小泉改革批判


日本のための真の改革を考える

2005/10/8



■ ■ 目 次 ■ ■

T 小泉改革とは何か、その本質を考える

一 自由化、グローバル化改革としての小泉改革

二 日本を「戦争のできる国」にする、もう一つの小泉改革

三 二つの改革はどう統一されているのか

四 日本のアメリカ化と小泉改革の本質

  日本のアメリカ化 その一、アメリカのための日本
  日本のアメリカ化 その二、アメリカのような日本

U 対米追随の歴史と小泉改革

一 戦後政治、自民党政治と小泉改革

二 明治以来の対米追随

三 対米追随路線の極致としての小泉政治

V 小泉改革は日本とわれわれの生活に何をもたらしたか

一 日本にとってのアメリカ化改革

  産業経済の破壊、共同体、共同社会の破壊
  深まる経済的破局と戦争の危機

二 日本のアメリカ化とわれわれの生活

  不安社会の広がりと生活苦の増大
  少子化現象にみる生活破壊
  自殺の増加、犯罪の凶悪化
  急増する政治離れ

W 今、日本のための真の改革が求められている

一 日本国民が要求しているもの

  高まる日米関係正常化への要求とアジア志向
  自主、自治、自決への志向と地方、地域の共同体的発展への要求
  平和と民主への要求の高まり

二 世界は今日、日本に何を要求しているか

T 小泉改革とは何か、その本質を考える


一 日本のための真の改革の理念、自主と共同体の理念

二 真の改革の政策、そのための若干の問題提起

  アメリカと正常な関係を結び、アジアと世界と共に繁栄する日本へ
   ・日米関係の正常化と東アジア共同体
   ・自衛路線と経済主権の確立
  自主、自治、自決の共同体的日本へ




 郵政民営化法案の参院否決から解散、総選挙、そして自民党の圧勝に至る「小泉劇場」は、われわれに多くのことを教えてくれた。
 都市中間層や若者たちの不安と不満、既得権など古い日本の不公正への怒りと変化への期待、それに応える小泉氏の分かりやすく、単純明快、断固たる言動への支持の盛り上がり、また、そこから連想される新しい「ヒトラー」の登場への危惧、等々、選挙結果からいろいろなことが言われている。
 そうした中、なによりもまず重要なのは、日本国民が切実に改革を求め、新しい政治を求めているという事実をそのまま見ることではないだろうか。改革を掲げ、改革を争点としながら、既得権を持つ古い勢力を攻撃し、これまでになかった新しいイメージで選挙戦を展開した小泉自民党が、低下の一途をたどっていた投票率を七%以上も引き上げ、無党派層や若者たちの間に支持を拡大して大勝したこと、逆に、改革に反対する古い勢力というイメージをもたれた民主党や抵抗勢力が大敗したことは、そのことを雄弁に物語っているのではないかと思う。
 もう一つは、今、本当に日本と日本国民のため、新しい政治を実現しようとすれば、小泉改革と真っ向から対決する真の改革のイメージと展望を提示する必要があるのではないかということだ。民主党の掲げる改革が本質的に自民党と同じで、イメージ的にはそれ以下のものでしかなかったこと、同じ改革なら、単純明快で断固としている小泉氏の方が岡田民主党より余程よくやりそうに見えたこと、等々にそれは示されているのではないかと思う。
 今日、改革と言えば、それはほとんど小泉改革と同義になっている。だから、小泉氏が「改革をやるのかやらないのか」と二者択一を迫ることによって、改革を求める国民大衆の支持を取り付けることができたのではないかと思う。だが、本当に改革は小泉改革と同義なのだろうか。
 そうではないと思う。同義に見えるとすれば、それは、今、小泉改革以外の改革が考えられないからに他ならない。市場原理、競争原理、「自己決定、自己責任」に基づく改革にいろいろと問題があるのは分かっている。だが、今日の日本の行き詰まりを打破し、古い日本の特権や既得権を廃して、公平に自己決定できる条件をつくっていくためには、それも仕方がないのではないのか、第一、世界の流れ、時代の流れがそうなっているのに他に方法があるというのか、ということだ。
 だが一方、「自民党をぶっ壊す」と言って船出して以来四年余り、小泉改革が自民党ばかりか日本と日本国民の生活まで破壊し、その矛盾があらゆる方面で噴き出してきているのも事実だ。それは、一般的に「小泉改革にも問題があるのは事実だ」と言ってすまされるような事態ではない。にもかかわらず、一方、この改革と対決し、矛盾を解決できるような日本のための真の改革は提起されていない。具体的な方策はもちろん、その大体のイメージさえも定かでないのだ。
 そうした中、今回の選挙結果を背景に、新生・小泉政権がかつてない強権を持って、さらなる破壊と破滅の道を突き進もうとしている。この一大難局に当たって重要なことは、小泉改革が日本国民の改革への要求に応える日本のための真の改革では決してなく、その逆であることを白日の下に明らかにすることであり、それと同時に、なによりも、その真の改革の道がどこにあるか探り当てていくことである。
 この重大な事業は、広範な全国民的な事業として、多くの人々の知恵と力を集め推し進めていかれることになるだろう。この小冊子がそのための一つの問題提起として意味を持つことができれば幸いである。

 

T 小泉改革とは何か、その本質を考える


 小泉改革が日本国民の改革への要求に応えるものであるか否か。この問いに答えを出すため、まず必要なのは、小泉改革の本質を明らかにすることだと思う。
 小泉改革の本質と言ったとき、一般的に言われているのは、新自由主義改革、市場原理主義改革ということだ。市場原理、競争原理や「自己決定、自己責任」に基づき、規制緩和と民営化を基本政策とする小泉改革をそう規定するのは決して誤りではない。
 しかし、小泉改革にはもう一つの顔がある。それは、日本を「戦争のできる国」にする新保守主義改革という顔だ。有事立法から自衛隊イラク派遣、九条改憲策動へと連なる、日本の国と軍事を画期的に変えるこの改革を抜きにして、小泉改革の全貌をとらえたことにはならないと思う。
 新自由主義改革と新保守主義改革。問題は、この一見矛盾した二つの改革をどう統一的にとらえるかだ。それができたとき、われわれは、小泉改革の本質を正確にとらえることができるようになるのではないだろうか。


一 自由化、グローバル化改革としての小泉改革

 旧秩序の破壊と新秩序の形成、この小泉構造改革の基礎には、あらゆる保護と規制を否定し、市場原理、競争原理にすべてを委ねる新自由主義があり、地球、地域、個人を単位としながら、基本単位としての国と民族を否定するボーダーレスのグローバリズムがある。現在、日本社会のあらゆる分野と領域にかつてない破壊力をもって展開されてきている市場原理、競争原理の全面導入とボーダーの除去は、そのことをよく示している。小泉改革を指して日本の自由化、グローバル化だと言うのはそのためだ。
 この自由化、グローバル化の改革は、たぐいまれな力で日本の旧支配秩序を破壊していっている。かつて「護送船団」、「日本株式会社」と呼ばれ、「鉄の三角形」を誇った日本の政、官、業の結合体がものの見事に破壊されていっている。各種規制と談合などにより、結合体の利益、権益をはかりながら、その中で個別機関、企業、個人の利益、利権を実現していく、なれ合い的な日本型集団主義。この思想が支えてきた旧支配秩序が、新自由主義、グローバリズムに基づく改革で打ち崩されていっているのだ。それは、古い日本型集団主義を新自由主義、グローバリズムで打ち破る改革として、政治、経済、文化、そして社会全般に及んでいっている。
 自民党派閥政治の解体と首相による強権政治、二大政党政治への移行、中央省庁の再編と地方への権限委譲など、政治の改革では、これまで「抵抗勢力」が日本型集団主義の象徴として槍玉に上げられてきた。今回の郵政民営化を争点とする解散・総選挙劇などは、その決定版とも言えるものだった。自分の利権との関係の中で「改革」に反対する抵抗勢力、反対派の姿は、各種不正行為の摘発やスキャンダルの暴露と相まって、日本型集団主義の負の側面を印象づけ、新自由主義、グローバリズムの株を上げている。
 一方、金融、会計から農業にいたるまであらゆる領域にわたる規制緩和と撤廃、そして道路公団や郵政公社など、公社、公団の民営化、等々、経済の改革はどうか。そこに貫かれている「官から民へ」、「民間にゆだねて市場原理、競争原理で」の思想、それは、すなわち「日本共同体主義、日本型集団主義」を「古い日本」の思想として否定し、新自由主義、グローバリズムを奨励するものに他ならない。
 そうした中、新自由主義改革の全社会的な浸透は著しい。年功序列、終身雇用制から成果主義、不安定雇用への転換、外国人労働者の大量の流入、教育や医療福祉における市場原理、競争原理の全面導入、共同体原理に基づく規制、保護から「自己決定、自己責任」への移行、コメ流通の統制から自由への転換、等々、「日本共同体主義、日本型集団主義」から新自由主義、グローバリズムへの転換は、職場から衣食住まで至るところに及んでいる。


二 日本を「戦争のできる国」にする、もう一つの小泉改革

 小泉改革が日本を変えたのは、自由化、グローバル化したということだけではない。もう一つ重要なのは、日本を政治、軍事的に「戦争のできる国」に変えてきたことだ。われわれは、この間、小泉政権が軍事に関わる領域で強行してきたこの改革について事実に即し、具体的に見ていく必要がある。
 自由化、グローバル化の小泉改革がすでに一九八〇年代に始められた改革を引き継いでいるように、軍事部門での小泉改革も、この十年来の改革の延長である。一九九六年の日米安保再定義とそれに基づく新ガイドラインによって方向付けられた軍事部門の改革は、周辺事態法、有事立法、イラク特措法など一連の戦争法規の制定、ひいては九条二項の改定を基本とする改憲策動として、自衛隊の旅団化、モジュール化(部品化)など各種改編として、また、初めての海外派兵、自衛隊イラク派遣の強行などとしておこなわれてきた。
 また、日本を「戦争のできる国」にする改革として、愛国思想教育の強化や国旗、国歌の強要が持つ意味は大きい。小泉首相の靖国神社参拝問題もこの側面からとらえる必要があるのではないだろうか。
 一方、日本を監視社会化、盗聴社会化する策動も見落としてはならない。住基ネットの形成や個人秘密保護法の制定などは、日本を「戦争のできる国」にするためのファッショ化改革の一例と言えるだろう。


三 二つの改革はどう統一されているのか

 二つの改革は、一見矛盾している。自由化、グローバル化改革は国や民族を否定しているのに、日本を「戦争のできる国」にする軍国化、ファッショ化改革は愛国だ。また、前者は自由で開かれたイメージだが、後者は抑圧的で閉鎖的だ。
 このまったく違うイメージの改革が、小泉政権のもと、なぜ同時に推し進められてきたのか。答えはいくつかあるだろう。だが、中でも一番明瞭なのは、「アメリカがそう要求してきたからだ」というものだと思う。
 周知のように、日本の政治は、戦後一貫してアメリカの言いなりになってきた。もちろん、一定の反抗はあったが、基本的にアメリカの要求を受け入れ、その通りの政治をしてきたのが日本の政治だった。
 小泉政治とて、その例外ではない。それどころか、これまでのどの政権にも増してアメリカの言いなりになっている。一見矛盾した二つの改革が同時に推し進められるようになるのは、まさにそのためだ。
 日本の自由化、グローバル化も、「戦争のできる国」にする軍国化、ファッショ化も、どちらも皆日本をアメリカのための日本、アメリカのような日本、すなわち、アメリカ化された日本にすることを求めるアメリカの要求だということだ。自由化、グローバル化改革と日本を「戦争のできる国」にする改革とは、この点で統一されていると思う。
 また、思想的に見ても、新自由主義、グローバリズムと新保守主義とは、決して対立したり矛盾したりするものではない。ともに、アメリカによる支配の論理として統一されている。新自由主義、グローバリズムが、国と民族を否定し、ボーダーレスにし、個々人バラバラにして、弱肉強食の競争原理、市場原理で強いアメリカが世界を支配するようにする思想だとすれば、新保守主義は、圧倒的な軍事力に基礎したアメリカの軍事覇権のもとに同盟国の軍事力を統率して世界を一極支配するようにする思想だということだ。この新自由主義、グローバリズムによる支配と新保守主義による支配は、互いに補完し合っている。ドルによる支配、新自由主義的支配は、核による支配、新保守主義的支配あってのものであり、新保守主義のアメリカの軍事は、軍事の効率化、軍隊の民営化、兵士の不安定雇用青年層からの補充など、新自由主義によって支えられている。


四 日本のアメリカ化と小泉改革の本質

 新自由主義改革と新保守主義改革の統一としての小泉構造改革、ずばりその本質はどこにあるのか。ここに、小泉改革評価の重要な核心の一つがあると思う。

■日本のアメリカ化 その一、アメリカのための日本
 日本を自由化、グローバル化し、「戦争のできる国」にすることを求めるアメリカの要求は、なによりも、日本をアメリカのための日本にしようということだ。
 アメリカが日本をアメリカのための日本にすると言ったとき、一つは、アメリカによる世界一極支配を支えるため、これまでにも増してより徹底的に貢献する日本にするということだ。
 先述したように、アメリカの世界支配は、ドルと核による支配だ。すなわち、ドルを世界通貨とする支配体制であり、核に象徴される圧倒的な軍事力による支配体制だ。
 このカネと暴力による支配体制が最近とみに揺らいでいる。それは、主として多極世界の台頭とアメリカ自体の軍事、経済的な弱体化によるドルへの信頼感、米軍事力への脅威の低下によっている。
 危機に直面したアメリカは、日本を新しい西部フロンティアとしてアメリカの一部に取り込み、より全面的、徹底的にアメリカと一体化させて、日本がドル体制の維持のため、ブッシュ・ネオコン路線、反テロ戦争体制の強化のため、これまでにも増してより大きな役割を果たすよう要求してきている。
 米陸軍第一軍団司令部を日本の座間に置くことなどは、その象徴と言ってよいだろう。これによって自衛隊は、米軍の指揮のもと、米軍とともに朝鮮などアジアに敵対して動く、より徹底的な米軍の反テロ戦争補完部隊、下請け軍隊になる。この間の自衛隊の再編(師団の旅団化、部隊のモジュール化、兵器の米国化など)や自衛隊を正式に軍隊として認定する九条改憲策動などは、この脈絡から見るとその企図が鮮明である。
 アメリカの言いなりにゼロ金利を固定して、金利の高い米国債買いにジャパンマネーが流れるようにする策動、アジア通貨体制を軸とするアジアだけの共同体づくりに執拗に反対し、あくまでそこにアメリカを引き入れようとする策動、これらが、経済の自由化、グローバル化による日米経済の一体化とともに、ドルによる世界支配体制を支えるためのものであるのは、容易に理解できるだろう。
 日本をアメリカのための日本にすると言ったとき、もう一つは、米系外資の利潤拡大の源泉としての日本にするということだ。
 戦後数十年、これまでの日本は、「護送船団」、「日本株式会社」、「鉄の三角形」などの呼び名が示しているように政、官、業が一体となり、日本経済と企業を外資から守ってきた。アメリカも、こうした日本資本主義のあり方を、アジアの共産主義勢力、民族自主勢力との対抗上、許してきた。日本は共産主義に対するアジアにおける重要な防波堤だったのだ。しかし、今は違う。共産主義との闘いも一段落ついた。一方、かつて無尽蔵に見えた米巨大独占の利潤拡大の源泉も枯渇してきている。「西部フロンティア」はなくなったのだ。そこで、フロンティアをさらに西へ、日本にまで拡大してきた。それが小泉改革の自由化、グローバル化だと言えるのではないだろうか。
 小泉改革の規制緩和と民営化の大きな目的の一つはまさにここにある。すなわち、米系外資の日本市場への参入、浸透だ。金融や会計のビッグバンなど経済のあらゆる領域にわたる規制緩和、自由化と電電公社や道路公団の民営化など公社、公団の民営化は、米系外資、ハゲタカファンドの日本浸透に大きく道を開いた。今、焦点になっている郵政民営化にアメリカの保険業界など金融資本が大きな関心を寄せているのはその一つの現れにすぎない。
 浸透してきた米系ファンド、ハゲタカファンドによる日本市場の席巻は甚だしい。「不良再建処理」を強要しリスクを最大限減らしておいての銀行買収。西武など巨大企業の不正を暴き瓦解させておいての買収。ライブドアなど日本の新興IT産業を介しての巨大メディアの買収。今や日本は、米系外資によるM&Aの格好の餌食になってしまっている。
 一方、米系外資にとって日本は、脱税天国である。彼らは、日本の国税局の動きの鈍さをいいことに脱税の限りを尽くし、国税局が動きだしたときには、すでに国外退去してしまっている。

■日本のアメリカ化 その二、アメリカのような日本
 今、日本は、アメリカのための日本になりながら、他方で、より徹底したアメリカ型の日本、アメリカのような日本になっている。これが、小泉構造改革、すなわち自由化、グローバル化改革のもう一つの産物だ。
 アメリカのような日本、アメリカ型の日本と言ったとき、いろいろ言えるだろう。が、中でも重要なのは、「自己決定、自己責任」の日本になったということではないだろうか。
 「今日、日本の支配的な思想は何か」。そう問われたら、多くの人が「自己決定、自己責任」を挙げるのではないだろうか。学校でも、会社でも、家庭でも、スポーツ界でも、医療福祉の世界でも、どこでもかしこでも、「自己決定、自己責任」である。女子バレー界でも、しごきの大松式は通用せず、選手の自己決定を尊重し自己責任に委せる柳本方式によって、これまでになかった結果が出されるようになっている。
 問題は、自分の頭、自分の力で自主的に生きようとする人間本来の意思と要求が、集団否定、集団崩壊の今日の社会的風潮の中、国や社会、会社や労組など集団はあてにせず、集団とは無関係に、自分のことは自分が決定し、自分でやっていく、そのような「自己決定、自己責任」にされ、社会の個人化、競争社会化に利用されていることだ。これは、すべてを社会や組織、集団ではなく、「本人のせい」「自分のせい」にして、人々が自分の手で自分の首を絞めるようにする新自由主義的なアメリカ式支配様式そのものではないだろうか。所属する職場を持たず、日々の仕事先を自分で決め、それをやめるのも、自分のスキルを高めるのも、すべて自分で決め、自分で責任を持つ不安定雇用労働者の「自己決定、自己責任」や医療福祉などあらゆる保護を否定する「自己責任」などは、集団と個人を対立させ、集団を否定する新自由主義的「自己決定、自己責任」の本質を雄弁に物語ってくれているのではないかと思う。
 アメリカのような日本と言ったとき、もう一つ重要なのは、市場原理、競争原理の全面的な導入だと思う。新自由主義とは、即、市場原理主義だ。だから、日本を自由化、グローバル化するとは、すなわち市場原理、競争原理を社会のあらゆる領域に全面的に導入することだと言うことができる。事実、今の日本には、農業や教育、医療福祉など、従来、市場原理、競争原理がタブーとされてきた分野にまで、すべてこの原理が導入されてきている。食管制の撤廃とコメの自由化、農業への株式会社の参入規制の緩和、撤廃、国立大学の法人化や学区制の撤廃など教育への競争原理の全面的導入、医療福祉部門での混合医療制の導入など大々的な自由化、等々、今日、日本の国と社会のあらゆる領域にわたる市場原理、競争原理の全面導入は、文字通り社会の構造自体をアメリカ型に変えてしまうものとなっている。
 日本をアメリカ型の日本、アメリカのような日本に変えることは、アメリカのための日本に変えることと一体である。新自由主義的でグローバリズム的な「自己決定、自己責任」の思想は、集団を否定し、国と民族を破壊しながら、日米間のボーダーを徹底的に取り除いて、米一極支配と米系外資の利潤拡大に有利な条件をもたらすだろう。また、市場原理、競争原理の全面導入とそれにともなう共同体原理の否定によって、日本のあらゆる経済領域への米系外資の参入、浸透の道も広々と開かれて行くだろう。
 以上、小泉改革の本質についてみてきた。日本を自由化、グローバル化、軍国化、ファッショ化し、アメリカのための日本、アメリカのような日本にする小泉改革、その本質は日本のアメリカ化にある。これがその結論だと言うことができる。

 

U 対米追随の歴史と小泉改革


 対米追随の歴史から見たとき、日本のアメリカ化である小泉構造改革は、本当に「改革」と呼ぶにふさわしいものなのだろうか。
 確かに、小泉改革で旧秩序が破壊され、新しい秩序、制度が生まれたのは事実だ。多くの規制が緩和、撤廃され、公社、公団の民営化が行われた。また、自民党の派閥や政、官、業の結合体が解体、弱体化され、日本の政治や経済、文化のあり方にも大きな変化がもたらされた。その上で、われわれは、これらをもって小泉改革が、その本質において、日本のアメリカ化だと見てきた。
 ところで、ここで問題提起したいのは、日本をアメリカ化することが、本当に日本を改革することだと言えるのかということだ。なぜなら、日本のアメリカ化なら、今に始まったことではなく、以前からやられていたことだからだ。
 戦後、日本は、米軍の進駐、アメリカの占領のもと、アメリカ化された。政治、経済のすべてがアメリカ化され、パン食が一般的になり、文化もアメリカンスタイルになった。
 戦後だけではない。日本の歴史を顧みたとき、これと同じようなことが明治維新後にもあった。鹿鳴館に見られるように、このときも、欧化、アメリカ化が強行された。政治、経済のやり方から、文化のあり様まで欧化、アメリカ化が進行した。
 明治以来、進歩の象徴はヨーロッパ、アメリカであり、停滞と退歩のそれはアジアだった。そうした中、日本政治の基本には、欧米に追随し、アジアを従える欧米追随、対米追随路線が置かれてきた。この明治以来、敗戦以来のアメリカ化、対米追随路線との関係で見たとき、小泉政治が本当に「改革」と呼ぶにふさわしいのか否か。歴史的事実に即して考えて行こう。


一 戦後政治、自民党政治と小泉改革

 小泉改革と言うとき、それは、なによりも戦後政治、自民党政治の改革を意味している。実際、小泉氏は「自民党をぶっ壊す」と言いながら登場し、今回の選挙で、なによりも自民党とその政治をぶっ壊し大きく様変わりさせた。それは、確かに、改革と言えるものを持っている。
 だが、これをもって、小泉政治を改革と言えるだろうか。戦後政治、自民党政治をその対米追随路線を軸に見ながら、検証していきたい。
 第二次大戦後六十年の歴史、戦後政治の歴史は、一言でいって、対米追随の歴史だったと言うことができる。
 戦勝国アメリカは、敗戦国日本を完全に滅ぼすのではなく蘇らせた。彼らの反共アジア侵略に利用しようとしたのだ。すべてはここから始まっていた。
 そのためにアメリカは、天皇制を存続させ、独占資本を銀行を中心に再編強化した。岸信介をはじめ、戦犯の多くも復活させ、彼らを軸に新たに親米派人脈を作り上げた。その一方、労働者大衆と共産党の闘争は、下山事件や松川事件など、数々の謀略と暴力的弾圧で押しつぶし、朝鮮戦争やベトナム戦争など、新生社会主義諸国を圧殺するための戦争による特需で、倒壊寸前だった日本独占を復活、再生させた。
 息を吹き返した軍国主義独占支配層は、戦争の総括を正しく行わなかった。日本の敗因は、もっぱらアメリカに敵対したところにのみ求められ、アジアを侵略し敵に回したところには求められなかった。
 戦後政治の基本としての対米追随路線は、アメリカの対日政策とこの総括の当然の帰結だったと言ってよいだろう。敗戦から十年、保守合同による自民党の結成、自衛隊の創設、現行警察制度の確立など、「五十五年体制」の成立、自民党政治の誕生は、こうして戦後形作られてきた対米追随政治の集大成だったと言うことができる。
 ここから言えることは何だろうか。それは、戦後政治、自民党政治の改革とは、その基本路線である対米追随路線を変えることを離れて有り得ないということだ。対米追随路線をそのままにしての「改革」は改革ではない。今日、そう断言することこそ意味のあることではないだろうか。
 政府自民党支配層は、高度成長期はもちろん、バブルがはじけ、長期停滞に入り、「第二の敗戦」が人々の口の端に上るようになった後にも、相変わらず、この対米追随路線にしがみついてきた。もちろん、対米追随に未来がないことを悟り、日本の自主的な政治を目指した政治家も幾人か出たのも事実だ。しかし、いずれもアメリカの逆鱗に触れ、悲惨な晩年を過ごしている。
 こうした中、一九八三年、日米円ドル委員会での金融自由化強要への屈服に始まり、この十数年来全面化されるようになった「改革」は、一九九三年七月の宮沢・クリントン会談以来、毎年一方的にアメリカから送りつけられてくる「年次改革要望書」に基づいて強行されてきた。そこに、アメリカの要請に即して「改革」をおこなう対米追随路線が貫かれているは当然だ。と言うより、それは、より徹底的で全面的なものになっている。小泉改革による日本のアメリカ化は、そのもっとも徹底的な表現だと言える。まさにここに、小泉改革がその本質において、改革でも何でもないことの決定的根拠があると思う。


二 明治以来の対米追随

 先述したように、対米追随は戦後に始まったものではない。それは、幕末、維新にまでさかのぼることができる。「攘夷か開国か」に国論が二分された日本が「開国」に傾いていく過程が対米追随への過程だったし、ペリー砲艦外交への屈服がその端緒だったと言える。
 その後、明治政権がとった「脱亜入欧路線」は、遅れた「悪友」であるアジアを捨て、進んだ「良友」である欧米に従う、欧米追随路線そのものだった。このとき新生明治政権はどうすべきだっただろうか。彼らが進んだ欧米に対して学ぶ姿勢を持ったのはよい。しかしながら、アジアを蔑視し、アジアでの覇権を競うその態度には反対し、アジア諸国と共に、互いに力を合わせ闘うべきであった。
 しかし、明治政権はそうしなかった。彼らは、台湾併合、日清、日露戦争、朝鮮併合、第一次世界大戦と、欧米列強とどこも変わらない侵略と覇権、戦争の道に突き進んでいった。この欧米とのアジアをめぐっての覇権争奪、領土拡張の争いの中で、欧米に勝つことが問われ、それに応えて打ち出されてきたのが「近代の超克」だった。
 近代の超克が、欧米への追随に反対し、欧米近代主義の超克とアジア解放を唱えながら、覇権そのものに反対することがなく、アジア蔑視の思想を克服することができなかったのは、こうした事情と大きく関係していると思う。これは、日本の軍国主義支配層が脱亜入欧路線、対米追随路線を本質的なところで超克できなかったことを如実に示している。


三 対米追随路線の極致としての小泉政治

 明治以来の対米追随は、段階を追って深められてきた。維新、敗戦、そして現在と。今日、小泉政治は、新たな段階の対米追随政治だと言える。
 対米追随路線の段階的な深まりの背景には、いつもアメリカの日本に対する「開国」要求の深まりがある。幕末、維新の時は、朝鮮、中国への侵略を日本を先兵として敢行しながら、ロシアの南下を食い止め、アジアに対する覇権を打ち立てようとする英米の領土分割戦的要求があった。彼らの日本への「開国」要求はそのためだった。これに対し戦後は、日本を目下のもっとも忠実な同盟者として復活、再生させ、アジアの民族自主化、社会主義化を抑え、覆すための前線拠点にしようとする要求があった。そして今、アメリカの「開国」要求は、日本をアメリカの一部として組み込み、政治だけでなく経済まで日米一体化しながら、日本が米一極支配を支え、世界をアメリカと一体化させるための先兵になることを求めるところまで来ている。
 ここで、忘れてならないのは、対米追随の深まりがすべて、アメリカへの敗戦や屈服に基づいているということだ。幕末、維新の時には、ペリーの砲艦外交への屈服があったし、戦後の背景には、第二次大戦、対米戦争での日本の敗北があった。そして今は、日米円ドル委員会での金融自由化やプラザ合意での円高、低金利政策の強要と日本のそれに対する屈従があり、それにともなうバブルの発生と崩壊など、「第二の敗戦」と呼ばれる惨状がある。ちなみに、このバブルの崩壊によって生じた株式や土地の時価総額の下落幅(一九八九〜一九九二)の対国富率(一一・三%)が第二次大戦での物的損害のそれ(一四%)に匹敵するという。
この事実は、何を物語っているだろうか。対米追随の深まりやアメリカ化改革などといったものが、徹頭徹尾アメリカのためのものであり、日本のためになるものは何もないということだと思う。
実際、今日の小泉改革、アメリカ化改革の重要な柱の一つである金融自由化は、先述したように、すでに一九八三年の日米円ドル委員会でアメリカから強要されており、それが二年後のプラザ合意による円高、低金利とともにバブルの発生、崩壊から、一九九〇年の金融恐慌、それに続く長期経済停滞への下地になっていった。
 国際為替市場での円高操作(円買い介入)で日本国内に膨れ上がった円が、折からの低金利政策により銀行や郵貯ではなく、株や土地など投機に流れ込み、金融自由化による外資の日本市場への流入と合わさってバブルを発生させたこと、それがその後のアメリカのドル高政策にともなう円売りドル買い、そのための大量の日本株売りからはじけ、バブルの崩壊につながったこと、この「第二の敗戦」の過程は、自由化、グローバル化を基本とする日本のアメリカ化が日本にとって何を意味しているのか、深い示唆を与えてくれていると思う。
 日本の「敗戦」を促進するものとしてあったアメリカ化改革が日本の内的な要求ではなく、徹頭徹尾アメリカの要求によっているのはどこから見ても明白だと思う。だが、今日、改革の必要性についての論議は、必ずしもそういう方向で展開されていない。
 なぜ今改革なのか。その必要性について、世界が自由化、グローバル化し、大競争の時代になったからだと言う人もあり、日本が少子化、高齢化社会になったからだと言う人もある。また、上からの資本主義から下からの資本主義への転換をその根拠にあげる人もある。
 どれも皆一理ある、それらしき見解である。だがその上で、これらすべての根底にアメリカの要求があるのを忘れてはならない。すなわち、世界の自由化、グローバル化自体、アメリカの要求であり、日本の少子高齢社会化、人口減少社会化は、自由化、グローバル化から生まれたものだということだ。また、政、官、業一体となっての上からの資本主義から民間主体の下からの資本主義への転換は、「日本株式会社」「護送船団」に反対するアメリカの要求そのものである。
 日本のアメリカ化改革への要求は、今日、アメリカによる世界の自由化、グローバル化要求の重要な一環として押しつけられてきている。
 アメリカにとって、世界の自由化、グローバル化は、低下した自らの超大国としての地位を高め、崩壊した新植民地主義体系を立て直すための基本戦略・戦術だと言うことができる。国と民族を否定し、世界をボーダーレス化し、市場原理、競争原理の全面導入を押しつけるグローバル化、自由化は、未だ世界第一等の金融力と情報通信力、軍事力を持つアメリカのもとに世界を融合統合するための戦略戦術であり、国と民族の主権、自主権を取り戻した発展途上国を再び支配し隷属させるための戦略戦術である。
 アメリカは、この世界戦略の推進に当たって、日本の自由化、グローバル化、アメリカ化をその重要な環としている。すなわち、日本を完全にアメリカの一部として取り込み、世界、とくにアジアの自由化、グローバル化、アメリカ化の拠点にし、手先にしようということだ。
 明治以来の対米追随路線もついにここまで来た。アジアと世界をアメリカ化するための日本のアメリカ化である。われわれは、日本のアメリカ化を本質とする小泉改革が、世界と対米追随の歴史で占める位置をしっかりおさえながら、それが産み出す矛盾について見ていきたいと思う。

 

V 小泉改革は日本とわれわれの生活に何をもたらしたか


 日本のアメリカ化が産み出す矛盾というとき、まず言えるのは、日本をアメリカ化すること自体が矛盾だということだ。
 だが、それに対し今日、日本をアメリカ化してなにが悪いと言う人がいるのも事実だ。日本をアメリカのための日本、アメリカのような日本にしても、それが日本のため、われわれの生活のためになるならそれでよいではないかということだ。
 だからわれわれも、小泉改革の評価を、アメリカ化であるか否かを見ておこなうのではなく、日本にとって、われわれの生活にとってどうかを基準に、現実を具体的に見ることによっておこなっていこうと思う。


一 日本にとってのアメリカ化改革

 小泉改革、日本のアメリカ化改革は、日本にとって何か。日本に何をもたらしたのか。それを一言で言えといわれたら、「破壊だ」と答えるのが正解だと思う。「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉氏は、実は日本をぶっ壊し、われわれの生活をぶっ壊したのだ。
 元来、改革とは破壊をともなうものである。古いものを破壊し、新しいものを創造する、それが改革だ。破壊をともなわない改革などあり得ない。
 実際、小泉改革は古いものを少なからず破壊した。自民党だけでなく古い日本の支配構造を大分破壊した。しかし、それ以上に、小泉改革は、破壊してはならないものまで破壊した。そこに小泉改革の本質がある。
 今日、日本では、「改革」の名で、破壊してはならない多くのものが破壊されている。中でも看過し得ないのは、産業経済の破壊と共同体、共同社会の破壊であり、それにともなうわれわれの生活、国民生活自体の破壊である。
 と言えば、異論があるかもしれない。「産業経済の破壊」と言っても、それは産業構造の転換のために必要なことであり、共同体、共同社会の破壊は、個人重視の新しい社会にするために必要なことだということだ。
 これに対する答えは、簡単に出すことはできない。この「破壊」が日本にとって、われわれの生活にとって、本当によいものであるのかどうか、事実に即して見ていきたいと思う。

■産業経済の破壊、共同体、共同社会の破壊
 今日、産業経済構造の転換が起こっているのは事実である。製造業の大幅減少とサービス業の増大、中小零細業、自営業の淘汰と新規開業の低下、それにともなう日本的な系列・下請体制最末端の崩壊、IT産業の新興など、日本の産業経済構造は大きな地殻変動を起こしている。
 問題は、この産業構造転換の内容である。ざっと一望して、日本経済の新たな発展につながる要素はあまり見当たらない。実際、アメリカ化改革による産業経済の破壊は、日本経済の転換とその新しい発展をもたらしたと言うより、その破壊と空洞化をもたらしたと言う方が事実に合っている。
 一九九六年〜九九年の事業所の開業率と廃業率に関する統計(総務庁)は、それぞれ一二・五%と一六・三%、製造業で五・八%と一四・五%、小売業で一二・九%と一九・六%、サービス業で一一・七%と一二・二%と、全体的に廃業率が開業率を上回っている。とくに、製造業の開業率の低さと高い廃業率との格差が印象的だ。また、製造業従業者数の減少も著しい。九〇年〜〇〇年には、二〇九万人(一七・七%)(経済産業省)にまで至っている。
 アメリカ化改革は、どうやってこのような惨状を産み出したのか。一つは、自由化、グローバル化改革によるバブルの発生、崩壊と長期経済停滞によってであり、もう一つは、この改革によるヒト、モノ、カネのボーダーレスな移動を通じてである。バブルの崩壊後、企業は、不良債権を抱え込み、新規投資どころではなくなった。それが設備の陳腐化を生み、国際競争力の低下と大量の企業倒産を生んだ。一方、自由化、グローバル化改革は、折からのアジア、とくに中国の目覚ましい躍進と相まって、安くて質のよい労働力や展望性のある市場を求めての企業のアジア移転、中国移転を大幅に促進した。製造業全体の〇二年度海外生産比率(経済産業省)は、一七・一%にのぼり、海外進出企業ベースでのそれは、四一・〇%にまで高まっている。
 アメリカ化による日本の破壊は、産業経済の破壊にとどまらない。より深刻なのは共同体、共同社会の破壊だ。すなわち、小泉構造改革は、古い共同体を破壊すると言いながら、共同体そのものまで否定し破壊していっている。
 日本は、元来、共同体的結びつきの強い国である。地縁や血縁、職縁、共同の利益や目的、愛や信頼で結びついた地域や家族、職場や学校など、大小無数の共同体が、その内部に個を抑圧する日本型集団主義的矛盾を色濃く内包しながらも、相互に連関し、有機的に結合して、社会生活単位としての日本共同社会を形成してきた。少なくとも十数年前まではそうだった。ところがここにきて、アメリカ化、即、全社会の個人化、競争社会化が深まる中、この共同体的な性格が著しく弱まってきているように見える。地域社会の人のつながりがなくなり、「隣は何をする人ぞ」が一般的になってきていること、過労死した部下の異常に気づいていた上司が一〇%に満たないこと、家族の団らんがなくなって久しいこと、等々はそのほんの一例にすぎない。
 集団を否定する「自己決定、自己責任」が支配的な思想となり、競争原理、市場原理が社会を動かす基本原理になったアメリカ型の日本、アメリカのような日本にあって、共同体、共同社会が原理的に否定され破壊されていくのは必然だと言える。共同体、共同社会とその成員の利益を守るための各種規制と保護の撤廃、競争原理の全面的な導入とそれによる共同社会内部の二極分解、集団よりも個人を優先する個人主義思想の浸透、これらすべてが共同体、共同社会の破壊と崩壊に結びついていく。それは、地域、職場、学校、家庭と、あらゆる領域へ広がっていっている。
交通、医療、教育の効率化など地方、地域行政の自由化とともに、農産物自由化、大店法緩和など規制緩和、自由化にともなう農業や地場産業、地域商店街などの衰退を背景とする過疎や地方都市中心部の空洞化など地域共同社会の崩壊。年功序列、終身雇用制から能力主義、成果主義への転換、正規・安定雇用から非正規・不安定雇用への転換など、総じて共同体原理による会社経営、職場運営から競争原理によるそれへの転換を基本要因とするコミュニケーション不能など職場の崩壊。
 また、教育現場への市場原理、競争原理と「自己決定、自己責任」原則の全面導入、それにともなう二極化、学校と密接な関係にあった家族や地域共同社会の崩壊、学校卒業後の展望の喪失などによる学校、学級の荒廃と崩壊。非正規・不安定雇用の一般化と収入の低下、不安定化、女性の不安定雇用労働者化と「自立」、地域共同社会の崩壊などによる現代日本社会の非婚、少子、離婚率の増加と単身世帯化、シングル生活化、そして核家族化やすれ違い家族化などを背景とする家族、家庭の崩壊。
 こうしたあらゆる単位での共同体、共同社会の崩壊は、相互に連関し合いながら、これらの総和であり一つの社会生活単位である民族共同体、日本共同社会の崩壊を促進していく。これは、基本単位としての国と民族を否定し、「ボーダーレス」や「官から民」「小さな政府」を主張するグローバリズムによる民族共同体、日本共同社会の破壊と一体だ。各共同体、共同社会の衰退、荒廃、崩壊は、その有機的総和である日本共同社会を弱体化させ、日本共同社会の否定と破壊は、各共同体、共同社会の依って立つ基盤自体の喪失を促進していく。「日本」という共通の基盤がなくなれば、人々の結びつきが決定的に弱まるのは明かである。今日、「日本」を失い、「日本人」としての共同の目標や連帯感を失ったわれわれが学校や職場、地域や家庭で自らの地位や役割、アイデンティティーを見失うようになっているのは、その真理性をよく物語っているのではないだろうか。
 この共同体、共同社会の破壊が日本と日本国民におよぼす禍は計り知れない。それは、今現在、われわれの生活に生まれてきている不幸に端的に表現されているのではないだろうか。

■深まる経済的破局と戦争の危機
 日本のアメリカ化が日本と日本国民にとってよいものでないのは、今現在もそうだが、それ以上に、これからそう遠くない将来、さらに一層鮮明になっていくだろう。
それを示唆する研究として、「社会の持続可能性」についての研究がある。それによると、投票率、GDP増加率、出生率、女性正規雇用率、労組組織率など、今低下傾向にある事項のグラフをつくり、その直線をそのまま延ばすと、不思議なことに、すべて高齢化がピークに達する二〇五〇年に「ゼロ」に集束するということだ。そしてその前に、二〇三〇年を前後して、自殺が死因の第一位となり、四万人を超える。年金の納付がゼロになる。フリーターの割合が七割を超える。等々の数字も出されている。これは、今のままでは、社会がもたない、持続できないということを示している。
 だが、実際の日本の未来は、それにも増して簡単でないように見える。それは、一九三〇年前後の大恐慌期を上回る経済的破局と戦争の危機が予見されるからだ。
 自由化、グローバル化は、すでに二度の経済的破局をわれわれにもたらしてきた。一つは、一九九〇年の株暴落を契機とするいわゆる「第二の敗戦」であり、もう一つは、一九九七年のアジア通貨危機だ。
 この両者に共通しているのは、金融自由化による外資の流入、流出とそれにともなうバブルの発生と崩壊だ。
 今日、世界を駆けめぐる投機のためのワールドマネーは、三〇〇兆ドルにのぼるという。世界のGDP総計が三〇兆ドル、貿易総額が八兆ドルという数字を見ても、その経済実体とかけ離れた桁外れの規模が分かるというものだ。金融自由化は、この投機マネーのために道を開いてやるものだと言うことができる。
 投機マネー、ヘッジファンドの流入により、日本にも、アジア諸国にも実質経済とはかけ離れたバブル経済が発生し、その流出により、膨れ上がったバブルが破裂、崩壊したということだ。
 もちろん、自由化以前にも金融恐慌はあった。しかし、自由化が金融恐慌を起こしやすくし、その規模を大きくしたのも事実である。それは、このワールドマネーの性格に起因している。一言でいって、その桁外れの額と儲けのためには手段を選ばない冷酷さと無責任さだ。
 資本はもともと、冷酷で無責任なものだ。しかし、資本家にも自分の国があり、自分の民族がある。国と民族があっての資本家が自分の国と民族に一定の責任を持つのは歴史が示すところだ。
 ワールドマネーにはこれがない。むき出しの資本そのものだ。ヘッジファンドにとって、その国の経済がどうなろうが、国民がどうなろうが、まったく関係がない。と言うより、その国を自らの支配下に置くために、意図的にバブルをつくり、意図的にはじけさせることさえあると言った方がよいかもしれない。「第二の敗戦」以後のアメリカによるわが国に対する支配、アジア通貨危機以後のIMFによるアジア各国への支配の強化ぶりを見るとその真実性がより鮮明になるのではないだろうか。
 今日、日本経済の長期停滞からの脱出が言われてきている。個人消費の回復が言われ、対米、対中輸出の堅調やIT産業在庫の調整が言われ、ファンドによる経済の活性化、会社経営の合理化が言われている。株主総会での「モノ言うファンド」など、外資系ファンドは、まるで日本経済再生の救世主のようだ。だが、そうした中、過剰貯蓄でマネーだぶだぶの企業は、カネを賃上げや設備投資に回すことなく、超低金利と相まって、国債や株、不動産の購入に当てている。なにやら、「いつか来た道」が想い起こされる構図である。その上、今は、投機による原油など一次産品の世界的な超高騰とそれにともなう膨張したオイルマネーの株式市場への参入がある。これらが複合的に絡み合いながら、そのどこかが破綻したらどうなるだろうか。それが未曽有の壮絶な経済的破局につながらないという保証はどこにもない。
 危機は経済だけではない。より深刻なのは戦争の危機である。
 第二期ブッシュ政権は、その出発に当たって、それまでの単独行動主義と反テロ戦争路線を引っ込め、国際協調主義と世界民主化路線を前面に打ち出した。年初、政権発足時のライスとブッシュのヨーロッパ行脚は、そのことを印象づけるためのものだったと言うことができる。
 これに対し、われわれはまず、彼らのいかなる強弁にも関わらず、それがイラク戦争での失敗、多極世界との攻防での後退に起因していることを忘れてはならない。
 また、これら二つの主義と路線の間になんら本質的な相異もないことを確認することが重要だ。ここで、二つに共通する本質とは何か。それは、他でもなく、アメリカによる世界一極支配の強化にある。そのための主義であり路線だと言うことだ。
 実際、この間の彼らの狭く対立的で余裕のない言動は、自らの一極支配を守り、多極世界と敵対するので一貫されていた。ブッシュのプーチンとの会見におけるロシア民主化の強要、台湾問題をめぐっての中国に対する公然たる内政干渉、そして国連常任理事国追加問題をめぐってのドイツなど対米追随的でない国々に対する露骨な排斥、等々。
 そうした中、世界民主化路線と反テロ戦争路線は一体である。米一極支配を戦争の方法でやるかやらないかの違いでしかない。だから、反テロ戦争路線は、世界民主化路線の裏で生きており、世界民主化路線は、反テロ戦争路線で裏付けられている。事実、イラク武装勢力に対する軍事弾圧は継続されており、日本の座間に米陸軍第一軍団司令部を置くという暴挙も強行されている。
 小泉改革における日本を「戦争のできる国」にする軍国化、ファッショ化は、この戦争路線を補完するためのものに他ならない。その陰には、日本を朝鮮、中国、アジアに敵対させ、第二次朝鮮戦争、アジア侵略戦争の先兵に押し立てようとするアメリカがいる。彼らが、有事立法など、一連の戦争法規の成立に異常なほどの関心を払ったのも、自衛隊のイラク派遣をあれほどまでに喜んだのも、そして「拉致問題」、「潜水艦問題」などをめぐる日朝、日中の対立醸成のため、権謀術数の限りを尽くしているのも、皆そのためである。
 しかし、一国を戦争に動員するのは、それほど簡単なことではない。だからこそ、アメリカは、政治、経済、軍事すべての日米一体化をはかっているのであり、それを通して、任意の時刻に日本とアジア、ひいては世界を未曽有の経済危機に直面させ、その打開の道を戦争に見出す以外にないよう誘導しているのではないだろうか。
 と言えば、それは考えすぎだという人がいるかも知れない。しかし、この自由化されグローバル化された行き先不透明な世界にあって、その行き着く先が結局、大恐慌か戦争しかないと見る識者は少なくない。


二 日本のアメリカ化とわれわれの生活

 産業経済と共同体の破壊、そして経済的破局と戦争。この現在から未来にかけての日本の破壊は、当然のことながら、われわれの生活と無関係では有り得ない。事実、日本の破壊は、日本国民の生活破壊と深く結びついている。
 日本における生活破壊は深刻である。それは、遠い将来のことではなく、今現在のことであり、物質生活、精神生活、政治生活の全般にわたり、かつてない深さと広さをもって進行している。
 日本の自由化、グローバル化、軍国化、ファッショ化がわれわれの生活に何をもたらしているのか。ここに小泉改革に対する評価の重要な基準があると思う。

■不安社会の広がりと生活苦の増大
 日本のアメリカ化がわれわれの生活にもたらしたものにはいろいろある。「自己決定、自己責任」の思想が支配的になったこと、競争原理、市場原理が生活の隅々にまで行き渡ったこと、等々、それは総じて、アメリカ型の生活そのものの浸透だと言うことができる。
 問題は、このアメリカ型の社会、アメリカ型の生活がわれわれに何をもたらしたかということだ。それを「活力」だと言う人もいる。確かに、そういう側面があるのは事実かもしれない。しかし、それは、二極化された社会のかなり少数の人々にのみ該当することではないだろうか。実際、勉強も仕事もやる気になれず、自信を失い、教育や雇用、訓練の現場から排除された「ニート」と呼ばれる青少年が四〇万人(〇三年)に達しており、より広範な青少年が将来のために勉強するということ自体の意味を見失っている。また、そもそも人口減少社会になったということ自体、社会が活力を失った証左だと思う。それを現す数字として、自分が住む地域に元気があると感じている人(三八%)は、元気がないと感じている人(四四%)より少ないという統計もある。
 そうした中、より普遍的に広がっているもの、それは、「不安」ではないだろうか。実際、今日、多くの人々が現代日本社会を指して「不安社会」と言っている。落後する不安、老後の不安、病気になる不安、犯罪に遭う不安、等々、今の日本社会には、あらゆる種類の不安が満ち溢れている。
 いまだ個人化し競争社会化していなかったかつての日本においても、もちろん不安はあった。だが、「不安社会」という言葉はなかった。しかし、今はそれが現社会の代名詞になっている。不安定雇用、成果主義、自己負担、単身世帯など、競争が普遍化、激化し、自己責任、個人化が一般化した日本社会にあって、解雇や降格、「中流」からの脱落など落後することへの不安、寝たきりや病気など将来への不安、共同体的な連帯や責任のないところから来る凶悪犯罪への不安など、かつてなかった不安がわれわれを覆っている。長生きしたいかとの質問に、あまりしない、まったくしない合わせて四一%という回答は、老後への不安の深さ、現代日本社会に満ちる不安の深刻さを物語っている。
 アメリカ型競争社会は、不安とともに生活苦をわれわれにもたらしている。勝ち組と負け組に二極分解した今日の日本社会にあって、圧倒的多数の負け組は、生活苦にさいなまれている。
 マルクスの時代、労働力の再生産に必要な価値、すなわち労働力商品の価値には、家族を養うのに必要な価値まで含まれていた。しかし、今日、不安定雇用労働者の労働力再生産に必要な価値には、自分が生活していくのに必要な価値しか含まれていない。彼らが子供を持つことはもちろん、結婚することさえままならないのはそのためである。また、国際競争力を強めるための効率化や産業経済崩壊、空洞化、等々によるリストラ、企業倒産と、それにともなう大量の失業者群が生まれている。
 そうした中、今日、一世帯当たりの所得は、前年(〇二年)比一・六%減の約五八〇万円で、二年連続の六〇〇万円割れ、七年連続の減少であり、五六%の人が「生活が苦しい」と回答、過去最高(厚生労働省:「国民生活基礎調査」)だった。一方、五世帯に一世帯の割合で貯蓄五〇万円未満の世帯があり、生活保護世帯の数は、百万世帯を超え増加の一途にある。また、離婚の増加にともない、母子世帯の数は一二〇万世帯(この五年間で二八%増加)に達しており、その平均所得は二三〇万円(一般世帯の四〇%)という深刻なものになっている。

■少子化現象にみる生活破壊
 物質生活の破壊は、また、少子化現象にも現れている。
 今や日本は「超少子化国」だ。合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産むと推計される平均子ども数、以下出生率と略)一・二九は、先進国の中でも最低だ。二〇〇七年からと言われていた日本の「人口減少国家」化は、二年早まり今年からの見込みである。
 この「人口減少社会」の到来は、われわれにとって何を意味しているのか。これを「成熟社会」の到来として歓迎している人もいる。そのような人々の言い分を聞くと、「人口減少」は社会が豊かになったことの反映だということだ。すなわち、出生率の低下は晩婚化・非婚化・晩産化の進行によっており、これは女性の進学率、社会進出率の上昇によっているからだというのだ。  だが、現実の少子化の原因はそんなところにはない。原因の基本は、あくまで日本の自由化、グローバル化とそれにともなう雇用の不安定化および共同体、共同社会の破壊にある。
 雇用の不安定化が少子化を生むのは先に見た。実際、不安定雇用労働者は、正規労働者と比べて半分しか結婚できず、その半分しか子どもを産めない。彼らは、結婚したくても結婚できず、子どもが欲しくても持てないのだ(二十代、三十代の七割以上が子どもを欲がっている:Y世代意識調査)。それが彼らの「進学率」の高さではなく、収入の低さや不安定性によっているのは言うまでもないだろう。
 また、一旦フリーターになった人がそこから抜け出るのは容易ではない。十五〜十九歳だった人が五年後もフリーターのままでいる割合は、男で四二%、女で四四%に及んでおり、二〇二〇年頃には、中高年フリーター二〇〇万人時代の到来さえ見込まれている。これは、結婚も出産もできない状態の固定化を意味している。そうした中、二〇三〇年頃に、フリーターの割合が全体労働者の七割を超えると言われている。
 少子化の原因としてもう一つ大きいのは共同体、共同社会の崩壊だ。
 子育ては、決して母親だけの個人的な事業ではない。すぐれて共同体的な事業だ。家族の助けがあり、地域や職場の支え、国家の援助があってこそできることだ。
 自由化、グローバル化は、この育児の揺籃を破壊している。まず、大きいのは家族の破壊だ。核家族化により、おばあちゃんがいなくなった。自分個人しか養えない低賃金からくる共働き、人員削減、成果主義、落後への恐怖などによる過労、そして個人化された社会の風潮、等々、自由化、グローバル化が産み出した諸現象やそれにともなう「すれ違い家族」化などによって、父親の子育てへの理解と協力は以前にもまして望み得なくなった。こうした母親一人による育児環境は、出産への意思や意欲を大きく鈍らせているのではないだろうか。
 地域、職場の破壊も大きい。かつて、子育てに対する地域、職場の理解や援助は大きな意味を持っていた。今、それが急速になくなってきている。地域や職場での人のつながりの崩壊は、子育てへの理解や援助の喪失を意味している。それが少子化とどれほど深く関連しているかは、民間の保育施設を公立と同じような料金で利用できるよう補助金を出している埼玉県朝霞市の出生率が一・四五と群を抜く高さであること、また、短時間勤務やフレックスタイムなど子育て支援策をそろえているだけでなく、その上に、上司や同僚の理解のある企業であってこそ育児休業取得者の数が多いこと、などを見ても十分うかがい知れるだろう。
 自由化、グローバル化は、国家による育児援助も否定する。皆、「自己決定、自己責任」、国はなくとも子育てはできるということだ。しかし、さすがの小泉政権も、この間の著しい少子化は気になったのか、その対策として「次世代育成支援対策推進法」を今年四月から実施した。企業に、男性の働き方の見直しなど「仕事と家庭の両立」を可能にする制度の整備を求めるというものだ。だが、これとても、常用雇用三〇一人以上の企業のみを対象にしており、不安定雇用労働者と中小企業労働者を除外している。これは、共同体としての国家の否定以外のなにものでもないと思う。
 ここまで見てくれば、明かだろう。本当に少子化は、豊かな社会の現れなのだろうか。その逆に、生活の破壊の現れなのか。

■自殺の増加、犯罪の凶悪化
 自殺の増加、犯罪の凶悪化は、もちろん物質生活の破壊、生活苦とも関連している。事実、自殺率と失業率の変化の傾向はほぼ一致していると言われるし、生活苦が犯罪を生む例が多いのも事実である。
 だが、一方、自殺や犯罪は、精神生活の破壊の反映だとも言うことができる。
 自殺は、一九九〇年代途中から増加傾向になり、一九九八年に三万人を突破してから七年連続でこの線を超えている。これが時期的に日本のアメリカ化と一致しており、生活苦や過労死の増加と軌を一にしていること、共同体の破壊にともなうアイデンティティーの喪失と重なっていることが重要である。
 自らが所属する集団を見失い、自分が何者であるか分からなくなる自己同一性の喪失は、生きる意味、生きる目的の喪失につながっている。独りぼっちで、生きる意味を見失い、死のうとするが死にきれず、インターネットで見ず知らずの仲間を募り合い、皆と一緒に集団自殺する「ネット自殺」が最近、若者を中心に増えている。
 この現実を前にして、石原慎太郎氏は、理解できないとしながら、自分一人では死ぬことのできない虚弱さの現れだと言っている。彼らしい評論だ。人々の気持ちへの思いやり、若者たちの人と人とのつながりを求める気持ちへの思いはかりというものが感じられない。今問われているのは、現代人、現代日本の「虚弱さ」への嘆きではない。それは、自分が依拠すべき共同体、共同社会を失った人々の精神生活の破壊にいかに対処すべきかということではないかと思う。ネット自殺に走る若者たちへの一番の呼びかけの言葉が「独りじゃないんだよ」なのは、共同体、共同社会再生の切迫した重要性を示唆しているのではないだろうか。
 低年齢化した凶悪犯罪の多発にも、明らかにこれと共通するものがある。彼らの中の何人かは、自分が生きていることの証を得るため、ほとんど罪悪感というものを持つことなく人を傷つけている。そこには、共同体の同じ成員としての自覚も責任感も、痛みも罪の意識もない。傷害の対象にした自分より幼い少年や老人は、彼らにとって一体何だったのだろうか。

■急増する政治離れ
 今日、国政、地方政治を問わず、人々の政治離れは深刻だ。今回の総選挙では、小泉氏の演出によって若干投票率が高まったが、これとても、小泉首相登場時の選挙でそうだったように、一時的現象に終わる可能性大である。
 中でも特に若者たちの間に広がる今日の政治離れは、従来の一般的な政治不信とは質的にまったく別のものではないかと思われる。
 これまでの政治不信は、国事よりも私事を先立てる政治家への不信、選挙をしてもどうせ政治は変わらないという議会制民主主義への不信、などであった。
 だが、今は違う。今の政治離れは、不信というより、無関心、無関係だ。すなわち、政治など自分とはまったく無縁のものであり、最初から政治に何も期待していないということだ。
 なぜ、そうなのか。いろいろ要因はあると思う。が、中でも決定的なのは、ずばり共同体の破壊にあるのではないかと思う。今の若者たちにとって、多くの場合、共同体など初めからなかった。家族は、核家族、すれ違い家族で共同体の体をなしていなかった。隣近所、地域の人と人とのつながりは、ないも等しく、学校の先生と生徒、生徒間の関係もクラス共同体、学校共同体のそれとは程遠かった。職場も同じことだ。そして、民族共同体、日本共同社会。そんなものはどこにあるのか。頼れるもの、信じられるものは自分しかない。
 そんな彼らに選挙に行けと言う方が間違っている。なぜなら、政治は共同体、共同社会の利益をはかるためのものだからだ。共同体、共同社会とまったく利害関係を持たない者がどうして政治に関心を持ち投票所に足を向けるだろうか。その上、彼らは、自分の運命開拓で手が一杯だ。明日は、また、新しい職場を探し決めなければならない。用もない選挙に割く時間はないのだ。
 今、こうした若者たちを投票所に呼び戻そうと、あの手この手の趣向がこらされている。今年の都議選などでは、「選挙セール」なるものまで飛び出した。投票に行けば、生ビール一杯ただになったり、ラーメンのチャーシューが一枚増えたり、ということだった。結果はどうだったか。前回をさらに六%以上下回る史上二番目の低投票率だった。
 問題は、共同体の喪失にあり、自分らの運命開拓に手一杯で、政治どころではないわれわれの生活自体にある。その結果、若者を中心に圧倒的多数が政治的無関心になり、政治は、それを握って私腹を肥やす少数「勝ち組」のためのものになってしまった。これはもはや、政治からの大衆の排除、人々の政治生活の破壊ではないのか。「選挙セール」の白々しさは、そのことを雄弁に物語ってくれていると思う。
 小泉改革、日本のアメリカ化が日本とわれわれの生活にもたらしたものは何だったのか。それは、旧弊の破壊にもまして、より大切なもの、日本とわれわれの生活そのものの破壊だった。いや、それはこれからさらにひどくなり決定的になる破壊だ。まさにここに、われわれの小泉改革に対する総括があり評価があるのではないだろうか。

 

W 今、日本のための真の改革が求められている


 小泉改革は、日本のための真の改革ではない。改革にこと寄せた日本とわれわれの生活の破壊である。
 そもそも、アメリカの要望に即してやられる改革が日本のためになるなどということはあまり考えられないことだ。日本のための真の改革は、どこまでも日本国民の切実な要求に即してやられるものであるはずだ。小泉改革が真の改革にならないのは、この根本前提自体が欠落しているからに他ならないと思う。
 日本のための真の改革の探求、それは、今回の総選挙でも示された日本国民の改革への切実な要求、それがどこにあるか知るところから始められなければならないだろう。


一 日本国民が要求しているもの

 日本国民は改革に何を期待し、何を求めているのか。それは、久方ぶりで投票率が上がった今回の総選挙でも、もう一つ明瞭ではなかった。明瞭だったのは、改革が求められ、新しい政治が要求されているということ自体であって、どういう改革、どういう政治が求められているかは、もう一つ定かでなかった。小泉自民党が掲げた「郵政民営化」も、政治に何を要求するかとの各種世論調査では、いつも四、五番目に低迷していた。
 実際、政治離れが進行している今日、政治に対する具体的要求が大衆的に大きな盛り上がりを持って掲げられていることはない。
 だが、その一方、世界情勢が変動し、多極化、アジアの台頭が鮮明になり、アメリカの弱さや横暴が目立ってくる中、対米、対アジア関係の見直しを要求する声が高まってきているのも事実だ。また、対内的には、不安や生活苦の増大にともない、年金や社会保障、雇用や景気対策への要求が高まる中、地方、地域崩壊の危機が叫ばれ、地域おこしの運動や地方、地域の共同的発展をめざす試みがいろいろとなされるようになってきている。さらには、社会の個人化、競争社会化が産み出す深刻な矛盾に警鐘を鳴らし、その解決の道を探す人々、日本が「戦争のできる国」になる危険を憂える人々の数が増してきているのも事実だ。
 こうした中、われわれは、いまだ目に見えるはっきりとした形はなしていないが、国民大衆の間に確実に生まれてきている新しい意識の変化と運動に着目し、そこに新しい日本の進路開拓の道を探って行くべきではないだろうか。

■高まる日米関係正常化への要求とアジア志向
 今日、小泉批判の基本の一つは、そのあまりにもひどい対米追随姿勢に対してのものだ。イラク戦争への無条件的な追随、京都議定書に従わないアメリカへの優柔不断、世界の多極化や東アジア共同体の形成、中国の台頭などに敵対するアメリカへの盲従、そして何より、米陸軍第一軍団司令部の座間設置など、アメリカの自由化、グローバル化、軍国化、ファッショ化強要に対する唯唯諾諾の弱腰、等々、その対米追随ぶりのひどさに批判が高まっている。
 この対米追随批判で留意すべきことは、それが反米、離米の要求からのものではないということだ。すなわち、アメリカへの追随、従属にはいろいろ問題はあるが、アメリカに敵対したり、アメリカと離れたりしてはならないということだ。では、日米関係はどうあるのが望ましいのか。大方の要求は、「正常化」にあると思う。日本が一方的にアメリカの要求を飲まされるのではなく、拒否すべきは拒否し、協力すべきは協力して進む、そのような互いに独立し対等な国と国との正常な関係にすること、この辺りに日米関係に対する今日の日本国民の要求はあるのではないだろうか。
 対外関係で、もう一つ、日本国民の重大な関心事となっているのは、アジアとの関係をどうするかという問題だ。
 今日、アジアは日本にとってきわめて大きな存在になっている。それは、日本の貿易総額に占める割合が、対米のそれが一八・六%であるのに対し、対大中華圏が二八・三%、対アジア全体が四五・七%であるのを見ても歴然としている。また、このところ急速に高まる海外生産比率の中、中国が四〇%、アジア全体が八〇%を占めており、部品の現地調達から完成品の生産まで、日本経済がアジア経済と構造的に結びつき、より密接に一体化するようになっている。
 経済ばかりではない。平和と安全の問題でも日本はアジアと密接に結びついている。今日、日本の「脅威」と言われているのは、「北朝鮮」、「台湾海峡」であり、日米新安保の照準が当てられているのもここである。また、靖国神社問題や領土問題など、日本との間に様々な食い違いや対立、緊張関係が山積しているのもアジアである。
 さらにその上で重要なのは、今日のアジアがかつてのアジアとは違うということだ。アメリカ、EUなどとともに多極世界の一極を堂々と担うアジアだ。
 このアジアにどう向き合い、どう対するのか。日本国民の意思と要求がアジアと対立するのではなく協調し、戦争するのではなく平和的に、ともに進み、ともに繁栄するところにあるのは言うまでもないだろう。このところ起きている中国や韓国での反日デモに悪感情を露にし、「新脱亜入米」などと対立感情を煽っているのは、日本と中国、日本とアジアを対立させて支配するアメリカの利害を代弁する者の詭弁にすぎない。

■自主、自治、自決への志向と地方、地域の共同体的発展への要求
 今、日本国民の要求で社会的な運動として現れているのは、自らの町や村、地域をおこすことへの要求だ。
 農業や漁業、地場産業や中小企業など、産業の崩壊と人口の流出、過疎化、そしてなにより、隣の人のことも知らない地域の人間関係の崩壊など、小泉改革による地方、地域の崩壊は、自らの生まれ育った町や村を守ろうという町おこし、村おこし、地域おこしの運動を全国的範囲で産み出している。
 自らの地方、地域の特産品を活かして新しい産業をおこす運動、地域の農業や漁業、地場産業や中小企業など、生産者と消費者、加工業者、流通業者らが連携して地産地消の地域経済の活性化をはかる運動、大学や高校など学校を中心とする地域社会づくりや地域経済の共同体的発展をはかる運動、そして若者たちの間で流行る地元愛を歌った歌の運動など、それは、地に足の着いた運動として発展してきている。
 われわれは、これを単に地方、地域の崩壊に反対し、その共同体的な新しい発展を求める運動としてのみとらえることはできない。若者たちの間で広まる人と人とのつながりを求める気運、「ジモトモ」(地元の友だち)と一緒にいるのを好む若者の増加、家族や単身、様々な人々が一定のルールの下に集まって生活するコレクティブハウス(集合住宅)への要求の高まり、そして、少子化との関係で、少しぐらい各自の負担が増えてもいいから、国や自治体の共同体的な育児援助があった方がよいという人々の拡大、等々、個人化し競争社会化した日本にあって、人と人とのつながりを求め、新しい共同体、共同社会を求める人々の要求とこの運動は、深いところでつながっていると思う。
 この地方、地域の共同体的発展をはかる運動は、自分たちのことは自分たちで決める自治、自決の思想と一体だ。町おこし、村おこしの運動の多くが従来の「有力者」中心の運動から住民皆が主体になった「住民自治」の運動になっていること、生産者、消費者、加工業者、流通業者が国に頼ることなく、自分たちで地方、地域の産業の共同体的つながりをつくり出していっていること、これまで国に寄りかかり国任せだった地方、地域が「国が動かなければ地方が動く」「地方から国を変える」という意識を持ち始めたことなどは、そのことを雄弁に物語っているのではないだろうか。
 一方、この自治、自決の思想は、今日、特に若者たちの間で支配的な思想となっている自己決定主義の思想と結びついている。もちろん、今、「自己決定、自己責任」と言うとき、それは、もっぱら自分個人のことだ。集団と無縁だし、対立さえしている。しかし、これ自体、世界と自分の運命の主人として自主的に生きようとする人間本来の要求の現れであり、それが今日、青年たちの間で、「自分たちのことは自分たちで」「自分の集団、自分の国のため、自分が決定し、自分が責任を持つ」といった意識の発展をみせているのも事実である。われわれは、ここに、個々人の自己決定、自己責任に基づく新しい共同体のあり方も展望することができるのではないだろうか。
 他方、地方自治の思想は、国の自主の思想にもつながっていく。地域力、住民力は国家を支える基盤であり、国力の源泉は地方にある。地方自治は国の自主を支える力となり、国の自主の思想は地方自治の思想に支えられて生まれてくる。「地方から国を変える」の意識で、地方、地域の自治のため、国の自主的発展を要求する流れが生まれてきているのは注目すべきことである。
 今日、各種世論調査で明らかになっている日本国民の要求の第一は、年金や社会保障への要求だ。
 競争原理、自己責任の小泉改革により福祉否定の風潮がつくられ、人々の不安や生活苦が一層大きくなってきている中、ますます広範かつ切実なものになってきているこの要求を、国や自治体による援助への要求、共同体の原理に基づく要求として重視する必要があるだろう。

■平和と民主への要求の高まり
 日本国民の要求で、今、社会的運動などに形をもって現れているのは、もう一つ、平和と民主に対する要求がある。イラク戦争が勃発したとき盛り上がった反戦運動や九条改憲への根強い反対運動などはその端的な証だと言える。
 小泉政権の下、強権的に推し進められてきた日本を「戦争のできる国」にするための軍国化、ファッショ化改革は、今日、人々の間に戦争とファシズムへの深い憂慮を産み出してきている。それは、進歩的人士や市民団体などが中心となる九条擁護の運動や監視社会、盗聴社会への警鐘などに現れており、運動の広がりも、戦争を体験した高齢者から、将来体験しなければならない青年たちへと拡大してきている。しかし一方で、圧倒的多数の若者たちが政治離れし、国の軍国化やファッショ化にも無関心でいるのも事実だ。
 そうした中、世論調査に応じた人々の約七割が自衛隊を認定するため改憲が必要だとしながらも、その過半数が九条の改定には反対しているという事実も明らかにされている。また、改憲すべき(五八%)が改憲すべきでない(四二%)を上回っている中、九条改定には反対が七六%という調査結果も出されている。
 これら一見矛盾した現実は、これほど皆が政治に無関心になった中でも、平和と民主への要求は高く、今回の選挙での共産、社民の健闘にも反映されているように、以前にも増して切実になっていることを示している。
 対米、対アジア関係の正常化、地方、地域の共同体的発展と自主、自治、自決、そして平和や民主などへの日本国民の要求の高まりは、明らかに日本をアメリカのための日本、アメリカのような日本に変える改革とは対立するものである。まさにここに、明治以来の対米追随路線からの転換を実現する確固たる根拠があると言えるのではないだろうか。


二 世界は今日、日本に何を要求しているか

 日本のアメリカ化改革、小泉改革に反対し、日本のための真の改革を求めているのは、日本国民だけではない。激動する世界がそれを求めている。
 今、世界は大きく動いている。アメリカの一極支配から多極世界へ。もはや世界は、アメリカが一極支配する世界ではない。もちろん、一極化か多極化か、その攻防にいまだ予断を許さない側面があるのは事実だ。だが、世界の基本趨勢は、明らかに多極化の方向に傾いている。
 EUと中国など東アジア、ロシア、インド、ブラジルなど南米、そしてAUと、多極世界は、はっきりとその姿を現してきている。そして、互いに連係しながら、一つの政治勢力として力をつけてきている。国連常任理事国拡大をめぐるアメリカとドイツ、ブラジル、インドなどの攻防、朝鮮やイランの核の平和利用をめぐるアメリカと多極世界の闘い、東アジア共同体、ロシア共同体と反ロシア共同体、そして、南アメリカ共同体など、地域共同体をめぐるアメリカと多極世界の攻防、等々、どれもいまだ決着はついていない。しかし、アメリカを向こうに回して、多極世界は一歩も後に引いていない。これに対するアメリカ側の対応の狭さ、硬直ぶり、それ故の行き詰まりが目につく。
 これに対して、日本はどうしているか。概ねは、アメリカへの追随だ。国連常任理事国入りの問題、東アジア共同体形成の問題などは、自分自身の問題として、当初は積極的に動いていた。なのに、それに反対するアメリカの意向が明確になるや、態度が一転するという醜態が続いている。一つは、国連問題など、居るのか居ないのかわからない消極派への転落であり、もう一つは東アジア共同体の形成問題など、悪辣な妨害者への豹変だ。
世界史の発展という見地からみたとき、日本には常に対米追随からの転換、真の改革が要求されてきた。しかし、今日、アジアが多極世界の重要な一角を占め、アメリカによる一極支配を突き崩す巨大な勢力として登場している中にあって、その要求は、かつてなく切実である。東アジアの重要な成員としてその共同体の形成に力を尽くすのか、それとも、アメリカの手先として、その破壊のため立ち回るのか、日本の前にはかつてなく鋭く問題が提起されていると思う。

 

X 日本のための真の改革、その理念と政策


 先に見てきたように、日本国民の改革への強い要求は、「小泉劇場」として展開された今回の解散・総選挙にもよく現れていた。それは、与野党の争点をめぐる攻防を通して、くっきりと際だったものになったのではないかと思う。
 今回、小泉自民党は、争点に「郵政民営化」を掲げ、「改革をやるのかやらないのか」と迫った。これに対し、民主党をはじめ野党諸政党は、それぞれ「年金と子育て」「増税と改憲」など、別の争点を掲げ、自分たちの土俵に相手を引き込もうと力を尽くした。結果は周知の通りである。争点争いの軍配は小泉自民党に上がった。
 野党の敗因には、いろいろあるだろう。しかし、決定的なのは、改革を求める国民大衆の要求に応えられなかったところにあると思う。すなわち、改革を主張する小泉自民党のみが国民の要求に応え、他はそれに反対するような印象になってしまったということだ。
 問われていたのは、国民大衆の改革への要求に応える日本のための真の改革を掲げ、小泉自民党のニセの「改革」と真っ向から対決することだったのではないだろうか。残念ながら、野党諸政党はそれができなかった。そこに最大の問題があった。敗因を探すなら、そう考えるべきなのではないだろうか。
 だが、そうするのは容易ではない。小泉改革の新自由主義とそれに基づく政策に代わる新しい改革の理念と政策が必要だからだ。いろいろとボロが出てきているとはいえ、少なくとも日本において、新自由主義は支配的思想の地位を譲っていない。
 しかし、今一番やらねばならないのはこのことだと思う。国民大衆の要求に応えて、小泉改革と対決し、これを打ち破るため、このことこそ、もっとも重要な必須の課題だと言えるのではないだろうか。
 改革の理念と政策を打ち立てていく事業は、広範な大衆的事業にならなければならないと思う。そうなってこそ、打ち立てられる理念と政策は、もっとも科学的で正当な国民大衆自身のものとなり、大きな生命力を得て、真の改革のための巨大な運動のうねりを創り出して行くだろう。
 以下に記すのは、あくまでそのための一つの問題提起にすぎない。


一 日本のための真の改革の理念、自主と共同体の理念

 改革の理念は、広範な国民大衆の改革への要求、とりわけ、そこに貫かれるその本質を反映したものになると思う。そうなってこそ、理念は、広範な国民大衆の改革への要求をもっともよく反映し、それを実現するためのもっとも普遍的な指針になるのではないだろうか。
 日本国民の改革への志向と要求を具体的に見たとき、そこに一貫して貫かれている本質は、なによりもまず、自主への要求だと言えると思う。
 日米関係正常化への要求はもちろん、アジアの中の日本として、アジアとともに生きていくことへの要求も、結局は、アメリカの言いなりになっている今日の情況から抜け出そうとする自主への要求から出発し、それを本質としていると言えるのではないかということだ。
 対内的な要求も同様だ。町おこし、村おこし、地域おこしの運動にみられる住民自治の要求も、若者を中心に今支配的なものの考え方になっている自己決定主義の要求も、その本質は、誰にも隷属することなく、自分の運命は自分で決める自主への志向と要求にある。新自由主義的な「自己決定、自己責任」も、古い集団を拒否し、その拘束から抜け出そうとする高まる自主への志向と要求に合わせ、それを利用して出されてきたものだと言うことができるだろう。
 この自主への志向と要求は、アメリカの一極支配に反対する多極化への動きが時代の基本趨勢になっている今日、世界の国と人民の志向と要求にもなっている。多極世界の一角を担うアジア諸国と人民が主権平等、主権尊重に基づくバンドン精神を掲げ、東アジア共同体の形成へ動いているのなどは、その重要な証左だと言えるだろう。
 こうした自主への志向と要求が強まる中にあっても、日本の思想状況はいまだ混沌としている。アメリカに追随、従属するのはよくないが、ある程度までは仕方ないのではないかという空気がまだまだ色濃く残っている中、米軍のイラク侵攻直後には、その圧倒的な軍事力を前に色を失い、アメリカに従属して生きるのが日本のためだという「従属愛国論」まで飛び出してきた。だが、その一方、絶対的にも相対的にも著しく弱体化しながら、それだけに一層横暴になっているアメリカに対する反発がかつてなく高まり、アメリカとアジアの間で日本はどう進むべきか、その進路をめぐる論議が熱を帯びてきているのも事実だ。アメリカの支配のもとで生きるのか、アジアとともに自主的に進むのかが重大な論議の焦点になっている。
 このような条件で、自分の運命は自分で開拓すべきであり、少しぐらい辛くても、他人に従属して生きるよりはその方が幾層倍もよいという自主の思想、人にも国にも、大小の違いはあっても、上下の違い、主従の違いはなく、皆等しく主人であり、皆が主人として、自分の頭で考え決定し、自分の力で行い責任を持つようにすべきであり、そうしてこそ、すべてがうまくゆき発展するようになるという自主の理念はきわめて重要だと思う。
 これが広く日本国民共通の理念になり、広範な国民大衆が自らの自主への志向と要求を自覚し、その正しさを確信し、その実現のために闘う覚悟をもつようになったとき、日本のための真の改革が実現され、日本は、明治以来の対米追随の歴史に終止符を打って、多極化、自主化の世界的趨勢に合流することができるのではないだろうか。
 日本国民の改革への要求は、次に、その本質において共同体、共同社会への要求ではないかと思う。
 今日、日本国民の切実な要求になっているアジア志向とは、アジアの中の日本、アジア共同体の一員として、アジアとともに生きていこうとする志向であり、それ自体、共同体的志向だと言うことができる。
 また、人と人とのつながりを求め、地方、地域の共同体的発展を願う要求が共同体への志向に基づいているのは言うまでもないだろう。今日、若者たちの間で、他人に配慮できる者が好かれ、場の空気が読めない者が嫌われる傾向が強まっているのなども、共同体への志向と連関していると思われる。
 この共同体の理念と市場原理、競争原理は、元来、相容れない。そうした中、今日、小泉改革のもと、市場原理、競争原理が全社会的、全面的に導入され、共同体の原理や理念が否定されて、様々な矛盾が噴出してきているのは、すでに見てきた通りである。一方、共同体原理一辺倒になり、市場原理、競争原理が否定されてしまっても、社会の運営はうまくいかない。そうした現実を根拠に、保護や規制が社会発展を阻害する元凶のように言われ、「小さな政府」が当然の前提にされ、「弱者に優しい共同体」が否定されるようになっている。
 われわれは、今、あまりにも「二者択一」の傾向にはまりすぎているのではないだろうか。共同体の原理と市場原理、競争原理、そのどちらか一方を採るのではなく、二つをうまく結びつけ、人々の幸福と社会の発展をはかっていくことこそが問われているのではないだろうか。世界と日本の経験と教訓は、そこにのみ真の改革が有り得ることを教えてくれていると思う。
 共同体の理念を実現する上でもう一つ重要なのは、これと自主の理念を統一的に実現する観点だ。周知のように、新自由主義やグローバリズムは、この二つも対立させ、二者択一を迫っている。自己決定か集団か、主権かと共同体か、等々と。すなわち、一方を実現しようとすれば、他方を犠牲にしなければならないと言うのだ。実際、それは、これまで往々にしてあったことだ。個人を家にしばりつけ、「滅私奉公」を説いた日本型集団主義の古い「共同体」は、その一例だと言えるだろう。小泉改革がこの古い共同体を否定し共感を集めながら、共同体そのものを否定し破壊してきたのは、すでにみてきたところである。
 自主と共同体を統一的にとらえるのか、対立的にとらえるのか、この二つのものの考え方で決定的な違いは、人や国の利益とその所属集団、共同体の利益を統一的に実現することができるか否かという観点の違いだと言える。言い換えれば、「一人は皆のために、皆は一人のために」が有り得るか否かということだ。
 もちろん、これは簡単なことではない。論理で言い争っても、決着がつかない問題かも知れない。しかし、自主と共同体は、元来、統一されており一体だ、個々が自主的であってこそ、共同体は共同体としての自己を維持し発展させることができ、共同体があってこそ、個々も自己の存在を維持し、自主的に発展していくことができるのではないか、こうした観点から、自主と共同体の統一的な実現のため努力し闘ってはじめて、自主や自己決定主義に基づきそれを実現する新しい真の共同体も可能になり、人間の未来、国の未来も切り開かれて行くのではないだろうか。これと反対の観点と立場に立つ小泉改革が日本とわれわれの生活を破壊して行っている現実は、反面教師として、そのことをもっとも分かりやすく教えてくれているのではないだろうか。


二 真の改革の政策、そのための若干の問題提起

 日本のための真の改革を行うためには、理念とともに政策がなければならない。具体的に日本をどうするのか、その政策がなければ、改革はできない。真の改革が問われている今日、そのための具体的な政策が切実に求められている。
 だが、改革のための政策の策定は簡単でない。今ここで、日本改革の政策を一つ一つ具体的かつ全面的に提起することなど到底できない。
 できるとすれば、今日求められている政策の中でもっとも基本的なものを取り上げ、若干の問題提起を行うことぐらいである。それが今後の政策研究と論議に少しでも寄与することになれば幸いである。

■アメリカと正常な関係を結び、アジアと世界と共に繁栄する日本へ
◆日米関係の正常化と東アジア共同体
 すでに何度も見てきたように、日米関係の正常化は、今日、日本国民のもっとも基本的な要求の一つだ。これを改革のための基本政策の第一とし、そのための方策を立てていくことが、今切実に求められていると思う。
 日米関係を正常化する上でなによりも問われるのは、日米安保体制をどうするかという問題だ。今日、日米関係はこの体制に強く規定されており、日米が互いに独立した国と国との関係を結ぶためには、上下関係、指揮と服従の関係になっているこの体制を、日米地位協定の改定や思いやり予算の見直しなど、対等なものに発展させなければならない。
 ここで重要なことは、日米関係に対する国民の要求が反米や離米ではなく、関係正常化にある条件で、この体制を廃棄するのではなく、対等なものに発展させるということだと思う。
 対外関係で次に重要なのは、日本が東アジア共同体の形成に積極的に参加し、その一員としての役割をしっかり果たすようにすることだ。
 アジアを離れた日本は有り得ない。それは、日本の対アジア経済交流が世界経済との交流で過半を占めてきている一方、アメリカの一極支配に反対して、世界の多極化が進み、その一環として、東アジア共同体の形成が促進されてきている中にあって、一層切実な問題になってきている。
 今日、東アジア共同体の一員として生きるということは、かつての「大東亜共栄圏」構想とも、今の自民党政権の「日本リーダー」論ともまったく異なっている。その違いの本質は、アジア諸国を尊重し、その主権、自主権を擁護するか否かにある。アジア諸国の主権を否定したところに形成されるのは、「共同体」の看板を下げた新たな植民地体系でしか有り得ず、そのような時代錯誤の「共同体」は存在すること自体、不可能だろう。
 東アジア共同体の一員になるということは、日本にとって大きく二つの意味を持っている。一つは安保問題であり、もう一つは経済問題だ。前者のためには、アジア各国の自主権を尊重し、外部からの干渉排除、域内での内政不干渉を原則とするアジア安保創設に力を尽くすことが問われており、後者のためには、アジア諸国の経済主権を尊重し、それぞれの国が国民生活向上のための自立的で総合的な経済を高い技術に基づいて発展させ、互いに協力、交流を深めて、東アジア経済圏を実現するため、アジア通貨圏の形成と産業技術や情報通信、資源、食糧問題などでの共同開発や連携に尽力することが求められている。

◆自衛路線と経済主権の確立
 欧米に追随し、アジアに背を向けた明治以来の対米追随路線からの根本的転換をはかるためには、日米関係の正常化をはかり、東アジア共同体の形成に積極的に参加し、その一員としての役割を果たすとともに、日本自身の自衛路線と経済主権の確立をはかることが重要だ。それが日米関係の正常化と東アジア共同体の形成でも、その成否を決める鍵になると思う。
 今日、小泉改革により日本の軍事がアメリカの反テロ戦争体制に組み込まれ、自衛隊がアメリカの傭兵化、下請軍隊化している中、対米追随からの転換のため、軍事で自衛を確立することはいつにも増して必要になっている。自衛のない政治の自主など有り得ないからだ。
 この自衛路線の確立のため、今なによりも重要なことは、小泉改革の改憲策動を阻止し、安保ではなく憲法を柱とする政治を実現することであり、そのためにも、憲法九条の精神が「国際紛争を解決する手段」としての戦争とそのための武力を放棄した透徹した専守防衛の自衛路線であり、その基本が日本の領域内に侵攻してきた敵のみを撃退し、絶対に外に出ない真の自衛力の建設にあることを確認することではないかと思う。
 日本を「戦争のできる国」にする小泉改革において、九条改憲はそのもっとも重要な環にされている。憲法制定以来一貫して続けられてきた改憲策動は、今、自衛隊の憲法での認定を前面に掲げ、最終段階に入っている。アメリカがもっとも切実に要求するこの改憲を許すことは、日本の軍事を米反テロ戦争体制に組み込み、その先兵としてアジアに敵対する戦争に動員する小泉改革の完成を意味している。
 したがって、この改憲策動を阻止することは、対米追随の極致である小泉改革とのもっとも先鋭な闘いであり、それを通して、憲法を柱とする政治を実現することは、日本のための真の改革のもっとも重要な軸の一つになると思う。
 ここで重要なことは、日米関係を正常化し、対米追随からの転換をはかるためには、自衛路線を確立しなければならず、それは、即、「九条自衛路線」の確立だということだと思う。
 もちろん、ここで「非武装」こそ、憲法精神であり、非武装中立路線こそが日本を「戦争のできる国」にする軍国化改革ともっとも徹底的に闘うことができるという考えがあるのは事実だ。だが、この問題を考えるときも国民大衆の要求から出発するのが原則ではないかと思う。すなわち、国民は、九条を求めており、自衛を要求しているということだ。この二つの要求にもっとも正しく応える「九条自衛路線」こそが憲法精神のもっとも正しい具現であり、真の改革のためのもっとも正当で威力ある政策になるのではないだろうか。
 対米追随からの転換でもう一つ問われているのは、軍事とともに経済だ。今日、小泉改革の自由化、グローバル化により、日本経済の対米一体化、融合化が進展し、日本経済がますます徹底的にアメリカの一極支配を支え、米系外資の利潤拡大を保障するためのものになっており、そうした中、その破壊が進行し、経済的破局の危険性が高まっている。このような条件で、金融、財政、産業政策などあらゆる経済政策で主権を打ち立て、日本をアメリカのための日本ではなく、日本のための日本、アジアと世界と共に繁栄する日本にしていくことがかつてなく切実になってきている。
 そのために重要なのは、アジア共同体経済、世界経済とよく結びついた日本経済の自立的で総合的な発展と、それと連携した地方、地域経済の自立的で共同体的な発展だ。これまでの日本経済は、一言でいって、アメリカ一辺倒、中国一辺倒の対米、対外依存的できわめて不均衡な経済だったと言える。原料、エネルギー資源、安い労働力、資本から技術開発そして市場に至るまで外国に頼り、外国の動きによって簡単に左右されるきわめて隷属的で不安定な経済になっていたこと、国の経済の基礎である地方、地域経済が崩壊、弱体化してきたこと、ここに対米追随から抜け出せなかった重要な原因がある。
 強力な経済主権のもと、推し進められるようになる新しい日本経済の建設は、こうしたこれまでの矛盾を根本的に克服するものでなければならない。そのためには、ドル依存体質からの脱却とアジア通貨圏の形成、米金融独占との融合とそれにともなう日本経済の「カジノ経済」化からの脱却、そしてモノ作りなど日本のよさを重視した実質経済の発展をはかる一方、地方、地域経済の共同体的発展を大々的に促進していくことだ。
 日米関係の正常化、東アジア共同体の形成と密接に結びつけて、経済主権をどう打ち立て、日本経済をどう再生、発展させて行くか、そのための具体的な政策が切実に求められていると思う。

■自主、自治、自決の共同体的日本へ
 今日、日本国民の対内的な要求は、年金や子育て、社会保障問題、雇用や景気対策問題、そして、町おこしや村おこしなど地方、地域の振興問題、等々、多かれ少なかれ、日本共同体の崩壊にともなう新たな共同体的日本建設への要求であり、それぞれの単位と各人の自主、自治、自決への要求である。改革の政策は、こうした要求に応えるものでなければならない。
 小泉改革が改革と言えないのは、その政策が日本国民のこうした切実な要求に応えるどころか、それを抑えつけ、それに敵対するものとなっているところに現れている。
 一つは、小泉改革が「国から地方へ」「中央集権から地方分権へ」のスローガンを掲げながら、中央集権と地方の自治を対立させ、それを通し、中央集権と国の自主を否定していることだ。
 地方、地域の自治は、強力な中央集権と国の自主を離れては有り得ず、国の自主は、地方の自治、各人の自決に基づいてはじめて、真に強固になる。事実、少なからぬ地方、地域の首長たちが自分たちだけではできない問題への中央からの国家的援助を求めている。
 では、地方分権を掲げながら、中央集権と国の自主を否定する小泉改革とは、一体何なのか。ここにも、アメリカの対日支配の強化、日米一体化、融合化を目的とするアメリカ化改革としての小泉改革の本質が現れていると思う。
 日本のための真の改革とその政策が中央集権と地方分権を正しく結びつけ、自主、自治、自決を統一的に実現し、それに基づいて、各単位の共同体的発展をはかるものにならねばならないのは、ここからも明らかである。
 地方分権のための小泉改革である三位一体改革が、地方の税財政を中央の税財政と切り離すことによって一層困難なものにしているのに対し、真の改革は、地方、地域の自治、自立を促しながら、その共同体的発展のため、中央からの財政的援助を惜しまないものにしなければならない。
 もう一つは、小泉改革が推進する市町村大合併に示されている。
 小泉改革は、明治以来三度目の市町村の大合併を強行し、全国三〇〇〇あった市町村を一〇〇〇にまで大削減するのを目標としている。ここで問題なのは、この合併劇が今日全国的に繰り広げられている地域おこしや地方、地域の共同体的発展とは関係なく、むしろそれを妨害し圧殺する方向で行われていることだ。まさにここに、日本国民の意思と要求ではなくアメリカの要求に即して、集団、共同体を破壊し、日本社会を個人化され、競争社会化されたアメリカ型社会に変えようとする小泉改革の本質がよく現れていると言うことができる。
 今問われていることは、全国各地で起きている町おこし、村おこし、地域おこしの運動など、新しく生まれてきている地方、地域での共同体的関係を否定し、抑えるのではなく、尊重し、その発展をはかり助けることであり、それらが互いに連携しながら、自主、自治、自決の原則のもと、全国的な共同体的関係の形成へとつながり発展するようにすることだ。
 ここで重要なことは、この共同体的関係が旧来の日本型集団主義によるものではないということだ。新しく生まれている地方、地域の共同体的関係が、町おこし、村おこしに立ち上がった地域住民の自決に基づいており、生産者、消費者、加工業者、流通業者などの自決によっていることを重視し、今、若者たちを中心に支配的な思想となっている自己決定主義と共同体の原理を正しく結びつける方向で新たな共同体的日本建設の方策を探っていくのが重要ではないだろうか。
 小泉改革が日本国民の要求を抑えるものになっているのは、また、その社会保障、福祉政策、雇用政策などにも示されている。
 今日、日本国民の切実な要求は、新自由主義改革が産み出した不安と生活苦からの解放にある。老後の不安、病気になる不安、落後することへの不安、そして失業や不安定雇用から来る将来への不安と生活苦、こうした不安と苦しみを解決するための政策こそ、社会保障、福祉政策であり、雇用政策だ。しかし、小泉改革は、競争原理、市場原理と「自己決定」「自己責任」の原則、「小さな政府」のかけ声のもと、こうした政策を出すのを拒否し、放棄して、不安と生活苦をさらに助長していっている。
 各種世論調査が示しているところだが、国民大衆が年金、社会保障問題の解決をダントツのトップで要求しているのは、不安と生活苦の国家共同体的解決をもっとも切実に要求しているということだ。事実、子育て問題で、国家や自治体の援助を受けられるなら、そのための保険料など負担はいとわないというのが圧倒的多数だという調査結果も出ている。
 真の改革のための政策で重要なのは、競争原理、市場原理と共同体の原理、自己決定、自己責任の原則と共同体的援助とをいかに正しく結びつけるかにある。
 競争原理、市場原理と共同体の原理を結びつける方策としては、国民大衆が自らの力を向上させるところに共同体的援助を行うようにすること、正規社員をより多く雇用する企業、重度要介護者をより多く面倒を見る施設に特別優遇措置をとること、子育ての数が増すにしたがって各家庭に対する国家的援助の比率を高めること、等々、様々な考えが出されている。こうした識者や大衆の声が実現されてこそ、真の改革のための政策は、豊かに編み出されてくるのではないだろうか。
 国民大衆の要求を抑えつける小泉改革の本質は、また、教育政策にも現れている。
 年金や社会保障、雇用や景気対策、税制などへの要求に比べたとき、教育への国民の要求は低いように見える。少なくとも、各種調査結果はそうなっている。なぜそうなっているのだろうか。問題はその理由だ。教育への要求が皆満たされているからだろうか。そうではないだろう。今、公教育の荒廃が問題にされている。では、なにか。一番の問題は、ずばり、進学しても仕方がないところにあると思う。世は新自由主義、不安定雇用の時代、極一部の「一流大学」を除いて、大学を出ても確かで展望のある就職先などない。それなら、資格を取り、実力をつけた方が手っ取り早い。実際、青少年の間でも向学熱、進学欲は、従前に比べ大分低くなっているようだ。
 社会の二極化にともなって、教育も著しく二極化した。それは、公教育の甚だしい荒廃と一体だ。学校にも、先生にも、生徒にも大きな格差が付き、負け組には浮かばれる未来はない。教育の「効率化」や「個人化」がこれに重なり、教える熱も、学ぶ熱も、友だちとつき合う熱もなくなった教育の現場が荒れるのは当たり前だろう。これは、国民大衆の教育への要求、学ぶ要求に対する蹂躙ではないだろうか。
 市場原理、競争原理による教育の改革は有り得ない。教育は、青少年をはじめ、人々の自主性、創造性や社会性を育むためのものであり、国と社会など、共同体が求める人材を育成するためのものだ。だから、自主と共同体の理念に基づき教育の改革をめざしてこそ、それは真の改革になる。もちろん、教育改革においても、競争原理がまったく無関係なわけではない。学校間の競争、先生や生徒間の競争もあってよいだろう。しかし、それを基本に教育を改革するなど、あってはならないことだと思う。
 教育問題も地域問題と同じだ。教育の現場での様々な試みとその成果に基づいて、政策は立てられるべきだ。それを無視し抑さえつける方向で政策化がなされているところに、小泉改革が日本のための真の改革ではないという根拠がある。
 日本のための真の改革で、打ち出さねばならない政策は、これ以外にも多々ある。労働者問題や農民、中小零細企業問題、女性問題や老人問題、青少年問題など、諸階級、諸階層に関わる問題、沖縄問題やアイヌ、在日朝鮮人問題や外国人労働者問題など、民族に関わる問題、等々。それぞれ皆、日本と日本国民の生活にとってきわめて重要な問題だ。
 これら諸問題については、後日、ともに考えていきたい。ただ、今ここで言えることは、階級や階層、民族の問題でも、それぞれ、自主や自己決定を擁護、実現し、共同体、共同社会や人と人とのつながりを尊重し、発展させる見地と理念が問われているのではないかということだ。

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 改革を掲げての小泉選挙の大勝利は、内外の驚きをもって迎えられた。その驚きの中には、「一周遅れ」へのものもある。欧米では、新自由主義改革の問題点が指摘されて久しいのになぜ今更ということだ。ハリケーン・カトリーナ、リタによる連続的な大災害も、それをさらけ出したものだと言われている。
 そればかりではない。新自由主義改革の元祖、レーガン改革やサッチャー改革の問題点をふまえたはずの「第三の道」、ブレア改革も決してうまくいっているとは言えない。と言うことは、小泉新政権の出発は「二周遅れ」ということか。そして、ニュージーランドでもどこでも、世界中どこを探しても、成功した新自由主義改革、模範にすべき改革など一つもない。
 そうした中、小泉丸は船出しようとしている。羅針盤もなく、海図もなく、ただひたすら難破が確実なブッシュ号の後を追って。これは大変危険なことだ。果てしない破壊の末、行き着く先は未曽有の恐慌か戦争か。
 無謀な航海は阻止されねばならず、正しい羅針盤と海図がつくられねばならない。それは、他でもなく、日本国民大衆の切実な要求を反映し、その力を結集することによってのみ、成し遂げられて行くだろう。


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