研究誌 「アジア新時代と日本」

第112号 2012/10/5



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 問われる選択、覇権強国か自主強国か

議論 「橋下・維新」批判の国民的高揚を!

時評 脱原発偽装 (愛知大学経済学部教授 田中良明「原発雑考」より転載)

コラム 故郷の空に安保を見る




 

編集部より

小川淳


 自民党総裁選でこともあろうか安倍晋三が返り咲いた。まず思ったのは、反省も進歩もない自民党ということだ。
 政権を失ってから三年、なぜ敗北したのか、どこが間違っていたのか、少なくとも自民党はここから教訓を探し、保守党としての政策や理念を鍛えなおしていく作業が必要だった。それにもかかわらず、政局だけに関心を払い、民主党の「揚げ足取り」を繰り返し、3・11の被災民をほったらかして党利党略だけで動いてきた。民主党との対立点がほとんど見えなくなった中で、民主党が右傾化を強めれば強めるほど、自民党はより右傾化することで「違い」を出すしかなくなった。安倍総裁を生んだのは時代でも民意でもない。廃炉になった原子炉を再起動させたようなものだ。
 ここ数年の政局は、江戸末期の幕藩体制の崩壊劇に良く似ている。黒船来航という国家存亡の危機の中で、為政者の頭にあったのは、国の未来よりも崩壊寸前の幕藩体制をいかに守るか、しかなかった。今の自民や民主党を見ていると、崩壊寸前の幕藩体制を取り繕うのに必死な徳川の家臣団とよく似ている。
 現在、彼らが必死に守ろうとしている「幕藩体制」とは、戦後60年も続く日米安保を基軸としたアメリカべったりの体制のことである。三年前の政権交代は、戦後60年続いた「体制」からの転換(改革)の絶好の機会であったが、その後の民主党の体たらくや、原発やTPP,オスプレイ配備、消費税導入などの政策を見ていると、民主党も同じ「戦後体制」の一派に堕ちてしまったことが明らかとなった。
 当時、幕藩体制を倒したのは、攘夷を掲げた倒幕派だった。体制の打破を掲げる橋下維新の会は倒幕派なのか。「体制」に反対しているように見えるが、その理念も政策も佐幕派そのもので、体制派のクーデター(維新)に等しい。
 安倍晋三の自民党総裁選当選は、日本の右傾化を象徴する出来事なのか。内橋克人氏はブログでそう分析しているが、私たちにはそう見えない。次の総選挙は「ゾンビ」(安倍)と「裏切り者」(野田)、「詐欺師」(橋下)が争うこととなる。確かに日本の未来は暗いが、その足元では、反原発の民意が原発というひとつの体制を壊したように、今やいたるところで戦後体制のメルトダウンは始まっているのだ。



主張

問われる選択、覇権強国か自主強国か

編集部


■高まる「強い国」への二つの要求
 この間、堰を切ったかのようにして、日本は「強い国」たれという声が高まっている。
 竹島、尖閣を巡っての騒動では、日本は舐められている、舐められない「強い国」にならねばならないという論調が出てきた。自民党総裁選挙でも、候補者全員が異口同音のように、民主党政権の3年間で日米関係はズタズタになり、その隙をつかれ、竹島、尖閣などの問題が起きた、だから日米同盟を強化し、集団的自衛権行使を容認して、日本は「強い国」にならなければならないと言っていた。
 その背景には、8月15日に発表されたアーミテージ・ナイ報告(米戦略国際問題研究所=CSISの第三弾報告)による、日本は「強い国」たれとの御託宣がある。その骨子は、「日本は一流国家でありつづけたいのか、二流国家で満足するのか」と問い掛け「強いアメリカは強い日本を必要としている」というものだ。
 さっそく、新しく自民党総裁になった安倍晋三は、集団的自衛権行使容認とそのための憲法改正をぶち上げた。
 一方、国民の中でも「強い国」への要求が高まっている。
 経済は衰退し、震災復興も進まず、原発事故の収拾もままならず放射能禍は広がっている。早急に対策を立てるべき政治は、民主、自民共に党利党略にあけくれ、国会は空転し政治の空白と言われるような状態。
 そうした状況の中で、国民は、経済を強くしてくれ、政治を強くしてくれ、日本を強い国にしてくれと願っている。
 橋下・維新の人気が高まっているのも、「強いリーダーシップ」を打ち出す橋下さんなら、この閉塞状態を打開して強い日本を作ってくれるのではないかという期待があるからだ。

■「強さ」の違いはどこに?
 同じ「強さ」でもアーミテージの言っている「強さ」と国民が求めている「強さ」は同じではない。どこがどのように違うのだろうか。
 アーミテージ報告の〈結論〉部分には「アジア太平洋地域における変化の中で、日本が地域に貢献する今ほどの機会はない。指導力を選ぶことで、日本は一級国としての地位、日米同盟における対等なパートナーの役割を確実にできよう」とある。
 すなわち、アーミテージが言う「強さ」とは、アジアに対して「指導力」を発揮する「強さ」ということになる。
 指導力とはオバマ政権の対アジア戦略である「関与と指導力(リーダーシップ)発揮」の指導力だ。その対象は領土問題と人権問題。米国は、国際政治において否定され、やってはならないこととされている内政干渉を領土と人権を口実にしてやり、武力介入も視野に入れているということだ。
 そのような「強さ」を国民は望んでいるのだろうか。
 今、日本には、国民が解決を望む問題が山積している。経済の衰退、雇用問題、格差の拡大、地方の疲弊、財政逼迫、社会保障や年金、震災復興や原発事故の問題、基地問題などなど。それらは国民の生活に直結した問題であり、これを放置したままでは国民生活はますます疲弊する。それ故、これを何とか解決してほしいというのは国民の切実な願いだ。しかし、これを解決すべき政治は混乱し、政治の空白、崩壊などと言われる状態に陥ってしまっている。
 こうした国内問題をさておいて外に向かって「指導力」を発揮するの、ああしろこうしろのと指図している場合ではないというのが国民の率直な気持ちではないだろうか。
 今、国民が求める「強さ」は、外のことよりも、国内の諸問題を解決する力であり、橋下氏が言うように、日本自体を「ぶっ壊し変える」強さではないだろうか。

■覇権強国か国民が求める自主強国か
 「アジアに対して指導力を発揮できる『強い国』」、それは、まさに覇権の考え方に基づく「強い国」だ。
 世界の上に立って、諸国の問題にあれこれ口を出し、言うことを聞かなければ武力を行使する、それはまさに覇権の考え方であり、そこからくる「強い国」のすすめとは覇権強国のすすめに他ならない。
 実際、アーミテージ・ナイ報告は、日本が米国の覇権を支える強い覇権国になれという、外に対する「指導力」強化へのすすめである。
 しかし、国民が求めているのは、金属疲労を起こしたかのように行き詰まり閉塞状況に陥ってしまっている古い日本をぶっ壊し作り変える、内に対する強いリーダーシップ(指導力)であり、それによって日本自身を変え、新しい強い日本を作ることである。
 それは、自分の国を自分の力で自国民の要求に合うようにつくる自主強国への要求だ。
 自主強国は、米国など他国に頼って作ることはできない。覇権強国を作れと要求してきている米国がやろうはずがない。
 自主強国はまた、米国など他国の要求ではなく日本国民自身の要求に合った日本のための日本に他ならない。
 アーミテージは昨年、震災復興について、「TPPによる復興」などと提言してきたが、それは復興特需の分け前を米国企業にも寄こせということだ。そして、今回の報告では日米エネルギー同盟をもちかけ、シェールガス開発への投資を求める一方、原発維持を要求して来た。
 これを見ても、米国は、自分の利益のために日本を利用することは考えても、日本のためにやってくれるということはない。うまい汁を吸い、エネルギーなど経済の根幹を握り、脱原発をはじめとする様々な問題で日本国民の要求とは相容れない要求を押し付けてくる。

■時代が求める真の強国、自主強国
 米国が要求する覇権強国か、それとも、日本国民自身が求める自主強国か。この問いに対する答えはあまりにも明らかだ。その上に今、自主強国は時代の要請にもなっている。
 数百年、続いてきた覇権の時代は終わった。今は、脱覇権自主の時代だ。
 何よりもまず、米国覇権が崩壊した。国内的には経済的衰退が進み膨大な借金の前で国家は破産に直面している。対外的にもイラク、アフガニスタンで敗退し、悪の枢軸と名指しし先制攻撃までほのめかしたイラン、北朝鮮は健在でありますます存在感を強めている。南シナ海もASEANの主導で紛争防止のための「行動準則」が合意され、米国が付け入る隙はない。対中国包囲戦略も、どの国も中国との関係強化を望む中で最初から破綻している、TPP交渉も米国基準を押し付けてくる手前勝手さに、交渉参加国の不信がつのり頓挫しつつある。
 米国覇権の崩壊を尻目に脱覇権の流れは勢いを増している。その代表例は世界各地で進む地域共同体形成の動きである。
 その特徴は、自主権尊重の共同体だというところにある。東アジア共同体は、その典型であり、そこでは主権尊重の容認が参加資格とされ、確固たる経済主権の下で各国は、弱い部門を強化しながら自国経済を発展させ、漸次的に域内関税を軽減・撤廃して域内貿易を振興させ、様々な経済的側面で協力関係を強めウィンウィンの成果を拡大している。そればかりでなく、外交、防衛面でも、領土紛争なども主権尊重の立場に立って、話し合いの方法で解決していっており、互いに協力して平和と繁栄を追求している。
 地域共同体形成の動きは、各国の自主強国を目指した動きを土台にして、それと一体となって進められているということなのだ。
 まさに、脱覇権自主の流れが決定的な時代的流れになっているのもそれが自主強国を作るという各国国民の要求と合致するものだからである。
 この時代的流れに対抗しようとする覇権強国に未来はない。
 真に「強い国」とはどういう国なのか。米国が仕掛けてきた「強い国」をめぐる論争に真っ向から立ち向かい、本当に「強い国」とは何かを歴史的な総括も踏まえて真剣に論議し、その道を模索する中で日本が真に「強い国」に生まれ変わることを願ってやまない。
 欧米が強要する覇権強国への道か国民が求める自主強国への道か、明治以来の真の強い国への選択が今こそ問われている。



議論

「橋下・維新」批判の国民的高揚を!

小西隆裕


 今、日本の政治それ自体が「国難」とも言える状況だ。もはや国政の体をなしていない。
 その国政にいよいよ「橋下・維新」が乗り出すことになった。大阪から攻め上る新興地域勢力が日本政治をどう変えるか。それは、日本にとって吉と出るかそれとも凶か。「橋下・維新」をめぐる議論が問われている。本誌で行うこの「維新」批判が日本と日本政治のあり方をめぐる議論になることを期して、何回かに分け、シリーズで問題提起していきたい。

(1)「橋下・維新」をなめてはならない

 この数年間、「橋下・維新」は何かと注目されてきた。それは、中央政界の腐敗と体たらく、地域政党の勃興などと軌を一にし、一体だった。一言でいって、その「注目」の背景には既存政治への深い絶望と新しい政治への切実な要求があったと言える。
 だから、この新興地域勢力の周りに醸し出される話題も、主としてその「新しさ」が本物か偽物かをめぐってのものだった。「ハシズム」なる造語が打ち出され、その登場がヒトラーの台頭と重ね合わされたのも、その路線、政策が小泉改革路線の焼き直しだと指摘され、民主、自民との違いのなさが言われるのもそのためだ。
 「橋下・維新」は決して国民の求める真に新しい政治勢力ではない。主としてインテリ、革新勢力から出されるこうした批判には根拠がある。現に当の「橋下・維新」の側からも、小泉路線の継承や自民との連携などが公言されている。
 だが、そこからこう考えたら間違いだと思う。どんなに新しく装っても、古い政治は民意に応えられない、「橋下・維新」への幻想がなくなるのも時間の問題だ、と。問題はその「時間」ではないのか。時間がかかりすぎては取り返しがつかない。ヒトラーは確かに滅びた。が、そのときドイツは破滅し、ヨーロッパは焼け野原になっていた。
 民主、自民など既成政党の中で、少なくとも今、民意を一番つかんでいるのは「橋下・維新」だ。先の大阪府と市、W選挙での「維新」の圧勝を見てもそれは明らかだ。古い大阪の破壊と新しい大阪の創造を公約したのは「維新」の側だ。大阪府民、市民の目に新しいのはどう見ても「橋下・維新」だった。「維新」への期待は、あれから半年経った今も続いている。神戸新聞が行った比例代表でどの政党、政治団体に投票するかのアンケートでも、「維新」、32・3%は、13・2%の自民、6・6%の民主を大きく引き離していた。
 「橋下・維新」は、何より、現状を否定し、打ち壊すと言っている。そして未来の新しい創造を約束してくれる。たとえいろいろ問題があるにしても、そこには未知への期待がある。現実のしがらみにからめ取られ、にっちもさっちもいかず、何の代わり映えもない政策しか打ち出せずにいる他の政党、団体にはない魅力がある。
 「橋下・維新」をなめてはならない。「維新」との闘いが今こそ問われている。要は、「維新」が振りまく幻想の打破だ。その武器は批判だ。それもこれまでのような批判ではだめだ。幻想を打ち破る強力な批判が今こそ切実に求められている。

(2)新しい時代、高い民意に応える批判を!

■民意こそ批判の基準
 「橋下・維新」には、これまで多くの批判がなされてきた。「ヒトラーのミニチュア」、「小泉の焼き直し」、「橋下独裁の『橋下徹の党』」、等々。これらの批判に一定の威力があるのは事実だ。これで「橋下・維新」への幻想がなくなった人もいるだろう。
 しかし、いまだ「維新」への国民の支持はダントツだ。「橋下・維新」自身も、民意はわれにありと自負している。これだけ批判し、これだけその本性を暴露しても、なお目が覚めないのか。もはやこの国の民は救いようがないのか。インテリや革新勢力の間に、こうしたあきらめや徒労感が広がったとしても不思議ではない。
 さらに、こうした現実も手伝ってか、「橋下・維新」を「ポピュリズム」(大衆迎合主義)と批判し、民意を得ていること自体を批判する傾向も現れている。「橋下・維新」は、民意におもねり、民意に迎合して日本を悪い方向に導いているというのだ。だが、民意に添い、民意を得るのが悪いことなのか。そう言ってしまったらお終いだ。それ自体、「維新」への敗北そのものだ。
 様々な角度からの無数の批判にも関わらず、「橋下・維新」への幻想は打ち破られていない。その支持は落ちず、民意は相変わらず「維新」にある。なぜそうなのか。その大きな要因の一つに、「維新」への批判が民意をめぐり、民意を基準にしたものになっていないことがあると思う。
 今日、政治をめぐる民意は、現状の打破にこそある。今の日本、今の政治には我慢ならない。それが国民の意思だ。と同時に、それは未来に向けた新しい創造への要求だ。国民は、新しい日本、新しい政治の創造をこそ求めている。
 「橋下・維新」への批判はこの高まる民意をめぐってのものになっていない。「橋下・維新」がこの時代的な国民の意思と要求に応えているのか否か、応えていないならどうすれば応えられるのか。そこまで踏み込んだ批判になってこそ、民意をめぐる、民意を基準とした批判だと言える。
 民意を基準に批判する。この批判の大原則、要諦を踏まえたものになっていないこと、そこにこれまでの批判の最大の問題点がある。

■問題は日本のかたちをどう変えるかだ
 古い日本を破壊し、新しい日本を創造する。この時代的に高まる民意を基準として、「橋下・維新」を批判するためにはどうしたらよいか。
 先にも見たように、「橋下・維新」の人気の秘密は、民意を踏まえ、民意に応える姿勢を見せているところにある。日本維新の会の発足を公にしたパーティの席でその代表となる橋下徹は「東京一極集中の日本のかたちを変える」と宣言した。この「日本のかたち」が「東京一極集中」だけを意味しているのでないのは、彼らの綱領、「維新八策」を見れば明らかだ。しかし、彼は他のややこしいこと、不都合なことは全部覆い隠し、誰もが納得する「東京一極集中」だけを取り出して「日本のかたちを変える」と宣言した。ここに民意に神経を使い、民意を前面に出してことを運び、選挙を手段に、民意を口実にして物事を動かしていく「橋下・維新」の基本手法が浮き彫りにされている。
 今、「橋下・維新」は、日本のかたち、日本のあり方を問題にし、それを変えようと訴えている。そこに今日の時代的民意があるからだ。われわれもそれを積極的に問題にしていくべきだ。
 だが、これまでの「橋下・維新」批判はそうなっていなかった。古い日本をどう壊し、新しい日本をどう創るのかをめぐって、「維新」と真っ向からぶつかるのを避けていた。すなわち、民意を基準にした批判になっていなかった。これでは、今日の時代的に高まる民意を背景に、広範な国民的「維新」批判の高揚を引き起こすことはできない。
 なぜ、民意基準の「維新」批判ができなかったのか。それは、端的に、「橋下・維新」が描く日本のかたちを圧倒する新しい日本のかたちが描けていないからに他ならない。もちろん、今、新しい日本のかたちをめぐる試案がまったくなされていないというわけではない。それどころか、様々な試みがなされている。しかし、また、新自由主義的な日本のあり方を根本的に覆す、真に民意に応える新しい時代の新しい日本のあり方、国のかたちが発見されていないのも事実である。
 こうした中、「橋下・維新」は、新自由主義的な日本のかたちをベースに、統治機構の見直しを優先し前面に押し出してきた。「大阪都構想」と「道州制」、「首相公選制」、「参院廃止、衆院削減など国会の抜本的改革」、等々、それは具体的だ。
 統治機構、体制の見直しを政策の見直しに先立て、日本のかたちの改変を前面に押し出してくる「橋下・維新」のやり方に対して、自らが押し出す新しい日本のあり方が定まらないままに、新しい時代の民意を基準とする批判はできない。
 「橋下・維新」が「日本維新の会」として国政に乗り出してきた今日、問われているのは、日本のかたちをどう変えるかをめぐる広範な国民的「維新」批判の高揚だ。それを実現することができてこそ、真に新しい日本のあり方を全国民的な力で力強く切り開いていくことができるだろう。
 この議論欄での「橋下・維新」批判シリーズは、そのための一つのたたき台を提供するものだ。積極的な反論をお待ちしている。


 
時評

脱原発偽装

愛知大学経済学部教授 田中良明(「原発雑考」より転載)


 政府の新しい原発・エネルギー政策が発表された。「原発に依存しない社会の一日も早い実現」が第一の柱に掲げられているが、その実現の時期は2030年代とされている。遅いだけでなく、幅がありすぎる。脱原発を確実に達成することを重視してそうしたのであれば、終期の2039年までには必ず脱原発を達成することが謳われているべきだが、そうはなっていない。野田首相は、このあいまい表記にすら消極的だったという。
 脱原発までの行程もまったく示されていない。40年廃炉と新増設禁止が掲げられているが、それだけでは30年代に稼働原発ゼロにならない。新増設禁止の内容もあいまいであり、核燃料サイクルについてはまったく矛盾した方針が示されている。その上この政策は、閣議決定されなかった。
 これらのことから分かるように、これは脱原発政策ではなく、脱原発偽装である。しかも、政権が変わればこの政策すら無視される公算が大である。この政策決定で脱原発が進むと考えることはできない。
 ただし、この政策決定に至る過程で行われた「国民的議論」において、国民の多数が脱原発を望んでいることが明確になった。
 原発維持にまともな理由はないことも、次第に明らかになって来ている。
 かなりの猛暑だったこの夏を稼働原発わずか2基で乗り切り、かつ、事後の検証でこの2基の稼働すら必要なかったことが明らかになったことで、電力不足の懸念は完全に払拭された。
 発電コストについては、事故コストを算入すれば(算入するのが当然だ)、原発ゼロのほうが原発維持よりも低コストになることが、政府資料(「エネルギー・環境に関する選択肢」)からも明らかになっている。
 発表された新政策は脱原発偽装にすぎないが、それを本当の脱原発の一里塚にしてしまうことは可能だ。大事なのは、あきらめないこと、「原発いらない」の声を上げ続けることだ。

検証・夏の電力需給

 電力不足による停電はなく、停電回避のために苦労したという話もなかった。これが、この夏の電力需給についての確かな事実である。
 焦点になった関電については、この夏の最大電力2682万kWを記録した8月3日の供給力は2999万kW。利用率(最大電力÷供給力)は89.4%で、十分な供給余力があった。大飯3、4号の236万kWを除けば利用率は97.1%になり、上限とされる97%をわずかに超えるが、電力融通が容易な中・西日本の6電力(60Hz圏)全体では利用率は87.7%だったから、大飯3、4号を稼働させなくても、電力不足は発生しなかったといえる。
 電力需給計画を立てる際には、まず月ごとに予想される最大需要(最大電力)と準備可能な供給力(限界供給力)を算定する。[(限界供給力? 最大電力)÷最大電力]が予備率である。
 実際の運用では、毎日、翌日の最大の電力需要を予想して、それよりも10%程度多い供給力を準備する。[ある日の最大電力需要÷その日の準備供給力]が利用率である。中部電力の場合、予想利用率はいつも90%±1%の幅に収まっていた。これは、そのようにしつらえているからである。仮に利用率が100%を超えても、その日の最大電力需要が限界供給力を超えないかぎり、電力不足にはならない。予備率と利用率は別物であり、電力需給の検証にとって重要なのは予備率である。
以下では、この夏の関電の電力需給について検証する。
 2010年の関電の最大電力は3089万kWだった。今年は2682万kWで、2010年より407万kW少ない。年々の最大電力の変動の理由には、気温の影響、景気の影響、および節電効果がある。
 気温の影響について、4月23日提出の関電資料(以下、初期想定という)では、2010年に比べて今年は79万kWの減少と想定されている。2011年は2010年から154万kW減少したとされている。今年は2010年と2011年の中間程度の暑さだったから、気温の影響は、初期想定どおり79万kW減少と見なして、差し支えないだろう。景気の影響は、初期想定では14万kWの増加(経済活動が少し上向く)になっている。これも変更する必要はなかろう。
 その結果として、407万kW ? 79万kW + 14万kW = 342万kW が節電効果だったということになる。節電率は、342 ÷(2682 + 342)=11.3% である。
 供給力は、初期想定では大飯3、4号が再稼働しない前提で2542万kWとされていた。それが実績では大飯3、4号込みで2999万kWだった。457万kWの増加である。その理由は、
@ 関電はもともと、大飯3、4号が再稼働すると電力不足が解消される、すなわち供給力が445万kW増加するとしていた。大飯3、4号の再稼働によって236万kWが追加され、同時にそのことによって夜間に揚水に使える電力が増え、その結果昼間の揚水発電能力が209万kW以上回復するからである(このからくりについては、本誌288号を参照されたい)。
A さらに、太陽光発電と水力発電の発電量が、正確な量は分からないが、初期想定より50万kW程度は多かったようである。太陽光発電は、多数の新規設置があり、水力発電は、豊水(流水量が多い)だったためである。
 @、Aを合わせると実際の増加量よりも40万kWは多い勘定になる。実際の増加量がもっとあってもよいということである。そうならなかったのは、今夏最大電力を記録した8月3日に計画運転停止(相生1号)や低出力運転(赤穂2号)をしていた火力発電があったからである。いいかえると、この日に準備された2999万kWは限界供給力ではなかったということである。
 ところで資源エネルギー庁は、今夏は、猛暑でなかった・計画外停止が少なかった・水力発電が好調だった、などの幸運があったので、大飯3、4号を再稼働させなくても電気は足りたのであって、幸運がなければ、大飯3、4号なしでは乗り切れなかったと主張している。それは本当か。
 上に述べたように、関電は、大飯3、4号が再稼働されれば電力不足は解消されるとしていた。どういう方法であれ初期想定から需給ギャップが236万kW縮小されれば、電力不足は解消されるということである。
 今年は2010年比で節電が342万kW増加した。関電の初期想定では117万kWだったから、それより225万kWも多く節電されたのである。これだけで需給ギャップ解消に必要な236万kWがほとんど賄えている。さらに、太陽光発電の設置数が増えたことによって10?20万kWの供給増が生じている。
 このように一時的、偶然的ではない要因で需給ギャップの解消が可能であり、幸運がなかったとしても、大飯3、4号の再稼働は必要なかった。私は6月には、[節電増196万kW+中電からの融通40万kW]で236万kWを調達すればよいと考えていたが、実際には融通なしで236万kWを調達することが可能だったのである。3%の必要予備率までは賄えないが、それは他の電力会社からの融通に頼れば済むことである。
 〈電力需給夏の陣 2012〉は、節電と再生可能エネルギー利用による脱原発という未来の物語の序章になった。その意味で脱原発派にとっては勇気づけられる勝利であり、原発維持派にとっては手痛い敗北だったろう。

雑 記 帳

 やっと涼しくなってきた。この夏豊橋では、気温はあまり高くならなかったが、湿度の高い日が多かった。太平洋高気圧にきれいに覆われると、涼しくてあまり湿度の高くない海風が吹くのだが、高気圧の位置が東にずれて、その縁を回り込んで湿った空気が入ったようだ。
 この気象と関係があるかどうか、分からないが、庭の植木に毛虫がほとんど付かなかった。昨年大発生したイラムシは、今年は文字通り1匹も見かけなかったし、食害の痕もなかった。アゲハの幼虫も見かけなかった(アゲハはけっこう飛んでいたが)。
 庭で増えたのはトカゲ。一昨年秋にトカゲ捕りの名手だった庭飼いのネコが死んでから、急増している。ちなみに家飼いの2匹はトカゲを捕らない(捕れないといったほうが正確かもしれない)。
 ひいきにしているアシナガバチは、春にはよく見かけたのだが、夏以降はあまり見かけなくなった。たぶん巣を取られてしまったのだろう。
 なお、先月号に書いた公園の照明は、8月末に再点灯した。どうやら、節電のために暑い時期だけ消していたようである。
 引き続き頑張っていきたいと思っています。



コラム

故郷の空に安保を見る

金子恵美子


 訪問介護先の九〇歳になるSさんが、共産党とは関係ないが、「読むところが沢山あるからね」と「赤旗日曜版」をとっている。文化面も充実していて、最近活躍中の文化人や芸能人へのインタビュー、本や映画の紹介、一週間のおかず、小説の掲載、クイズなどなど盛りだくさんだ。これを一週間かけて隅々まで読んでいるSさん、認知症とは無縁で過ごされている。
 そのまま処分してしまうのはもったいないので、私もSさんの了解を得て時々家に持ち帰り読ませてもらっている。その9月9日号に思わず目が引き付けられた。そこには、「群馬・米軍機低空飛行の恐怖」「オスプレイ訓練くるな」という文字が踊っていた。「えっ、群馬にオスプレイ?」群馬は私の生まれ故郷だ。思わず読み進んでいくと、そこには私の全く知らない群馬県のもう一つの顔があった。
 群馬では米空母艦載機などによる飛行訓練が頻繁に行われているという。その上、米海兵隊の「オスプレイ」の低空飛行訓練ルートにもなっているという。「オスプレイ」の訓練ルートが沖縄だけでなく色分けされて全国6ルートで行われるということは知っていたが、まさか群馬がその一つの「ブルールート」になっていようとは・・・。
 調べてみると群馬には、ほぼ全域で自衛隊の高高度(エリアH)と低高度(エリア3)訓練空域が重なっており、そこに今度は悪名高き「オスプレイ」の訓練ルートまで加わると言う。この3つの訓練空域が重なる真下にある県北部の温泉や谷川岳で知られるみなかみ町では、住民のほとんどが「オスプレイ」の訓練計画を初めて知ったとのこと。これまでも自衛隊の訓練空域であるにもかかわらず、実質米軍機の低空飛行訓練に使われ、その爆音に苦しめられてきた住民にとっては、晴天の霹靂ともいうべき出来事だ。これも初めて知ったのだが、爆音の苦情申し立ても、群馬が全国の8割を占めているそうだ。「近所のおばあさんが一人では怖いと言って逃げてき」(前橋)「4階建ての工場の屋根くらいの低さで飛んでくる」(伊勢崎)「早朝3時過ぎから4,5回ジェット機の音が煩かった」(安中市)などなど。ここに超低空飛行(地上60mを飛ぶ可能性もある)の「オスプレイ」まで加わるとなれば、住民の恐怖や苦痛はいかばかりか。前橋や安中という懐かしい故郷の町の名前が「オスプレイ」という疫病神のような米軍機と結びついて私の前に現れようとは本当に驚愕であり、「そんな事も知らなかった私を許して故郷群馬よ」と謝りたい気持ちになった。こうして「オスプレイ」は更に私にとって切り離せない問題になった。
 10月1日の朝日新聞には、「我が国の安全保障に大変大きな意味がある。・・・負担軽減の観点からオスプレイの本土への訓練移転を具体的に進めるなど、全国で負担を分かち合うよう努力したい」との野田首相の談話が載せられていた。野田さん、国民はそんなところで努力して欲しいとは思っていませんよ。


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