相からして胡散臭さを感じるが、政策表現自体も米国のマネしかできないのかと感心するこのごろだ。
 ところで、安部政権から予算が削られる生活保護制度について、受給者の立場から報告したい。前号にも触れられた湯浅誠氏の著作に書いてあったが、今や生活保護受給者は「既得権」呼ばわりされるそうだ。既得権とは元来、天下り官僚が2重にも退職金をせしめたり、公務員が法に守られて1年も出社しなくても免職にならなかったり、資産家の家庭に生まれた子は経済的未来が約束されたりなどを指すはずだ。生活保護を悪用してうまく立ち回った人ならいざ知らず、税金から生活させて頂いて感謝して慎ましやかに生き、最下層の底辺に沈み、国民の可処分所得ギリギリの代表選手である受給者が既得権者なのか、その「ありがたい既得権」について以下に紹介したい。
 まず、医療費は全額免除の偽り。実際は医療保険適用以外の処置薬や治療に必要な用具費は、病院が指定しても全て保護費からの自己負担である。さらに、役所が認めた病院なのに通院交通費も一銭の支給もナシ。トータルして私も保護費から5万円以上支払っている。
 医療でオドロキは、整形外科の受診医療券は出るが、整骨院は出せないと言う理由。整骨院は癒し効果が主流だから、厚労省は治療目的の正規の医療機関と認めないそうだ。仕方なく、大病院の整形外科へ3時間待ちで受診したが、案の定レントゲンで特に異常なしでおしまい。レントゲン診断しかしない病院整形外科で拒否された患者が事実、整骨院で完治してるのだ。第一、国保が適用の整骨院で何で医療券が出せないのか?
 ところで、単身の生活費は一律7万円で、家賃がこれに乗せられる。友人に話すと、一様に「そんな安いの?」と驚く。彼らは14?15万は貰ってると思ったらしい。この間違った一般認識が、生活保護弱者への攻撃に一役を買う。私はまだ、満額受給は一度もないが、銀行通帳の提示を毎月義務付けられ、通帳に振込み記載があれば、痛い思いをして貰った会社の健保組合からの傷病手当さえも収入認定で全額を保護費から引かれ、受給開始以前に金を貸した知人からの返済も、収入認定で引かれる。
 要は中身を問わず、振込みは全て収入として支給保護費から差し引くのだ。極めつけは、役所の勝手な「計算間違いで先月過分に支給していた分も今月分から引きます…。」受給者には保護費の正誤を審査検討する義務は全くないので、自分たちの業務ミスを受給者にかぶせていると言えるだろう。他にも、事故が起これば保険金の絡みがあるので自動車の運転は出来ない、生命保険にも加入出来ない…。橋下徹さん、これのどこが「既得権益」ですか?これがそんなにいい「既得権」なら、自分が一度生活保護を受けてみてはいかがですか?(笑)


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