研究誌 「アジア新時代と日本」

第107号 2012/5/24



■ ■ 目 次 ■ ■

編集部より

主張 BRICS「デリー宣言」に何を学ぶか

講演 「厳罰化社会に抗して」   弁護士 安田好弘

議論の場 今なぜ、橋下が「脱原発」なのか?

投稿 現場無視の介護報酬改定




編集部より

 

 5月5日、北海道泊原発3号機(91万kW)が定期検査のため発電を停止した。これで国内の原発50基すべてが止まったことになる。
 再稼動を迫る政府や財界の圧力の中で再稼動を許さなかったのは、払拭しがたい原発の安全性への不信と、「原発のない日本」をめざす広範な人々の強い願いが結びついた結果であった。同時にそれは今後の日本が原発なしでやっていけるのかどうか、「脱原発」に向けた「壮大な実験」の始まりでもある。
 このまま原発なしでもやっていけることを実証できるなら、再稼動を主張する政府や財界の根拠はなくなる。だからこそ原発ゼロの事態が続くことを一番恐れているのは彼ら自身であり、再稼動に躍起となってくることは明らかで、原発をめぐる闘いは今年熾烈を極めることになる。
 全世界に稼働中の400以上の原発の内、地震危険地帯に立地する原発50基の中で、津波にも弱い原発は39基あり、その内の35基は日本にあるという。そもそも地震の巣窟といわれる狭い列島になぜ54基もの原発が作られたのか。なぜこれほどの原発が日本に必要であったのか。その経緯を辿るなら、アメリカの影がくっきりと浮かび上がってくるはずだ。
 「原発ゼロ続けば日本は衰退、産業空洞化が進む」(産経新聞)というようなメディアの論調が今後は増えていくだろう。
 しかし、日本における火力の発電量は2739億kW、原発は2797億kWでほぼ同じだが、火力の稼働率は50%に過ぎず、もし100%近い稼働率を達成するなら原発の発電量を補って余りある。それ以外に、「自家発電施設」が全国で3249ヵ所あり、その内の2569ヶ所が火力発電所で、その自家発電だけで原発54基分の総出力を上回るという。
 電気が足りないわけではない。設備が充分に稼動していないだけの話だ。電力会社が発電も送電も小売も独占するようなシステムを改め、太陽光や風力、地熱など自然エネルギーへと転換していくこと、またそれらを有機的に結合し、電気も地産地消というような地域分散型のエネルギー社会へと転換していくなら、脱原発は充分可能ではないか。
 この「原発ゼロ」を、そのような大きな社会の転換へとつなげていく壮大な実験の始まりとしたいと思う。

小川淳



主張

BRICS「デリー宣言」に何を学ぶか

 去る3月29日、インドの首都ニューデリーでブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの新興五大国「BRICS」のサミット(首脳会議)が開かれ、「デリー宣言」が採択された。
 2009年の第一回から数えて4回目、今年のサミットでの決定や宣言は、かつてないものだった。それをBRICSが、見る影もなくなった米国の覇権に取って代わり新覇権をめざすものと見るのか、それともあくまで途上国の立場から覇権そのものに反対し、脱覇権の世界を求めるものと見なすのか、それは日本の進路を考える上でも極めて大きな意味を持っている。

■画期的だった、BRICS「デリー宣言」

 近年、BRICSが世界において占める地位は飛躍的に高まっている。2001年から10年間にそのGDP総計は、2兆7906億ドルから13兆6567億ドルへと、世界総計に占める割合にして8・7%から19・5%へ急増した。
 この地位の高まりを背景に今回のサミットとその宣言の内容は画期的だった。50条からなる宣言の第5条では、先進諸国が財政赤字と通貨発行を増やしすぎ、世界経済を不安定にしたことへの懸念が表明され、6条で先進国の過剰な金融緩和への反対、7条で世界的な金融財政の安定化機関としてG20を使うことへの提唱が記された。
 先進国、中でも基軸通貨国、米国が天井知らずの財政赤字の補填をドルの無制限な増刷によって行い、ドル信用不安とドル体制崩壊の危機が一段と深刻化している中、上記の懸念表明や提唱などに加え、宣言には載せられなかったが、より重大な決定がなされた。BRICS相互の貿易で、ドルではなく自分たちの通貨を使う決済体制が正式に決められたのだ。ドルを使わない貿易決済体制の確立、これは1944年、今の国際通貨金融体制、ブレトンウッズ体制ができて以来のことだ。
 今回のサミットではこれ以外にも、これまでのような抽象的問題提起とは違い、世界の運営に関する様々な具体策が提起された。IMFでの途上国の発言権強化、世界銀行総裁への途上国出身者の就任、途上国へ開発資金の供給を強化するBRICS合同の開発銀行の設立、国連安保常任理事国へのインド、ブラジル、南アフリカの就任、等々、これまでの先進国主導の世界政治、経済のあり方の変更を求める問題提起が多数なされた。

■新しい時代を古い思想で評価してよいのか

 こうしたBRICSサミットでの決定や宣言の採択を見ながら、それを新しい覇権体制構築への動きとしてとらえる見方が出されている。
 田中宇氏は、今回の動きを、それ自体米国から覇権を奪う動きではないとしながら、米国の覇権が弱まる中、世界の混乱を避けるため、BRICSが米欧に代わって集団で覇権の運営をする動きだととらえている。田中氏曰く、「BRICSは、覇権という舞台で次の幕の登場を準備すべく、舞台裏の控え室に入った感じだ」ということだ。
 BRICS、中でも中国やロシアの動きを覇権へ向けたものとしてとらえているのは田中氏だけではない。「新帝国主義時代」なる概念を提唱している佐藤優氏。氏は、こうした見解の根拠として、帝国主義の特徴を独占資本が国家と結びつくことに求め、今日、中国やロシアまで含む帝国主義が地域共同体など新たな経済ブロックをつくって抗争していることを挙げている。
 今日の世界の動きを覇権抗争の見地から見るこうした見方、見解の根底には弱肉強食の思想がある。人間世界は、所詮、強い者が弱い者を支配し、搾取、収奪する弱肉強食の世界だとする相も変わらぬジャングルの論理、覇権の思想だ。
 ここで一つ問題提起したいのは、新しい時代を古い思想に基づき、それを尺度に分析することの妥当性だ。新しい時代は新しい思想によってのみ正しく評価できるのではないか。それを古い思想、古い論理によって行えば、誤りを犯すことになる。実際、田中氏や佐藤氏の見方、見解は今日の歴史的現実を反映できていると言えるのか。

■今問題は、どちらの覇権につくのかにあるのか

 デリー宣言が世界を先進国と途上国に分け、途上国の立場から書かれているのは明らかだ。先進国の金融財政政策による世界経済の不安定化への懸念表明、IMFや世界銀行、そして国連など国際機構を牛耳り、自分らの利益を図る先進国への異議申し立て、途上国へ開発資金を供給する開発銀行の開設、等々、すべては先進国の横暴に反対し、途上国の利益を図るのに貫かれている。
 その上で、こうした「途上国の立場」はどうとらえられるべきなのか。それを真に途上国全体の利益を代表する立場と見るのか、それとも、途上国の名を借りたBRICS、すなわち、「地域覇権大国」の立場と見るのかということだ。
 ここで、中国やロシアなど新興大国のBRICS諸国に覇権的傾向があるのは事実だ。それは、南沙群島における領有権をめぐる中国とASEAN諸国との衝突、ロシアと旧ソ連邦諸国との確執などに現れている。
 だが、一方、それら対立、確執を利用し助長して、米欧がそこに関与・介入し、自らの覇権を取り戻そうとしているのも事実だ。実際、中国やロシアの覇権を騒ぎ立てること自体、それと米国の覇権とを比較し、どちらの覇権の下に入るのが有利かという問題に帰着されていっている。
 問題は今、どちらの覇権につくべきかにあるのか。それは、弱肉強食、古い覇権の論理に基づく誤った問題提起なのではないだろうか。

■新しい時代、新しい思想で日本の進路を!

 実際、今日問われているのは、どの覇権の下に入るのかではなく、覇権か脱覇権か、どの立場に立つのかだと思う。
 先述したように、新興五大国BRICSに大国主義的で覇権的な傾向なり要素なりはあるかもしれない。しかし、「BRICS=新覇権」論は誤りだ。それは、一言でいって、もはや覇権の時代は終焉し、脱覇権の時代が到来しているからだと言うことができる。すなわち、地域新興大国BRICSがたとえ覇権しようとしてもそれは許されず、途上国の一員として、途上国とともに脱覇権の道に進むところにこそ、これら諸国の未来があるということだ。
 覇権から脱覇権へ、この大きな時代的転換の根底には、自国、自民族の尊厳と主権、自主権への世界的範囲での覚醒がある。もはや世界のどの国、どの民族も、自国、自民族への冒涜、主権、自主権への侵害を許さない。それは、朝鮮やイラン、アフガンやイラク、中南米やASEAN諸国だけではない。ヨーロッパやアフリカなど世界中ほとんどの国と民族が大国の横暴を許さず、覇権に反対するようになっている。
 今回のBRICSサミットとその宣言は、こうした覇権から脱覇権への世界的趨勢の端的な反映だと言うことができる。そこで示された「途上国の立場」は、BRICS諸国が米欧先進国の覇権に反対し、途上国全体の脱覇権、反覇権自主の利益をともに図っていく立場表明に他ならない。
 その根底にあるのは、古い弱肉強食の覇権思想とはまったく異質のものだ。デリー宣言の最初の四つの条で主権尊重と協調のBRICSのあり方が表明されたのはそのことを示している。主権尊重と協調の思想は、国と民族の尊厳とその主権、自主権を否定し、弱肉強食の対立と抗争を人間本来の生存方式と見る覇権思想とはまったく相容れず、それと真っ向から対決する脱覇権の思想だ。
 この脱覇権の思想、反覇権自主の論理から見たとき、新しい時代はまったく違うものに見えてくる。新しい経済ブロックにしか見えなかったEUや東アジア共同体など地域共同体は、米国の覇権に抗し主権を守るため、域内各国が協調すると同時に、世界的範囲で各地域共同体同士、連係・協調する脱覇権自主の政治・経済的共同体、覇権そのものを最終的になくしてしまうための強力な砦に見えてくる。一方、「国際社会」に楯突く無法者、世界の孤児に見られる朝鮮やイランはどうか。脱覇権自主の見地から見たとき、これら諸国はどう見えるか。それは時代の先覚者であり、脱覇権の旗手、途上国の希望の星だ。事実、今回のBRICSサミットでは、朝鮮の人工衛星打ち上げは議題にも上らなかったし、イランは、中東の平和に寄与する国として評価され、その原子力平和利用も当然のこととして認められた。
 時代は大きく転換している。覇権から脱覇権への時代的大転換は、もはや誰の目にも明らかだ。今回のBRICSサミットとデリー宣言は、そのことを雄弁に物語っている。
 今問われているのは、新しい脱覇権の思想で新しい歴史的現実を直視し、そこに日本の進路を見出すことだと思う。

編集部




講演

「厳罰化社会に抗して」
                       弁護士 安田好弘

(*今年3月、京都で行われた『受刑者も市民』での安田弁護士の講演ですが、多くの方に読んで頂きたく収録しました。)

 今日レジュメを用意しましたので見ていただきたいのですが、厳罰化がどれくらい進んでいるかについては刑罰の一番重い死刑についてみれば良く分かりますが、死刑の行われた回数を10年ごとに拾ってみますと、1980年から1990年まで死刑が確定した人は42名です。その後の10年、1992年から2001年までは47名と横ばいです。ところが2002年から2011年にかけては132名、増加率で言えば280%、これは厳罰化という私達のイメージをはるかに超えているものです。
 では犯罪の数はどうか。殺人事件で死亡した人の数字を見てみると、1990年から1999年までは9281人、つまり年間900人です。2000年から2009年までは8496人、一年間849名です。約10%近く殺人被害者が減っているわけです。この10年間で見ますと、どんどん減っている。将来の見通しが立たない、そういう場合には犯罪は増えると一般的には言われていますが、実はそういう状況にあっても、犯罪は減ってきている。
 これに対して10年間、著しく厳罰化が進んでいる。組織暴力団に対して特別の刑罰を用意する暴対法がある。最近では各地方公共団体が暴対条例を制定して暴力対策法をさらに上回る法律を作っている。これはいずれ暴力団だけではなく特定の団体や特定の人たちを処罰することが進行するだろう。
 経済生活領域では、昨年「強制執行妨害法」が全面的に改正されました。私はこの罪名で一年間、拘置所に入れられたわけですが、まったく違った法律に生まれ変わっている。従来は、強制執行を妨害する目的で財産を隠匿したり、負債を仮装したり、隠したりしたらいけないとなっていた。ところが昨年の改正でどう変わったかと言うと、壊してはいけない、価値を貶めてはならない、強制執行に余分なお金をかけさせるようなことをしてはならないとなった。
 具体的に言うと、私が債務超過状態で、私の債権者がB銀行だったとしますと、B銀行に黙って職場を替えると、これは強制執行に余分にお金がかかる。私の自宅がA市にあった。B銀行に黙って引っ越ししたら、これも余分なお金がかかるわけですから強制執行妨害罪になる。強制執行妨害罪というのは、昭和16年、国家総動員法とタイアップして作られた法律なんです。
 さらに今やられようとしているのが「共謀罪」です。今まで日本では共謀しても犯罪にならない。つまり何か犯罪を行わなければ犯罪にならない。ここには二つの考え方がある。一つは実際に害が及んでいないのに刑罰をかけてはいけないということ。もう一つは、もし行為を行っていないのに刑罰を科すとなると、何が犯罪かわからなくなるということです。日本では共謀罪はなかった。ところが政府は今国会あるいは次の国会で成立させようとしている。共謀罪は国際標準になっている。テロ防止するためには共謀罪は絶対に必要であるとされている。
 光市事件について話をしたい。光市事件とは18歳1ヶ月に満たない子供が起した事件です。事件の中身というのは殺人罪と強姦致死罪、それから窃盗罪、一審の山口地裁は無期懲役、二審の広島高裁も無期懲役を出しました。これが従来の刑罰であれば当たり前なんです。むしろ重いくらいです。従来の刑罰観から言いますとむしろ刑事裁判所でなくて家庭裁判所や保護処分が相当であったはずが、刑事裁判にかけられた。刑事裁判の中でも一番重い無期懲役がかけられている。
 私どもはよく彼は三回利用されたといっています。第一が少年法の改正です。少年法というのは未成年の子供達について教育や保護で臨む。そういう姿勢で彼らには刑事罰は課さない。むしろ少年事件についてはその家庭環境とか、生育歴とか、あるいは学校関係とか、そういうことを徹底的に調べて専門家の力を借りてその原因を解明していく。そういうことで少年の犯罪には対処しようというのが少年法の趣旨なんですね。ところが2000年に少年法が全面大改造されている。16歳以下の子供については刑事罰は問わないとなっていたが、それを2歳引き下げた。殺人などのケースについて原則として刑事罰で臨むというふうに変わった。この改正については日弁連などで根強い反対運動をやって阻止してきたわけですがこの光市事件によって改正されてしまった。
 第二は、この事件では他の事件と違って被害者の感情が極めて峻烈で本村さんが遺影を抱えて被告を許さないという形で叫ぶ。それが何度もテレビに映る。そういう中で被害者が裁判所に参加できる制度が必要だとされた。それまでは被害者は単なる証人でしかなかったんですが、その後、意見を陳述することができるという風に変わった。今では検察官と並んで法廷に出ることができ、検察官と同じような立場で被告人に質問でき、論告求刑を求めることができるようになった。この事件をきっかけにいわゆる被害者参加制度が2008年に生まれた。
 第三は、裁判員裁判に利用された。裁判員裁判がスタートするときにはいろんな問題があった。市民が死刑を宣告せざるを得ない場合がある。市民はそういう苦痛をさけるために死刑を宣告しなくなるんじゃないか、そういう懸念が生まれた。そういう懸念を払うために生まれたのが「光市ルール」です。「永山ルール」から「光市ルール」へ大転換が起こった。「永山ルール」というのは1983年、最高裁が永山事件で差し戻したときのルールですね。連続ピストル殺人事件ですが、犯行時は19歳で、高等裁判所は一審の死刑を破棄した。その理由は死刑の適用については絶対に誤りがあってはならないとされた。その頃は死刑判決は年間に一件くらいしかなかった。裁判所にとって死刑というのはそれくらい重かった。あらゆることを考慮しやむを得ない場合だけ死刑は許されるというルールを作った。ところが「光市ルール」では、逆に死刑を回避するためには合理的理由が無ければならないとされた。そして18歳一ヶ月という年齢は死刑回避の理由にならないとされた。
 永山事件以降、未成年で死刑になった人は一人しかいない。永山事件も被害者は4名です。刑法で一番重いのが強盗殺人事件ですが、強盗殺人の場合には死刑か無期かしかない。強姦殺人の場合は5年以上です。だから強盗殺人に比べると強姦殺人は軽い。ところが光市事件の場合は被害者が2名、そして強盗殺人ではなく強姦殺人だった。刑法自体は軽い処罰を予定している。ところが最高裁は広島高裁に死刑判決をさせた。4名という死刑適用基準を完全にひっくり返してしまった。
 死刑が確定したとき最高裁は、彼には不遇な家庭環境とか、精神的幼さとか、いろんな事情があるけれども、やったことの重さを考えると死刑はやむを得ないとした。つまり事件の背景にどのような事情があったとしても、やったことが酷ければ死刑はやむを得ないのだとした。厳罰化の最たるものがここに示されている。彼は中学の一年生くらいの精神状態でしかなかった。そのような被告の事情を一切考慮せず、犯罪の結果が重大である、犯罪の手段、方法が残虐であれば死刑以外にないとされた。
 もう一つ、最高裁は大変なことをやった。最高裁判所は5名で構成されていますが一人は回避し、一人は反対した。つまり多数決で死刑が選択された。これまで死刑は全員一致が原則とされてきた。死刑の適用が正しいと判断する場合は絶対に全員一致です。今回それを完全にかなぐり捨てている。これもこれまでと違った重罰化の傾向だといえる。
 光市の弁護というのはこの厳罰化に対する私達弁護士の抵抗だったんです。全国から21人集まりました。この人たちは何に怒ったかというと最高裁がこんな幼い子を使って厳罰化を実現しようとしている、その彼らのやり口に私達は怒ったんです。最高裁はなんとしても裁判員裁判が始まる前にこの判決を出そうとした。私達はもっと審理を充分にかけてやりなさいよと反対した。それでも強行するなら私達は裁判に参加しないとボイコットした。そういう抵抗があったわけですけれども、この厳罰化に抵抗すれば大変なバッシングを受ける。片方は被害者です。弁護人はその被害者と闘うという風にされた。21人の弁護人が被害者を苛めるという構造に変えられてしまった。厳罰化の闘いというのは国家に対する闘いです。検察や裁判所に対する闘いであるはずが被害者との闘いに刷りかえられてしまった。そうなると被害者が強いに決っています。だから厳罰化の闘いは非常に難しい。

(文責 編集部)




議論の場

今なぜ、橋下が「脱原発」なのか?

 橋下大阪市長が「脱原発」の怪気炎を上げている。4月13日に政府が関西電力大飯原子力発電所3、4号機の再稼働にゴーサインを出したことについて、橋下氏が噛み付いた。そして、「民主党政権を倒すしかない。次の(衆院)選挙の時に(政権を)代わってもらう」「次の選挙では絶対(再稼働)反対でいきたい」と述べ、マスコミも「脱原発解散」「脱原発総選挙」などと騒いでいる。

■橋下の「脱原発」は脱原発ではない

 橋下氏は、政府の大飯原発再稼動の動きを知るや、大阪維新の会として、再稼動のための独自の基準として8項目を提起した(4月11日)。まさに、それは再稼動を前提とした基準(原子力規制、安全基準、電力会社との安全協定を100キロ圏内の自治体とも結ぶ、など)であり、それをクリアすれば再稼動を許すということだ。
 これは、原発大国の米国のオバマやフランスのサルコジが言っている「原発の安全性を高める」と同じものだ。オバマやサルコジが原発をやるために、その安全性を言うのと、橋下の再稼動のための基準8項目とどこが違うというのか。
 今、問われているのは、正真正銘の「脱原発」である。それは「原発は一基も稼動させず、必ず全廃する」というものでなければならない。
 それは、原発に「安全性」などないからだ。福島第一原発事故はその真実を改めて明らかにした。何よりもまず、原発運転が持つ本質的危険性だ。核反応が生み出す破壊的エネルギーは原発の各種配管にひび割れやピンホール、「減肉」などの損傷を与え、燃料棒の破損、等々、事故発生の可能性が常につきまとう。それにも増して深刻なのは、原発運転によって生じる使用済み核燃料や放射性廃棄物の処理問題だ。これらは焼却炉で燃やせばなくなるというものではない。ただ半永久的にその寿命がつきるのを待つしかない。それを一体どこに貯蔵するというのか。原発に「安全性」などないのだ。
 福島原発事故はさらに深刻な事態になっている。炉心溶解を起こした原子炉の放射性物質は地中深く浸透し地下水系に拡散し海に流れ出して太平洋を汚染する。脱原発の小出裕章氏などが心配していることは、使用済み燃料棒が大量に貯蔵されているプールが、小さな地震でも来て壊れれば、燃料棒が再臨界を起こし大量の放射性物質が一挙に飛び散る事態だ。そうなれば全国的な範囲で人が住めなくなる。
 こうした事態を前に、再稼動とか、そのための基準を云々するというのは、脱原発でないどころか、それを妨害する犯罪行為でしかない。

■覇権主義者、橋下は脱原発ではありえない

 この5月5日、北海道電力の泊原発が定期点検のために稼動を停止し日本には稼動中の原発は一基もなくなる。脱原発派の人たちは、これを絶好の機会として、脱原発に進むべきだと主張している。そうなれば、原発が全部稼動しなくても電力事情もそれほど悪くならないことも証明され、脱原発の方向へ大きく舵取りをすることができる。
 にもかかわらず、政府が大飯原発再開に向けてゴーサインを出したのは、全原発が停止するという事態が現出し、それでもやっていけるということが明らかになり国民世論が脱原発に大きく進むことを恐れているからだ。
 彼らは何故、原発ゼロを恐れ、原発維持を執拗に追求するのか。それは覇権のためだ。
 日本が、その下で覇権を行ってきた米国による覇権は、核兵器で他国を恫喝し抑えることによって成り立ってきた。
 その核兵器と原発は一体である。米国核兵器の原料であるプルトニウムは原子炉で核分裂させて取り出す。この時に発生する熱を発電に利用したものが原発であり、核兵器と原発は技術的には全く同じものである。したがって原発は核兵器と同じく覇権のためのものなのである。
 今、世界で脱原発の気運が盛り上がっている中にあって、日本の脱原発は、それを加速する。米国覇権の下で生きる日本にとって、それは許されないことだ。
 そして、日本は自らの覇権を追求するためにも脱原発はできない。
 山本義隆さんの著書「福島原発事故をめぐって」には、日本の大国化のためには核武装しなければならないと考えた岸信介が、核兵器製造技術と原発技術が同一であることに目をつけ、「いつでも核武装できる」潜在的能力をもつために、原発を導入し、その技術習得に力を入れた下りが書かれている。それは歴代政府に引き継がれてきた。こうして日本は、核兵器1250発分に相当する10トンのプルトニウムを貯め込んでいる。
 今、声高に「脱原発」を叫ぶ橋下が覇権主義者であるのは周知の事実だ。
 「維新八策」やそれを説明した橋下の発言の中に如実に表れている。そこでは、日本の生き方として「安保基軸」を強調しており、以下、「TPP推進」「統治機構改革」「道州制」「首相公選」「教育改革」「改憲の要件緩和」などを挙げている。
 それは、米国覇権の下で日本も覇権国家として生きていくための政策である。
 さらに橋下は、究極の覇権の論理、新自由主義の信奉者だ。
 大阪市政改革プロジェクトが公表した試案では、「市営交通の敬老パス」「上下水道福祉措置=高齢者や母子家庭などの料金減免措置」「国民健康保険料の市税負担」「赤バス(コミュニティバス)運営補助」「保育所保育料の軽減措置見直し」「学童保育、子どもの家への補助」「学校給食協会交付金での食材配送費保護者負担」「新婚家賃補助」などがやり玉に上がっている。まさに「弱肉強食」「弱者切捨て」「格差拡大」の新自由主義だ。橋下の売り物である「教育改革」も新自由主義改革であり、その目的は世界で勝ち、アジアで勝つ人材の育成だと、覇権主義丸出しである。
 この徹底した覇権主義者、橋下が脱原発であることなど絶対にありえない。

■「脱原発」、目的はズバリ「首相」だ

 覇権主義者・橋下が脱原発ではありえない。それなのに、なぜ今「脱原発」なのか。
 それは、ずばり「首相」になるためだ。
 これまで橋下は「大阪都構想」など大阪地方での構想くらいしかなかった。昨年11月に大阪府と市での同時選挙に大勝した後、国政段階の政策として「維新八策」を公表したが、国民の反応を図りかねてか、「維新政治塾・レジュメ」形式の大枠を示すにとどめ、問題になりそうな「安保基軸」「TPP推進」などは、さりげなく入れるというものであった。
 そこに飛び込んできたのが大飯原発再稼動問題だ。これで政府に噛み付けば脱原発派のイメージだ。「脱原発」こそ国政段階でのスローガンにふさわしい。「次の選挙で絶対(再稼動)反対でいきたい」(橋下)というのは、その意思表明に他ならない。
 橋下は次の総選挙では、維新政治塾で養成した候補者を300名立てるとしており、政権を狙っていることを隠さない。
 民主や自民にまったく人気がなく、「既成政党離れ」が進む反面、橋下支持率はうなぎ上りである。「みんなの党」や、石原慎太郎、亀井静香、小沢一郎なども彼に秋波を送り、いかに連携するかを探っている。名古屋の「減税党」とも協力関係をもっている。
 次の選挙で橋下・維新の会が台風の目になることは明らかであり、地すべり的勝利もありうるし橋下に秋波を送る諸勢力と連合すれば右から左まで結集した幅広い強力政権、橋下政権が誕生する。
 問題は、橋下が首相になった場合、一体、どういう政治をするのかということである。
 橋下は、「白紙委任」を強調する。彼は一旦、選挙で選ばれれば、白紙委任が必要だと公言してはばからない。これは非常に危険なことだ。
 読売新聞社主の渡辺恒雄氏が文芸春秋誌で橋下の「白紙委任」発言を批判して次のように言っている。「この発言から、私が想起するのは、アドルフ・ヒトラーである。第一次世界大戦の敗戦により、莫大な賠償金を課せられ、国民の間に既成政党への不満と閉塞感が渦巻いていたドイツに、忽然と登場したヒトラーは、首相になった途端『全権委任法』を成立させ、これがファシズムの元凶となった」と。
 橋下が首相になれば、「白紙委任」の信条のままに「安保基軸の外交政策」「TPP推進」「9条改正」をやり、弱肉強食の新自由主義改革をどしどしやっていくだろう。
 それは、まさに日本を覇権の道へ、戦争の道へと引っ張って行くものになる。問われているのは、これとどう闘うかだと思う。

(文責・魚本公博)




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現場無視の介護報酬改定

 介護の仕事に携わっている者にとって、この3月4月はてんやわんやの月間でした。というのも、介護保険の運営見直しにより、様々な改訂がなされたからです。
 高齢化(2015年、団塊世代の600万人超が65歳以上となり、高齢者人口は3千万人を超えると予測。それから10年後の2025年には、総人口にしめる高齢者の割合は3割を突破する見通しで、医療・介護サービス需要の急増は必死)にあわせ、全国平均で月4千円程度だった保険料は5千円を超える模様。介護事業者に支払う報酬は全体で1・2%増のプラス改訂。これは介護職員の待遇改善のための費用分だが、介護労働者のための処遇改善交付金を廃止するなどして差し引きすると実質的にはマイナス改訂で、しかも3年間という期限付きです。
 今回の改訂で、実際的に一番の混乱と困惑をもたらしているのは、訪問介護(生活援助)の提供時間問題です。これまで、30分から1時間、1時間以上という区分で、それぞれに介護報酬が決まっていましたが、今回これが、45分未満か45分以上かの区分になり、これまで、1時間半のサービスを受けていた人は60分に、60分のサービスを受けていた人は45分に、というのが基本になり、身体介護も合わせている人は50分、追加料金を払って今までどおりのサービスを受けたい人は60分となり、大変複雑な体系となりました。
 事業所もこれに合わせ一人一人のサービスの見直しをしなければならず、職員は休み時間もなく、徹夜でその仕事に追われ、ヘルパーはヘルパーで、4月からの実施だというのに、2週間前になっても変更内容が伝わってこず、それについて質問をしようものなら、「今やっていますから!」と厳しい顔つきで職員に対応される等、現場はピリピリとした雰囲気で充満していました。また、利用者の皆まさもなんのことやらよく理解できずといった状態で、「なんで45分に減らされるの?」「あの人は1時間のままだって聞いたよ」「これじゃ外出もできなくなるね」「ろくろく話もできやしないね」などなど、混乱と困惑をもたらしています。
 事業所としても45分という提供時間では介護報酬が大幅に減り、事業所の経営が苦しくなり、訪問介護から撤収する事業所もでかねません。また、ヘルパーもサービス時間の減少となり、賃金の減少に直結してゆきます。これまで以上に小刻みに何件もの仕事を受け持たなければならなくなります。私の場合、これまで8件の訪問介護をしていましたが、1件増やしても収入減であり、移動時間も多くなり、それぞれのサービス提供時間が45分、50分、60分と複雑で本当に良いことは何一つありません。そして、何よりも、利用者の方々にとっては、45分では外出もままならず、ヘルパーとの会話もゆっくりできないなど、いったい、この改訂は何のための、誰のためのもかと考えざるを得ません。
 訪問介護の仕事に従事して8年になりますが、常に不安定で賃金も安く、精神的・肉体的負担も大きいというのがこの仕事です。施設介護の場合、更に条件は厳しいと思いますが。それでも続けているのは、多くの方との出会いがあり、心と心のつながりが生まれ、支援,介助するのが楽しいからにほかなりません。心と心のつながりは、ただ仕事をして帰るだけでは生まれません。利用者さんの心の内を解かり、受け止めること、求めていることに応えること。もちろんヘルパーの仕事には出来る限度があります。踏み込めない枠もあります。でも、ヘルパーが本当に求められているのは心の支援ではないかと私は思います。もちろん、その領域に入らないというヘルパーもいますが、それなしのヘルパーの仕事では、人の人に対する介護という仕事の意味がないのではないかと思います。
 しかし、今回の改訂では、家事支援に何分、記録に何分と机上の計算で提供時間が決められています。もっと現場の声を聞き、現場に入って実情を知り、当事者のための改革を! それが政治ではないですか、民主党さん。

(投稿 ヘルパーのミタ)





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