東アジア共同体参画のために

脱「脱亜」論

― アジアのナショナリズムへの理解、共鳴から ―

若林盛亮 2005/12/28



はしがき

 いまから一二〇年前、明治一八年(一八八五年)に福沢諭吉は「脱亜論」を説いた。
 「その伍(アジア)を脱して西洋の文明国と進退を共にし」という有名な「脱亜入欧」を説き、「アジア東方の悪友を謝絶する」と宣言した。以後、日本は「脱亜入欧」一路に進み欧米列強に伍しアジアに覇を求めた。「脱亜論」から六〇年を経た一九四五年、アジア・太平洋戦争に惨敗、その帰結は亡国寸前の悲運であった。
 その敗戦からまた六〇年、戦後六〇年と言われた今年、二〇〇五年は、わが国の「脱亜入米」の年として歴史に記録されるやもしれない。
 戦後六〇年を結束する一二月、東アジア共同体構想を具体化するための第一回東アジアサミット(首脳会議)で小泉首相は次の二点を強調した。
 一つは「開かれた地域協力体」、その二つは「自由と民主主義、人権の理念」−前者は、オーストラリア、ニュージーランド、インドを東アジア共同体に参加させるべきだという主張ながら、その主眼は将来的に米国の関与に含みを持たせるところにあり、後者は、言うまでもなく「自由と民主主義の世界的拡大」を掲げる米ブッシュ政権の世界戦略のアジア版とも言うべきものである。
 小泉首相がこの会議に投げかけたこの二つの論点は、アジアのめざす共同体論議に水を差し、ひいては東アジア共同体構想を変質させかねないものである。これについては本文で触れるので詳述を避けるが、ただその本質は米国のみを友人とし「アジア東方の悪友を謝絶する」宣言に等しいものだということをここでは言っておきたい。
 これに先立つ一一月におこなわれた日米首脳会談では「世界の中の日米同盟」がうたわれたが、戦後六〇年という節目の年は、「脱亜入米のすすめ」で締めくくられたと言っても過言ではない。
 昨年(二〇〇四年)の「入亜」熱−政財界からマスコミ界まで日本あげての東アジア共同体参画論議の沸騰した熱気は、今年に入り一転して冷え込んだ。その契機は、春頃からの「アジアの反日ナショナリズム」への批判、反感の論調、新たな「アジア悪友論」の台頭である。これが「東アジア共同体は幻想」論となりその見直しの論議へと発展し、そして年の終わりには日米首脳会談と東アジアサミットでの小泉首相の言動の核心たる「脱亜入米」宣言となった。この小文の主題、「脱『脱亜』論」の必要性を痛感させられた一年であった。
 東アジア共同体構想へのわが国の参加は、経済的側面において誰もがもろ手をあげて賛成する。しかし米国の反対で腰が引け、アジアの反日ナショナリズムにとまどうというのがその現実である。この小文では、日本にとって東アジア共同体参画が死活的意義を持つという視点に立って、この共同体参画、「入亜」のために解決すべき問題を提起したつもりである。
 アジアはこの共同体構想に、米国であれ、日本であれ、この地域での大国主義、覇権主義を排し、真の意味でのアジア諸国の協力協調によって経済的繁栄のみならず平和と安全問題も地域の力で解決していこうとの願いを込めている。このアジアを友とし、わが国が東アジア共同体構想に積極的に参画、「入亜」を果たすためには、「アジア異質、悪友」観の克服が先決問題であると思う。
 「アジア悪友」観克服のうえでもっとも重要なことは、「アジアの反日」にも表現されるアジアのナショナリズムを正しく理解し、共鳴することではないだろうか。その理由は、東アジア共同体構想はこのアジアのナショナリズムの発現でもあると言えるからだ。またそこにアジアでの共同体構想のEU(ヨーロッパ連合)などとも異なるより先見性、未来性があると思えるからだ。
 しかしながらアジアのナショナリズムは往々にしてその後進性の表現として理解されがちである。それはわが国の戦後が一貫してナショナリズム自体への偏見を捨てきれずにいることと関連する問題だ。その偏見は、わが国が体験したナショナリズム、戦前、近代日本のナショナリズムにたいする評価に起因している。
 こうした視点から、この小文では、近代日本のナショナリズムを正しく評価する問題に多くの枚数を割いている。ある意味ではこの問題の解明がこの小文の基本だと言っても過言ではない。日本と他のアジア諸国は相異なる近代史を歩み、ナショナリズムも覇権、侵略を許した日本のそれと、アジアの獲得したそれとは異質のものである。日本のそれとは異質のものだという認識に立ったうえでアジアのナショナリズムを正しく理解し、これに共鳴することなしには、東アジア共同体実現をめざすアジアの心はわからず、日本にとってこの共同体参画の持つ魅力もそろばん勘定以上には出てこないだろう。
 この小文では、わが国の二一世紀の進路に関わる問題として東アジア共同体参画問題を考えるべきだということを訴えたつもりである。東アジア共同体にかんする研究や論文は多くの識者、研究者、経済専門家によって書かれている。この小文は、元より専門家の研究には及ぶべくもない。ただ脱「脱亜入欧」という視点、その環としてアジアのナショナリズム理解という視点を提供することによって、日本がこの東アジア共同体に参画するより主体的な契機、意義付けを見つけ出せたらと思っている。こうした問題提起を受けとめていただき、異見、批判も含め論議の参考にしていただければ幸いである。

戦後六〇年の年を終えながら    筆者


■ ■ 目 次 ■ ■

T 東アジア共同体参画と脱「脱亜入欧」

  1 頭と体がバラバラ

  2 アジアの声−「アジアのバス」、「西洋のバス」どっちに乗るのか

U 「アジア悪友」論克服 ― その鍵はアジアのナショナリズムへの正しい理解

  1 台頭する「アジア悪友」論−新「脱亜入米のすすめ」

    「凛とした外交」
    台頭する「アジア悪友」論−アジアのナショナリズムを敵視

  2 「アジア悪友」論は、アジアのナショナリズムと戦前日本のそれとを同一視

    八月一五日社説から
    戦前日本のナショナリズムの二重構造

  3 近代日本のナショナリズムへの自虐も尊大も根は同じ

V 近代日本のナショナリズムについて自虐でも尊大でもない正しい評価を

  1 覇権ナショナリズムへの転換点−「脱亜入欧」

    近代日本のナショナリズムの起源−幕末の攘夷ナショナリズム
    「東亜経略論」−外に向かうナショナリズムに覇権の芽が

  2 「近代の超克」は「脱亜入欧」の超克となったか?

    「西洋の没落」という時代認識
    ナショナリズムの熱狂
    なぜ「脱亜入欧」の超克とならなかったのか?

W 「入亜」する日本― 自主共存、自立共栄、自衛共和への道

  1 石橋湛山の卓見

  2 「『大東亜共栄圏』の再現を望んでいない」

  3 自主共存、自立共栄、自衛共和の新しい国際秩序

    世界の多極化とアジアの厄介者
    TAC−自主権尊重、自主共存の基本精神
    経済ナショナリズム−自立共栄
    安保ナショナリズム−自衛共和

  4 東アジア共同体に参画、「入亜」する魅力

    EUとは異なる共同体
    「入亜」で日本改革
    「入亜」でより親米に



T 東アジア共同体参画と脱「脱亜入欧」


1 頭と体がバラバラ

 三井物産戦略研究所所長であり日本総合研究所所長でもある寺島実郎氏の持論は、東アジア共同体構想の積極的推進であり、「親米入亜」であるが、「頭と体がばらばら」という表現で、脱「脱亜入欧」が日本のクリアしなければならない必須課題であると指摘している。
 「事実認識を深めねばならない。昨年の日本の貿易総額に占める米国との貿易比重は一八・六%と二割を割り、アジアとの貿易比重は四五・七%と五割に迫りつつある。現在、日本が直面する国際関係上の諸問題は、『頭と体がバラバラ』というべきで、経済産業構造はアジアとの連携で生きている体質になりながら、頭は米国との関係を八割以上引きずっている構図に由来すると言える」
 体はアジアなしに生きていけないのに頭は米国との関係でしか回らない。「頭と体がばらばら」、これが今の日本の状態だ。
 二〇〇四年初頭、日本経団連は、「わが国の基本問題について−これからの日本を展望して−」と題する意見書を発表し、その「東アジア地域との連携強化」の項目で以下のように述べている。
 「わが国にとって、東アジア諸国は、単に地理的な隣国に留まる存在ではない。東アジア諸国は、世界の成長センターであり、国際的な競争相手であるとともに、相互依存関係を深めるパートナーでもある。・・・今後、東アジア地域の連携を早急に強化していく必要がある」
 ところが二〇〇四年秋に中国で開かれたサッカー・アジア選手権での中国サポーターの過熱した反日騒ぎ、そして翌二〇〇五年春以降、噴出した竹島や首相の靖国参拝問題、このような日本の国連常任理事国入り問題を契機にした韓国、中国での反日デモの激発など、歴史認識に関するアジアとの摩擦が表面化した。
 事態を重くみた経団連会長はじめ財界関係者がアジアの反日への対処として、アジアとの「政冷経熱」(政治は冷たく経済は熱い関係)状態打破のため、首相の靖国参拝を控えるよう進言した。すると「金に目がくらんだ経済人」と非難の論調が浴びせられ、財界関係者はこれに反論もできず沈黙させられた。「金に目がくらんだか」と問いつめられると、対アジア関係が日本にとっていかに大切かを語る自分の言葉を持たない。これでは東アジア共同体への日本の参画は、ただのエコノミックアニマルのそれ、私利私欲からのものだと言われてもしかたがない。
 過去、日本にとってまだアジアの経済的比重が今日ほど大きくなかったこともあって、アジアからの地域経済統合の呼びかけにたいし、わが国はまず米国の顔色をうかがい、消極的姿勢をとるのが常だった。
 「日本がこれまで東アジア地域統合の流れに踏み込めなかった最大の理由は、対米配慮と、未だに日本人エリートの中にくすぶっている『脱亜入欧』の精神構造ではなかろうか」(岩波新書「東アジア共同体」・谷口誠)
 体がアジアを切実に要求している二一世紀の今日、いつまでも頭を二〇世紀の古い遺物、「『脱亜入欧』の精神構造」のままにしておくことはできない。頭を転換すべきときにきている。

2 アジアの声―「アジアのバス」、「西洋のバス」どっちに乗るのか

 「アジアのバスが出発しようとしている。日本は西洋のバスに乗ったまま、結果としてアジアのバスの行方を誤らせようとしている。日本は混乱の源だ」(シンガポール公共政経大学院、キショア・マプバニ学長)、また「日本はバスの運転手の身分は欲しいが、運転は他人任せとの態度だ。いや、運転しているように見せかけているだけだ」との日本に向けられたきびしい目(〇五年五月二七、二八日「ラウンドテーブルジャパン・二〇一〇」スマジャ&アソシエーツ、フォルマ共催、日本経済新聞社後援)。これが「東アジア共同体行きのバス」に乗るアジアが日本を見る目だ。
 こうしたアジアの日本を見るきびしい目は、それなりの歴史的背景があって培われてきたものだ。
 アジアでの地域経済統合の動きは、一九九〇年末、マレーシアのマハティール首相(当時)の提唱したEAEG(東アジア経済グループ)構想、次いでEAEC(東アジア経済評議会)構想に始まる。しかしこのマハティール構想は、東アジア圏外の米国などを排除する経済ブロックとの警戒からする米国の反対を代弁する形で不支持を表明した日本によって日の目を見ることなく終わった。
 一九九七年のアジア通貨危機の際の日本の対応も歯切れの悪いものだった。当時、急成長をとげる東アジア諸国はさらなる成長をめざし外国資本の導入を進めていたが、投機を目的とするヘッジファンドなどの短期資本に依存したため、これらがいっせいに市場を引き揚げたことによってひき起こされたものだった。このアジア通貨危機は、タイに始まり、瞬く間にマレーシア、フィリピン、インドネシアに広がり、香港、韓国に飛び火し、さらにはロシア、ブラジルにまで拡大した。このとき、日本はアジア通貨危機の広がりを食い止めるため、「東アジア通貨基金(AMF)」構想を発表、しかしこの構想は、通貨危機はすべてIMF(米国の主導下にある国際通貨基金)の下で対応すべきだとする米国財務省によってつぶされてしまった。これについてOECD(経済協力開発機構)で長年、「東アジア経済圏」研究に携わってきた谷口誠氏はその著書で「日本がAMF構想を日米両国の財務省レベルでの交渉にまかせず、よりハイレベルでの外交交渉として取り上げなかったことは非常に残念であった。日本が真に対アジア外交を日本外交の基軸に据えているのであれば、米国財務省の反対ぐらいで簡単に引き下がるべきでなかった」(岩波新書「東アジア共同体」)と述懐している。実際、この通貨危機は、インドネシアではこれまでの経済成長がゼロになると言われる経済危機から暴動寸前の政治危機に至る深刻な打撃をこの国に与えた。しかも米国主導のIMFの救済策はうまくいかず、過去数十年にわたり築き上げてきたこの国の開発の成果が、わずか一度の通貨危機とIMFによる不適切な対応により、失われてしまったと言われる。ここでも地域の経済大国として期待された日本は米国に遠慮して歯切れの悪い対応を示した。アジア諸国の日本への失望は想像に難くない。このアジアを襲った通貨危機の深刻な教訓から、米ドル経済への依存からの脱却、地域協力の切迫した必要性をアジアが共有し、東アジア共同体構想はさらに切実感をもって本格化するのだが、日本がアジアとこの実感を共有したとは言えない。
 そのことは二〇〇二年一月、小泉首相が打ち出した「東アジアコミュニティー」構想に示されている。東南アジアを歴訪した首相は、最後の訪問地シンガポールで「東アジアの中の日本とASEAN(東南アジア諸国連合)−率直なパートナーシップを求めて」と題した演説の中でこの構想を打ち出した。しかしこの構想は、ASEAN+3(日本、中国、韓国)の枠組みにオーストラリア、ニュージーランドを加え、これら諸国が核となって東アジアを「共に歩み、共に進むコミュニテイー」にしようというものだった。これは米国抜きの共同体形成を嫌う米国への日本政府の配慮を反映して、「東アジアコミュニティー」をASEAN+3に限定せず、将来の米国の関与の余地も見越した、より開かれたものにしようというもので、あくまで「域内で」というアジアの要求に対抗するかのごとき提案であった。
 さらに日本の動揺的で不誠実な態度は、二〇〇三年一二月東京で開かれた日本・ASEAN特別首脳会議で日本政府が東南アジア友好協力条約(TAC)への加盟を表明したその姿勢に表現されている。このわずか二カ月前に開催されたASEAN+3首脳会議においては、ASEANが日本にTAC加盟を要請したが、小泉首相はこれを拒否、しかしその直後に中国とインドがTAC加盟に署名するという事態が日本政府を慌てさせたというドタバタ外交の経緯があった。このTACは、ASEANの原点とも言える冷戦時代にあって東西両陣営、米ソのどのブロックとも距離を置くという非同盟諸国運動の基本精神である非同盟自主の精神を具現したものであり、これは内政不干渉などを原則とした大国の干渉を排除するものであり、対米基軸路線の日本には受け入れがたいものであった。中国に先を越されてはとあわてて加盟を表明するという日本外交の失態ぶりは、アジアの目にどう映るかは明白である。
 最初に述べたアジアのきびしい声、「日本は西洋のバスに乗ったまま、結果としてアジアのバスの行方を誤らせようとしている。日本は混乱の源だ」、この声は、アジア地域共同体実現へのアジアの必死の努力、その歴史的歩みの中で、アジアに焼き付いた日本への評価として胸痛く受け取るべきであろう。そしてアジアと共に進む友として明確な態度を示すべき時がきている。アジアはそういつまでも待ってはくれない。


U 「アジア悪友」論克服

― その鍵はアジアのナショナリズムへの正しい理解


 かつて福沢諭吉が「脱亜論」を唱えたのは、隣人アジアの未開さ、立ち後れからアジアを「悪友」視したからである。今日、新たな「アジア悪友」論が台頭、日本の東アジア共同体参画に障害をもうけている。この新しい「アジア悪友」論は、反日などアジアのナショナリズムを根拠にしており、「悪友」論克服の鍵はアジアのナショナリズムへの正しい理解にある。

1 台頭するアジア悪友論―新「脱亜入米のすすめ」

 わが国がアジアにたいし曖昧な態度をとっている中、米国からはアジアに毅然とした態度をとることが求められてきた。

「凛とした外交」

 「凛とした志のある外交」、これが今年(二〇〇五年)初頭発足した町村外相−谷内事務次官体制の外務省の外交方針だと言われた。以前までの米国を基軸としつつも中国などアジアの顔色もうかがうといった「曖昧さを脱する外交」だとされた。
 この「曖昧さを脱する外交」は、対中外交にとどまらず、対アジア外交全般にわたるものだ。靖国問題や竹島問題などアジアとの摩擦あつれきをものともしない最近の政府の姿勢はその現れだと言える。
 「凛とした外交」、その矛先は、東アジア共同体に向けられている。昨年まであれほど脚光を浴び論議が沸騰した「東アジア共同体構想」への熱気は今年に入り(米ブッシュ第二期政権発足以来)一転して、「『東アジア共同体』構想には大きなブレーキがかかった」(選択・五月号)といった論調がとみに目立つ。政府関係者も「日本外交は米国との問題である。(東アジア)共同体構想が日米関係と矛盾すれば再考しなければならない」(谷内外務事務次官)と米国抜きの共同体構想には反対する意向を明確にしている。

台頭する「アジア悪友」論―アジアのナショナリズムを敵視

 日本にとって「アジアは悪友」という論拠の筆頭には、アジアの反日ナショナリズムがあげられている。
 「三月以来、日本と韓国(竹島問題)、次いで中国(靖国、国連常任理事国入り問題)との間に繰り広げられた『歴史認識』を基軸に据えた対立は、三国間の政治的対立が経済という一次方程式(経済共同体)ではとうてい解決のできないことを証明した」「最初からデモの原因を日本の歴史認識のせいにして謝罪の気配も示さなかった中国という事実だけは、日本国民の心ある人々の心に鮮明に残った。東アジア共同体構想に対する国民的な支援の熱は急速に冷めたといっていい」(選択・五月号)。
 戦後六〇年という節目の年にあって、日本政府がなぜアジアの感情を逆なでする行為をあえてやるのか。アジアの反日感情を刺激して、これを日本の反「反日」感情に転化して、沸騰する入亜の熱を冷まし、さらには再び「アジアの悪友」論へと誘導する企図がその底にあると見るのは、はたして邪推だと言えるだろうか。
 今、反「反日」の論調の台頭が著しい。
 いわく「共産党一党独裁政権」の正当性を「抗日闘争の伝統」という「反日愛国主義教育」でしか正当化できないからだとか、増大する貧富の格差からくる国民の不満をそらすため反日デモを組織したのだと中国を批判し、また反日という排外主義感情を煽って政権の求心力にしていると韓国を非難する反「反日」の論理だ。
 これがさらに中国や韓国は、反日ナショナリズムを政権維持の手段にしているゆえ、靖国参拝をやめても領土問題なり他の「反日」難題を出してくる、だから日本の「謝罪」には際限がなく、このアジアの「終わりなき反日と戦う」ことが「新しい戦後の始まり」(諸君・七月号)と極論される。
 アジアの反日と戦うこと、これが「凛とした外交」なのか。戦後六〇年にして、再び日本は「アジアの悪友を去る」道、脱亜に大きく舵を切った。
 「アジア悪友」の論拠の第二は、「自由と民主主義という価値観の共有がない」というイデオロギーによるアジア異質論だ。
 「この東アジア地域および隣接地域の最大の課題の一つは、自由と民主主義、基本的人権の尊重、法の支配など、今や普遍的となったと思われる価値観を共有していない国々が、いくつか見られることだ」。これは必然的に次の結論に落ち着く。「だとすれば、この価値観の最大の信奉者であり伝道者を自任しているであろう米国が、価値観を共有しているこの地域の国々などに呼びかけ『同盟』(アジア太平洋民主主義同盟)の結成を試みてはどうか」(中央公論九月号、「東アジア共同体の幻想を捨てよ」畠山襄・国際経済交流財団会長)。
 反日の「アジアの悪友」を去り、「自由と民主主義」価値観を共有する「米の良友」とともに進む、新「脱亜入米のすすめ」だ。アジアの進める東アジア共同体構想にイデオロギーの障壁を設け、イデオロギーで選別、結果的には人為的な分裂をもちこむ役割を日本が果たせということだ。
 その集中的表現が先の日米首脳会談である。ブッシュ大統領は、戦後六〇年を「米国により民主化された日本」をアジアにアピールするものとして総括した。「世界の中の日米同盟」が華々しく打ち出され、日本は米国の「アジアへの民主主義の拡大」路線の先導者としての役割が与えられた。
 日米首脳会談に先立つ一一月初旬、ワシントンで開かれた日米2+2(両国の外交、国防担当閣僚会議)で米統合作戦司令部と自衛隊の中央即応集団司令部を座間に共存させ、共同司令部とすることで合意したのに象徴されるように、日米軍事一体化、融合化とも言える事態が米側の要求のまま、国民的議論もなく一挙に取り決められ、自衛隊が米軍指揮下で動く新日米安保体制がつくられようとしている。同時期に自民党から出された新憲法草案は、九条二項に自衛軍保持、国際協力が明記され、自衛隊が名実共に米軍指揮下で海外で戦争をする軍隊になる道が開かれようとしている。
 戦後六〇年は、「首相の靖国参拝の見直し」を求めるアジアには耳を傾けず、米国のみを「良友」視して旧日米安保よりも一歩踏みだした軍事の日米一体化、融合化へと大転換を図った年となった。これをアジアの隣人がどう見るかは火を見るよりも明かである。
 戦後六〇年、節目の年を、わが国は、米国式「自由と民主主義」イデオロギーでアジア諸国を「悪友」と「良友」に選別し、結果として「アジアの行方を誤らせようとする」やっかいな隣人になる道、「脱亜入米」の道を選択しつつある。

2 「アジア悪友」論は、アジアのナショナリズムと戦前日本のそれを同一視

八月一五日社説から

 戦後六〇年を迎えた八月一五日の新聞社説、各紙の共通の現象としてニュアンスの差こそあれ、アジアの反日などナショナリズムの高揚にたいして「ゆきすぎた民族的熱狂」と危険視する論調が特徴的だ。
 中央公論一〇月号「新聞の論点−社説を読み比べる」欄の「『八月十五日』問題」と題したコラムで評論家・長山靖生氏は「奇妙な感想かもしれないが、今年の八月十五日社説を読んでいると、こうした日本の戦争や戦後政策への『反省』を、是非、中国や韓国の人々に読んでほしいという気持ちになる」と述べながら、次のように語っている。
 「現代日本が直面する深刻な問題に、中国、韓国における過激な(あたかも開戦当時の日本を見るかのような)ナショナリズムの台頭がある」としながら、「かつての日本の侵略行為を支えたナショナリズムを批判する言説は、皮肉なことに、今や中国政府の覇権的姿勢を背景にした国民のナショナリズム暴走や、韓国の民族至上主義への批判ともなり得る」と述べ、「戦争『加害国』の日本としては言い難いことだが、現代の中国や韓国は、かつての日本が歩んだ道をなぞっているかのようにみえる。六十年前の『被害国』が、今、加害国になりつつあることへの脅威、それらを修正可能な小さな誤謬のうちに抑制し、是正を促すことは、国際平和のためにも彼ら自身の幸福のためにも必要なことだ」と結論づけている。
 日経社説は、戦前日本のナショナリズムや戦後日本のバブル経済を踏まえて「『根拠のない熱狂』は身を滅ぼすもと」と総括し、朝日新聞は「中国の経済は急成長し、矛盾を抱えた社会には激動の予兆もある。朝鮮半島は行方の定まらぬまま、南北融和ムードが新たな民族感情を育てている。こうした事情が行き過ぎた『反日』にも結びつきがちだ」と中国や韓国に批判的な論を展開した。
 二〇〇四年のサッカー・アジア選手権大会での中国サポーターの加熱気味の反日、そして二〇〇五年春頃から噴出した島根県の「竹島の日制定」や首相の靖国参拝、日本の国連常任理事国入りをめぐる韓国、中国での反日デモの際にも、各新聞はアジアの「偏狭なナショナリズム」への警鐘を鳴らした。
 中国や韓国の反日デモでもちろん、日本大使館への投石があったり、いくらかの行き過ぎがあったのも事実だろう。しかしアジアのナショナリズムを戦前日本の軍国主義ナショナリズムと同様の「偏狭なもの」と同一視するのは誤りではないだろうか。

戦前日本のナショナリズムの二重構造

 多少長くなるが、冒頭の寺島実郎氏が朝日新聞の「思想21」コラム(二〇〇五年七月四日夕刊)で述べた言葉を引用させていただく。
 「日本近代史は二重構造になっており、それが歴史認識を複雑にしていることは否めない。アヘン戦争後の苦闘する中国を横目で見ながら、自らも植民地化されるかもしれない恐怖心の中で開国、明治維新を迎えた日本は、富国強兵で次第に自信をつけるにつれて、『親亜』を『侵亜』に反転させ、欧米列強模倣の武力をもって覇を競う帝国主義路線へとのめりこんだ歴史を有す。
 したがって、自虐でも尊大でもない歴史観を保持することは容易でない」
 氏の指摘する「日本近代史の二重構造」とは、欧米列強の植民地化に抗する幕末以来の攘夷ナショナリズム、民族の自主独立擁護のナショナリズムに出発点を置きながら、「親亜」を「侵亜」に反転、その終着点は欧米列強模倣の武力で覇を競う軍国主義的覇権ナショナリズムに陥ったという、戦前日本ナショナリズムの二重構造であるとも言えるのではないだろうか。
 「偏狭なナショナリズム」とは、まさに「『親亜』を『侵亜』に反転させ、欧米列強模倣の武力をもって覇を競う」軍国主義的覇権ナショナリズムである。近代日本の出発点となった幕末日本の攘夷ナショナリズム、志士たちがめざした当初の自主独立ナショナリズムにそれは当たらない。日本近代史においては、当初の自主独立ナショナリズムが、明治国家のとった「脱亜入欧」路線によって「欧米列強模倣の武力で覇を競う」覇権ナショナリズムに反転された。これが寺島氏の言う「日本近代史の二重構造」と言われるものだ。欧米列強の植民地化に抗する自主独立ナショナリズムは「親亜」、同じ境遇に置かれたアジアを「親友」と見たナショナリズムだ。欧米列強模倣の武力でアジアで覇を競う覇権ナショナリズムは「侵亜」、アジアを「悪友」と見、侵略の対象と見たナショナリズムだ。
 この戦前日本のナショナリズムの二重構造を正しく区別しないまま、すなわち近代史の正しい総括のないまま、戦後の日本は、この自主独立ナショナリズムと覇権ナショナリズムをいっしょくたに戦前日本のナショナリズムを総括することによって、「自虐でも尊大でもない歴史観を保持することは容易でない」状況に陥ってしまったのではないだろうか。このことがアジアの反日に向き合うことができないいまの日本をつくっている。そして戦後六〇年を経てもアジアを良友にできない日本にしている。

3 近代日本のナショナリズムへの自虐も尊大も根は同じ

 寺島実郎氏は「日本近代史の二重構造」を指摘しながら、次のように述べている。
 「既に中国やインドにおいて『民族自決』『国民国家』を目指す二〇世紀の世界史のゲームが始まっていたにもかかわらず、遅れてきた帝国主義国家として『列強の一翼を担う一等国』の夢を追い、アジアに覇権を求めた結果、満州国問題で孤立して真珠湾へと吸い込まれていった。もし、百年前の二〇世紀初頭の日本に、二〇世紀の世界史における日本の役割を自覚し、アジアの目線に心底から共鳴する指導者が存在したならば、我々は自国の近代史をより筋道の通ったものとして振り返ったであろう」
 氏の言葉をこの小文のテーマにそって解釈すれば、「民族自決」「国民国家」をめざす「アジアの目線に心底から共鳴する」ナショナリズムを堅持していたら、われわれは自虐にも尊大にも陥らず、近代日本の歴史を筋道の通ったものとして誇りをもって振り返れたであろうということだと思う。
 二一世紀のいま、「アジアの目線に心底から共鳴する」こと、「親亜」を再び「侵亜」にしないためにアジアのナショナリズムを正しく評価することが問われている。そのためには近代日本のナショナリズムの二重構造を正しく区別し、すなわち肯定、否定を正しく区別し、肯定は継承し、否定は克服して、まず自分のナショナリズムの歴史を自虐でも尊大でもなく正しく総括することが問われている。
 そのための出発点として、まず近代日本のナショナリズムへの自虐的態度も尊大な態度も根は同じであるということを正しく見ることが重要だと思う。つまりナショナリズムにたいする誤った理解において根が同じだということだ。
 「自虐史観を排撃する」あまり、先の戦争を全肯定する史観、その典型は、大東亜戦争肯定論である。先の戦争を幕末以来の欧米列強に抗する攘夷実行のナショナリズムの発現、いわゆる「自存自衛の戦争」「大東亜解放戦争」として肯定的に見ようとする歴史観である。「大東亜戦争肯定論」を著した林房雄氏は、先の戦争敗戦までを幕末攘夷戦以来の「大東亜百年戦争」と位置づけた。たしかに先の戦争を「昭和維新」として主導した「革新派」軍人、官僚たち、またこれを「聖戦」と信じた国民の主観としては、欧米列強に抗する日本の「自存自衛」という意識、アジアを欧米列強の植民地から解放する「大東亜共栄圏」の理想というのは、ある意味では正しいかも知れない。しかし主観で歴史を総括することはできない。主観を正当化しようとすると正しく自分を総括できなくなる。
 戦前日本のナショナリズムの持つ対欧米列強への攘夷実行戦という主観一面だけを見ることによって、アジア進出を侵略と見ず、それを民族の自存自衛のための必然の行動とする。林房雄氏の次の言葉は、大東亜戦争肯定論がナショナリズムへの氏の理解の誤りに基づくことを示している。
 「どの国のナショナリズムもこの非常の一面を持つ。民族的エゴイズムとナショナル・インタレスト(国家的利益)をぬいてはナショナリズムは成立しない。その故にナショナリズムはまず自国の富強と自主とを望み、やがて膨張主義となる」
 こうしたナショナリズム理解が、アジアのナショナリズムと戦前日本のナショナリズムとの異質性を見えなくし、アジアの反日への理解を妨げ、アジアへの謝罪を「土下座外交」とまで極論する尊大な態度を許す。
 結局、日本近代史への自虐も尊大も、ナショナリズムへの理解に関しては同じ根から発生したものである。すなわち「ナショナリズムはまず自国の富強と自主とを望み、やがて膨張主義となる」という理解、ナショナリズム自体に覇権にいきつく要因があるという理解である。こうした理解から出発して、先の戦争を否定する人はナショナリズム全否定の立場から自虐的になり、他方はナショナリズム肯定の立場から覇権もやむなしと先の戦争を肯定し尊大になる。
 「自虐でも尊大でもない歴史観を保持することは容易ではない」−その要因は、軍国日本の愛国主義、覇権的ナショナリズムを衝撃的に体験し、またその惨敗ぶり、犠牲の余りの大きさの体験を伝え聞いて育った戦後の日本人が、ナショナリズムを正しく理解することの困難さにあると言えるのではないだろうか。このことは、今日、アジアのナショナリズムへの正しい理解を妨げ、それへの偏見、さらには危険視を生んでいる。アジアへの謝罪を主張するリベラルとされるマスコミの論調にさえ、アジアの反日デモを「ナショナリズムの熱狂」と危険視する声が出るのもこのためだとは言えないだろうか。
 結論から言えば、ナショナリズムへの正しい理解、それに基づくアジアのナショナリズムと戦前日本のそれとの区別、そしてアジアのナショナリズムへの正しい評価、これがよくできないとアジアを良友視することはできないということだと思う。


V 近代日本のナショナリズムについて自虐でも尊大でもない正しい評価を


 この項に入る前に、私の個人的体験を述べてみたい。私の体験を一般化することはできないが、戦後を体験し自虐でも尊大でもない日本のナショナリズム観を持ちたいと思った一日本人の体験談として参考にはなると思う。
 朝鮮に来た当初、朝鮮の人々は私に「軍国主義者が悪いのであって、日本人民には罪がない」とか「日本人民も軍国主義者の犠牲者だ」と言ってくれた。日本の植民地支配の悪を見せつけられることになる日本人青年を気遣っての言葉であろうが、実際、客観的には正しいのだからその通り受け取ればよいとも言える。でも私にはなにか釈然としないものがあった。じゃあ当時の日本人は軍国主義者、ファシストが恐くて言いなりになるような軟弱な国民だったのか、軍国主義者に洗脳され、だまされるようなそんな愚かな国民だったのか? 戦前の日本人はだめな国民でしたという自虐的な気持ちにもなれず、それでも民族の誇り、愛国心はあったのだと言うのも尊大な開き直りに思え、複雑な胸の内が消化不良のまま、「日本人民には罪がない」という言葉をただ黙って聞くしかなかった。
 私の父は天皇をとても崇拝していた。子供の頃、私と父母の寝る部屋には皇太子(現平成天皇)生誕の写真が飾ってあり、天皇行幸時には私をつれて菊の御紋の列車に向かって最敬礼をし、祝日には私の家だけは必ず日の丸を飾るというような明治の末に生を受けた日本人、それが私の父だった。年齢のためか身体検査で落ちたのか兵役を免れ徴用で工場にまわされた父は戦場には出なかった。その自責からなのか戦争への批判の言葉を父の口から聞いた記憶はない。そんな父と太平洋戦争の記録映画を一緒に見、特攻隊の出撃場面や米艦への体当たり場面に涙し、「海ゆかば」のメロディーには胸が熱くなった。他方、母は「日本はアメリカに負けてよかったのだ」と言い、自分のたった一人の兄をビルマ戦線でなくした戦争の悲惨さを語ってくれたりした。
 私は父と母、両方の相反する姿をそのままなんの矛盾もなく受け入れて育った。もちろん日本が二度と侵略戦争の道に進んではならないと思うからベトナム反戦闘争もやった。しかし朝鮮に来てはじめて対米の太平洋戦争だけではない先の戦争、日本の植民地化されたアジア、対アジア侵略戦争の実態をアジアの目線で体感した。
 これは自虐にも尊大にもなれない中途半端な戦後世代の一人の体験談である。でも私は朝鮮に来て、アジアのナショナリズムの一端に触れることによって、日本人としての歴史認識、自虐でも尊大でもない正しい歴史観を持ちたいと痛切に感じたのは事実である。

1 覇権ナショナリズムへの転換点―「脱亜入欧」

近代日本のナショナリズムの起源―幕末の攘夷ナショナリズム

 一八五三年六月、ペリー提督率いる米東インド艦隊の浦賀沖来航、いわゆる「黒船事件」によって、日本のナショナリズムは、攘夷ナショナリズムとして日本に芽生え、一挙に日本全土に根を下ろした。この事件を機に坂本竜馬が「日本人として考える」という視点を勝海舟に教えられ、目を開かれ、彼の志士としての人生を開始したという話は有名だ。これまで藩が「国」であった日本人に、日本を単位に自分の運命を考える契機を与えたのが「黒船来襲」だった。日本という民族、日本国の運命を自己の運命問題として意識する日本人が生まれた。封建から近代を開く日本に芽生えたナショナリズム、それが攘夷ナショナリズムだ。
 攘夷ナショナリズムの根本は、夷狄、欧米列強のアジア進出、植民地化の危険からいかにして日本の自主独立を守るかにあった。
 当時の清、いまの中国が欧米の英仏独米露など諸列強の植民地化の餌食の運命にさらされ、特に英国とのアヘン戦争でいかに苦しめられたか、これにたいし当時の中国、封建専制君主国家、大清帝国がいかに無力であったか、そうしたアジアの情報は長崎出島のオランダなどを通じ伝えられていた。多くの識者が国防を説き海岸防備の必要性を説いていた。そこへやってきたペリーの黒船・砲艦外交は、列強の脅威とその力を全日本人に体感させた。いかにして日本が植民地化の運命を免れるか、このことが他のアジアと同様、心あるすべての日本人に問われた。砲艦外交で開国を迫る米国にたいし、当然「攘夷(夷狄、外国の蛮人を追い払え)」が日本の反植民地化のスローガンとなった。幕府支持の佐幕派も幕府打倒の尊皇派も、この一点、攘夷では心を同じくした。開国を主張した人も、開国して欧米から先進文明を受け入れ国力を養ってこそ、実質的に攘夷は成るとした。
 結局、歴史は、疲弊化、無力化が明らかになった徳川幕府の古い封建体制の下では欧米列強に対抗する国力は養えないとした尊皇派の勝利によって明治維新国家を成立させた。この維新国家は、尊皇派の攘夷ナショナリズムを基礎とした立憲君主制の道をとった。こうして「広く会議を興し万機公論に決」し、身分にかかわりなく国民の中から有為の人材を登用し欧米列強に対抗する国力を養う近代的な立憲制国家、尊皇の下に万民が結束し攘夷の力を養う君主制をとる立憲君主制国家を建設するようになった。
 維新で成立した明治国家は、攘夷の実力培養、富国強兵を第一とし、「和魂洋才」をかかげ積極的に西欧の先進文化、技術を取り入れた。結果、日本はアジアで唯一、欧米列強のアジア植民地化の毒牙を免れ、近代国家への改革をなしとげた。その限りでは、明治日本国家は、頑迷無力な封建専制王政下で欧米列強の植民地化の脅威にさらされ、これからの脱出路を求めていたアジアの他の民族に勇気を与えるものであった。欧米列強の圧迫にたいし攘夷ナショナリズムを実現したという意味で、アジアの模範、アジアの諸民族の希望とさえなった。
 「『日本に学べ』という評価は日露戦争後、その勝因を立憲制度に求めたアジア各国から起こった声だった。立憲制度とは国民参加の体制にほかならない。・・・日本に学ぶことで専制国家と決別し、立憲制度と国民国家形成を図る。それは中国や朝鮮では専制君主からの解放運動になり、フィリッピンやベトナム、ビルマでは民族独立運動となる。日露戦争以後、日本はアジアの民族革命運動の策源地となり、『黄色人種の長兄』『黄種新進の国』として文明の教導者・アジア解放の先導者となることが期待された」(山室信一・京都大学人文科学研究所教授)
 日露戦争が中国、朝鮮でロシアと覇を競う侵略戦争ということは事実であるが、欧米白人のロシア大帝国と戦い勝利したアジア、という意味でアジアの諸民族に勇気を与えたという側面があるのもまた事実である。少年毛沢東が「黄海の海戦」の歌を日本留学から帰った教師に習って歌ったという。またイギリス留学中のインドのネルー(独立インド初代首相)は戦争報道の新聞をむさぼり読んだそうだ。ベトナムでは日本への留学を勧める「東遊運動」が展開されたりした。アジアの諸民族が希望と見たのは、欧米列強の圧迫に抗する日本の自主独立のナショナリズムであったと言える。
 日本の攘夷ナショナリズムの結実である明治国家、それが欧米の圧迫から脱し自主独立を守るためには、古い封建専制から脱皮し、立憲制度、国民国家建設の道に進むべきだという方向性を与え、興りつつあったアジアのナショナリズムに勇気を与え、これを活性化させたということは、日本人として自負してよい近代史だと思う。問題は、明治国家がその攘夷ナショナリズムを「アジアの目線に心底から共鳴する」徹底した自主独立のナショナリズムにまで発展させることができたかどうかである。
 先に上げた山室信一氏は次のように続けている。
 「にもかかわらず、日本は他の植民帝国との協調体制によって国際的地歩を固める方向に進んでいった。(日露)戦後すぐにロシアと提携しての満州における権益拡大、韓国併合へと歩み、日英同盟や日仏協約によってインドやベトナムの民族運動家たちは国外退去処分を受ける。こうして・・・ついに『アジアの公敵』とさえ看なされる」
 「黄色人種の長兄」から「アジアの公敵」に、なぜそうなったのか?

「東亜経略案」―外に向かうナショナリズムに覇権の芽が

 「黄色人種の長兄」から「アジアの公敵」になる契機、すなわち「親亜」から「侵亜」、対アジア覇権への転換を決定づけたのは、「脱亜入欧」路線である。
 しかしこの「脱亜入欧」に至るにはその前史があり、対アジア覇権も一朝一夕に出たものではない。自主独立から出発した幕末当初の攘夷ナショナリズムの思想に覇権に変換する要素はすでに内包されていた。
 それは吉田松陰「東経計略案」、島津斉彬「大陸出撃策」、勝海舟「日鮮支三国合縦連衡論」など、アジアの近隣諸国、諸民族と同盟して欧米列強の侵略を防ぐべきという日本防衛論である。ここにはすでに日本の攘夷防衛戦を外に拡大するという考え方があり、それを日本が主導するという国防策であり、下手すれば侵略に転化する要素をもつものである。しかし「アジアと共に欧米に当たる」という思想を根底に持ち、まだアジアを「悪友」とまで見ていない。だからアジアを謝絶する「脱亜」論とは区別される。
 尊皇攘夷の多くの志士を育成した幕末随一の思想家、吉田松陰は「東亜経略案」と呼ばれたその考えを述べている。
 「艦ほぼそなわり、砲ほぼ足らば、即ち蝦夷を開墾し、諸候を封建し、・・・間に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭し、・・・朝鮮を責め、質を納れ貢を奉ること古えの盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾ルソン諸島を収め、漸く進取の勢を示すべし。しかる後、民を愛し士を養い、慎く辺囲を守らば、即ち善く国を保つというべし」
 今日的感覚で言えば、侵略そのものの言葉が、列強の日本侵略を防ぐための経略として、愛国の至誠をこめて述べられている。これと同様の内容が弟子である久坂玄瑞(蛤御門の変で戦死した松下村塾の英才)宛の獄中からの手紙にもあるというから、松陰は弟子達にも愛国の経略としてこれを熱心に説いていたということだ。
 「大陸出撃策」を説いた島津斉彬に、当時の志士の考え方を見ることができる。
 斉彬は、インドの崩壊、清のアヘン戦争、太平天国の乱(腐敗無能な清朝打倒を目的とした長髪族の乱とも呼ばれる)にアジア侵略の危険の切迫をいち早く感じとり、中国、満州、台湾からベトナム、インドに至るアジアへの出撃を唱え、英仏の東進をくいとめようとした。しかしその目的は清国の内政改革だと言っている。
 「出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。一日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えしめ、日本と連合するときは、英仏といえども恐るるにたりない。然るに清国は版図の広大さを誇り、傲慢にして日本を視ること属国の如く、日本より連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。故に、我より出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐを以て上策となす」  こうした考え方が、斉彬の愛弟子とも言える西郷隆盛ののちの征韓論にも継承されるのであろう。自国の防衛線を外に求めるナショナリズムだ。当時の時代的限界性でもあるが、こういう考えはまだ侵略と意識されていない。アジアを対欧米列強の同盟者に組み込もうという思考が働いている。
 しかし「脱亜入欧」論に至っては、アジアを同盟する対象とすら見ず、日本を対アジア覇権へと決定的に転換させた。

「侵亜」覇権への決定的転換点―「脱亜入欧」

 対アジア覇権への決定的転機は、アジアを「悪友」と断じ、アジアとの決別を宣言した「脱亜入欧」論であった。
 「脱亜入欧」の提唱者、福沢諭吉はその「脱亜論」で述べている。
 「わが日本の本土はアジアの東方に在りといえども、その国民の精神はすでにアジアの固陋を脱して西洋の文明に移りたり。しかるに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と言い、一を朝鮮という。・・・この二国の者どもは一身につき、また一国に関して改進の道を知らず、・・・その古風旧慣に恋恋とするの情は百千年の古に異ならず、・・・一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として・・・道徳さえ地を払うて残酷不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき者のごとし。我輩をもってこの二国を見れば、今の文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持するの道あるべからず。幸いにしてその国中に志士の出現して・・・大いにその政府を改革することわが維新のごとき大挙を企て」ないかぎり、「今より数年を出でずして亡国となり、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑いあることなし」
 ここで福沢は、アジア東方の友人(支那、朝鮮)には、日本のように維新を断行できる志士の出現を期待できないと分析、判断し、数年で亡国となり欧米列強に分割されるだろうと予想している。ここからアジア東方の友人には、自主独立の力は期待できないと断を下した。福沢は、アジア東方の友人を悪友と断じ、決別を宣告する。ここから「脱亜入欧」への転換が説かれる。
   「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待ちて、我に亜細亜を興すの猶予ある可からず。寧ろ、その伍を脱して、西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って、処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可からず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
 福沢諭吉がこの脱亜論を新聞「時事新報」に掲載した一八八五年当時、彼にアジアの友人を謝絶する契機となったであろう事件があった。
 彼は当時、朝鮮からの亡命客を世話していた。その指導者格の人物が、金玉均という朝鮮の政客、改革派の志士であった。当時の朝鮮は封建専制の李王朝が支配しており、この王朝は清国の属国としてあり、またロシアにも保護を求めるなど大国への事大主義がはなはだしく、いつ列強の餌食になってもおかしくない無能、無力の封建専制国家だった。改革派の筆頭である金玉均は、甲申政変と呼ばれる宮廷クーデターを実行し、日本のように維新を断行、封建王朝を倒して近代国家への転換をはかろうとした。福沢はこの金玉均に期待し、彼を積極的に援助した、しかし金玉均の革命は失敗に終わった。清国でもこうした志士が活躍したが、日本のように維新は成功しなかった。
 中国の清王朝や朝鮮の李王朝の無能、無力の悪政に反抗して、活動を開始していた支那と朝鮮の志士、革命家に大きな期待をかけた福沢は、その失敗を見て、アジアに自力維新の可能性はないと判断した。
 ついに福沢は、「隣国の開明を待って共にアジアを興すの猶予あるべからず」と脱亜へ、そして「西洋人のこれ(アジア)に接する風に従って処分すべきのみ」と入欧への転換を説く。アジアの隣人を悪友として謝絶し、欧米列強を良友とし、その良友の「処する風」、帝国主義的な覇を競う「風」に従ってアジアの処すべきとした。欧米列強式の覇権ナショナリズムへの決定的転換を呼びかけたのである。
 「大東亜戦争肯定論」の林房雄氏が「明治中期以降の日本は福沢の立言の方向に従った」と述べているように、以降の日本は、「脱亜入欧」、すなわち列強の一角を占め、アジアでは列強の一員として列強に伍して覇権を競う道に本格的に乗り出すことになった。
 一九三〇年代に、満州事変を先導し、アジア・太平洋戦争の端緒を開いた関東軍参謀、石原完爾の場合も、アジアを盟友と期待しながら、その期待が裏切られたときアジアを軽視、蔑視し、結局、覇道の道に陥ったことを示している。
 本人の回顧によれば、石原は幼年学校時代から中国の新生と日中の提携協力を念願し、一九一一年、孫文による辛亥革命成功の報に接するや「かねてからの中国の新生に対する念願と革命後の中国の前途に対する希望の余り付近にある山の上に当時の自分の教えていた(朝鮮守備隊の)兵隊と共に登り、万歳を叫んで新しい中国の前途に心から慶びを示した」(「満州建国前夜の心境」)という。しかし孫文による大軍閥、袁世凱との妥協、その後の軍閥の割拠、抗争は石原をして中国観を転換させる。「この状態を見て私共は中国人の政治的能力に疑いを抱かざるを得ないようになった。漢民族は高い文化を持ってはいるが近代的国家を建設するのは不可能ではないか、という気持ちになって行ったのである。満州事変の前までこの懐疑は続き。その気持ちの上から私共は当時満蒙(満州と蒙古)問題解決の唯一の方策として満蒙占領論を唱え、漢民族は自身政治能力を有せざるが故に、日本の満蒙領有は、日本の存立上の必要のみならず中国人自身の幸福である、と強調していた」とある。石原は後に、満州国の「五族協和」の理想と日本の「かいらい国家」という自身のつくった現実の落差に失望、また「中国人の政治能力」にも気づくところあって軍部主流の中国大陸への戦線拡大方針に反対し、中央を追われたとされている。いったん外へ「防衛線」を広げれば、「満州の権益」を守るためさらに華北へ、さらに大陸全土、そして東南アジアへと際限なく戦線を拡大、やがて勝算のないまま対米戦争の泥沼にはまりこんでゆく。
 欧米に伍してアジアの大国の地位をいったん得ると、後はその地位保全のため、そしてさらなる大国化へと際限のない侵略と戦争の道へとのめりこんでいくのは必然の成り行きであった。
 欧米列強の論理からすれば、アジアで覇権確立を焦る後進帝国主義、日本を利用する価値があった。日本は日露戦争を始めるに当たって、ロシアの南下を食い止めたい英国と同盟したり、日本の朝鮮領有を認める代わりに米国のフィリッピン領有を認める協定を結ぶなど、「侵亜」のためにさらに「入欧」を深めていくようになった。欧米列強のアジアの植民地化に東亜と同盟して対抗するという攘夷ナショナリズムの当初の理念から離れ、日本のアジア植民地化のために欧米と同盟するまでになった。「欧米列強のアジア進出との闘い」は、その植民地化自体との闘いではなく、欧米列強に伍してアジアで覇を競う植民地争奪戦に変質した。日本は、欧米に親しむ「アジアの公敵」になった。
 こうして日本はアジアと異なる近代史、「『親亜』を『侵亜』に反転させ、欧米列強模倣の武力をもって覇を競う帝国主義路線へとのめり込んだ歴史」を歩むようになった。他のアジア諸民族と同様、自主独立のナショナリズムとして出発した攘夷ナショナリズムは、「脱亜入欧」路線によって「(欧米)列強の一翼を担う一等国の夢を追う」覇権ナショナリズムへと転換させられていくようになったのだ。
 しかし他のアジアは、植民地、半植民地の亡国の悲哀の近代史、そして独立闘争、植民地民族解放闘争、帝国主義との闘いの近代史を歩むようになった。この近代史の中で「二度と亡国の悲哀の歴史を繰り返すな」を教訓化し、自主独立のナショナリズムをより徹底して獲得するようになった。
 「脱亜入欧」によって「親亜」を「侵亜」に反転させ帝国主義国家としての近代史を歩むことによって、日本はアジアと異質のナショナリズムを持つようになった。この認識が重要だ。これがないと、アジアのナショナリズムを近代日本のそれと同一視するところから、自虐と尊大が生まれるのだということを肝に銘じたい。

2 「近代の超克」は「脱亜入欧」の超克となったか?

 ここでは「西洋近代の超克」をかかげた「近代の超克」論が、その反西洋のアジア主義、日本精神の主張にもかかわらず、覇権ナショナリズムの克服とはならず、したがって「脱亜入欧」の超克には至らず、先の戦争、「大東亜戦争」主導の理念になったのはなぜかということについて見てみたい。

「西洋の没落」という時代認識

 「近代の超克」論は、一九四〇年代初頭、対米のいわゆる太平洋戦争中に論壇に登場したとものとされる。しかしその前史は、すでに第一次世界大戦終結後から始まり、三〇年代に本格化していた。第一次大戦後、世界は平和と安定に向かうのではなく、その敗戦処理をめぐる列強間の矛盾、葛藤から世界は不安と混沌をいっそう深めた。確たる世界秩序が立たない中、次の新たな世界戦争が予期される中で、「西洋の没落」がささやかれ、西洋に代わる理念、原理が求められるようになった。
 その大きな契機は、一九二九年、米ウオール街での株価大暴落に端を発した世界恐慌の開始である。以後、資本主義経済は世界的規模で大混乱に陥った。自由主義経済を誇る米国でさえ、ルーズベルト大統領によるニューディール政策のように国家が市場に介入し有名なテネシー河大規模開発(今日的に言えば、公共投資)を行い、人為的に需要を創出するなど自由主義経済の無政府性を国家統制で修正せざるをえなくなった。チャップリンの有名な映画「モダン・タイムス」はオートメ化された近代的工場で機械奴隷化される人間、「資本主義における人間疎外」を描いた。こうした状況下で「西洋の没落」が公然と語られ、西洋的原理への懐疑が語られるようになった。世界恐慌の影響下で日本では農村の疲弊から娘が売られるのが常態化し、農村出身の兵士の不満を代弁する形で「革新派」青年将校による二・二六事件のような「国家改造」をめざす「昭和維新」のクーデターが起こったりした。「西洋的文明」の支配した世界は閉塞感を極め、世界がその出口を求めていた。「近代の超克」はこのような状況を背景に生まれた。
 「当時、『西欧の没落』という言葉が定着し、英仏米の自由主義、資本主義は末期的段階に入り、『世界の歴史の大転換点である』と左翼も右翼も、そして軍部もぶちあげていた」(田原総一朗「日本の戦争」)
 「近代の超克ということは、日本の場合においては政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克を意味する」(鈴木成高・昭和一七年(一九四二年)の雑誌「文学界」での座談会)
 当時の軍部に生まれていた革新派の志向には「近代の超克」的な考えが根底にあった。来るべき対米(英)の総力戦争を予想した彼らには、デモクラシーの象徴である政党政治は資本家の利己的利益代弁の果てしない政争で国の統一を乱す腐敗政治の根源以外のなにものでもなく、資本主義経済は軍備を早急に整えるべき戦争準備の妨害物、あるいは兵士の基盤、農村疲弊の元凶であると映った。「近代の超克」の主張する「デモクラシーの超克、資本主義の超克、自由主義の超克」は、来るべき総力戦準備をめざす軍部革新派の志向を代弁するものとなった。すなわち「国家改造」による戦争準備の統制経済、「大東亜新秩序建設」の戦争の大義による国家総動員体制をめざす「革新派」軍部の戦争を主導するスローガンの理論的基礎となるものであった。

ナショナリズムの熱狂

 「西欧の没落」、「アジア主義、日本精神の勃興」という主張が、国民の「ナショナリズムの熱狂」を呼んだことも事実である。この点も日本人として教訓化すべきことだと思う。
 日本の生んだ世界的指揮者、小沢征爾氏は旧満州の生まれである。「征爾」という名前は、一九三一年の満州事変で中心的役割を果たした関東軍参謀、板垣征四郎、石原完爾らと親しかった父君が両名から一字ずつもらったものだという。「草の根主義者だった」という父君は、満州国の理念「五族共和」を唱えた満州青年連盟の幹部であった。石原らの満州国に描いた理想、大東亜のモデルたる「五族(日、満、支、鮮、蒙)共和」「王道楽土」の新国家建設に青春をかけようとした日本人の一人だったのだろう。この理想と現実が異なると知るのは後のことである。
 一九四一年一二月八日、真珠湾奇襲攻撃による対米戦争開始の報を聞いた国民の「ナショナリズムの熱狂」はどうだったか。
 「対中国戦争に対しては、漠然たるうしろめたさを感じていた大衆、侵略戦争とはっきり批判的だった知識人も、米英に対しての戦争となるとその態度を急変した。・・・有色人種、後進国国民の、白人、先進国に対する劣等感が一挙に解放された。泥沼に入った中国戦争のうしろめたい暗たんたる気持ちが米英と戦うということで大義名分を得、暗雲の晴れたような気持ちにもなった。この時ほど日本人が民族的にもりあがったことは歴史上なかったと言ってもよい」(「昭和戦争文学全集」第四巻、解説・奥野健男)
 詩人、高村光太郎はその日、「世界は一新された」、「戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した」と記した。
 その後、中国大陸に南方戦線にと出征し、敗色濃い戦局にあって「特攻」や「玉砕」に若い命を散らしていった兵士たちにも、世界戦争の時代に日本の運命を救う「お国のため」という愛国の心の支えがあったろうと思う。南の島での絶望的な戦い、全員玉砕戦も、ここに東京爆撃の米軍基地をつくらせてはならない、いや一日でも遅らせるという「日本防衛」の思いで自分の死の意味を納得させていたのであろうと思うと胸が痛む。
 この国民的な「ナショナリズムの熱狂」をどう見ればよいのだろうか。「侵略戦争に熱狂するファッショ的国民」とまでいかなくとも、「軍部にだまされた愚かな日本人」とも見る人もいるだろう。しかし「対中国戦争にはばくぜんとした後ろめたさを感じていた」という事実、ところが対米戦争となってはじめて「熱狂」となった事実、これらは何を物語るのだろうか。幕末の攘夷ナショナリズム当初にあった自主独立のナショナリズム、そしてアジアを友とすべきという「親亜」に通じるものであったと言えないだろうか。ペリー「黒船」砲艦外交以来、欧米列強の大国の横暴、傲慢に煮え湯を飲まされ続けてきた近代日本の「歴史上かつてなかった」「日本人の民族的もりあがり」であったことは事実だと思う。
 しかしその不幸、悲惨は、その「ナショナリズムの熱狂」がこと主観とは異なり、アジアの目からすれば、覇権、侵略の不正義に、「アジアの公敵」の道に駆り立てることにもなった「熱狂」であったことである。国民の「ナショナリズムの熱狂」の一方で、その「熱狂」とは離れた所で、対米戦は「せいぜい一年は持ちこたえる」(山本五十六連合艦隊司令長官)程度の覚悟と勝算で、ただ「アジアでの大国の地位保持」「アジアでの既得権保持」に汲々とし、いつ有利に停戦に持ち込むかしか念頭になく、優柔不断なまま劣勢に劣勢を重ねただ犠牲に犠牲を積み上げるしか能のなかったという、まさにアジア覇権をめぐる欧米列強とのケンカに全国民を巻き込んでしまった戦争だった。戦争指導部の国民の愛国の至誠と民族の歴史の前に負った罪は大きい。

なぜ「脱亜入欧」の超克とならなかったのか?

 「近代の超克」は、日本人に「歴史上かつてなかった民族的もりあがり」を促しながら、結果としてそれを覇権ナショナリズムに導いた。すなわち「脱亜入欧」路線の促進でしかなかった。
 「脱亜入欧」からの脱却は、単純な反西洋ではない。覇権主義、大国主義からの脱却である。したがって「近代の超克」が「西洋文明の克服」を唱えたとしても、欧米並の一等国をめざし、覇を競う覇権主義、大国主義を克服する理念でなければ「脱亜入欧」からの脱却とは言えない。
 「近代の超克」は「西洋文明の克服」をかかげながら、なぜ「脱亜入欧」路線の克服に至らなかったのだろうか。
 その理由の第一は、世界最終戦争という時代認識、大国主義の世界観を前提にしていることである。
 「昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な規定の事実として人々に意識されていた。当時の常識では戦争というものはいわば自然法則的な必然であって、特定の一国が世界支配を達成するまでは、永久に繰り返されるものと思い込まれていた。この前提的な確信からすれば、そして日本の敗退を認めたがらない心情があった以上は、恒久世界平和を確立し、全世界の安寧と秩序を確保するためには日本が戦争に勝ち抜き、最終戦争に勝ち残ることが絶対の条件として意識される」(「『近代の超克』論」廣松渉)
 そして廣松氏は「極く一部のマルクス主義的左翼を除いて、『知識人』たると『大衆』たるとを問わず、それが『日本国民』の共通の了解事項であったと言えよう」と指摘している。
 この最終戦争を「西洋文明と東洋文明の対決」とし、東洋文明の盟主、日本がこの戦争を主導すべき使命を担うと意識される。この最終戦争勝利という最高目標を立て、最終戦争に勝利する国家への革新という視点から必要な理念がつくられていった。今日風に言えば「大国のパワーゲーム」に勝つという大国主義をさらに促進助長する時代認識、世界観であったと言える。超大国、スーパーパワーが世界を統一、支配するという今日の米国の一極支配に通じる世界観だ。
 理由の第二は、日本は王道(皇道)であり欧米式の覇道ではないという自己合理化、覇権ナショナリズムを正義に反転させる理念を提供していることである。
 「八紘一宇」という思想がある。その意味は、「世界の一つの家」という意味だが、世界最終戦争によって没落する西洋文明に代わる東洋文明の指導的国家によって世界は一つに統一される、その東洋文明の指導的国家、日本による世界統一の理念が「八紘一宇」だ。
 「我国体は単にいわゆる全体主義ではない。皇室は過去未来を含む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に万世一系の我国体の精華があるのである。わ国の皇室は単に一つの民族的国家の中心というだけでない。我国の皇道には、八紘一宇の世界形成の原理が含まれているのである」(西田幾太郎全集第十二巻)
 ここには「皇道」という思想が提示される。これは西洋の力による覇権、覇道とは区別される東洋式の王道、王者が仁愛をもって治める道といった意味だ。
 ではなぜ日本が東洋式王道を行う「王者」なのか、その根拠は「万世一系の日本皇室」に求められる。中国など他の国は王朝がしょっちゅう争い代わっているが、日本のみが「万世一系」、古来、一度も代わることのなかった天皇家が治めている。中国などは力によって王朝を倒した新しい王朝が支配してきたが、日本は力によらず天皇家の仁愛が国を治め、国の統一を保障した、だから道義をもって世界統一の中心になれるという論だ。
 結果はすでに明らかだ。孫文は「日本は王道から覇道になった」と批判した。満州国の官吏養成機関、大同学院の寮で漢、満、蒙古、朝鮮の学生と起居を共にしたという体験を語る日本人は「みそぎなど日本の習慣と価値観を押しつけた。でも、中国人の反感には気づかなかった」と自嘲気味に語っている。
 日本の「皇道」、「王者の仁愛」をアジアはどう受け取ったか。皇国臣民化の名の下に民族の言葉を奪われ、「創氏改名」の名の下に名前まで日本式に変えさせられた植民地朝鮮の声がある。
 「人間が言葉まで奪われてしまえば、人間としては知能を失った痴呆となり、民族が言葉を奪われれば、その民族であることを放棄するのと同じである。民族の表徴のうちで、血筋の共通性とともに言語の共通性がもっとも重要な要素となるのは世界公認のことである。民族語は民族の精神である。したがって言葉を奪い抹殺するのは、民族の全構成員から舌を切りとり、魂を奪うに等しい残虐無道な所業である」(金日成回顧録「世紀とともに」六巻)
 たとえ皇室が日本人の魂の拠り所であったとしても、他の民族にそれが通じると考えるのは余りに高慢な主観主義である。自分にとってよいことは他人もよいだろうという自己中心主義、主観主義は、自分以外の人々、他民族の心への鈍感さの表現だ。後進民族は先進民族に憧れるだろうという民族優越主義の錯覚は独善主義への落とし穴である。起居を共にした中国人の反感に気づかなかった満州国、大同学院の一日本人学生の自嘲を民族の教訓として学ぶべきだ。ましてや自分の言葉、名前まで奪われた朝鮮の人々の「舌を切りとられた」苦痛、「魂を奪われた」屈辱は受けた本人でないとわからないということを知るべきだろう。
 皇道であれ自由主義であれ、自民族の価値観を他民族に強要することはできない。今日の「自由と民主主義の世界的拡大」を呼号する米国の自己中心主義も同様だ。自己優越主義、自己中心は人間生活でも、国家、民族関係でも受け入れられるものではないという貴重な教訓を歴史から学ぶべきであると思う。
 いずれにしても「近代の超克」は、「西洋近代の克服」を唱えることによって欧米の覇権主義への国民的な憤激、「ナショナリズムの熱狂」を呼びながら、しかし日本を「神州・日本」と呼びアジアの指導国家と見る民族優越主義によって、他方で「脱亜入欧」路線の「覇権主義、大国主義の熱狂」に陥らせるものとなった。世界最終戦争を勝利させうる唯一超大国を証明する理念、その日本精神、皇道ナショナリズムは、覇権大国、「スーパーパワー」の自己中心の理念となって、アジアのナショナリズムの反発、憤激を呼ぶことになった。「近代の超克」も「脱亜入欧」の甘い夢から民族を覚醒させるものとならなかった。
 「親米入亜」論者の寺島実郎氏は今日の日本を表すキーワードを「寂寥感」の一語で示した。誰からも尊敬されず、愛されず、親しくもされない寂しさ、その寂寥感の多くは、二一世紀の日本がいまだアジアの反日ナショナリズムにこめられた民族の心を理解できず、近代日本史の汚名を晴らせずにいることに起因している。二〇世紀に西欧列強に伍して「一等国」、大国になる夢を一時でも見させてくれた「脱亜入欧」のもたらす甘い夢、幻想からまだ覚めずにいるからだ。
 今日の日本の「寂寥感」から脱する方途は、「脱亜入欧」の甘い夢、幻想から早く目を覚ますことではないだろうか。日本の東アジア共同体参画は、この甘い夢から目覚める好機をわが国に与えてくれていると思う。寺島氏風に言えば、幸い、体(経済)はアジアと深く結ばれるようになった、後は頭を脱「脱亜入欧」することだ。


W 「入亜」する日本

―自主共存、自立共栄、自衛共和の道


1 石橋湛山の卓見

 第一次大戦後、ワシントン軍縮会議を前にしての先人の言葉がある。「入亜」の今日的意味を考えるうえで含蓄のある提言として多少長くなるが引用したい。
「もし我政府と国民に、何も彼も棄てて掛るの覚悟、小慾を去って大慾に就くの聡明があったならば、吾輩は必ず第一に我国から進んで軍縮会議を提起し得た筈だったと思う。・・・・
 ・・・もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我に有利に導き得るに相違ない。例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我国から受け取りつつありと考ふる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか。又例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常に苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界に於けるその道徳位地を保つを得ぬに至るからである。その時には支那を始め、世界の小弱国は一斉に我国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシア、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に、日本の台湾朝鮮に自由を許した如く、我にも亦自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に、我国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。・・・ここに即ち『身を棄ててこそ』の面白味がある」(石橋湛山・「東洋経済新報」一九二一年七月二十三日号)
 ワシントン会議は米英の主導によって海軍の主力艦保有量を米英五、日本三、仏伊一・六七とした日本に不利な軍縮条約だったが、後に米英の圧力に屈したこの日本外交を軟弱外交として軍部の反発を招き満州事変の暴走から日中戦争、太平洋戦争に至る軍国主義日本を支えた「米英への怨念」の原点ともなった。第一次大戦後の軍縮問題が米国主導で提起されたとき、石橋はこの会議を逆に日本が主唱者となり主導権をとるべきだったと論じた。
 石橋は「小国主義」の提唱者であった。大国主義を捨てるという意味での「小国主義」である。日本の朝鮮、中国植民地化政策に反対し、あくまで対等の商業的取引によるアジアとの良好な関係を築こうとした反大国主義、反覇権主義者であった。すでに朝鮮、台湾を植民地領有し日清、日露戦争、第一次大戦で得た中国大陸での権益を保持、新興帝国として上昇気運にある当時の日本で、石橋の主張を推進する政治勢力もなく「身を棄ててこそ」などという論議は単なる理想、空想論であったかもしれない。ただ「脱亜入欧」以来の日本が欧米列強と同じ帝国主義的やり方でアジアに接した大国主義的手法とはちがう方法でアジアとの関係を結び、そのことによって欧米列強との覇権競争、軍拡競争から脱却し、日本を「九地の底より九天の上に昇せ」ようとした救国案は、大国主義、覇権主義を捨て、「脱亜入欧」からの脱却を実現する卓見だと言うことができると思う。
 それが今日から見て卓見と言えるのは、「アジア悪友」論をとらず、アジアに自由を与えうると見た石橋のアジア観、すなわちアジアは自由を与えても自分で自分の国を治める統治能力、政治能力があると見たことにあると思う。諸民族の叡知と力への信頼、これがあってこそアジアと対等の関係を持つという発想が生まれる。そしてこの自由アジアと友好的関係を築いてこそ欧米列強の帝国主義的なアジア支配に対抗し、日本を「九地の底より九天に昇せ」うるという救国策が生まれる。
 「脱亜論」の福沢諭吉や「満州領有論」の石原完爾らが「政治能力なし」と断じた当時のアジアと今日のアジアはまったく様相を異にしている。今日のアジアは、誰の目にも八〇余年前の石橋のアジア観を納得させるものである。「大東亜戦争肯定論」の林房雄でさえも戦後のアジアを日本の対欧米「百年戦争」を継承する力を持ったと認識させている。
 「現在もなおアジアの反撃はつづいている。その主動力は中共新帝国である。この反撃は共産主義の名によって行われているが、中共はソ連人を追い出し、その紐つき援助から絶縁した。北鮮人民共和国も自力更生を強く唱えて実行している」
 反共主義者の林房雄も戦後のアジアの力を認識した。ベトナム戦争での米国の失敗、敗戦も予期している。問題は日本の「大東亜戦争」を継承するものとして日本の戦争を肯定する点だが、ともかくアジアの力を認識せざるをえなかったのは事実だ。アジアは日本にとって立ち後れた「悪友」という根拠はなくなったのだ。「脱亜入欧」からの脱却、「入亜」する基礎が築かれてきたのだ。

2 「『大東亜共栄圏』の再現を望んでいない」

 「『大東亜共栄圏』の再現を望んでいないということです。いかなる国家エゴイズムも、帝国的野望も、不平等国際条約も強制も、脅しも、威圧も、侮辱も、覇権もあってはなりません」
 マレーシアのアブドラ首相の言葉である。二〇〇四年六月、クアラルンプールで開かれた第二回東アジア会議(マレーシア戦略国際問題研究所主催)での同首相の基調演説の一節であるが、この会議は「東アジア共同体は、構想の段階から具体化の段階に入りつつある」(同研究所ソビー理事長)という認識の下におこなわれたものである。一九九〇年代初頭以降、東アジア地域での共同体設立を提起し牽引してきた先駆者とも言うべきマハティール首相の事業を継承するマレーシアの首相の言葉は、東アジア共同体実現にこめられたアジアの声、アジアの強い意思として胸に刻むべき重さを持っている。
 「『大東亜共栄圏』を望んではいない」というアジアの声、意思の意味を、二一世紀の日本人はどのように受けとめるべきだろうか。
 かつて「大東亜共栄圏」は、「万世一系の皇室」を戴く皇国日本がアジアの盟主となって欧米列強に対抗する政治、経済、軍事ブロックとして「大東亜圏」をつくるという、大国中心の「共栄圏」構想だった。またその「共栄圏」は、世界最終戦争で東亜が西欧に勝利して世界を統一するという、覇権競争の思想をその基礎に置くものであった。「大東亜共栄圏の再現」であってはならないというアジアの声からわれわれは、東アジア共同体が大国中心主義、覇権主義を許す「共栄圏」にしてはならないというその意味を考えるべきであろう。
 まず第一に言えることは、東アジア共同体は、大国中心のものであってはならないということだ。地域共同体にはいかなる中心も指導的国家も上下関係もない、先進国も中進国も後進国も同等の資格で尊重される、いかなる国家エゴイズムも許されない共同体だということだ。
 アジアが警戒するのは、アジア、太平洋地域への関与、その支配権をうかがう唯一超大国、米国であろう。アジアが日本に警戒するのは、「西洋のバスに乗っている」ということ、米国がアジア太平洋地域で中心的、指導的役割を果たすべきだという日本の大国中心の思考方式のアジアへの持ち込みである。実際、第一章の「2」アジアの声−『アジアのバス』、『西洋のバス』どっちに乗るのか」で見たように、この間の日本外交は東アジア共同体への米国の関与を許す道を開くことに、その努力が集中されている。アジアの反日もこうした今日の日本の姿勢がかつての「大東亜共栄圏には指導的国家が必要」という大国中心主義をきちんと反省していないこと、これを実地で示しているのが、大国中心主義の裏返しである対米基軸という名の日本の大国追随外交だと考えるからだ。
 第二に言えることは、東アジア共同体は地域内外でいかなる覇権も許さないということだ。
 かつての軍国主義日本の「大東亜共栄圏」は、大東亜が連盟して世界最終戦で西欧を破り、世界に覇を唱えるという覇権主義実現のための「共栄圏」であった。今日の日本には世界の覇権を握る力がないのは明白だ。今日、アジアがもっとも懸念するのは、冷戦終結後、唯一超大国となった米国を置いてない。先のスマトラ沖地震災害救援、復旧での国際的支援活動にたいして、インドネシアが「後は自力でできる」と早々にこの地域からの退去を願ったのも、この機会にこの地域の反政府勢力にテコ入れをはかる米軍を意識してのことだった。二〇〇四年に米太平洋軍が、多発する海賊対策などマラッカ海峡軍事行動での共同作戦を提案した際も、マレーシアとインドネシアは、マラッカ海峡の安全は両国が責任を持つとし、米軍の提案を拒否した。
 アフガニスタン、イラクへの先制攻撃も辞さない米国の単独主義、今日、「自由と民主主義の世界への拡大」を呼号する米国の一つの価値観の下に世界を統合しようという排他的行動に、アジアは超大国支配の一極世界を構想する米国の覇権的野心を見ている。だからこそ米国が関与するいかなる地域協力体もかつての「大東亜共栄圏」と同様の大国の覇権の道具になりかねないと懸念し、東アジア共同体への米国の関与を避けようとしているのだ。しかし、わが国はここでも米国の大国主義、覇権主義を認め、これをアジアに仲介する「危険な隣人」として立ち現れている。これがアジアの反日の要因でもある。現に日本の識者といわれる人が、「東アジア共同体は幻想」と決めつけ、米国中心の「アジア太平洋民主主義同盟」構想への転換をすすめている。小泉首相の「世界の中の日米同盟」宣言は、ますますアジアがこの疑惑を深めるものとなっている。アブドラ首相が言うように「いかなる強制も」あってはならないのだ。それが「皇国思想」であろうと、「自由と民主主義」であろうと自分の価値観を押しつけるのがまさに覇権の表現であり、いかなる覇権もあってはならないというのがアジア共通の価値観である。
 大国主義反対、覇権主義反対は、前章までで述べた近代から現代に獲得したアジアの自主独立のナショナリズムに基づくアジア共通の価値観である。「大東亜共栄圏の再現であってはならない」とする東アジア共同体構想は、まさにこのアジアのナショナリズムの発現だとも言える。

3 自主共存、自立共栄、自衛共和の新しい国際秩序

世界の多極化とアジアの厄介者

 東西冷戦の集結は、東側であれ西側であれ超大国の支配の時代、大国主義、覇権主義の時代は終わったことを示した二〇世紀末の歴史的事件である。グローバリズムが世界を席巻し、冷戦後、唯一超大国となった米国の一極世界の勢いも新世紀、二一世紀には早くも蔭りを見せている。
 米国の「民主主義帝国」、軍事の「スーパーパワー」の大見せ場となるはずだったイラク戦争もベトナム化、泥沼化し、米国の主導する最近の国際会議はいずれも何も決議できないのが常態化している。今年(二〇〇五年)の秋だけを見ても、南北米大陸の自由貿易地域化などを狙った米(南北)州首脳会議は、反米会議となり、APEC(アジア太平洋閣僚会議)首脳会議は鳥インフルエンザ対策で共同歩調をとる以外、これといった意味のある決議もない顔見せ的会議だった。ただ各国が乱暴者の超大国にだだをこねさせないよう気を遣って「つきあっている」という感じが、米国主導の国際会議の主要な雰囲気になった。一国の元首を前に「民主化不足」を説教するブッシュ大統領の大人げない振る舞いにも、これを拝聴する大人の対応を見せたのは中国の方だった。
 過去歴史への反省を促す中国、韓国に「靖国参拝をやめるつもりはない。中韓との関係はよい」と言い張る小泉首相に、共同体をめざすアジアを代弁して大人の対応を促したのはマレーシア首相だった。「世界の中の日米同盟」は、大人げない厄介者の同盟と世界には見える。大国主義、覇権主義、これに追随するものみなアジアの厄介者となったのだ。
 世界は冷戦時期の東西二極支配でも、冷戦後の一時期、危惧された米国一極支配でもない多極化が趨勢となった。EU(ヨーロッパ連合)など地域共同体形成の動きの加速も世界の多極化趨勢を示すものである。中南米でもアフリカでもこの種の共同体形成に動いており、東アジア共同体はこの中で注目を集めるものとなっている。
 わが国は、いくら対米関係が重要だとしてもアジアの厄介者となっては元も子もない。これまでは経済的繁栄も安全保障も対米一辺倒であっても、東西冷戦下の世界、多くの国が東西の超大国を盟主に仰いでいた世界ではまだ容認されるものであった。多極化が趨勢の世界では、国際的孤立を免れない。特にアジアでの孤立は致命的である。寺島氏が危惧した「日本を覆う寂寥感」は、対米一辺倒から招来されたものであり、超大国と「その伍を共にする」大国中心の世界観、覇権容認の姿勢の必然的見返りであることを示すものだ。
 東アジア共同体への日本の参画は、「脱亜入米」からの決定的転換、「入亜」の具現であり、米一極世界ではなく多極世界と「その伍を共にする」道である。明治以来、先のアジア・太平洋戦争惨敗でも克服できなかった、わが国の「脱亜入欧」体質、大国主義、覇権主義体質を克服し、二一世紀の新生日本への転換をはかる契機、それが東アジア共同体参画になると思う。

TAC―自主権尊重、自主共存の基本精神

 大国主義、覇権主義の根源は、他国の運命決定権である自主権にたいする無視、じゅうりんである。国と民族の大小、発展水準の違いはあっても、国と民族に高低の違いはなく、指導する国と指導される国の区別もない。国と民族の自主権は等しく尊重されてこそ大国主義も覇権主義もない世界が実現できる。
 幕末の譲夷ナショナリズムが本来求めたのも、欧米列強の大国主義、覇権主義から免れ、日本の自主独立を守ることであったはずだ。いまも日本人誰もが幕末の志士を愛し尊敬するのもこのためだと思う。ならば二一世紀のいま、「脱亜入欧」で見失った欧米列強式の大国主義、覇権主義克服の道は「入亜」によって自主権尊重に求められるべきであろう。
 今年、二〇〇五年一二月にクアラルンプールで東アジア首脳会議(東アジアサミット)が開催された。ここでの主要議題は、東アジア共同体構想の現実化、具体化へのステップを踏み出すことである。このサミットの参加資格は東南アジア友好協力条約(TAC)加盟国とされた。ここにこの共同体の性格が如実に示されている。
 このTACは、一九六七年、インドネシアのバリ島でASEAN(東南アジア諸国連合)首脳会議が開かれ、域内諸国の平和関係を維持するための合意として調印され、九二年の国連総会でも承認されたものである。
 TACは次の六項目を国家関係の規範と定めている。
 1 独立・主権・領土保全などの相互尊重
 2 外部からの干渉なしに自国を運営する権利
 3 相互の内部問題への不干渉
 4 紛争の平和的手段による解決
 5 武力行使と武力による威嚇の放棄
 6 諸国間の効果的協力
 この前文には、一九五五年四月にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議、いわゆる非同盟運動が確認した原則の継承をうたっている。その基本精神は、各国の主権の尊重、すなわち自主権尊重につきる。
 非同盟運動は、欧米の植民地支配から独立したアジア・アフリカ諸国の主権尊重の精神を強く反映し、東西冷戦時代、ソ連を盟主とする東側、米国を盟主とする西側、いずれの政治、経済、軍事ブロックにも属せず、大国の干渉を排除する自主独立のナショナリズムを貫くものであった。アジアの社会主義国家である朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国もその主要成員国として、米ソいずれの大国主義も排する自主独立の姿勢を堅持した。
 こうした非同盟自主の精神を継承したTACを東アジア共同体構想具体化を討議する東アジアサミット参加の条件にしたことは、まさに東アジア共同体の性格が主権尊重を強く打ち出すものであることを物語っている。大国主義、武力による紛争解決、民主主義を振りかざした他国への内政干渉などは、いずれもTACの基本精神に反するものである。
 主権尊重をうたうTAC加盟を条件とするアジアの強い姿勢は、東アジア共同体構想の前史がまさに大国の干渉、覇権主義との闘いであった歴史の教訓に基づくものだ。
 東アジア共同体構想が提示されたのは、冷戦終結、そしてグローバリズムの波が世界に押し寄せつつあった一九九〇年代に入ってのことである。
 一九九〇年、マレーシアのマハティール首相は、東アジア経済グループ(EAEG)を提起、これは今日の東アジア共同体構想、すなわちASEAN+3(日、中、韓)をほぼ網羅する地域協力構想だった。マハティールのこのEAEG構想の提起は、前年にオーストラリアのホーク首相が提唱し、ベーカー米国務長官が協賛する形で始まったアジア太平洋閣僚会議(APEC)に対抗する形でおこなわれた。その対抗の内容としては、この構想に先進資本主義国としては日本だけを入れ、APECが網羅した米国、オーストラリア、ニュージーランドなどの非アジア地域を除外したことにあった。それはAPECが結局、超大国、米国主導の地域協力構想になることを懸念してのものだった。当然、米国は「排他的ブロック」としてこのEAEG構想を攻撃し、日本も追従、翌年、米国の反対を緩和するため、当面、協議体(EAEC…東アジア経済評議会)として出発することでASEAN諸国に了解を得た。しかしこの構想も米国の強い反対とその意を受けた日本の不支持で日の目を見ることなく終わった。
 これを見てもわかるように東アジア共同体構想の前史は、域内の自力協力をめざし、大国の干渉を避けようとするアジアと域外の大国(米国)主導のものにしようとする圧力との闘争の歴史であった。この前史を経ての東アジア共同体の基本精神が、TAC加盟条件に象徴される国と民族の自主権尊重である。
 わが国は、対米基軸からの逸脱を恐れるあまり、あまりにもアジアのこの基本精神への無理解、無視に終始してきた。その結果が、戦後六〇年を「脱亜入米」の年とする歴史の愚を再びくりかえす危険に身を置くようになった。さいわい東アジア共同体へのアジアの志向を米国も正面から反対はできず、危惧を表明するしかない状況にある。アジアとの良好な関係ぬきに生きられない日本の立場も無視はできない。ならばかつて幕末の志士が構想したように、アジアの友と共同して超大国の圧力を恐れず日本の運命を自己決定していく二一世紀の「東亜計略論」を持ってもいいはずだ。かつてはアジアへの膨張主義を許したが、いま自主権尊重の基本精神の東アジア共同体に参画するならば、「大東亜共栄圏の野望」をアジアから警戒されることもないだろう。
 自主権尊重の東アジア共同体の基本精神は、政治においては自主共存、経済においては自立共栄、平和と安全、地域の安保問題においては自衛共和に具現されている。

経済ナショナリズム―自立共栄

 東アジア共同体構想の前史は、米国の圧力、これへの日本の追従によって、数々の煮え湯を飲ませられ、前進と後退の繰り返しを余儀なくされた歴史だった。しかし東アジア共同体構想が再浮上し、実現への動きが本格化するのは、一九九七年アジア通貨危機の苦い体験を通して深刻な教訓をアジアが汲み取った時期である。グローバリズムの席捲で片隅に追いやられていた経済ナショナリズムにアジアが覚醒し始めたのだ。
 これについては第一章で述べたので詳しくは触れない。ただ次のことだけは触れておかねばならない。「世界の成長地域」ともてはやされていたアジアが投機目的の欧米のヘッジファンドなど短期資本の引き上げで一晩のうちに地獄の底に落とされた経済的大激震をアジアは体験した。このような事態をもたらした要因である、グローバリズムに基づき資本市場の性急な自由化、外国資本への開放を指導してきた米主導のIMF(国際通貨基金)は、危機収拾策もアジアのためにはやらなかった。「東アジア地域では『IMFは、アメリカの多国籍企業に我々の国・国民の企業資産をできるかぎり安価に売り渡す条件をつくろうとしている』といった経済ナショナリズムの声が高まった」(原洋之介「アジア型経済システム」・中公新書)。ちょうど日本のバブル崩壊で不良債権をかかえて倒産した企業を欧米の投機資本が安く買いたたいた、いわゆるハゲタカ・ファンドの暗躍のような事態をアジアは国家的規模で経験した。
 タイでは新しく選出されたタクシン首相がIMFの指導に従わず政府財政緊縮ではなく積極財政策、日本式に言えば「大きな政府」政策で公共投資による内需刺激、拡大策、特に農村振興に政府資金を投じた、その結果、みごと危機克服に成功し、国民の絶大な人気を博した。
 マレーシアでもマハティール首相がIMF指導に反して、海外との資本取引の規制強化と自国通貨リンギの対米ドル固定相場制への復帰を表明、外国人による株式売買益の国外持ち出しを一年間禁止する措置をとった。この緊急措置が成功、「マハティール政権のこの政策決定は、『効率性追求だけのIMF型経済システムは、マレー系と中国系との間にバランスをとらざるをえないマレーシアの現実には合わない』とする経済ナショナリズムに立脚していた。まさに、グローバル・キャピタルを調教し管理しようという政策選択であった」(前掲書)と賞賛されている。
 グローバリズム経済が国境を越えて国内経済を襲う嵐を、経済ナショナリズムに立脚して回避させたアジアは、地域共同体をナショナリズムと国際協力の調和がとれたものとして築く方向でさらに切実に東アジア共同体構想を加速するようになった。すなわち各国の経済的自立を確固と保障しながら国際的協力で共に経済的繁栄をめざす、自立共栄を経済共同体の理念としている。ここが単純なグローバル経済化、各国の経済主権を侵害する国境のない経済とは区別される東アジア共同体での経済の国際化の重要な側面である。
 九七年のアジア全域をおおった通貨危機では、わが国はアジア通貨基金構想(AMF)を提案、それはIMF(国際通貨基金)に代わるような基金を認めない米国の圧力に屈し破綻したものの、その後「新宮沢構想」でIMFの不備を補完する日本の円借款は危機克服に役立てられた。アジア通貨危機は、ユーロのようにドル経済依存から脱却すべく、将来の地域独自の共通通貨発行までにらむ共同体の構想へとアジアを進ませ、ここで強い円、日本の役割への期待も高まっている。モノづくりはともかく金融資本面では圧倒的優位の米国の支配、統制下に甘んじざるをえない日本が、東アジア共同体参画によって、自立共栄の国際経済システムづくりに寄与する道が開けるであろう。

安保ナショナリズム―自衛共和

 経済のみならず政治、特に地域内の平和と安全を大国によらず自分たちの力で解決する動きも具体化している。
 一九九四年、東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)第一回閣僚会議が開催、ここには米国、ロシアも参加、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「朝鮮」と略す)も二〇〇〇年第七回閣僚会合から対話メンバーとして参加している。ARFは、地域の「平和と安全構築の主軸」になることをめざすものであるが、大国ではなくASEAN諸国を中核としていることが特徴である。
 ARFではミャンマーにたいする軍事政権への民主化圧力や朝鮮への核問題で国際的圧力の包囲網を企図する米国などの内政干渉的態度は退けられ、あくまで相手国の主権尊重、当事者間の信頼醸成を貫くことで、アジア地域での武力を背景にした当事国への大国の圧力、武力干渉を避ける「緩衝材」的役割を果たしている。そのことによって「地域の平和と安全構築の主軸」を担おうという姿勢を堅持している。
 一九九九年、マハティール首相は、中国を訪問,EAEC(ほぼASEAN+3を網羅、米国は含まれず)を基礎に地域の安全保障問題などを協議する「東アジア共同体」実現を呼びかけた。また二〇〇三年、APEC首脳会議でブッシュ大統領は対テロ戦争路線への支持を取りつけようとしたが、「政治課題はなじまない」と拒否され、ここにきてAPEC(アジアだけでなく中南米まで含む環太平洋諸国を網羅した米主導の機構)の存在感は急速に薄れるようになったと言われる。先にも触れたマラッカ海峡での海賊対策に名を借りた米軍の軍事行動での共同作戦の提起をマレーシアとインドネシアの海軍当局は、自分たちの海峡の安全は両国が守るとして拒否した。
 共同体における安保面での自主権尊重の基本精神は、自国自衛に基礎した共同和平努力、すなわち自衛共和の理念となる。
 こうした一連の動きは、アジアが地域内の安保問題については、大国依存を脱却、米国にも言うべきことは言う、アジアの安保はアジアの力で解決していくという、アジアのナショナリズムの自信と自負を強く表わすものであり、このアジアの安保ナショナリズムは東アジア共同体の自衛共和の理念として具体化されていくであろう。
 かつて細川政権時、政府の安全保障問題に関する諮問委員会が(座長は当時の樋口アサヒビール社長)アジアにおける安全保障機構設立と日米安保とを並立させた意見書を提出したことが米国の逆鱗に触れ、撤回を余儀なくされたことがあった。最近ではTAC(東南アジア友好協力条約)への加盟を「日米安保に抵触する」と一度は躊躇、後に中国の加盟を見てあわてて加盟署名をしたことは前に述べた。しかしながらまだ不十分とはいえ、日本のTAC加盟は、内政不干渉、武力行使と武力による威嚇の放棄など安保問題も含む国際条約への加盟であり、日本外務省が心配したように日米安保と同時並立の安保機構への日本の参加につながりうるものである。アジアの圧力に押されてではあれ、ある意味では日米安保一辺倒から脱却する可能性をすでにわが国は手にしている。日本の東アジア共同体参画は、その自衛共和の理念によって、日米安保一辺倒路線が超大国の軍事力依存の他人任せの一国平和主義の国防、あるいは大国の侵略戦争への加担の国際貢献などの批判を受ける元となったのに比べて、責任ある国防と国際平和への貢献をバランスよく統一し、アジアからも危険視されない国防安保路線として、戦後初めて、いや明治以来はじめて世界から歓迎されるものとなるだろう。
 いま朝鮮半島の非核地帯化をめぐる六者協議をアジア安保の枠組みとする構想も持ち上がっている。現在、この六者協議が当初の「北朝鮮への国際的圧力包囲網」との米国の思惑から離れ、「北朝鮮の核危機」を口実とした米国の反テロ戦争、先制攻撃の暴発を南北朝鮮、中国、ロシアが抑える逆「国際包囲網」になっている。日本政府が「日米安保に抵触する」と恐れた内政不干渉、武力行使と威嚇放棄のTAC(東南アジア友好協力条約)への将来の加盟を東アジアサミット参加の余地を残したい米国は正面から否定できないでいる。超大国、米国といえどもアジアから孤立して生きていくことはできない。自衛共和のアジア安保をめざす東アジア共同体に、わが国が積極的参加の歩をさらに進めれば、イラクでのような米国の一方的な軍事的暴発も抑制できるだろう。アジアを友とし自衛共和の国際安保システム創設にわが国が寄与することは、わが国の最大の「不戦の誓い」になるだろう。

4 東アジア共同体に参画、「入亜」する魅力

EUとは異なる共同体

 今年(二〇〇五年)、ヨーロッパ共同体のフランスはじめいくつかの国々でEU憲法が否決された。EUの法律の下で東欧などからの安価な労働力の流入がフランス人の職場を奪うことへの懸念など、主にはナショナルな利益と国際協調との矛盾、対立にEUは悩まされている。
 東アジア共同体がアジアのナショナリズムを基底に置いているという視点から見たとき、そこにはEUに見る従来の地域共同体構想とは異なる新しい地域協力の形、新しい国際協調のあり方を見ることができる。
 EU(ヨーロッパ共同体)が一部主権譲渡にまで踏み込んでいるのにたいし、東アジア共同体はむしろ各国主権尊重をうたっている。ここには両者の共同体にたいする考え方の違いがある。EUは、ヨーロッパ議会や地域共同武力EU軍創設、そしてEU憲法制定にまで踏み込み、各国の主権を超越した政府的機能も持てるという共同体をめざしている。しかしアジアのめざしている共同体はそれとは異なる。この点に注目すべきではないだろうか。
 一般に地域共同体と言うとき、「地球−地域−個人」という民族、国家否定の地球主義、各国主権制限のグローバリズムの産物のように考えられがちである。しかしアジアのナショナリズムの歴史から生まれた東アジア共同体構想は、各国主権尊重と貿易、投資の自由化など地域共同体利益という一見、相反する両者の要求、利益を統一的に解決することを志向しているように見える。ここにグローバル時代と呼ばれる二一世紀にあって新たな世界秩序を形成する芽が東アジア共同体構想にはあると言えるのではないだろうか。
 二〇世紀には欧米列強の植民地化、亡国の悲運をなめ、独立後も親米軍事独裁政権下で形を変えた亡国の苦渋を味わい、大国の内政干渉、武力干渉の末に朝鮮でベトナムで悲惨な戦火をくぐりぬける中で、自主独立のナショナリズムをさらに強靭なものにし再生を果たしたアジア、二〇世紀末以降は、通貨危機など国境を越え侵入してくるグローバリズム、市場原理万能主義の凶暴さを体験したアジア、二一世紀に至りこのアジアがナショナルな利益を侵害しないという主権尊重の原則に立った新たな国際協力のあり方、ひいては新しい世界秩序のあり方を追求しているように思う。
 もちろんまだ確たる解答が出ているわけではない。しかし東アジア共同体構想は、主権尊重、民族自主権擁護という人間的要求、志向を基本にすえたうえで、各国の経済的自立を基本にして自由貿易協定など市場原理の公平、公正、効率を要求する機能を正しく運用、その無制限の弱肉強食の競争原理万能を統制して地域の共栄を図る道、各国の自衛を基本に内政不干渉、武力不行使の原則で地域の集団安保をはかる共和の道、一言でいって自主共存、自立共栄、自衛共和の新しい世界秩序形成への道を開拓し始めているのは事実ではないだろうか。

「入亜」で日本改革

 グローバルな時代と言われ、国際的連係がいつよりも高まり国際的協調なしにどの国も生きていけない二一世紀に世界は暮らしている。この新世紀にあって、わが国の東アジア共同体参画の意味は大きい。それは、国際独占資本、多国籍資本の横暴、米一極支配、世界のアメリカン・スタンダード化(米国標準の世界基準化)の代名詞となりつつあるグローバリズムに代わる国際秩序、自主共存、自立共栄、自衛共和の新国際秩序を主体的につくりあげながら、わが国の経済的繁栄と平和的発展の進路を見いだしていけるものとなるのではないだろうか。
 小泉改革に人々は期待した。しかし「痛みを伴う改革」がベストだとは誰も考えないだろう。人間ではなく市場を基準とする改革に、たとえそれが公正、公平の様相を呈しているとしても人間的な改革は期待できない。弱肉強食が優勝劣敗の名の下に常識化され、親が子を虐待、子が親を殺し、大人が幼児殺人に走るなど、これまでになかった不可解な凶悪犯罪が増加し、なぜ人間を殺してはいけないのかという人間尊厳の根底に関わる初歩的な倫理道徳の基準への疑問にも答を見いだせないような、そんな「改革」に伴う「痛み」、それは人間の耐えられる痛みを超えている。東アジア共同体の自主権尊重精神は、人間の運命の自己決定権の尊重にその基底を置いたものだと言える。国と民族、その国際関係の理念である自主共存、自立共栄、自衛共和は、その基本精神において少なくともグローバリズム、新自由主義の市場中心よりは人間中心に重点を置いている。これはわが国の「入亜」が持つ底知れない深い意味を示唆していると言えるのではないだろうか。

「入亜」でより親米に

 東アジア共同体参画は、当面の対米関係を悪化はさせるかもしれない。しかし、中長期的に見れば、むしろ対米関係正常化の積極的契機となると思う。対米関係正常化とは、日本が対米追随から脱却するというだけでなく、わが国が本当に米国の友人、親友になるということだ。現在のように機嫌をうかがいながらつき合うのが友達とは言えない。遠慮があるなら友達ではない。親友ならいやがられても言うべきことは言わねばならず、批判もしてやるべきだ。いまのように腹に一物を抱えながら面従腹背的態度で接するのは相手に失礼というものだ。
 わが国には米国の目を覚まさせてあげる義務がある。わが国は大国主義、覇権主義の甘い誘惑を捨てきれず、亡国寸前の悲運、アジアと世界の孤児化の悲劇を味わった経験を持つ、そういう意味では米国の先輩国だ。東西冷戦の終結によって、二〇世紀の大国中心の世界秩序、超大国の力による覇権競争、パワーゲームの時代が終わって久しい。今日の米国は、いまだ世界の一極支配の夢から覚めず、世界中のひんしゅくを買う数々の横暴な行動で世界秩序を乱す世界の厄介者になっている。日本が多くを学んできた米国にも優れたものが多々あるのに残念なことである。かつてのわが国がそうであったように覇権大国の地位を得るとその保持に汲々とし、ついには大局を誤って破滅の道に陥るというのは歴史の教訓である。アジアにおける「米国の親友」を自負するならば、自らの苦い教訓を教えるべきであり、米国にもアジアを「良友」とし自主共存、自立共栄、自衛共和の利を説くべきだ。そのためにはまず、当面の米国との摩擦を恐れず、まずわが国が東アジア共同体への積極的参画の決断を下し、断固として共同体実現の道に一歩を踏み出すべきであろう。
 わが国がアジアを「良友」視し、東アジア共同体に参画、「入亜」する意味、その魅力は、この辺にあるのではないだろうか。


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