研究誌 「アジア新時代と日本」

第113号 2012/11/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 覇権自主は自主ではない

議論 「橋下・維新」の時代認識を問う 求められる新しい時代は何か?

時評 領土と縄張り

議論 「橋下・維新」批判について

呼びかけ 原発いらん!被曝させるな! 11.11関電本店1万人大包囲




 

編集部より

小川淳


 尖閣問題がくすぶり続けている。とりわけ熱心なのがいわゆる「右派」といわれる諸氏(元石原都知事や安倍、中曽根など)だ。なぜ「右」の諸氏はこうも「領土問題」に熱心なのかと思っていたら、「総理大臣は領土・主権を命にかけて守れ」(中曽根康弘、「SAPIO」11月号)の広告を見てはたと合点できた。なるほど領土=主権なのだと。だから彼らは一歩も引かずに頑張っているのだと。
 領土=主権なのは正しい。だが「主権」にかかわる問題は「領土」以外にもいくつもあるはずだ。例えば沖縄の普天間基地やオスプレイ配備に反対する沖縄の島ぐるみの願いを一顧だにせず、米国の傲慢な要求に諾々と従うのは主権問題ではないのか。米兵が沖縄の女性に暴行しても裁判の権限もない「日米地位協定」は主権問題ではないのか。3・11を契機に大きく脱原発へと転換しようという国民の要求よりも米国の原発維持の要求に従うのは主権問題ではないのか。
 中国や朝鮮の人たちに罵声を浴びせる「ネトヨク」や右翼の街宣車がアメリカ大使館へ抗議したという話は聴いたことがない。領土問題で「声高」な人ほどアメリカにたいしては「沈黙」するのは何故か。なんとも不思議なことである。
 彼らはアジア諸国からは「右翼」と見なされている。「右翼」とは民族主義のことであり、民族主義とは自分たちの民族が他のどこの国からも支配されず自立・自決することを求める政治運動であるとするなら、米国を批判せず、「対米従属」をむしろ進んで認める彼らは本来の意味での右翼=民族主義者ではない。
 彼らに共通するのは、集団的自衛権の行使を認め、平和憲法の「改正」を求める「強い日本」への要求だ。アメリカの覇権は容認し、アジアでの日本の覇権は維持したい彼らはすなわち覇権主義者だ、ということになる。米国の覇権なしに日本の覇権もない。だから彼らは従属を是とする。
 自分の国が支配されず、自立・自決をすることを求めるとは、いかなる覇権も認めないということであり、反覇権の立場には「右」も「左」もないはずだ。
 東アジアには今なお冷戦構造が色濃く残っている。日本の戦争責任と戦後処理、慰安婦問題、そして領土問題もその中の一つだ。東アジアの新しい時代を拓くためには、反覇権の新思考が求められている。



主張

覇権自主は自主ではない

編集部


■日本政界の総右傾化
 自民党新総裁に、改憲をして集団的自衛権の行使容認を実現することを強く打ち出す安倍晋三氏が選出された。次期政権を担当することが確実視されている自民党が安倍氏を総裁に立てたことで、俄然、日本の右傾化が取り沙汰されるようになった。
 この動きは安倍自民党だけではない。民主党も集団的自衛権を行使できるようにする法案を今国会中に実現することを狙っている。橋下・維新の会も、その維新八策に憲法改正の敷居を低くする案を打ち出しており、橋下氏は集団的自衛権について「権利があるというのに行使できないというのはおかしい」と述べている。さらには、憲法改正、集団的自衛権行使容認を強く要求してきた石原慎太郎氏が新党結成を打ち上げ、第三極形成を目指すとして国政舞台に出てきた。
 こうした状況について、米国の有力紙ワシントン・ポストが「日本は右傾化している」という記事を一面に掲載。それは、米国の立場から、暗に日本の離米・反米を懸念するものであるが、一方で日本の立場から、この動きを対米自主かのように見る論調が出ている。
 はたして、この右傾化と言われる状況は対米自主なのだろうか。

■このどこが自主なのか
 今日の右傾化を自主の動きであるかのように描く論調の一つの例として、元外務省情報局長であり鳩山政権の外交問題顧問であった孫崎享氏の「戦後日本史の正体」があげられる。そこには、日本の戦後史は対米従属路線とそれに反対する自主派の相克の歴史であり、少しでも反米の傾向を見せた政治家は米国によって潰されてきたことが詳しく書かれている。
 それ自体は正しい。しかし、そこで岸信介など、これまで対米従属派と見られた人物が自主派にされているのはどういうことだろうか。
 孫崎氏が岸を自主派だとするのは、「安保を自主的なものにする。そのために再軍備も必要で憲法改正までもっていく」というような考えをもっていたからだと言う。
 しかし、それが自主なのかどうなのかは、結果をもって判断されるべきだろう。
 改正安保には、新しく「極東条項」「相互防衛条項」が入っている。それは、駐日米軍が極東(アジア)で行動することを認めるということであり、それを日本は軍事的に支援するということだ。それは、まさに今言われている集団的自衛権の行使容認に繋がるものだ。そして岸は「自主憲法期成同盟」の会長を務め、改憲を執拗に推し進めた人物でもある。
 そうであれば、岸は今に続く、改憲と集団的自衛権の行使容認の道を開き、その実現のための布石を打ったものだと見ることができる。事実、その後の安保は、安保再定義、周辺事態法、有事法制など、すべて日米軍事協力すなわち集団的自衛権行使の実体化、深化として行われてきた。
 こうして、対米従属性を深めた日本は、新自由主義的な構造改革を強要されても、唯々諾々と受け入れるしかなく、その結果、国富を吸い取られ、失われた10年20年という衰退の道を歩むようになってしまった。
 この、どこが自主なのか。それは、自分の意思で対米従属を深めようとする意味での「自主」でしかなく、そんなものは自主でも何でもなく、さらなる従属だ。それは岸以降の日本の歴史が示している。
 このような岸を自主派などとすれば、その孫で岸のDNAを引き継いでいることを誇りにする安倍氏が改憲を行って集団的自衛権を行使できるようにすることも自主になってしまうのであり、孫崎氏の論法は、そうした勢力への援護射撃になっている。

■それは米国の要求
 この急速に台頭してきた右傾化の動き、その契機は8月15日に発表されたアーミテージ・ナイ報告にある。
 その報告は、「日本は一流国の地位にとどまるのか、それとも二流国に転落するのか」と問いかけ「強い米国は強い日本を望んでいる」としながら、「集団的自衛権の行使が容認されていない」ことに懸念を表明している。
 すなわち、この報告は、アジアに対する指導力を発揮できる国になれ、そのために集団的自衛権を行使できる強い国になれという要求であり、焦点は集団的自衛権を行使できるようにせよということである。
 政権を途中で放り出すような安倍氏が自民党総裁に返り咲いたのも、石原慎太郎氏が東京都知事の職を投げ打ってまでして国政復帰するというのも、政界全体に改憲、集団的自衛権行使容認の空気が満ちているのも、このアーミテージ・ナイ報告の中に米国の意図を感じ取った政治家たちが雪崩をうって迎合したからだ。
 このアーミテージ・ナイ報告とは何なのか。それは覇権国家の地位から転落した米国が、アジア太平洋時代にあって、アジアに対する「関与と指導権発揮」を強めることでアジアでの覇権を回復し、ひいては世界覇権を回復することを狙った戦略に日本を引き入れるためのものである。
 そのために米国は、香港の反体制活動家を使って尖閣で紛争が起きるようにし、石原慎太郎の東京都による購入計画が「国家所有」になるように仕向けて尖閣問題を抜き差しならない状況にし、「強い国たれ」という声を高めることに成功した。そして、こうした声をマスコミを使って意識的に高めながら、次期政権の可能性が高い自民党の総裁に安倍晋三氏を据えることにまで成功したのだ。
 実に今日、日本の政界で起きている改憲と集団的自衛権の使用容認とは米国が要求してきたものであり、それを内外のマスコミ、右派論者が申し合わせたように、自主だ、対米自主だ、と煽っている構図はこっけいでありつつも危険である。

■脱覇権・自主の道こそ
 孫崎氏の「戦後史の正体」の「はじめに」には、「世界中の国々の歴史は、大国との関係によって決まります」とある。世界の国々の歴史、すなわち各国の運命は「大国との関係で決まる」。まさに、それは、覇権国家が諸国の運命を左右するという覇権の考え方そのものである。
 米国の要求に応じて、日本が集団的自衛権を公然と行使できるようにし、改憲まで狙うというのも、米国覇権の下での生き方しか考えないからである。そして日本が生きていくためにはアジアで覇権国家にならなければならないと考えるからである。
 それを名づければ「覇権自主」ということになるだろう。しかし、それは自主などとはとても言えない。
 第一に、覇権の下での自主などありえないからである。
 それは、従属することが自主という語義的にも矛盾するものでしかない。そして岸信介の例でも分かるように、それは人々を欺く詭弁でしかなく、たとえ、そのつもりであっても覇権国家(米国)がそれを許すはずもなく利用されるだけだ。
 第二に、覇権をする自主などないからである。
 覇権は他国を支配し収奪するということであり、他国に寄生し依存して生きるということである。そのような国は自らの力で生きていこうとしない国、生きていけない国である。したがって覇権をする国が自主的な国になることはできない。
 覇権の下で自主はなく、覇権をする自主などありえないのだ。
 その上で、日本が「覇権自主」をするというのは、実際には、自主権を互いに尊重して協力し合い共にウィンウィンの関係を深めている東アジア共同体と対決するということであり、それは結局、覇権か自主かの戦争になるということだ。米国主導のその戦争では日本が矢面に立たされる。
 先の大戦でアジア覇権を狙った日本はアジアの民族解放自主勢力の前に敗北した。そして米国はアジアの味方を演ずることで日本との覇権争奪戦争に勝利した。日本敗戦の本質は、覇権国家たろうとして自主勢力の前に敗北したことにある。
 その歴史の教訓が込められた憲法を改正し米国の言うがままに、アジアの脱覇権自主勢力と対決するような道を進めば、日本は破滅する。
 今、日本には、米国覇権の下で脱覇権自主勢力と対決する破滅の道を進むのか、それとも米国覇権から抜け出し脱覇権自主勢力と合流し真の自主の道を進むのかが問われている。



議論 「橋下・維新」の時代認識を問う

求められる新しい時代は何か?

小西隆裕


 「橋下・維新」の人気が大暴落した。比例代表で「維新」に入れるという人は、30%超から2?4%に激減した。その原因についてはいろいろ言われている。折からの「右傾化」の中、竹島「共同管理」などと言うからだ・・・云々。
 その分析については、また別の機会に譲るとして、今回の「維新」批判は、彼らの時代認識についてやりたいと思う。今の時代をどうとらえるかが「橋下・維新」批判だけでなく、今の政治そのものを考える上で重要だと思うからだ。

■なぜ「時代」なのか?
 政治にとって、時代認識は決定的だ。人々の共同の利益は、時代によって変わってくる。だから、それを実現する政治が時代によって変化するのは当然のことだ。
 政治家に時代に対する高い識見が求められるのはそのためだ。古い時代認識からは古い政治しか生まれてこない。時代を先取りする新しい時代認識からのみ、人々の要求に応える革命的な政治が生まれる。平清盛や織田信長の政治の革新性も彼らの時代認識の新しさに基づいていた。
 今、その「時代」が問われている。誰もが時代の転換を言っている。米国による世界支配の崩壊が言われ、中国やインドなど新興諸国の台頭が叫ばれている。さらに、より根本的に文明の転換が指摘され、科学技術のパラダイム・チェンジや人々の価値観の根本からの変化が言われている。
 だが、この時代転換の評価はまちまちだ。いかなる時代からのどういう時代への転換なのか、その認識が大きく異なっている。
 「橋下・維新」の時代認識は人々の要求に応える新しいものなのか。真に新しい時代認識は何か。時代認識をこの批判シリーズの最初に持ってきたのは、今問われている政治が何か、その時代的特性をつかむためだ。

■「橋下・維新」の時代認識
 今の時代を「橋下・維新」はどうとらえているのか。彼らが言っているのは、「都市間競争の時代」だ。「(これまで)国という巨大戦艦に国民を全部乗せてまっしぐらに走っていた時代から、生活レベルがある程度満たされて多様性を追求していく段階になると、それぞれの地域が、個別の実情に応じた将来を追求していく時代に変わっていく」(「体制維新―大阪都」、文春新書、橋下徹、堺屋太一共著、P41)。
 彼らのこの時代認識の根底には、モノが豊かであれば幸せだという産業革命以来の文明のあり方から、個々人が多様性や自分なりの幸福感を追求する新しい文明のあり方への転換が生じているという理解がある。この文明転換の見解に基づいて、彼らは、これまでの国家を単位とする画一的な経済成長戦略から個々の都市を主体とする多様な成長戦略への転換を説いている。その上に彼らは、この「都市間競争」が21世紀に入り、今や世界の趨勢になったとしながら、ニューヨークやロンドン、パリ、上海、シンガポールなど世界の大都市と東京や大阪が競い合う「都市間競争の時代」が到来したという時代認識を提起している。

■民意は「都市間競争の時代」を求めているか?
 前回、「橋下・維新」批判シリーズを始めるに当たり、その批判の基準はどこまでも民意にあると提起した。それには、「橋下・維新」の側でも異論はないだろう。事実彼らは、民意に基づいて、「都市間競争の時代」なる時代認識を提起している。すなわち、幸せの求め方をめぐる転換、この民意の転換に、彼らは「都市間競争の時代」への転換の根拠を求めている。
 だがはたして、日本国民が求めている時代の転換は、「橋下・維新」が主張するようなものなのか。
 今日確かに、多様性への要求、自分なりの幸せを求める要求が強まっているのは事実だろう。それは、製造業において、規格大量生産のライン生産方式ではなく、それに代わって多品種少量生産のセル生産方式が取り入れられてきているところなどにも現れている。
 だが一方、それがもっとも切実な国民的要求であるかと言えば、そうでないのも事実ではないだろうか。
 選挙は民意をはかる最良のバロメーターだ。三年前、「生活第一」と「地域主権」を掲げた民主党の歴史的大勝とそれにともなう政権交代は、民意が何よりも、生活難、地方衰退からの脱却を求めているのを鮮明に浮き彫りにした。そして今、その要求は何ら解決されていない。それどころか一層切実になっている。
 このますます大きくなる国民的要求は、いかなる時代からどういう時代への転換を求めているのか。それは、「橋下・維新」が言うような「都市間競争の時代」への転換なのか。
 今日、貧困の拡大と地方の衰退が、むき出しの弱肉強食で極端な格差拡大を生み出す新自由主義、グローバリズムの産物であるのは世界的範囲で常識になっている。実際、新自由主義、グローバリズムの時代になって、世界中例外なく、社会の二極化、貧困の拡大と地方地域の零落が驚くほど顕著になった。その原因が国と民族などあらゆる集団、共同体を否定するボーダレスの市場原理主義、競争至上主義である新自由主義、グローバリズムにあるのは、もはや一つの公理にさえなっている。
 だから、拡大する貧困、地方地域の衰退からの脱却を求める民意は、新自由主義、グローバリズム時代からの転換と一体だ。言い換えれば、新自由主義、グローバリズム時代からの転換、ここにこそ民意を反映した新しい時代認識があると言うことができる。
 こうした見地からみたとき、「都市間競争の時代」はどうだろうか。これが民意を反映するどころか、それに逆行する時代認識であるのは容易に判断できる。その一つは、この時代認識が経済成長の鍵を「競争」に求めているところに現れている。もう一つは、成長戦略の単位や主体を国ではなく都市に求めていることだ。これが競争至上主義の新自由主義、国と民族否定のグローバリズムに通じているのは間違いない。それを証明するかのように、最近、「橋下・維新」は小泉構造改革路線の継続を打ち出した。それが新自由主義、グローバリズム路線であるのは周知の事実だ。

■求められる新しい時代認識
 新自由主義、グローバリズムは、米一極支配の崩壊とともにその破綻が証明された究極の覇権の論理だ。この時代遅れの路線にしがみつく愚についてはすでに少なからぬ識者が指摘している。
 民意は、新自由主義、グローバリズム「への」ではなく「からの」時代転換を求めている。では、この民意が求める新自由主義、グローバリズムからの時代の転換はどのようなものになるのか。そこにこそ求められる新しい時代認識があるに違いない。
 新自由主義、グローバリズムとは、一言でいって、国や民族などあらゆる共同体をなくし、世界を弱肉強食の競争原理のみが支配する一つの市場にしてしまおうということだ。米国はこの秩序を世界最大の核軍事力で保障する新保守主義(ネオコン)まで併せて、世界制覇の論理とした。この米超巨大金融独占の利益を反映した究極の覇権路線がもろくも崩壊する中、今、世界的範囲で民意に基づく新しい時代の開拓が模索されている。
 新自由主義、グローバリズムからの転換というとき、重要なキーワードは、国や民族、地方・地域など「共同体」であり、「協力・協調」だ。これらを「市場」や「競争」との関係で重視すること(市場や競争を無視し否定することではない)こそ、転換のキーポイントであり、この転換への要求を民意に求めていくことこそが重要だと思う。
 実際、今国民は強い国、強い政治や経済を求めており、地方・地域の自立と発展を求めている。一方、協力・協調への要求も、ソーシャルメディアを介する脱原発など広範な国民的運動や中小企業、地場産業など経済のあり方に見られるつながりや絆への要求などとして多様なかたちで現れてきている。
 そうした中、もう一つ重要なのは、米国との関係であり、アジアとの関係だ。米国の覇権路線、新自由主義、グローバリズムからの転換は、すなわち米国の覇権の下でアジアに対し覇権をしてきた従属覇権の対米関係、アジア諸国との関係の転換だ。この「従属」「覇権」との関係でのキーワードは、「自主」であり、アジア諸国との「共同」ではないだろうか。これが国民的要求であるのは改めて問う必要もないだろう。
 「共同体」「協力・協調」そして「自主」「共同」、これらキーワードは民意が求める新しい時代認識の基になるものだ。この問題提起が時代をめぐる論議のたたき台になるのを期待する。


 
時評

領土と縄張り

 


 本格化している日中の領土問題。引き金は尖閣諸島の魚釣島(中国名では釣魚島)における海上水域領土の双方の主張である。『中国保釣連合』等の組織では、愛国無罪を口実の攻撃的なデモ行為は相互理解の妨げになり、解決を遠ざけるので理性的に行動するようにデモ隊に注意している。上海等では上空を飛び交う戦闘機の様子を"人民解放軍が日本と戦う準備か"と徴博(ツイッター)に書き込む者がおり、開戦支持がかなりだそうだ。
 本誌前々号の主張では、今回の事件は米国の仕掛け介入とある。事実なら、文字通り魚釣りに丁度くらいの小さな島をナショナリズムを煽る紛争材料に仕立てるとは、米国の戦略も地に堕ちたものだ。さりとて中国は、日本が国有化したら、魚釣島各所に独自の地名まで付け始めた。この面子をかけた意地の張り合いに近い感がある領土問題を、私は動物の縄張り争いと対比してみようと思う。
 人間社会の領土問題は、何の事はない生物界の"縄張り"にあたる。人間は突出した社会的生物だ。動物学では脊索動物門哺乳綱ヒト科ヒト目であり、亜種も存在しない1科1目1属1種のモノタイプである。多様な生物群の中で、この種の生物が地上で数千年もの長期に渡り繁栄した例はなく、人間は知恵と力と絆の動物であり、人間社会はその集合体である。8月からあたかも急浮上したかのような、日中の領土問題では、まるで神の与えた試練の如く、人間のそれが試されようとしている。
 それでは、生物の縄張り意識とはどんなものだろうか。節足動物門で見ると、我々に身近な"虫"は昆虫綱という最大勢力を持つ割には、意外に縄張り意識は弱い。それというのも、昆虫達は幼虫成虫共に日常よく移動するからだ。但し、縄張りを持つのは総じて成虫である。その中で強いて挙げるなら社会生活をする蜂類や蟻類、単独生活をする蜻蛉類と蛾類であろう。ミツバチの種は営巣地から数キロ、スズメバチの種は十数キロ離れたエリアまで縄張りを持つ。働きバチが交代で縄張りエリアを"巡回"し、別の巣のハチがいれば近づいてその上を旋回して警告する。すると相手は逆らわず、すぐさま立ち去る。争わない為の暗黙のしきたりを相互に持つようだ。ちなみに、単独生活するジガバチの種は特定のエリアを持たない。トンボのオニヤンマやギンヤンマは、早朝から夕刻まで捕食を兼ねて、縄張りエリアをくまなく飛び回って活動する。他のエリアのライバルが接近する瞬間に取っ組み合いが起こり、瞬時に終わる。日に何度も繰り返されるが、双方が引く訳でもより激しく争う訳でもなく、生存する季節の期間、この意思表示が続けられる。蛾の一部は、時間制エリアという手段で縄張りを持つ。オオスカシバは午前から夕暮れまで活動し、その後交代で灰色スズメガが早朝まで活動する。無駄な争いをせずに済む、時間制住み分けという優れた知恵である。
 甲殻綱では、浜や磯で子ども達に人気のある岩ガニ科は、住処の岩穴周辺のみが縄張りであるが、外出中に他の個体がお邪魔しても、気にせずやり過ごし、別の適当な岩穴を探す。一方、シオマネキは縄張りにうるさい。それぞれが両腕を広げて、陣地を頻繁に主張する。相手の鋏と接触するとバトルになるが、勝負は一瞬につき、すぐに両者は離れて平和に戻る。興味深いのは、ハゼ類と共生するテッポウエビだ。どちらかが巣穴の奥の掃除中は、入り口で相棒が巣の周辺を睨む。見張り役がテッポウエビだと、不審者を発見すればすぐさま近づき、鉄砲を撃って撃退する。巣穴から半径約30センチは縄張り意識がある。
 魚類は、サメ科が強い縄張り意識を持つ。回遊エリアは縄張りであり、他のサメが近づくと戦闘が始まるが、強敵の鯱が来れば岩陰に身を潜めて立ち去るのを待つ。臆病ではなく、これには後述する理由がある。
 鳥類では、縄張り意識の強さでは猛禽類が顕著だ。中でもハヤブサやチョウヒは領空エリアを高速巡回し、「不法侵入」を見るや否や警告鳴を発しながら、相手が大型の鳶やノスリでもいきなり最高時速300k/h近くで突撃して追い出す。
 最後に人類と同じ哺乳類だが、海獣の勇、鯱は、家族ごとのハーレム単位で集団を形成するが、実はその縄張り領域は地上最大規模の北極から南極の海洋全域に渡る。ゆえに、サメの縄張りは鯱の縄張りエリアの管轄に含まれている。最強の海の覇者は、その管轄下でサメが独自に持つ縄張りを叱りはしない。だから、それを知るサメは身を潜めてやり過ごすのである。
 陸上哺乳類の場合、縄張りを持つ多くは肉食獸である。中でも鯱同様、ハーレムで集団生活するライオンは、獲物の草食獸の群れを求め、不定期的にサバンナを移動しながらその都度、縄張りエリアを定める。他の集団と紛争が起きれば、ハーレムを仕切る雄同士が全力で戦うが、形勢不利だとわかった雄は早めに引き、その集団ともども後腐れなく、あっさり立ち去る。これに対し生活方式の違うアジアのトラは、単独の一頭で移動しながらライオンに勝るほどの縄張りエリアを形成する。雄同士だと、エリアでぶつかればどちらかが倒れる寸前まで戦い、時に一昼夜におよぶ。この両雄は生存環境が違うので、生息区域の重なるインドでもベンガルトラとインドライオンの縄張り争いは、目撃例がない。本来の居住環境と異なる区域まで出張るような愚行はしない、頂上動物の賢明さを人間は殊更見習うべきだ。
 さて、以上みたように、昆虫や甲殻類さえ縄張り争いには暗黙の節度を持ち、必要以上に縄張り内に侵入しようとしない。小競り合いはあっても他者のエリアと分かれば身を引き、植物や菌類を栽培する農耕蟻属もいるように、他者から奪い取るより自分のエリア内の資源価値を努力で高め、生活資材は自らのエリア内で賄う。
 本誌前号の主張終盤にある解決案に似た方法は、昆虫達はいつの頃からか行っているのだ。魚類や鳥類はすでに上記の通りだ。哺乳類も集団生活か単独生活を問わず、生存の危機にでも直面しない限り、相手を極限まで追い詰めて縄張りを取ろうなどという意識はないのである。その理由は、自然界の生物は人間と違い、いかなる状況でも生きるためだけに争い、戦うからだ。だから縄張りに異常な執着はない。人間はより頭脳や意識が優れながら、縄張りの対処は自然界の生物が一枚上に思える。中国の真の目論見が海洋権益の拡大だとか海底資源獲得だとか余計な深読みは止め、日中が自然界の生物に負けない節度を発揮して手を取り合い、この諍いを機に、より友好信頼に繋がる事を切に望みたい。領土紛争を企てたのが米国なら、現代はマンネリの手口はもはや通用しない、無駄骨の徒労と思い知らせる事こそ、新時代におけるアジア国家と民族の、真の力の見せ所である。



議論

「橋下・維新」批判について

 


 前号の【議論】に、橋下現大阪市長による「日本維新の会」の国政への進出に歯止めをかけるべく、広範な国民的批判を高揚させようとある。だが、私としては"急いては事を仕損じる"にならないように注意してほしい。そもそも橋下徹氏は、テレビというメディアの人気番組で「茶髪の風雲児」として紹介されて名を売った、タレント弁護士だ。誠実そうな受け答えで、それでいてユーモアもあり、茶の間で高い好感度を得ていたようだ。
 彼はこのメディアの威力を立身出世に利用した。後に『出馬は2万%ない』などと公言しながら、ちゃっかり大阪府知事に収まる。
 【議論】には、"変わり映えしない政策しか出せない既存の政党や団体にはない魅力"とあるが、当時の平松市長をないがしろにし、労組と火花を散らして、堂々と大阪市職員の就業規則や倫理風紀を検閲するなどは、ただの越権行為に過ぎない。この時点で単なる野心家で、魅力にはほど遠い。だが、その攻撃が『民意』に批判されない裏付けを計算し尽くしている。市場競争にさらされず、法律と労使協定で保証された市税や法人税の財源で安定した給与体系に浸かり、奉仕と向上心の自覚に欠けると。雇用不安定な民間企業に勤め、不況に喘ぐ庶民や不安を抱える失業者から見た、嫉妬の不満感情に付け入り、煽る狡猾なやり口だ。
 但し、民間企業と比べて好条件な、自分達の職員待遇や既得権は必死で守り抜き、春闘等の労働運動で中小民間企業の労働条件や環境を、自治体職員の条件並みに向上するように懸命な共闘をしてこなかった、自治体労組の姿にも民意が離れる理由があったのではないかと思えば、反省すべき点ではあると思う。彼が民意を得たキッカケは、これら既得権が不平等経済格差の一役を買っているという、計算された一種の煽動効果をもたらしたからかも知れない。
 それはそれとして、正義の弁護士なら、巨額の余剰利益をブールしながら派遣切りをした大企業の資質から正すのが筋道だ。だが、実態は府知事に就任するが早いか、関西の財界経済界に媚びいり行脚を行った。野心出世には、組織力低下に悩む自治体労組など必要なく、金にモノを言わせる財界が必要だ。市職員労組の反撃にも立ち揺るがないのは、彼には強い見方がいるからだ。それは米国とつるんで、新自由主義を信奉する輩だ。その輩に忠実に在日朝鮮学校を差別し、原発再稼働には反対する素振りを見せて、土壇場で容認する。実に分かりやすいヒトラーだ。
 【議論】では、"依然民意が維新にあるのは、橋下・維新批判が民意を巡ってないから"とあるが、今の日本国民は当時のナチスドイツ国民や、軍国主義当時の国民ではない。それらの経験を踏まえ、危険人物を察する眼力は備えている。先頃の朝日新聞と週刊朝日へのやり方を見ても、記事の内容が良くないにせよ、彼の執拗で攻撃的な性格が浮き出ている。こんな人物の政策批判を載せるのは、誌面が勿体ない。時間と資源と労力の無駄使いだろう。今後は、急いての橋下・維新の批判は少なめに、それより彼と正反対真逆の論理を仕損じなく展開するほうが、むしろ「急がば回れ」の効果になると思う。



呼びかけ 原発いらん!被曝させるな!

11.11関電本店1万人大包囲

 


 東電福島第一原発の事故から1年半が経ちました。しかし事故はまったく収束しておらず、4号機の使用済み核燃料プールの倒壊の可能性など、さらなる大惨事の火種を抱えたままです。食品汚染は「食べて応援」、放射能汚染された震災がれきは「燃やして応援」、被災地を人質に放射能バラマキ政策を強引に推進しています。自主避難者たちは「ただの引越し」扱いでロクな補償も受けられず、汚染地域に残った人びとは厳しい汚染の中に支援もなく置き去りにされ、さらには政府の扇動によって対立さえさせられています。除染や事故収束の過酷な被曝労働を担う労働者たちへの酷い待遇は、改善されるどころかどんどん悪化しています。そんな中、「電力不足」の嘘を吹聴し「計画停電」と恫喝しながら、7月には大飯原発が再稼働しました。「原子力規制委員会の人事問題」では、これまで同様に原子力ムラの人間がおさまりました。原発事故の惨禍を反省するどころか、むしろそれをチャンスと考えているかのように、原発推進、汚染拡散、被曝強要を強力に押し進めています。断じて、こんなことを許しておくわけにはいきません。
 こうした中、11月11日に東京で、再度脱原発を訴える100万人行動が呼びかけられました。私たち関西でも、この行動に呼応し、連帯した大きな行動を起こしたいと思います。原発の再稼働反対をはじめとする「脱原発」、汚染の拡散や被曝の強要に反対する「脱被曝」を掲げた闘いを仕掛けていかねばなりません。そのために表記の「関西1万人行動」を提唱します。
 いま、関西には二つの焦点があります。第一に、原発を再稼働させた唯一の電力会社であり、原子力推進勢力の中心である関西電力があります。大飯原発の即時稼働停止を要求し、この関西電力を徹底的に叩かなければなりません。第二に、原発反対のフリをしながら土壇場で再稼働を容認した大阪市長・橋下徹です。橋下は、再稼動を容認したのみならず、大阪市での震災がれき受入れを主導することで、汚染拡散・被曝強要政策の先陣を切っています。その受入れに向けた試験焼却が、この11月に予定されています。断固として、この暴挙を粉砕せねばなりません。
 関西に住む私たちは、まず、関西の闘いをしっかり闘いたいと思います。脱原発・脱被曝社会を目指して、ともに立ち上がりましょう。

※       ※       ※

呼びかけ 11.11関西行動実行委員会
(呼びかけ人代表 小林圭二・京大原子炉実験所元講師)(日時)2012年11月11日(日)
午後2時から 集合・集会?西梅田公園(大阪市北区梅田2丁目)午後3時から午後4時30分 関電本店大包囲行動 (関電本店・周囲)


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